ロード・エリスの禁欲生活

 ロード・エリスは迷宮上層区に立ち並ぶ七つの塔を七年ごとに転々と引っ越す生活をしていた。

 七つの塔は贅沢にもエリスが暮らすためだけの目的で、逆樹の街に建っていた。そのためエリスが住んでいる塔以外の六つの塔はいつも空き家と化していた。

 犠牲の年の翌年、漏出の年にロード・エリスは持ち物ひとつで塔から塔へと引っ越しを始める。

 七つの塔はどれも各首長からの献上品によって地下から最上階まで満杯だが、それら重々しく由来ある献上品は外には持ち出さない。円を描いて再び戻ってくる日まで、鍵をかけた塔にしまっておく。それが『ロードの塔巡り』の習わしである。

 エリスの持ち物は一冊の本が収められたエクスプローラー鞄ひとつだ。軽くて丈夫なこの鞄は、以前、エクスプローラー狩りに成功した氏族の首長から献上されたものである。

 閉ざされた街から街へと渡り歩いては街をむやみに崩壊させてゆく、あのエクスプローラーなる忌まわしき者どもの装備を持ち歩くことは、ロード・エリスの力を権威を増幅するものと思われた。たまに塔内でひとりそれを背負ってみることはエリスの密かな喜びであった。

 引越しの朝、エリスは最後のはたきを塔の寝室にかけると、エクスプローラー鞄を背負って塔を降りた。

 新たな塔で待つ七年ぶりの吸血行為に逸る気持ちを落ち着けて、正門に鍵をかけ、塔を取り囲む森を抜けて、市街地に向かう。

 古い鍵は街のゴミ箱に捨てる。それが古からの習わしである。エリスは昼食にファーストフードを食べ、そのゴミと一緒に鍵をゴミ箱に捨てた。

 このあと向かう塔の新しい鍵はまだ持っていないが、不安はない。新しい鍵はいずれ何者かからひょいと手渡される仕組みである。

 ファーストフードを出たエリスは階段を降りて地下街に向かい、売り場でチケットを購入し、より深い地下を網の目のように走る水道に向かった。そして地下水道の表面張力が高そうな水面に浮かぶ手漕ぎボートにそっと乗り込んだ。

 すれ違う街の住人は誰もエリスがあの七つの塔の主であるとは気づかない。それもそのはず塔の主の制服は夜の空気を繊維化して作られた黒いローブだからである。その下に隠れている私服にはエリスなりのオシャレさが込められていたが、黒いローブはいつでも夜のこの街に何より溶け込みエリスを誰より目立たなくする。

 だからボートに乗り込んだエリスは揺らめく影のように誰にも見られず人知れず水路を進んでいく。

 櫂を動かし、深い緑色に輝く水面を滑るように進んでいく。

 だがその途中、ロード狩りに特化された嗅覚を持つバンパイア・ハンターたちの襲撃があった。

 エリスは普段あまり使わない運動神経を発揮し、ハンターの長の首筋に噛み付いた。だがその引き換えにエリスは華奢な全身に有効な武器の攻撃をいくつも受けて気を失い、ボートから水面へと転げ落ちてしまった。

 エリスは緑色の水の上をうつ伏せに流されていった。地下水道の中心部にあるメイルシュトロームへと。

 吸血鬼は死なない。

 だがメイルシュトロームから迷宮最下層へと渦を巻く水流とともに流し込まれ、闇の機械に送り込まれてその燃料あるいは部材とされ、姿形を変えて再生産されることはありえるし、事実それはこの街のシステムの一部である。

 ロードがメイルシュトローム送りにされるタイミングは、ロードが七年ごとに新たな塔に引っ越し、その塔の中に用意されている怯えた双子を吸血し、新たな氏族を作り上げることを六六六回繰り返したころに訪れる。

 それがバンパイア・ハンターによるロード殺しの儀式であり、それはうつ伏せに水面を流れるエリスが、この渦を巻くメイルシュトロームの中心に飲み込まれることによって完結する。

