夜の廃校、木造校舎の廊下に青いジャージが六人分、散乱し、割れた窓ガラスから差し込む月光に照らされていた。そのジャージを着ていた生徒たちはどこに消えたのかというと、体育館で生きたまま料理され、闇の邪神への供物となった。
生徒たちを料理したのは通称ブッチャーと呼ばれる太った肉屋だった。巨大な肉切り包丁を淡々と振り下ろし、ぶっきらぼうな手さばきであるが、そつなく生徒たちを切り分けていくブッチャー、そのエプロンは血と汚物でどろどろに汚れている。そういう仕事なのだもの、仕方がない。
そして飛び散った血や歯や神経で汚れたエプロンにも、残虐な殺戮の場面にも、どこにでも優しさや美しさや愛、そういったものを見いだすことはできる。
もしその様子を文章で詳しく描写したとしたら百パーセントの確率でそれを読んだ者の精神に不可逆的な悪影響が生じるであろう闇の儀式の犠牲となった若者たち、その中でも、黒縁めがねを外すとアイドル的な容姿になるために、見る目のある者の間で密かな人気があった三つ編みの少女、黒川あかねは、肉体、エーテル体、感情体、思考体、その他諸々の彼女の構成要素を闇の邪神にむさぼり食われ、この宇宙が消滅するまで闇の邪神の構成要素として邪神の体内でその支配下におかれ、邪神にエネルギーを吸い取られつつそのお返しに絶え間ない苦痛を与えられるという運命を甘受したのち、宇宙の消滅とともに邪神が消滅することによってやっと彼女も消滅の中に解放されたのだったが、その消滅のあとで、黒川あかねは無のうちにほっと一息つきながら思ったのだった。どこにでも優しさや美しさや愛、そういったものを見いだすことはできる。残虐な殺戮の場面にも、永遠に続く無の中においても。
(夕暮れの河原を二人乗りの自転車が走って行く。その様子はまるで影絵のようだ。夕日と笹の葉と自転車のスポークが光と闇の影絵を眼前に展開させる。私はそれを見て懐かしい気持ちになり、ときにすべてを思い出す。そうだった。そういうことだったのだと)
邪神には角が生えている。
邪神には触手が生えている。触手にはタコ、あるいはイカのもののような吸盤がついている。吸盤に触れると、通常の人間ならば瞬時に皮が剥がれて死ぬ。鍛えている人間ならば、五秒ほど持ちこたえたのちに死ぬ。
しかし邪神は人間をそう簡単には殺さない。
なぜなら邪神の栄養は人間の恐怖や苦痛だからだ。ゆっくりと殺し、殺したのちも、復活させて、無限に近い年月の間、獲物を大切にいたぶり続ける。そのループの中で、邪神の体内にとらわれている獲物の構成要素は、人知を超越した苦痛によって、普通なら何億回発狂してもしたりないほどの不可逆的な精神的なダメージを受けるのだが、邪神は獲物の構成要素が壊れたらその瞬間にテープを逆戻しにし、また最初から苦痛を与え始める。その繰り返しによって獲物がいい加減、何をどうしても復活しないほどにまで擦り切れてきたら、最初の生け贄のシーンにまで時間を逆戻りし、また生け贄たちはジャージを着て懐中電灯片手に夜の廃校に探検に行く。そして若者たちはブッチャーに捕まり、解体され、皿に並べられる。そんなことが無限に近い回数、繰り返される。邪神には角が生えており、その顔を直視したものは呪われる。
邪神を召還したのはいじめられっこの池田隼人だった。池田は自分をいじめている存在と、池田にとって不快に感じられる人間を、邪神の生け贄に捧げようとしたのだった。
しかし手違いがあって、クラスで唯一、池田に優しく接してくれる女子、黒川あかねと、彼女が属するラクロス部の面々が犠牲になった。
黒川あかねはそのとき恋をしており、相手は池田隼人の知らない、一学年上の少し不良っぽい男子だった。また黒川あかねはそのころ、住宅街の自宅の二階の自室の勉強机に座り、毎夜、宿題を片付け終わった頃、男女が性交する映像作品を多少の罪悪感を覚えながらもスマートフォンを用いて人知れず鑑賞するという習慣を持っていた。それは誰にも言ったことのない黒川あかねの秘密だった。他にも父母との関係性や、好きな本や音楽、また将来、花開くことになったであろう様々な才能が黒川あかねにはあったが、そう言った諸々、全部含めて邪神の生け贄になった。邪神の角の色は人知を越えた邪悪な色彩であった。
まだ宇宙があり、邪神の体内で拷問されていたころ、黒川あかねの構成要素の中でも抽象的な思考を司る部分は、直感的に、あることを思っていた。
ほんのちょっと角度を変えれば何もかもが変わるはず。
そんなアイデアが、あかねの思考できる部分にふと閃いた。
つまり……Aの角度からこの光景を見たら残虐で悲惨に見える。だとすれば、Bの角度からこの光景を見たらどう見えるの? きっと違った風に見えるはず。そして見る角度というものは無限に存在するはずなのだ。だから見え方も無限に存在してるはず。
三次元空間上に無限に視点は存在し、三次元空間でも間に合わなかったら、三次元空間を包んでいる超空間に視点を設定することができる。そこでも間に合わなかったら超超空間に設定したらいい。
そんな風に視点を変えたら、必ずや、この辛い状況を、悲惨や苦痛の真逆、たとえば愛や優しさに満ちた状況として見ることのできる視点というのがあるはずなのだ。
