地下室の寓話 

 地下へと続く長い階段を降りていく。

 階段の一番底には『利用規約』と『権利放棄書』が貼りつけられた鋼鉄の扉があった。

 俺は『利用規約』に目を通し、『権利放棄書』にサインしてを扉を開けた。扉の中ではコンクリート打ちっぱなしの狭い室内で男たちが乱闘をしていた。

 いいや、それは乱闘ではない。乱闘というには整然とし過ぎている。六十人ほどの男たちの輪の中から二人が抜け出て、部屋の中央で向かい合い殴り合っている。それを残りの男たちが熱狂的になるでもなく、しかし食い入るように、壁際から見ている。

 ではこれは格闘技の試合のようなものなのかというと、それほどまでに整然と管理されているわけでもなく、何かこう泥臭い、素人同士の暴発的な喧嘩のような生々しさのある殴り合いであった。

 俺は壁際でスーツを脱ぎ上半身裸になると、壁に貼り付けられていた順番待ちの紙に名前を書き込んだ。

『尹東ヒロノブ、60キロ』

『この場で起こるいかなる障害に関しても当クラブは責任を負わないものとする』という契約書にもサインした。

 そうして壁際に体育座りし、会社を出る際に給湯室で作ってきたスポーツドリンクをちびちび飲んで十分ほど待機していると、「えー、尹東さん、加藤さん、出番です」という係の者の声が、どこかに設置されているらしいスピーカーから聞こえてきた。

 前の組のヤツらは壁際に座り、顔や足に、持参してきた保冷パックを当てていた。一人は顔面に大きな痣ができていた。俺は思った。ああはなりたくないものだ。ああならないための最も確実で確実な方法は、この地下室に背を向けて立ち去るだけでよいのだが。

 俺は戦うことを選ぶ。

 矛盾した思いを抱きながら部屋の中央へと歩き、そこで対戦者と向かい合う。

 勝利は無い。

 勝利などというものはない。

 このクラブに来た者すべてに勝利などというものは無いのだが、このファイトクラブ愛好クラブに来る人間は俺含めて自分が何を求めているのかなんてわかってはいない。

 そんなことを考えながらファイティングポーズを取る。

 俺はいつか雑誌で見て格好が良かった空手っぽいポーズをとった。左手を前に出し、右手を腰のところに引き、腰を落とす。このポーズにどういった戦術上の利点があるのかは何もわからない。

 目の前の敵、加藤とやらは半身になり、左拳を顔のちょっと前に、右拳を顔のすぐ近くに構えるというボクシング的なポーズをとった。強そうなポーズだった。

 もしかしたら経験者なのかもしれない。ゾッとする。

 しかしこのクラブにそんなものの経験者、すなわち何かの求道者、確固たる目的意識を持った存在などが入れるはずはない。そんなまともな存在はこのクラブの利用規約によって入室を拒否されるはずだ。

 だから目の前にいるのは何の格闘経験もないアマチュアに違いない。しかもクラブの者が俺ともっとも体重の近い相手を選んでくれたはずだ。戦闘力にそんなに大きな差はない。そう頭の片隅で考えながら俺は加藤との格闘を始める。

 近づいていき、拳を前に突き出す。

 時間は五分。気が遠くなるほどに長い時間だ。互いの拳が肩や胸に当たり、無意味な痛みを残していく。全身の筋肉と呼吸器官になんの意味もない疲労と苦痛が蓄積していく。

 俺と相手の吐く息はほどほどに熱く、汗は湧き出るが数基設置されたエアコンが急速にそれを冷やしていくため室内はむしろ寒い。その寒さの中で、俺と俺の目の前にいる人間は互いの肉体を傷めつけ合う。

 途中、何度も心が折れ、五分経過する前に、もう壁際に戻りたくなる。足が痛くてこれ以上、前にも後ろにも進めず蹴ることもできない。疲れてパンチを出すこともできない。肩と顔と腹と足が痛い。しかし何もしないでいれば、一方的に叩かれて被害が広がるだけなので、もうイヤだと思いながら手足を前に出していく。

 そうこうするうちに遂に五分が経ち、俺は軽く会釈すると、加藤に背を向け、壁際に戻り、鞄からビニール袋を取り出し、中の保冷パックをハンカチに包んで、自分の体の一番腫れ上がっているところ、左肩に当てる。右手でその処置をしつつ、左手で電波の届いていないスマホを取り出し、カメラで顔面をチェックする。

