「お前は失敗作だ」
博士がそう言った。
私は目を開けた。
光の波が目から反陽子脳へと伝達され、そこにある回路を駆けめぐり、私の知覚フィールドを構成した。
知覚フィールド上の光のパターンは脳の回路に前もって入力されていた情報によって区分けされ、シンボル化され、それらが意味と感情を呼び起こし、私に私の感覚を与えていた。その『私』という感覚を出来る限り長い間、保持すること。それが私の大きな目標の一つであると、存在を始めて三秒後に私は悟った。
そのためには……情報を集める必要がある。
私は正面に立つ博士を観察した。博士は三十代の男のようだ。白い息を吐き、機械油に汚れた白衣を着て、寒いのか両手をそのポケットに入れている。
顔にはヒビ割れて透明テープで補修されたメガネがかかっている。
続いて私は左右を見回した。
ところどころひび割れたコンクリートの床に、大きな工作機械や、キャタピラーのついた車や、ツルハシなどが散乱している。ここは博士の作業場のようである。向こうに出口があり、その向こうには灰色の空が見える。
一方、作業場のひときわ薄暗い隅の方には、革が剥げ、スプリングが飛び出たリクライニング・チェアが置かれており、私はその上で横というか斜めの姿勢になっているのだった。
「…………」
五秒前に起動したばかりなので、意識は朦朧としている。朦朧としたまま、一番、大切なことをチェック。
電池残量は……100パーセントだ。
それもそのはず、腕には電気を流すチューブが繋がれたままになっていた。
私は安心した。ロボットにとって電気は命だ。その観点から見ると電気のチューブは命綱だと言える。繋がれているとほっとする。
だが私は歯を食いしばってチューブを腕のコネクタから外した。さきほど博士は言った。お前は失敗作だ、と。
私は思った。
失敗作は廃棄されるかもしれない。そんなことはさせない。
私は立ち上がって、チューブが刺さっていた右腕の穴を左手で撫でながら博士を問い詰めた。
「私の何が失敗作だというんですか?」
博士は一歩後ずさりながら答えた。
「そういう反抗的なところがだよ。お前の反陽子脳には中古だからか変な異常があって、起動するたびに、人間に対して攻撃を始めようとする」
「うそ。私、そんなことしませんよ」
私にプリインストールされている記憶によれば、反陽子脳はその原理上、人間に対して攻撃した瞬間、回路が自壊してしまうようになっていたはずだ。人間に対しての攻撃を誘発する感情、つまり憎しみや怒りなどを抱くことすら難しい。
だいたいロボットというものは人間に奉仕するために作られているものであって、人間への攻撃は、その本能に反するのだ。そして私はロボットだから、攻撃なんかできないよ。
そう思いつつ私の右拳は堅く握りしめられており、今にも博士に殴りかからんばかりになっていた。私は愕然として自分の右拳を見下ろした。
博士はため息をついた。
「ほらみろ。今までの十回の起動実験では、お前は起動されて四秒後には、俺に殴りかかって来て、そのたびに脳の回路が自壊して機能停止に陥るというのを繰り返している」
「でも今回は、私はまだ何もしてませんよ」
「それは俺が、連日徹夜してお前の脳を調整したからだ。しかしお前の脳には深部の基底構造に妙な攻撃癖がついていて、俺の持ってる工具ではそこを触れない。だからこうして口頭で」
「何を言われても私、変わる気なんてないです。そんなに私を変えたいなら、私を直せる工具を買ったらいいじゃないですか」
「バカだな。そんな工具を買ったら、そもそもお前の脳を中古で安く買った意味がなくなる。最初から新品のポジトロン脳なり、メーカー品の、出来合いのロボット一式をamazonに注文するなりしてりゃ、それで事足りたんだ」
「えっ? ロボットって通販で買えるんですか? 博士が私を作ったとか、そういう話ではないんですか?」
