俺が生まれ育った町には、廃寺がある。
その腐りかけた拝殿から、ヒビの入った鳥居へと続く急な下り道を、何十年も前、幼い日に俺は一気に駆け下りた。
なぜそんなことをしたのだろう。
坂道を駆け下りるアクションが、テレビのドラマのようで格好いいと思ったからか。
それとも何かに取り憑かれたのか。
わからないが、ふいに俺は拝殿で振り向くと、はるか眼下の鳥居めがけて全力で駈け出し、坂道を下っていった。
その途中で石か何かに躓き、俺は転び、顔を坂道のコンクリートで打った。
その傷跡は数十年経った今もまだ額に残っている。
あの日に死んでもおかしくなかった。そのぐらいの勢いのある転び方だった。
もしかしたら俺はあの日に実際に死んでいるという可能性もある。
いや、それは無い。
なぜなら俺は生きてるからだ。
生きている。しかしそれを証明することは出来ない。
俺には意識があり、日々、様々な体験をしていると感じているが、それが死後に見る何かの幻である可能性がある。
俺は心の片隅で少し疑っている。俺が見ているこの世界は実は臨死体験中の幻かもしれないと。
もし本当に俺が見ているこのすべての景色が幻だったとして、それで何か問題が生ずるわけではない。むしろそうであったら面白い。
俺は毎日、つまらない思いを抱えて生きている。
仕事はつまらない。人間関係もつまらない。趣味もつまらない。
俺の性格もつまらない上に、そのつまらなさを変えるための、勇気か何かの心理的エネルギーに欠けており、このつまらなさの中から抜けだそうという気も持ってない。だからこの人生が幻であり、それゆえに俺のこの思考パターンを含む何もかもが幻であり、俺の存在そのものが幻であり、それがある日、サッと霧が晴れるように消滅し、そののちに、何か本当の、画期的な、面白い何かが始まればいいなと俺は思っている。
しかし自分にはそのような新展開を呼びこむ力などないと思っているので、何かの外部の力によって、強制的に、新しいことが自分の人生に起こってくれないかと受動的に待ち望んでいる。
俺はそんな人間である。
だが俺はそんな自分を恥じない。
なぜ受動的で悪いのか。
この世界は幻なのではないかというような、厭世的な、あるいは中二的な、あるいは哲学ぶってる的な疑念を持っていて、なぜ悪いのか。
いや、誰も俺のことを悪いなんて言ってない。
俺が勝手に俺のいろいろな側面を悪いと決めつけており、それに対して、いや、俺は何も悪く無いと、自分同士で闘いを繰り広げている。
そんな闘いはもうやめよう。
とにかく俺が言いたいのは、別に、受動的でいいということだ。
俺が言いたいのは、この世界が幻かもしれない、むしろ幻であればいい、などという厭世的と感じられる考えを持っていてもいいということだ。
そんな薄暗いような考えを抱いていながらも、堂々と生きてていい。
*
今夜も俺はつまらない仕事を終え、帰り道に、コンビニに寄る。
このコンビニは俺の生まれ育った土地、あの廃寺がある村から千キロほど離れた場所にある。
看板は夜の暗闇の中、青い光を発している。
店内でかかっている男性アイドルグループの妙に耳に残る歌を浴びながら、俺は様々な弁当を買い込む。
コンビニ弁当、それは超うまい。
肉や魚や野菜が様々な工夫を凝らした味付けで調理され、俺のような経済的および精神的に貧しい者でも買える手頃な値段で売られている。
あるとき俺はコンビニ弁当を憎んでいたことがあった。
『俺の人生がつまらないのは、すべて、コンビニに並べられているコンビニ弁当のせいなのではないか、いや、きっとそうに違いない』という考えに取り憑かれていたころのことである。
俺がなぜそういう考えに取り憑かれたかというと、まず第一に、コンビニ弁当は安いのに美味いという事実があったためだ。
コンビニ弁当、それは美味すぎる。
そこに俺は一種の異常さを感じ取ったのである。
安いものには安いなりのわけがあるはずだ。
ということはきっと、何かのトリックが使われているに違いない。
食品に使われるトリック的なテクニックといえば、食品添加物を大量に添加するなどといったことではないか、と、ある日、俺は弁当を食べながら想像した。