 何発も顔にパンチを喰らったが、歯も鼻も幸いにも折れていない。だが目は少し充血し涙が滲んでいる。

 もう帰りたい。

 だが俺は帰らない。今日はとことんまでやると決めたのだ。

 俺はまた順番待ちの紙に『尹東ヒロノブ』と名前を書き込むと次の順が回ってくるのを壁際で待ち続けた。

 ちびちびと何に効くのかよくわからないスポーツドリンクを涙目で飲みながら。一口飲むごとに『もう帰りたい』という当然の思考が強まってくる。俺はそれに気づくたびにそれを打ち消す。打ち消すための呪文を頭の中で唱えながら。

『やると決めたらとことんやるのが俺だ』

 しかしこの呪文へのカウンターの如き反論が即座に湧いてくる。いつからそんな俺になったのだろうか、と。

 この反論を打ち消すためにさらなる呪文を唱える。

『男はいつでも前へ前へ進む』

 するとこの呪文への反論が瞬時に湧いてくる。なぜこのファイトクラブ愛好クラブで戦うことが前へ進むことだと思っているのか、と。むしろこれは前どころか後ろにすら進んでいない、その場での自滅的足踏みではないのか。

 この反論を取り消すためにさらなる呪文を唱える。

『理由なんて考えるなよ。そんな理由なんて考えている内に瞬間瞬間の輝きを失ってしまう。その場で輝くことができればいいんだ』

 しかしここで殴りあっている俺は本当に輝いているのだろうか。いいや、輝いてなどいない。

『輝きだけでなく人には闇が必要だ』

 ここで俺は初めて自分の論理に、ある種の説得力を感じることが出来た。

 闇。

 確かに今の俺は五里霧中に包まれている。

 誰にも頼まれておらず自分自身なんの動機も持っていない闘い。

 ファイトクラブ愛好クラブで体力の持つ限り戦い続けるというこの闘いを、誰に拘束されているわけでもなく何の見返りがあるわけでもなくやり続けようとする俺は、確かに闇に包まれている。

 その闇、明晰さの反対の状況、自分が何のためにこれをしているのかわからないこと。自分の気持ちが、自分の動機が、自分にもよくわかっていないこと。その状態で思考を止めて同じことを繰り返すこと。

 すなわち闇。

 それが必要なのだとしたら、確かに俺は今、必要なことをしていると言える。

『そうそう、人間、闇が必要なのだ』

 俺はその呪文を繰り返した。なぜ闇が必要なのかはわからない。昔、誰かがそういうことを言っていたかもしれない。わからない。だがとにかく自分の動機がわからず、求めるものがわからず、その気になれば抜け出せる苦しい状況から抜けださずに苦しい闘いを続けること、もしその理由があるとしたら、闇が必要だからに違いない。なぜならそうとでも考えなければ俺の行動の説明がつかないからだ。

 現実問題として、確かに俺は自分に苦しみを与える行為を繰り返そうとしている。そしてあらゆる行為には原因が存在する。それゆえに、俺がこのクラブで戦うという行為の原因、それは、俺が闇を必要としているから、というものに違いない。

 俺は何度目かのファイトタイムで、井上や、岡本という名の男と殴り合いながら、そういう結論に達した。

 しかし、と、また壁際でコンクリートに向き合いながら思う。

 もう一つの可能性として、俺が完全に狂っているということもあるのではないか? Aという原因があり、それゆえにBという結果が生じるというような、直線的、論理的な脈絡によって俺が動いているわけではなく、何かしらの完全なる狂気によって、俺はここで闘いを続けているという可能性は?

 確かに、それは確かに大いに考えられる可能性である。

 だがそもそも俺が闇を必要としているとしたら、それ自体、俺が狂っていることの証明であるといえる。なぜなら闇とは明るさの欠如であり、明るさ、明晰さの無いところとは、不明瞭な場所であり、不明瞭さとは混乱であり、混乱とは狂気だからだ。

 そうそう、俺が闇を必要としているということは、つまり俺の中の何かがおかしくなっているということ、つまり俺が狂っているということを、ただ別の言葉に言い換えただけにすぎないのだ。

 と、ここまで考察を進めたことで、俺はよりはっきりと、自分がなぜ今この地下室で、こうも無駄で無意味で苦痛だけが大きくなる行動を続けているか、その原因をより深く理解した。

