なぜドラゴンランスはこんなにも面白いのか? その2

前回の記事ではドラゴンランスの面白さについてパッと思いつくことを箇条書きした。

その際、何をどう書いても面白さの1%も表現することができず絶望した私は、『なぜドラゴンランスはこんなにも面白いのか?』という連続記事の執筆を断念した。

しかし本日になり、またドラゴンランスについて何か書きたい欲求が湧いてきたので、何か書いてみることにする。。。

私が初めて小説を書いたのは、実はこのドラゴンランスの二次創作小説であった。父のワープロ専用機に五行ほど打ち込んだところで執筆は途絶された。その五行で書けたのは、『ソレース』というドラゴンランスの物語の中核たる街に、何か不穏な空気が近づいている気配を、主人公であるハーフエルフのタニスがそこはかとなく感じる、というところまでであった。

小学六年生ぐらいのことだったかな。

当時のワープロは白黒の狭い液晶画面に、わずか数行しか文字を表示できないものだった。また当時の私はタッチタイピングもできず、小説の書き方もよくわからず、しかもドラゴンランスは書き方が重厚で、大量に情景描写がある作風なので、五行書くだけでもやたら時間がかかったのを覚えている。

たぶん今、ドラゴンランスの二次創作を書こうとしても同じぐらいの時間がかかりそうだ。よくあんな作品書けるよなと驚嘆の念を禁じ得ない。

もともとあるダンジョンズ&ドラゴンズというゲームを下敷きにした世界観で、しかもそのゲームのリプレイを元に作品を作っているためか、さらに二人の作者で合作しているためか(マーガレット・ワイスとトレーシー・ヒックマン)、やたら作品世界が重厚で豊かである。

作品内に出てくるキャラクターの隅々にまで血が通っており、そこに実在しているのが感じられる。

また作品内に出てくる小道具の一つ一つにまで豊かなバックボーンがあるのが感じられる。

ドラゴンランス戦記の一巻で出てくる小道具といえば、青水晶の杖と、ミシャカルの円盤である。青水晶の杖はまあよくわかる。その世界から消えたと思われていた癒しの力を持つマジックアイテムであり、癒してよし、殴ってよしの攻守ともに強力な道具だ。

この青水晶の杖を持つ蛮族の族長の娘ゴールドムーンと、主人公であるハーフエルフのタニスおよびその仲間一同が、ソレースの酒場、憩いの我が家亭で出会うことから物語は始まる。

そしていろいろあって、その一行はザク・ツァロスという廃都の奥に眠るというミシャカルの円盤を探す探索の旅に出かける。

そのミシャカルの円盤なるアイテムが、なんだかよくわからないアイテムなのである。

作中で何の役にたったのかよくわからない。確かその円盤には癒しの女神の教義か何かが書いてあるんだったかな。で、その円盤に書かれてある情報を元に、古代の神々の真の癒しの力を再興することができたのだったかな。。。

しかし円盤が実際に用いられるシーンは作中で描かれないため、それが具体的にどう役立ったのかは謎である。

しかしなんだかよくわからないが、なんだか曰くある凄そうなもの、という雰囲気はひしひしと伝わってくる。だいたいミシャカルの円盤を手に入れるのは本当に大変だったのだ。あれはもう全滅必至の旅だった。

全滅ポイントが何度もあった。

冒険最初期の、ソレースからの脱出ミッションである、「クリスタルミア湖でボートに乗って追っ手から逃げるぞ!」というシーンでもレイストリンの魔法がなければ全滅していた。

あのときレイストリンが使った魔法は確かスリープだったと思う。D&Dのシステムでは魔法使いが最初期に覚える魔法だ。だがそのレベル1の魔法の描写が本当にかっこよくて痺れる。

作中ではレベルなどというゲームシステムは完全に隠蔽されており、ものすごく神秘的なわざとして魔法が描かれる。このドラゴンランスの魔法の描かれ方に比べれば、ハリーポッターなどの最近のファンタジー小説の方がはるかにゲーム的な魔法描写である。(どっちが良い悪いという話では無いが)

ゲーム的な魔法描写と非ゲーム的な魔法描写の間には、作品全体に影響を与える深い違いがある。

ゲーム的な魔法描写は、魔法がその世界のシステムに則った日常的なものとして存在しているという描写である。魔法はシステムによってその力を担保されているため、それがそこにあり、効力を発揮することに何の不思議もない。作中人物で魔法の力を知らないものは、魔法の力に驚くかもしれない。しかし読者は作品世界で働いているシステムを理解しているがために、そのシステム内で魔法が働くことに何の不思議も覚えない。

一方、非ゲーム的な魔法描写は、魔法なる事象の魔法性を直接描く。魔法性はシステムというよりも神秘に由来している。作中、レイストリンは幼い頃から魔術を学び、上位魔法の塔でやたらハードな、トラウマ必至のイニシエーションを乗り越え、それなりに魔法が使えるようになった。そういう意味ではやはり何らかの魔法に関するシステムがあって、それに則って本作の魔法は稼働しているのであるが、しかしそのシステム全体がもやっとした不思議な神秘性に包まれているのである。

この、作中で稼働しているシステムがどれだけ読者に明示されるかが、いわゆる『ゲーム小説』と『ファンタジー小説』を分けるひとつのポイントになっているのではないか。(そしてドラゴンランスの読み味は、『ゲーム小説』というよりも『ファンタジー小説』のものである)

システム、つまりその世界の稼働原理が不思議さのベールによって隠蔽されているほどに、その世界がよってたつ基底が薄靄に包まれていることになる。世界の足場が薄靄に包まれているとき、その世界はリアリティを獲得する。なぜなら我々読者が住む世界がよって立つ足場もまた謎のベールに包まれているからである。

そのような謎のベール、薄靄が、ドラゴンランス作品世界全体を覆っており、そこにいるキャラ、アイテムすべてに不思議さと実在感を与えている。だからミシャカルの円盤は私にとってなんだかよくわからないアイテムであり、それでいて今も気になる不思議なものとして私の記憶に残り続けている。

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