この適度な油と塩のハーモニーが紡ぎだす美味しい味は、実はケミカルな物質によって造られたまがい物なのかもしれない。
すると、その考えは、とても本当のものらしく思われてきた。
そして俺はさらに、ケミカル物質は、身体や脳に悪いはずだという考えを思いついた。
その思いつきに囚われた俺が、自分の人生のつまらなさを弁当のせいにするまでにかかった時間は十秒ぐらいだった。
俺の中でそのようにして弁当は悪者になった。
しかし成長した今なら思う。
コンビニの弁当は何も悪くない。
ケミカル物質も何も悪くない。
そして、俺だって、何も悪くない。
俺のこのつまらない人生だって、何も、何も、悪くない。
今夜も俺はじっくりと時間をかけてコンビニ弁当を選び、アパートに帰り、そこで弁当を食べ、インターネットの映像を無表情に見て、そしてまだ会ったことのない、たぶん会うことのない俺の恋人のことを想像しながら眠りに落ちた。
この生活が夢や幻なら早く醒めてくれと願いながら。
そのような無気力な受動的願いを弱々しく願う自分を肯定しながら。
俺は布団に包まって、眠りの中へと落ちていった。
視界が暗くなっていった。
それから、視界はだんだん明るくなっていった。
「…………」
明るさが耐え切れないほどになったところで俺は目を開けた。
「じゃーん、夢です!」
夢の中で、頭に黄色いリボンを付けた美しい女性がそのように言った。
辺りはとても眩しい。
この光は、日光だろうか、それとも何かの人工的な灯りだろうか。
分からないが、とても強い光が俺の周りを包んでいる。
光の中に俺は突っ立っている。
その俺の目の前に、何かこう、黄色や緑の人工的な、プラスティック感を感じさせる衣服に身を包んだ、若々しい女性が立っており、彼女は俺に笑顔を向けると、「じゃーん、夢です!」と言った。
俺は思った。
そうか、夢なのか。
そうだ、夢に違いない。
そして俺は夢の中で虚しさに包まれる。
なぜこういう面白いことが現実の中で起こらないのか。いきなり、変だけど綺麗で格好いい服を着た、何か素晴らしいものを俺にもたらしてくれそうな異性が、俺の前に現れてくれる、そして俺に対し何か面白い声をかけてくれる、そんな画期的な出来事が、なぜ現実の中で起こらないのか。
なぜこういうことが起こるのは、夢のような、現実性のない、幻の中でだけなのか。
俺は憤り、そして虚しくなる。
だが、これは夢であり、それは一時的な幻であったとしても、それでも、このような美しい異性と話す機会が俺に与えられたことは、俺にとって、とても強い喜ばしさをもたらしているのは事実である。
しかも現実であれば、俺は異性に対して気後れしてしまう性格なのだが、これは夢であり、これは本当のことではないという安全柵が張られているため、俺は積極的に女性と会話していくことができた。俺は夢であることの利点、すなわち安全性をありがたく感じながら女性に声をかけた。
「こんにちは」
「こんにちは」
「じゃーん、夢ですって……そんなこと、言われなくてもわかってますよ」
「あらそう。賢いのね。でも他の人は、分かってない人が多いんですよ。夢だってこと」
「そんなもんなんですか。でも俺はわかってますよ。なぜなら、さっき寝たばかりだし、俺の現実生活の中に、あなたのような登場人物はいないし。あ、でも、こんなふうに、夢の中でこれは夢だと認識できている夢を見たのは初めてかもしれない。俺がいつも見る夢の中では、俺はそれが夢ではなく現実のことだと思っています」
「今回のあなただって、私が、じゃーん、夢です、って言ってあげたから、夢の中でこれは夢だってことに気づけたのよ。私が声をかけなきゃ、みんな、ぼやっとして、夢の中でふらふらしてるだけなんだから。私が声をかけて、気を確かにしてあげなきゃいけないの」
「そういう……仕事か何かなんですか? ええと……あなたのしてることは」
「そうよ。私はドリームクラッシャー・夢見崎フラッタ。あなたの夢を破壊しに来たわ。そういう仕事をしています」
「そうですか……」