 つまり俺は狂っている。

 それゆえに加藤や井上や岡本や岡田や岡島などと殴り合っているのだ。そのことに何の意味もない。俺の肉体と精神がひたすら疲弊し痛みを抱えていくだけである。また他人にも痛みを与えるだけである。痛みを与えられた人間は不幸になる。俺はこの地下室で不幸を生産している。その動機は俺にはわからない。そして俺は狂っている。だから俺は狂った行動を続けている。狂った人間が狂った行動を続けるのはノーマルなことだから、俺は通常通りのことをしていると言える。俺がこのようなことを繰り返し続けるのは仕方のないことなのだと言える。

 俺は名前を紙に書き、係の人が俺を呼び、俺はスポーツドリンクのボトルをコンクリートの乾いた床に置くと立ち上がり、部屋の中央で、岡山と呼ばれた男と向かい合い、空手の構えを取る。

 空手とは中国から沖縄へ伝わった武術がそこで独自に発展を遂げたものであり、とても精神性の高いものだと雑誌に書いてあった。しかし俺の精神性は限りなく低い。なぜなら俺がなぜこんなことをしているか俺はわかっていないからだ。自分のことをわかっていない俺の精神性はとても低く、空手を使う資格など本来持っていないのだが、本来、持っていないものを持っているつもりで扱おうなどという間違った行動をするあたりもまた俺が気の狂っているがためであり、本当に俺ってヤツは、本当に仕方のないヤツだなと、岡山の手刀を受けながら俺は思う。岡山に手刀を振りかざしながら、俺は何度もそう思う。

 そして壁際に戻るたび、ちびちびと飲んでいたスポーツドリンクは、少しずつ減っていく。とはいえその容量はとても多いため、それはまだまだ無くならない。会社の給湯室で沢山作ってきたのだ。今日はいくらでも戦えるように、と。今日は自分の限界を越えて戦えるように、と。

『闘いとは、自分との闘いだ。負けたらそれで負けだ』

『マラソンをするとき、もうダメだと思ったら、あと電柱一つ分だけ走ろうと思え。そうすれば、走ることができる』

『目の前の一歩だけを走れば走ることができる』

 それはそうだ。

 後五メートル、走れば、走るだけ、走ることができる。

 あと一試合、戦えば、戦うだけ、戦うことができる。

 それによって俺は俺の中の闇、俺の中の狂気を濃くすることができる。

 もう沢山の人間と闘いをし、傷つけ合い、その分だけ俺の中の闇は凄い量に膨れ上がってきた気がする。

 岡山、岡坂、北村、俺とそいつらは、ろうそくや、スポットライトの照明の中、ぎこちない影絵のような格闘を続ける。そのようにして、長い、長い時間が流れすぎていく。

 その長い時間の中、いつでも俺は外に出て、無駄な闘いをやめて、正気に戻ることができたのだが、俺の全身には、そして周りの人々の体には、すさまじい傷が、痣が付いている。

 もしこの狂気の沙汰をやめて、外に飛び出せば、さっきまでの自分は、あの暗闇の中で、なんていう馬鹿なことをしていたのだろうかと思うだろう。正気に戻ったとき、今やっているこの、全力の努力がすべて何の意味もない、無駄なことだと俺は自分で理解してしまう。だからそれは嫌なのだ。

 外に出たら、今やっていることを否定してしまうことになる。だから決して外に出るつもりはない。いつまでも俺はこの中で努力を続ける。それが正しいことなのだ。なぜ正しいのかはわからない。間違っているのかもしれない。しかし俺が間違っているとしても、俺が間違う可能性は、俺を作った者によって俺に与えられていたのだ。だからそれは俺の責任ではない。俺がここで好きでもない楽しくもないファイトクラブ愛好クラブでファイトを続けているのは俺の責任ではなく、俺にそのような自由を与えた者の責任であると言える。

 その者に対し、その者がしでかしたことの結果を見せてやるためにも、俺は自他を傷つけ続けているのかもしれない。それにより俺は被害者であり、悪いのは俺を作ったものであるということが誰の目にも明らかになるのだから。

