ほぼ読了、『エレクトロニック・ミュージック・クリエイターのための作曲アイデアと表現テクニック』

今まで断片的に読んできたこの本だが、やっとひと通り目を通すことができた。

とりあえずモード的な作曲法についてなんとなく理解できた。

今になって気づいたのだが、以前、私が『モードで作曲した!』と思っていた各種の曲は、ぜんぜんモードではなく普通の調性音楽だった。

というのも、例えばWalk Around Winterという曲では、『Cフリジアンモードのスケールを使えば、自然にCフリジアンモードの曲になるだろう』と思って曲を作った。

だがCフリジアンというのは、ルートが違うだけで、Fナチュラル・マイナー・キーと同じ音の並びだったのだ!

この音の並びを用いても自動的にCフリジアンモードの曲にはならなかったのだ!

Cフリジアンモードの曲にするには、ベースをCで鳴らすなりなんなりしてルートがCであることを強調し、なおかつCフリジアンの特性音であるD♭を要所要所で鳴らす必要があった。そうして初めてその曲はCフリジアンモードの曲としてリスナーに認識されるものになるのである。

だが私はWalk Around Winterを作る際、なんとなくメロディを作り、そのメロディに合うコードをなんとなく作っていった。

その結果できたものは、Fm-Cmを繰り返すというコード進行の曲だった。

FmはFナチュラル・マイナー・キーのトニックであり、CmはFナチュラル・マイナー・キーのドミナントである。

つまり私はトニックードミナントを繰り返すという、調性音楽における最もプリミティブなコード進行を無意識のうちに作っていたというわけである。そしてそれは当然のことながらモード的な音楽ではない。

今の私の理解によれば、モード的な音楽とはコード進行が無くて、延々と似たような雰囲気が続く音楽のことである。

(以下、私なりのモード的作曲なるものについての覚書である。またそこから派生した思考のメモである)

通常の調性音楽はコードを進行させていくことにより、その曲の中でいわば物語を進展させていく。一方、モード的音楽では物語は進行せず、最初から最後まで同じ雰囲気が続く。その雰囲気は曲の内部構造としてのコードによって生まれるのではなく、曲のより基底的な構造としての各種のモードから生じる。

コードがその曲の世界の中で起こるひとつひとつのイベントのようなものだとしたら、モードはその世界に通底して流れている雰囲気のようなものだ。

そのモード、雰囲気はモーダル・インターチェンジしない限り、曲の最後までずっと同じものが使われるので、一曲につき一つの雰囲気がキープされることになる。

調性音楽のシステムを使う限り、何をどうしてもトニックードミナントという、起承転結性が曲の中に生まれ、それによって善かれ悪しかれ時間の流れや物語性が曲の中に生まれてしまう。そのときリスナーの意識はその物語性に集中することになる。

一方、モード的作曲法によって作られた曲ではひとつの雰囲気が最初から最後まで続き、その中では特に物語らしい物語が生じないため、その曲の中で時間は流れない。

そのような止まった時間の中に身をおいたリスナーは、おそらく曲を構成する音そのものに意識を集中することになる。

調性音楽では、リスナーはその意識を、音楽の奥に向ける。つまりコードの流れによって、その曲の奥に存在していることが暗示される物語に、リスナーは意識を向ける。

だがモード的音楽では、その音楽の奥には何もない。だからリスナーは音楽の表層、そこにある音そのものに意識を向けざるを得ない。

そのとき、音楽によって指し示される物語(音楽という記号表現によって、その奥に存在していることが暗示される意味内容)を楽しもうとする傾向よりも、音楽を表面的に構成する音そのものを、そのコンテンツの実体として楽しむ傾向が生まれる。

それはいわば音楽の奥に隠されていたイデアの世界が、より表層に引っ張りだされて来るということでもある。

そのとき音楽は、何かの対象を描写したものではなくて、その『何かの対象』そのものになるとも言える。

ただ、そのようにしてリスナーの前に露出された『何かの対象』は言語ー記号によってシンボライズされる前の『物そのもの』なので、何事につけてものごとを象徴化せねばそれを認識できない人間の思考作用にとっては一種の異物となる。つまりそれは理解不能ななんだかよくわからないものになってしまう。

実際、モード的な音楽を聴くと無味乾燥した感じや、人間的情緒が薄い音楽としてそれが感じられることが多い。とっつきにくい音楽であると感じられることが多い。

というわけでこういった局面において大事なのはやはりバランス感覚であったりするのだろう。

日常的な意味性と、なんだかよくわからない超意味性との間のバランスを取る、というような。

あるいは『何か』についての描写としての象徴性と、それ自体が『その何か』であるという実体性の間についてのバランスを取る、というような。

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