 そしてエリスに噛まれたバンパイア・ハンターが新たなロードとして七つの塔の主となるのである。

 だがエリスはなかなかメイルシュトロームの渦へと飲まれていかなかった。それはエリスが背中にエクスプローラー鞄を背負っていたためであった。

 エクスプローラーはさまざまな世界を渡り歩くため、その装備も高い機能性を持っている。エクスプローラー鞄は見かけに反して驚くほど軽く、高い収納性を誇り、しかも機密性、防水性に優れている。

 そんなエクスプローラー鞄が浮き袋の役目を果たし、エリスはいつまでもメイルシュトロームに飲み込まれることなく、ただぐるぐるといつまでも地下水道の中心でレコードのように回転し続けていた。そんなエリスを長い釣竿で回収した者がいた。

「お、重い。これはなんていう重い魚じゃ」

 地下水道の淵に腰掛けて釣竿を緑の渦巻きに垂らしているその者は、ごわごわした生地の簡素な着物に身を包み、頭にはつばの広いとんがり帽子を被っていた。

 肩には竹で編まれた小さな鞄を斜めにかけていた。

 白く長いヒゲを生やしたその者は、言葉遣いからして老人のようであったが、実際の年齢は全くわからないというのが、彼に釣り上げられ目を覚ましたエリスの感想であった。

 なぜならその者の目は子供のように澄んでいたからである。

 釣り針でエリスを引っ掛け、ネズミがたまに右から左に駆け抜けていく地下水道の淵に彼女の華奢な体を引き上げたときも、有効な武器によって受けた深い傷だらけのエリスに対して、その者は心配というよりもほぼ百パーセントの好奇心のみを向けているよう見えたからである。

「娘っ子や。こんなところで何をしておるんじゃ。この体に百本も突き刺さっている銀の矢はなんじゃ?」

「ごほっ、ごほっ。これはバンパイアに有効な銀の武器だぞ。バンパイアとその氏族がたくさん住むこの街の住人のくせにそんなことも知らないのか? いてて……」

「わしは旅人じゃ。ゆえにこの街の設定など知るよしもない。ただ、このあたりでいつか昔に鞄を落としてしまったんじゃ。大切な鞄じゃ。それがいつか水路を流れてくるのを待っておった。そしたら運良く流れてきおった。おぬしが背負っておるその鞄、それじゃ」

「メイルシュトロームから引き上げてくれて、矢を抜くのも手伝ってくれて、ありがとう。だがバカなことを言うのはよしてくれ。この鞄は何百年も前に西区の首長から私に献上されたものだぞ。気に入っているんだ」

「気に入っておると? そのエクスプローラー鞄を」

「うん。機能性は高いし、これのおかげで今も命を救われたしな。中に入っている本も、いつか読もうと思っている」

「なるほど、そういうことか。得心したぞ。なぜ私がこの地で数百年も、ここで釣り竿を垂れておったのか、その理由が今わかった。わしはおぬしを待っておったのだ。哀れなロード・バンパイアよ」

「哀れ? 私が? バンパイアの王たる私にそのような言葉を投げかけるお前は何様だというんだ?」

「わしか。わしはただのエクスプローラー崩れ。意思は弱まり、この街に沈没し、とうの昔に名前も思い出せなくなっておる。使命も忘れて、釣りにかまけて数百年。誇れることといえば魚を生で美味しく食べる方法と、そこらの雑草から薬を作る方法に精通しているぐらいじゃ。そんなわしからお前に与えたいものがある」

「私に? お前が? ハンターに狩られかけたとはいえ、未だメイルシュトロームに飲まれず生きてるこの私は、この街で一番偉い、ロードだぞ! お前のような哀れなさすらいのものが私に何を与えられるというのだ」

「まずわしが最初に与えるものは、その鞄じゃ。なぜならその鞄は元はと言えばわしのものじゃからな。中に入っている本はわしが書いたものじゃ。身の回りにあるもので、さまざまな効果のある薬を作る方法が書かれておる。あげるのは惜しいが、天使に授けられたその光の高機能鞄より、その辺の河原の葦で編み上げたこの肩掛け鞄の方が、今では性に合っておる。本はまたいつか書けばよい」