 そういった、神。

 この世を作った神。

 俺を作ったに違いない神。

 そういったものに責任を転嫁せねばやってられないほどに地下室の状況は悪くなってきていた。

 あの会社の給湯室のことが懐かしく思い出される。

 あの給湯室では、俺はまだ目が見えていた。

 俺の目はまだ潰れておらず、俺はまだ光を目にすることができていたのだった。今はろうそくかスポットライトの熱を皮膚で感じることしか感じない。その不快な熱が肌に当たることでしか光を理解できない。光は熱く、俺の脳を刺激し、今の俺には不快である。俺は闘いの間際、壁際で、できるだけ、光の当たらない、隅のほう、隅の方へと身体を寄せる。

 しかしあの会社にいた頃は俺は目が確かに見えていた。そしてここにはいない美しい存在のことを確かにこの目で見ていたし、その美しい存在と確かにコミュニケーションを交わしてすらいたのだ。給湯室でその美しい存在は俺に話しかけ、俺はその存在に対して確かに何かを応答していたのだ。

 ここには絶対にいない美しい存在。それはスーツ姿をしている。髪は美しくつややかであり、その輪郭は輝いているように感じられる。ここで戦い続ける地獄に落ちたような者どもとはひと味もふた味も違う。あの綺麗な存在と俺はあの綺麗な会社で、あのどんな飲み物でもある給湯室で、確かに会話をしたことがあった。今は俺の舌は、もう幾度もの闘いの繰り返しによって細かく千切れており、声を発することは叶わなくなっているのだが、あの給湯室の美しい蛍光灯の明かりの下で、俺はあの輝かしい存在たちと茶飲み話をしていたのだ。

 お茶はどんなお茶でもあの給湯室には用意されていた。

 ボタンを押すと精密な機械から無限にあらゆる種類の飲み物が出てくるのだ。ここにはもう俺の口から逆流した血の混じった、鉄と泥の味のする僅かな量のスポーツドリンクしか無い。しかしあの給湯室にはまるで夢の世界の花畑のように、ラベンダーや、カモミールや、ペパーミントや、多種多様なハーブティから、各種紅茶緑茶中国茶、なんでも揃っていた。その茶を飲むと、優しく華やかな香りが全身に満ち、春の日差しを浴びた花々の鮮やかな色が心に浮かぶようだった。しかも、コーラやジュースや、清らかで透明な純粋な水や、暖かなお湯までもが潤沢に用意されていた。そこで俺は白い汚れのない紙コップで今はもうその味も忘れてしまったラベンダーティを飲みながら、あの美しき存在と会話を交わしたものだった。

 あれはあの日、仕事が終わった後のこと。

 給湯室の窓から差し込む夕日は美しく、その存在を照らしている。俺はその美しさに息を飲む。そしてそれを誤魔化すためにラベンダーのカップに鼻を突っ込むようにしてその香りをかぐ。その存在はまるで俺の心を読んだかのように言う。

「あら、あなたも美しいわよ。私と同じく。だってあなた、私と同じ、存在ですもの。存在は常に美しく輝いているものよ」

 信じられないことに、それもそうであるなとそのときの俺は思ったものだった。今では到底、そんなことは信じられない、俺が美しいなどということは信じられない、なぜなら今の俺は完全なる狂気に心を自ら望んで浸したことによって、どす黒いコールタールによって身も心も汚れきっており、潰れた目におぼろげに映るか映らないかの部屋の中は四方八方が血と泥と涙と肉片で埋め尽くされているからである。そんなものに囲まれた中で転げまわる今の俺は、美しき存在の言葉を理解することが出来ない。

 しかしあのときの給湯室での俺は、完全なる明晰なる意識によって、目の前の存在の言葉を理解し、その人への親近感や仲間意識を楽しみながら、その人との会話を心から喜び、その存在に心からの愛を贈っていた。

 だがそのような瞬間は流れ去っていく。

「俺は行かなきゃいけない。あの地下室に」

 俺は給湯室で、マイボトルに水を入れ、そこにスポーツドリンクの粉を溶かしながら告げる。

 美しき存在は答える。

「そうなの。大変ね」と。

「でも、なんのために、あんなところにまで降りていくの?」

「それは当然、あの中でファイト中毒になり、あの中から出られなくなっている人々を助けにいくためだ」

「あなた自身、あの中に入ったら、一瞬ですべてを忘れ、あの中から出られなくなるのよ。あの場に入っていくためには『権利放棄書』にサインして、正気を失い、馬鹿になることに同意しなければならないんだもの。そうやってあの中に入っていって出られなくなったウチの社員、何人もいるわよ。その人達だって、もともとはあの中の人達を救うためにあそこに入っていったのよ。あなただって抜け出せなくなるわ」