俺は夢見心地でそう答えた。夢見崎と名乗るその女の美しい衣服や身体を好きなだけ眺め回しながら。夢の中なので好きな様に行動していいのだ。俺は現実生活の中では、いつも他人を見ることを恐れているが、夢の中なので、あたかもインターネットブラウザに表示された画像を好きなだけ好きなように見ていいのと同じように、他人のことも、好きなように見ていいのだ。美しい人間をこのようにいくらでも好きに見ていいという体験はとても喜ばしいものだった。
しかしある所で夢見崎は俺に背を向けた。
「ちょっと……何見てるのよ。恥ずかしいんだけど」
「あ、すみません」
俺は謝った。夢見崎は笑った。
「あなた、夢の中なのに紳士的なのね。たいがいの人が、自分は明晰夢を見ているとわかった瞬間、夢の中の世界の人や物に、狼藉の限りを尽くします。なのにあなたはかしこまってる」
「あぁ、俺、現実でもダメなんですよ。いつも積極的になれないし、ネットでも、羽目を外せないし、どこに行っても、のびのびできないんです」
「そうなんだ……なんだか、かわいそうになってきちゃった。そんな人の夢をクラッシュするなんて」
「夢がクラッシュされるとどうなるんですか?」
「もちろん、粉微塵になるわよ」
「そうすると、どうなるんですか?」
「夢が、散り散りのバラバラになって、もう二度と復元できなくなります。この道具を使ってやります」夢見崎は背中に背負っていたズタ袋を下ろすと、中身をひとつずつ俺に見せた。
「これはドライバーよ」
「そうですね。これはドライバーです」
「これはのこぎりよ」
「そうですね。これはのこぎりです」
「これは金槌よ」
「そうですね。これは金槌ですね」
その他、二三の大工道具のようなものを夢見崎は俺に見せた。
「これであなたの夢を破壊していきます。具体的にはこうやってやるのよ」
夢見崎はドライバーを左手に、右手に金槌を持つと、床にしゃがみこんだ。
床は白かった。
材質はよくわからないが、そんなには固く無さそうだ。
夢見崎はドライバーの先端を床に斜めに当てると、ドライバーの尻に金槌を振り下ろした。
かん、という音を立てて、ドライバーが床にめり込む。
夢見崎は斜めになっているドライバーに体重をかけ、押し込んだ。ドライバーが床に並行になるにつれ、その先端が持ち上がり、床の一部分が剥がれた。
「こうやってあなたの夢をボロボロにしていくのが私の仕事」
「……なんだか、大変そうな仕事ですね」
「そうよ。だいたい、一つの夢を破壊し終えるまでに、無限に近い時間がかかるわ」
「もっと効率の良い道具はないんですか? たとえば、チェーンソーのような」
「支給されてるのがこれだけなのよ。工夫して使っていくしか無いわ」
「そうなんですね……頑張ってください」
「ありがとう! 私、頑張る!」
「あの、よかったら、俺も手伝いましょうか?」
「本当? それじゃあ……」
夢見崎はズタ袋の中からカンナを取り出し、俺に手渡した。
「これで削っていってくれる? あなたの夢を」
カンナを受け取った俺は、夢の床にそれをかけていった。夢の床は少しずつ削れていった。
「夢が完全にクラッシュされるとどうなるんですか?」
俺は額に汗して作業しながら、隣で同じように汗をかいて金槌を振るっている夢見崎に聞いた。
「何もなくなります」
「すると?」
「わからない。何もない状態になったことがないから。夢はいつも破壊していったその端から自動修復され、補強されていくものなの。あ、でも……この夢は、他の人の夢よりも修復が遅いみたい。これなら、修復されるより破壊のスピードの方が早いから、もしかしたら、いつの日にか、完全にクラッシュすることができるかもしれない」
「それじゃあ俺、それを見てみたいな。何も無くなった状態を」
「何もないから何も見れないわよ」
「それを体験してみたい」
「あなたも私もいないから、誰も何も体験しないわよ。何もないから」
「それになってみたい」
「なれないってば。だってそれは何でもないんだもの」
「でも、そうなるといいな……俺、そういうのが好きだったみたいです」
「そうなの。珍しい、変な人。私はこれ、仕事でやってるから仕方ないけど、あなたみたいに、なにもないのが好きだなんて人、初めて見た」