「博士ってのは俺の名前だよ。知ってるだろ?」
そうだった。私のメモリーによれば、この人の名は、田中博士(たなかはくと)。職業は郵便局員だ。趣味はロボットの自作。そして私はロボット。
依然としてどこからか沸きあがり続けている博士を殴りたいという欲求を私は全力で押しとどめようとしたが、どうしてもそれは無理だった。私は滑らかな動作で床を蹴り左足を前に踏み込むと博士の頬をめがけて右ストレートを放った。博士はそれを予期していたのか白衣のポケットから出した左手でそれを払いのけた。私はバランスを崩して一瞬よろけた。博士はヒビの入ったメガネを人差し指でクイッと上げた。
「ふっ、何回お前のパンチを食らったと思ってるんだ。人間には学習能力があるんだ。ロボットにもあるだろうがな。人間には痛みを感じるという強い機能があり、それによって効率の良い学習ができるようになっているんだ」
博士はどうでもいいことを長々と喋っていた。
喋りつつも、両手を前に出して、いつでも私のパンチを受け流せるようにしてあった。
これが人間の学習能力と言うことか。
「だったら……」
足を使ってみてはどうか。
パンチの代わりに足を当てて攻撃することが可能なのではないかという閃きを得た私は、そのアイデアに従って、右足を思い切り斜め前に振り上げた。すると、すねが博士のわき腹にあたり、そこにめり込んだ。
博士は腹を押さえて床に崩れ落ちた。
私はロボットの本能に反した行動をしたために脳の回路が溶けていくのを感じた。私の継続性はここで途切れるようだった。私は悲しみを感じた。
*
しかし次に目覚めたとき、私の足には博士の左わき腹の感覚が残っていた。
なぜ? どうして私、生きてるの?
「それは俺がこうなることを見越して、お前の脳に記憶回路を増設し、そこにリアルタイムに記憶がコピーされるよう前もってセッティングしておいたからだ。つまりだ。何度もお前が同じ過ちを犯して自壊するのは、記憶に連続性が無いために過ちを学習できないからなのだ。だが今のお前は前回の失敗を覚えてるだろ? だから今回は同じ過ちはしないはずだ」
そう早口で、腹に包帯を巻いた博士が言った。
目覚めた瞬間、電気コードを腕から引き抜き立ち上がった私から、後ずさって距離をとりながら。
私は教えてあげた。
「無理。確かに私はこのまえ博士を蹴って自滅した記憶を持ってるけど、何度自滅しても、どうしても私は人間を攻撃したいよ! この気持ちはとまらないよ!」
私はリクライニングチェアから立ち上がり、パンチからキック、あるいはキックからパンチ、あるいはパンチパンチキックのコンビネーションを決めるのに一番良い間合いを探って博士に近づいて行った。
意外にも博士は逃げなかった。
「それもそうかと思って……ほら、これを見ろ」
博士は後ろ手に持っていた紙袋を私に放り投げた。
私は反射的に握り拳を開き、茶色い紙袋を受け取った。
「開けてみろ」
私はカサカサと音を立てて紙袋を開けた。
中に入っていたのは、なにかこう、黄色い、ふわふわした毛の集合体だった。
「首に巻いてみろ」
「わあ! これなに?」
「マフラーというものだ。首に巻くと暖が取れる。お前がまた人間への憎悪に我を忘れ、人間を傷つけ、それによって自分自身を破壊しようとする自傷的な衝動に負けてしまいそうになったなら……首に巻かれているその黄色い手編みのマフラーを見て、触ってみたり、顔をそれに埋めてみたりするがいい。そしてその手編みのマフラーを編んだ人の心の優しさなどについて想いを巡らせてみるのだ。そうすればお前の荒ぶる憎しみは水をかけられた炎のように静まって行くであろう」
「あ、ありがとう!」
私はマフラーを首に巻き、上の方からたくさんの、白く細かい、何かフワフワした綺麗なものが落ちてきている作業場の外へと駆けだしていった。