「いいや、大丈夫だ。俺はどれだけ馬鹿になっても必ず正気に戻る。どれだけ闇の中毒になり、すべての明晰さを失い、混乱こそが俺の本質であり、苦しみこそが面白みであり、引き伸ばしこそが快楽であるという、上下、真偽が逆転した錯覚の空間に、どれだけ深く囚われたとしても、俺は必ず正気に戻る」

「どういう確証があって?」

「そんなものは何もないよ。でも俺は行かなきゃいけない」

 そして俺は会社を出ると、地下室へと続く長い階段を下っていく。

 その最下層の部屋の中で、俺はあまたの存在たちと互いに傷つけ合うファイトを無限に感じられる年月の間、続け続ける。

 目の前で血反吐を吐いている者たちの顔は俺の目がほとんど見えないため誰かは判別できないが、もう何巡も前に互いに戦い合った者であるためにすべて見覚えがある者のようであり、いやそれよりももっと前、この部屋に入るよりも以前の、もう覚えていない漠然とした光の中で見知っていた顔のようでもあった。

 そしてまた、名前を呼ばれた俺は、壁際から立ち上がり、部屋の中央で戦闘の構えを取った。

 目は完全に潰れていた。

 耳は鼓膜が破れたのか、音はほとんど聞き取れなかった。

 意識はもうもうと立ち込める煙のようなあやふやなものに包み込まれていた。

 それゆえ闘いのために部屋の中央に連れだされても、目の前にいるはずの者が、どういった者なのかはよくわからなかった。

 不明瞭で全体的によくわからないなりに、どうにかして闘いの合図を微かに感じ取った俺は、拳を握りしめて目の前の者がいると思われる空間に拳を叩き込んだ。

 手応えは、あるような、ないような、漠然とした感覚として俺に伝わってきた。

 こんな感覚、これまでの何巡、何百巡、何千巡もの闘いの中で感じたことはない。そんな不思議な感覚が拳に残った。

 その感覚に、漠然と、何かかつて無いものの到来を覚えつつ、俺はその者からの攻撃を受け取った。

 その者からの攻撃もまたかつて無いふわっとした手触りで、それは俺の内面にまで浸透してくるようだ。

 俺は相手の攻撃を払いのけながら細切れになった舌を動かし声を発しようとした。

「お前は誰だ? 岡山か、岡田か、それとも井上か?」と。

 その声が伝わったのかどうかはわからない。鼓膜が破れて自分の声がよくわからない。俺は無我夢中で両手両足を振り回す。とても近い距離から破れた鼓膜を通してかすかに声が聞こえてくる。

「そのどれでもないわ」

「じゃあお前はなんなんだ?」

「かわいそう。こんなになるまでここにいて、もう何もわかっていない、私が誰なのか、自分が本当はなんだったか、何もかもわからなくなっているのね」

「ここにいるものは誰もがすぐにそうなる。お前も」

 俺は早くその者を地下になじませようと、その者に全力で拳を叩きつけた。それは確かに命中したはずで手応えもあったが、だが何かが確実にこれまでの対戦と変わっているという感じがあった。

 もしかしたら何かの根本的なルールが、俺の知らぬ間に変わったのかもしれない。今はまだ目が見えないためそのことに気づいていないが、もしかしたらこの地下のルールが何か根本的に変わっており、そして今までと同じ闘いが繰り広げられていると思って拳を振り上げては打ち下ろしているこのシチュエーションは、実は今までと同じ繰り返しに感じられていて、いつの間にか何かが完全に変化してしまっているのかもしれない。正常な感覚を失っている俺にそれを確かめるすべはないのだが、俺は少しの希望を持ちながら、拳を前にいる者にぶつけ続けた。拳はその者を痛めつけることはできず、むしろその柔らかな感触を通して、何かのコミュニケーションがその者との間に生じつつあるようだった。そのコミュニケーションで少しずつ伝達されてくる情報は、あの懐かしい未来的な給湯室と、それが収められているあの綺麗なガラスで出来たビルの事だった。そのビルの中ではすべてが調和に満ちており、日差しを浴びてすべてが美しい水晶のように煌めいていた。