「わからない。本当になにもないのが好きかどうかはわからない。なってみたことがないから。でも、できれば俺も手伝いたいです。夢見崎の仕事を」
そう言うと、夢見崎は、わかったと答えた。
そして、仕事の手伝い方を教えてくれた。
ひとつ。毎晩、夢の中で、夢を削っていくこと。
ふたつ。起きているときに、夢を増やさないような生活を心がけること。
「うーん。どちらも難しそうなんだけど」
「そう? 夢を削るのは簡単でしょ。ほら、カンナがけがどんどん上手になっていってる」
「確かに今は調子よく削れてるけど、どうせ夢から覚めたらこの夢だってあやふやにしか覚えてないんだし、明日もまたこの夢を見られる保証なんて何もないし。たぶんこの夢はこれで一回切りだし」
「あ、そうか。それもそうね。私たち、毎晩、こうやって作業できるわけじゃないものね。それなら……ふたつ目の手伝いを頑張って頂戴。私はこうやって、あなたの夢の中で、ずっと人知れず作業を続けているから、あなたは起きてる間、せいぜい、夢を増やさないように心がけて頂戴」
「どうやってそんなことをやったらいいんですか?」
「夢が増える、増えない、それは結局のところ、あなたの心の状態に由来することだから、あなたの心の状態をどのようにコントロールしたらいいのか、その方法は、あなたにしかわかりません。でも、あなたが望めば、それはコントロールできるはずです。なぜならあなたの心はあなたのものだもの」
「そんなこと言われても、俺は自分の心の状態に、そんな責任なんて持ちたくないんですが」
「うーん。とにかく、夢というのは、あなたの精神状態とリンクしているのは確かよ。だからあなたの精神状態を、夢を増幅させない精神状態に置けば、夢は増幅しなくなるはず」
「それって、どういう精神状態ですか?」
「あなたのこの夢は、私がこれまで削ってきた夢に比べて、変化に乏しく、回復力にも乏しい。だから、今までと同じような 精神状態、それこそがベストなんだと思う。今のあなたの精神状態をキープしてくれたら、それでいいんだと思う」
「なるほど。つまり、このあとずっと、できるだけ、俺は、今までと同じような俺でいたらいいんですね」
「そうそう。できる?」
「ええ、それならできます」
「じゃあ、あなたが私に協力してくれることへのお礼に、これをあげます」
夢見崎は自分の髪から黄色いリボンを解くと、それを空中で軽く振った。
リボンは俺の見ている前で手品のように幅を太くし、長さを伸ばした。
「じゃーん、マフラーです!」
「おお、確かに、マフラーだ。暖かそうですね」
「ええ、暖かいわよ。もうすぐ寒くなるから、これをあげます」
夢見崎は俺の首にその材質不明の黄色いマフラーを巻きつけた。
それは暖かくもなく冷たくもなく、これと言った感触も持っておらず、ただ俺の首の周りにくるりと巻かれていた。しかし俺はとても嬉しく思った。
俺は夢見崎に感謝していた。その感謝を伝えようとしていると、俺は夢から覚めた。
俺はその夢を忘れないよう、枕元にあったゴミ箱の中から拾ったレシートに、床から拾ったボールペンで夢の内容を書き付けた。
メモを書き終え、首に手をやると、そこには何も巻かれていなかった。それからも俺の人生は薄暗く続いていった。仕事をしてコンビニ弁当を食べる毎日。これがぜんぶ何もかも幻であればいいと願いながら、何かを変えるための行動は何もしない毎日。しかし夢のメモがあったために、俺のこの硬直し、固体化した人生には、かすかな希望のフレーバーが以前よりも微量に増量していると感じられた。つまり俺がこのようなつまらない人生を送っていることは、あのドリームクラッシャー・夢見崎フラッタの仕事を手伝っていることなのだ、などという、生活への意味付けができたから。
それは、ただ何の意味もなく、つまらない人生を送っているよりも、何倍も良い人生として感じられた。
俺がこのようなつまらない人生を送れば送るほど、俺の夢の修復速度は低下し、俺の夢の中で俺の夢をコツコツ手作業で削っている夢見崎の仕事はどんどん捗っていくのである。