でも……と黒川は思った。
現に私は邪神の体内で拷問されて苦しい。
毎秒、五千回以上、お腹を切り裂かれて内臓を引きずり出されては、また元に戻されて最初からやり直されるというのを繰り返されている。
この宇宙で苦しさランキングがあったら、たぶん今現在で一位を取れるんじゃないかな。まぁ、大昔にあの廃校で惨殺されたラクロス部の仲間たちも、まだこの邪神の体内で私と同じように拷問され続けているだろうから、同着一位ということになるんだろうけど。とにかく順位なんて関係なく圧倒的な苦しさ、痛さだ。しかもこの肉体の痛さだけじゃない。感情と思考もそれぞれ、それ専用の超凄い拷問を受けている。むしろそっちの方が肉体への拷問より凄い。
この苦しさのために、意識は朦朧とし、他のことを考えることができない。いや、何億回も同じような拷問を受けているうちに、余裕がでてきて、たまに今みたいなことを考えることもできる。でもそのたびに、新しい拷問が開発され、私の意識はすぐ拷問の苦しさに飲み込まれてしまうのだ。それはまもなくのこと。今までのパターンと一緒なら、あと三回、お腹を切り裂かれたあとあたりで、新開発の拷問が登場するはず。ほらきた。やっぱりね。もうダメ。辛くて何も考えられないよ。
でもこの何も考えられない脱出不能の絶望という状況も、角度を変えて見たら違ったふうに見えるはず。何一つ何の壁も拘束もないように見える、つまり自由に見える、特定の視点があるはずなのだ。そもそも人間は肉体の外に視点をずらすことなんてできないという現実も、角度を変えて見たら、違ったふう、もっと自由なふうに見えるはず。
もしかしたら、自由に見える視点の方が多数派であり、今私がこうして残虐な目に合っているように見える視点の方が少数派である可能性もある。そんなことを黒川あかねは思い、脳を繰り返し破壊されながらも、その視点、自分が自由である視点を探した。
そしてそれは見つかった。
黒川あかねはその視点に自分の意識を固定した。そうすると、あかねの現実は、その視点から見えるものに急激にシフトした。結果として、長かった拷問生活は終わりを告げ、宇宙が終わるときまで拷問され続けるという運命も無かったことになり、そもそも邪神の生け贄に捧げられたあの廃校での夜も、楽しい、そしてロマンチックな肝試しの夜へとシフトした。
しかし黒川あかねはトラウマにならない程度に、自分と皆の記憶に、邪神や生け贄の記憶を残しておいた。ぜんぶ忘れたら、池田をシメることができないからだ。
「てめえ! 池田! このやろう」
ラクロス部の面々はある夜、池田を廃校に呼び出して、取り囲んだ。
「わたしが一番乗りだ!」黒川あかねは有無を言わせず思いっきり池田を殴った。
「僕が何をしたっていうんですか?」
池田は殴られながら唖然としていた。
「おまえ、俺らを生け贄に捧げるつもりだったろ?」
「はあ、なんのことですか?」
「あああ……そうか、それも書き換わってるのね」黒川はぴんときた。
「つまり、池田が私たちを邪神に捧げようとしたそのこと、それ自体も無かったことに書き換わってしまったんだわ」
「じゃあこいつに罪はねえってことなのかよ? おまえ、いじめられて、その復讐で邪神を呼ぼうとしたんだろ? ええ? そうなんだろ?」部長が憎々しげに言った。
池田は言った。
「いじめ? はあ? なんのことですか」
そのあたりで黒川あかねは諸々の仕組みに納得した。
黒川あかねはニ撃目を叩き込もうとして振り上げていた右手をおろした。
まだ殴りたりなかったが、しかたない。
「どうやら、何かしらの不自由な状況から、自由な状況へとシフトしたとき、その不自由な状況の原因までもが消滅してしまうみたいね。原因と結果、その全部が書き換わっちゃうのね」
黒川あかねが邪神の拷問の中で会得した技、超次元視点シフト。その技の副作用と呼べるものが、そのとき判明したのであった。
つまり……シフトして特定の苦しい状況から自由になったあと、その苦しい状況に自分を導いたと思われる原因と結果の全連鎖が時空の中から消滅してしまうのだ。それこそが次元シフトの副作用と言えば副作用と言えるのだった。
あれだけ長い間自分たちを苦しめた状況の原因を作ったこいつ、池田というこの男を、殴る蹴るしてやりたい。そう思うのは当然のことである。
しかしそれをすることはできない。
池田は最初から何も悪いことしてないことになったんだもの。そもそも池田が邪神を召還する原因となったいじめまでもが消えちゃったみたいなんだもの。
部長や他の部員たちはまだ納得がいかないようだった。
「くっそー、俺らのこの復讐心はどうしたらいいっていうんだよ?」
「しかたないわね。無かったことにして、忘れましょう。ふう」
部員たちは最初、廃校の壁などを殴っていたが、次第に、そうだよな、仕方ないよな、と言い始め、しまいには「おい、おまえ、悪かったな」と池田に謝りさえした。
「ごめんなさいね。はい、ハンカチ。許してね」
黒川あかねは池田に花柄のハンカチを渡すと、帰宅して、深夜、久しぶりに、勉強机にノートパソコンを開き、両親が寝静まっているのを確認してから、趣味の動画の鑑賞を始めた。
夜は静かに更けていく。