市電が走る街の下宿で

ちょっといい私立の男子校に行くか、それとも共学の公立高校に行くか、どちらに進学するべきか、私は迷っていた。

「男子校に行くと性格が歪みがちだぞ」

そんな中学の恩師のアドバイスがあって、私は公立高を選んだ。

結果としてそれは正解だった。

当時の男子校の生活は、思春期の男の情念が煮詰められた蠱毒のような空間だったらしい。本当かどうかわからないが、大人になってから男子校にまつわる恐ろしい話を、当事者から伝え聞く機会が多くあった。

一方、私が進学した高校は、人類にとって自然な比率で男女が入り交じっており、しかも制服などという不自然なものも存在していない、ほんわかした空間だった。

つまり人類史上、極めて珍しい、一切の不自然な抑圧がない環境で、私は多感な時期を過ごすことができたのである。

住環境も素晴らしい。

あの『ゴールデンカムイ』のラストバトルフィールドとして有名な五稜郭から、なんと歩いて十分の距離にある下宿に、一人暮らしすることができた。

当然、街並みも自然も美しいよ。

目を閉じて、あのころ暮らしていた町のことを思い出すと、五稜郭の新緑や、市電の窓の外を流れる景色が胸を打って、思わず、「うう……」と唸ってしまう。

だが郷愁、それは本稿のメインテーマではないので、脇に置いておく。

さてここで、私が高校時代から下宿で一人暮らしをしていたことについて、軽く説明しなければならない。

私が生まれた地方は、あまりに田舎過ぎて、高校が町に一つしか無い。その地元の高校は、基本的に大学進学を前提とした教育を、していない。

よって、大学進学を目指す者は、その地方で最大の都市である函館に、高校時代から一人暮らしすることが一般的なスタイルとなっているのだ。

また函館には、そのための受け皿として、高校生用の下宿が多数ある。下宿では、バストイレは共用だが、部屋は個室を与えられ、朝食と夜食も提供される。そんな何不自由ない生活を送ることができる。

ちなみに、私と同じ道南出身の漫画家、山本直樹さんも、同様のスタイルで高校時代に下宿生活を送っていたそうだ。(山本直樹さんの『極めてかもしだ』は、私が高校時代に最も繰り返し読んだマンガだ。大学時代に最も繰り返し読んだマンガは、やはり山本直樹さんの『フラグメンツ』だ)

話を戻すと、高校時代の私は、函館という美しい町で、何一つ抑圧のない、不自由のない生活を送っていたということである。

仲の良い友人も多くいた。放課後はいつも友人の下宿に集まって、わいわいと楽しく過ごした。

だというのに、不思議なことに、私は少しずつ学校を休みがちになっていった。

日に日に、朝起きて、登校するのが難しくなっていった。

直接的な原因の一つは、『夜更かしが楽しかった』ということである。

私の部屋にはパソコン通信に繋がったPC9821があった。

また本を投げ入れる空間として開け放たれている押し入れには、大量のマンガと小説が詰め込まれていた。

こういったものを夜遅くまで楽しめば楽しむほど、朝に起きるのが辛くなるというのは、あまりにも当たり前のことであった。

ある日、下宿近くの書店で大槻ケンヂさんの小説を見つけて、気になって買って読んでみた。あまりに面白く、その文章のスタイルに強く感化された。

しかし、主人公の抱えている悩みには、深いレベルで共感することはできなかった。

なぜなら基本、私はあの下宿で本を読んでいれば、悩みなく、そこに没頭できたからである。

ラフィールというキャラがいる。彼女はエルフ的な長い耳を持ち、宇宙船で冒険する。高校時代、私が最も繰り返し読んだ小説『星界の紋章』に出てくる彼女は、素晴らしかった。

なぜなら私は、エルフが出てこない小説は、読んでも時間の無駄だと思っているからである。

なぜならエルフではない人間は、ただの普通の人間であって、そんな夢も希望もない普通の人間のことを読んでも、そこから得られるものは何もないと思っているからである。

また私は、宇宙船が出てこない小説は、読んでも時間の無駄だと思っている。なぜなら宇宙を飛ばない船は、ただ地球の海に浮かぶだけであって、そんなことでたどり着くのは同一平面上の、普通の場所だからである。

普通ではない面白さが欲しかった。

それはきっと押し入れに詰め込まれた大量の本の中のどこかに、あるいはパソコンの中のデータのどこかに、あるいはそれが電話回線を通して繋がっている遠方のどこかの誰かの心の中に、見つかるだろうと思っていた。

美しい函館の街に抱かれながら、私は外界に眼を向けることなかった。

窓の外に広がっている、実は何も普通ではなかった価値ある世界に気づかぬまま、私は本をめくり続けた。夜は深まっていく。

文中に出てきた作品

ゴールデンカムイ(道民のバイブル)

フラグメンツ(江差っぽい町が出てくる短編集。同作者の『YOUNG&FINE』という作品には、さらに直接的に江差がモデルと思われる町が出てきます。脳の奥深くにまで影響を受けました)

グミ・チョコレート・パイン(高校時代、本作に強く感化された私はギターを購入。Fが押さえられず断念。まさか後年、完結編の解説を書かせていただくことになるとは)

星界の紋章(ラフィールはオールタイムベストヒロイン。NETFLIXで実写化希望)