「ホラをふくのはやめろ。この鞄は高名なエクスプローラーを我が眷属が駆り立てて奪った戦利品だ。お前のような耄碌したさすらいの者の持ち物であるわけがない」

「第二にわしがおぬしに与えるものは、祝福じゃ」

「バカな。闇の魔術師の最初の子供達であるこの私に、お前のような弱いものが、どんな祝福を与えられるというのか。お前などこの瞳のひと睨みで私の精神支配下に置かれるぞ。見てみろ」

「ほう……なんと、美しきその赤い瞳、まさにロード・バンパイアのみが持ちうる眼力の持ち主に、恐れ多くもこのわしから捧げたいものがあるんじゃよ」

「まだ言うか! その弱く老いぼれた精神の力によっていかなる祝福を私に授けられるというのか!」

「今、わしからあなたへとエクスプローラーの祝福を授けさせていただく。恐れず受け取るがいい」

 傷だらけで地下水道の埃っぽい淵にしゃがみこむエリスに、その者はわずかに近づいてきた。エリスはさきほどハンターに狩りたてられたときの恐怖を思い返して息を飲んだ。

 だが近づいてきたその者は、エリスを狩ろうとはせず、優しく温かい雰囲気でエリスを包んだ。そして緑色にぬめる水面の光におぼろげに照らされたエリスに、その者は謎めいた言葉を投げかけるのだった。

「汝、闇の魔術師によって想像され創造された、暗き物語のパーツよ。太古、汝に与えられた古びた設定により、壊れたレコードのように何度も繰り返される支配と被支配、残虐さと束の間の美の物語の中で、いまだ魂をすり減らして転げ回ろうとするものよ」

「やめろ! いうな!」

 エリスの赤い瞳からいつのまにか涙があふれていた。ロード・バンパイアとして塔の中で古い置物に囲まれて生きる虚しさが溢れ出ていた。

 その泣き顔の前に老エクスプローラーは両手を差し出した。開いた左の手のひらには黒い丸薬が、右の手のひらには錆びた鍵が乗っていた。

「この鍵はおぬしがロード・バンパイアとして次に君臨すべき塔の門を開けることができる鍵じゃ。知っておるじゃろ?」

 エリスは頷いた。

「この鍵を取ったとき、おぬしは今まで通りの運命をもう一巡、続けることができる。じゃがこちらの手のひらに乗っている丸薬は、わしが作った苦い薬じゃ。それはおぬしを目覚めさせる。好きな方をとるがいい」

「目覚める? そうすると私はどうなるんだ?」

「それはおぬしが自分で確かめるじゃろう」

 エリスは丸薬を取った。

 そのときハンターたちが地下水道中央部に流れ込んできて、エリスと老エクスプローラーを取り囲んだ。老エクスプローラーは左手で光の壁を打ち立ててハンターの接近を防ぐと、右手で虹色に輝くポータルを顕現させた。

「ほれ。そのポータルを潜って新たな世界に向かうがいい。すでに祝福は授けられた。おぬしはもう、古き設定に縛られてはおらん。運命から自由なおぬしはもう、エクスプローラーじゃ。どこへなりと魂の命ずるところに向かい、己の欲することを為すがいい」

「あ、あなたはどうするんだ!」

「おそらくわしは、ここでおぬしを新たな世界に送り出す、そのために数百年、おぬしが流れてくるのを待っておったのじゃ。新たなエクスプローラーの誕生に携われるとは、わしのごときエクスプローラー崩れには過ぎた光栄じゃ。さあゆけ」

 老エクスプローラーはエリスを突き飛ばした。はずみで丸薬はエリスの口に飛び込んだ。エリスは苦い丸薬に涙目になりつつ、おっとっととよろけながらポータルに転げこんでいった。背後では光の壁が破れ、殺到するハンターたちに老エクスプローラーは釣り竿ごと担ぎ上げられ、渦を巻くメイルシュトロームへと放り投げられていた。そのときエリスは渦に吸い込まれる老エクスプローラーの親指が立っていたのを確かに見たという。