卓球とパソコン
中学に上がった私は卓球部に入った。部活の参加が義務づけられている中学だったからである。当時としては、本当に嫌な義務だった。だが、今思えば、この時期に運動の習慣を身につけられたことは、かなりの幸運だった。
なぜなら、私の独自理論によれば、小説執筆に必要なものは、一に体力、二に体力、三に気力で、四に根性だからである。
副部長という身に余る立場を得られながらも、卓球自体はうまくならなかった。何か脳と肉体の連結に、非効率な部分があるように思えてならない。
幼少期からの読書習慣のせいか、あるいは単に運動神経がないためか。本来であれば脳あるいは全身の神経の、肉体コントロールを受け持つ部分によって、無意識的に動かすべき肉体を、いわば言語野のような、スピードの遅いロジカルな回路によって動かす癖がついていた。思考によって肉体を制御しようとしても、思考というのはとてもビットレートが低く遅いものであって、そんな制御システムで卓球の全道大会を勝ち上がることはできなかった。
というわけで卓球力は一向に上がらなかったが、体力はついた。毎日の走り込みが部では課せられており、当時の私は『絶対こんなことしても無駄だろ。卓球は陸上じゃないんだ』と思っていたが、結果、走って得られた体力こそがその後の人生で最も役立った。
小説執筆は数ヶ月、あるいは数年かけて走り抜くマラソンのようなものであって、マラソンと同様に、途中、何度もいやになって辞めたくなる。そこで役立つのが、いいからとにかく前に向かって走れという昭和的な脳筋思考である。
そんなこんなで田舎の町で卓球に明け暮れていた私のもとにも、ある日、都会の風が吹いてきた。それはPC9821−CEという当時最先端のパソコンによってもたらされた。語るのに抵抗のあることだが、この高いパソコンを私は親にねだって買ってもらった。こんな高いものを買ってもらって、す、すみません、本当にありがとう。と今では恐縮しつつ感謝しているが、物の価値が曖昧な当時の私としては、これで最先端の夢のゲームができることに、ただただ有頂天であった。
486SXという最新のCPU、そしてCD-ROMという夢のメディアを搭載したパソコンは、まさにライフチェンジングでマインドブローイングなマシンだった。私は当時、発売されたばかりのゲーム『同級生』を購入し、全フラグを暗記するまでプレイした。
これによって人生がトータルとして良い方に変わったか、あるいはその逆の方向に向かったのかについては、慎重な判断が要求される。中学生がこのようなバーチャルな恋愛ゲームにうつつを抜かすのは、明らかに健全なことではない。
だが、一つ言えるのは、この『同級生』のプレイによって、『魅力的なキャラ作り』についての基本的な体力が身についたということだ。あたかも、当時大好きだった小説『銀河英雄伝説』が中国の古典、『史記』からキャラ造形について多くの影響を受けているがごとく、私は『同級生』から『人間を描く』ということのすべてを学んだのだ。
昼は教室で『フォーチュン・クエスト』を読み、放課後は体育館で走り、夜はPC9821−CEで『同級生』をプレイする。そんな生活を続けながら私は強く願った。大人になったら、朝から晩までゲームをして小説を書く、そんな人生を過ごすぞ、と。
このような夢のセッティングにより、私の人生がトータルとして良い方に変わったか、あるいはその逆方向に向かったのかについては、やはり慎重な判断が要求される。もしかしたら、どこか別の平行宇宙には、もっとキラキラした人生を送っている私がいるかもしれない。
だとしても中学の多感な時期にプレイした『同級生』、そこから得られた感動はプライスレスなものである。仮になんらかの事情で中学時代にタイムループしたら、そのときはもう一度『同級生』をプレイしよう。銀英伝もまた読みたいね。

文中に出てきた作品
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同級生(軽妙な主人公の語り、センチメンタルな音楽、そして魅力的なキャラとの心躍る物語。一つの小宇宙がここにある)
銀河英雄伝説(本作を読んで以来、宇宙船の出てこない小説は読んでも時間の無駄と思うようになりました。レーザー水爆は強いよ)
フォーチュン・クエスト(授業中に読んでも没頭できる素晴らしいリーダビリティある本。竹アーマーは軽くて硬くて、普通に強そう)