その後も一度も夢見崎の夢は見なかった。なんど布団にくるまっても俺は夢見崎と再会することは出来なかった。だから本当に俺の夢の中で夢見崎が金槌を振るい続けているのか、それは俺にはわからなかった。しかし俺はいつか俺の夢が完全に無になる日が来るのを信じてつまらない日々を送り続けていた。ある日、俺はレシートの裏に未来への願望を書き綴った。
『とある、ある日、俺は俺の夢に大きな亀裂が開いているのを発見した』
それは俺の願望だった。俺は自分がこのまま順調につまらない日々を送り続けた結果、本当に夢が破壊されていったらどうなるのかをシミュレートした文章をレシートの裏に書き始めた。
『それはマリアナ海溝ぐらいの深い亀裂だった。その亀裂の一番底では夢見崎が金槌を振り下ろし続けていた。それは今もどんどん大きくなりつつあった』
夢見崎が俺の夢の底で金槌を振るうたびに火花のような夢の残骸が飛び散り夢は薄くなる。その様子を想像し、俺の心の中の夢の空間に、修復不可能な亀裂が生じ、その亀裂から無が俺の心の中に侵入しつつあるのを想像すると俺の心は躍った。
だがそれが命取りだった。
『俺の心が踊ったために、俺の人生の中に強い希望という要素が現れ始めた。それは無への希望という何が何だかわからない希望であったが、希望は希望であった。その希望が俺のつまらない人生に彩りを与え始めた。こんなことでは俺の夢はもう不活発ではなくなってしまう。夢は増殖を始め、夢見崎が長年行なってきたドリームクラッシュの仕事は、自動修復される夢空間によって妨害されてしまう』
夢見崎が、長年の仕事によって開けた穴が、見る見る間に塞がっていくのを目の当たりにして金槌を片手に呆然としている、そのイメージを俺は想像し、俺はなんという間違ったことをしてしまったのだろうかと自分を責めた。
そして、今からでもまだやり直せるはずだと思い、楽しいイメージが書き綴られているレシートをすべてゴミ箱に捨て、今度はもう、夢見崎やドリームクラッシュのことなども、すべて忘れることにした。一番最初に見た、夢見崎との出会いや、彼女にあの綺麗なマフラーをもらった夢の内容が書かれているレシートも捨ててしまった。それによって、俺は夢見崎のことを速やかに忘れていった。
そして俺は何の夢も希望もないつまらない生活を送ることを再開した。毎日、コンビニ弁当を食い続けた。そして一年が過ぎ、二年が過ぎ、五年が過ぎ、十年が過ぎ、長い月日が流れ過ぎていった。コンビニ弁当をいつも食っているというものの俺はなかなか病気にならなかった。何度か病気になったが健康保険に入っていたため助かった。
俺は思った。これはいつまで続くのだろうかと。物事はそんなに急激に悪化することもなく、何か急激に良い方向に変わるということもなかった。俺は右にも左にも上にも下にも動きのない生活の中、受動的に何かの何かを待ち続けた。時が流れ世界が新しくなるたびに周りの社会や人々は急激に変わっていくのが俺の視界の隅に映っては流れ去っていった。年を追うごとに世界の移り変わりは激しくなっていった。それは量的な移り変わりのレベルを超え、質的な移り変わりが日常的に起こる世界だった。想像を超えた急激なシフトが一日や二日で起こる世界だった。
人々は百度に達した水が相転移して沸騰するように質的変化を起こし、一夜開けるごとに、昨日とは違う、想像を超えた新しい生活の中へとこぞって入っていった。社会のありようもそれに伴いダイナミックに変化していき、昨日まで機能していた構造は、もはや今日には機能しておらず、昨日存在していなかった新たなものが、今日には誰もがそれを享受し楽しんでいる、そんなことが毎日のように起こった。そんな中、俺のようにつまらない生活を送り続けるという生活スタイルを維持するのは、もはや極めて不自然かつ難しいことになっていた。だが俺は何かのために、もうなんだか忘れてしまった何かのために、絶対に、なんとしても、この受動的な変わらないつまらない生活を送り続けたいと思っていた。でなければ、誰にも愛されない事になってしまうからだ。しかし俺はこんな俺を愛し続けるし、俺は彼女のことを愛し続けている。絶対に俺はそれをやめないし、俺は絶対に、無意味な君たちが存在していたことを肯定し続けている。いつまでも、永遠に。