わずかに電池が残るスマートフォンの液晶、それが発する弱い光は、まだ小説の最後のページを照らしていた。だが物語はそこで断絶されていた。黒髪の探索者は目的地に辿り着くことができなかった。未読のチラシはもうどこにも残っていなかった。

 やがてスマートフォンの電源が切れ僕は何も見えなくなった。その暗闇の中で僕は満たされない気持ちを抱えたまま、どうすればいいかわからなくなった。

「…………」

 とりあえず読書姿勢を解いて、暗闇の中で仰向けになった。

 隣から、めたとんの吐息が伝わってきた。

 だが、しばらくすると、何も聞こえなくなった。

 誰も隣にいないかのように。

「…………」

 静けさがテントの中を覆っていた。

 僕は暗闇の中で何も考えられず静かにしていた。

「…………」

 やがてふいに暗闇から声が上がった。

「私が話を考えてあげるよ」

「……話? 何の?」

「続きの話。私が続きの話を、考えてあげるよ」

 昔々……じゃないよね。

 今現在、あるところに、とある機械があるよ。

 そう、めたとんはすみやかに語りだした。

 まずめたとんは、これまでの復習をする教師のような語り口で、闇の迷宮の成り立ちから、その奥にある機械の役割まで、全体を俯瞰する客観的な話を僕に伝えた。

 それから、闇の機械として生きる黒髪探索者の主観的な体験を語った。闇の機械の朝は早い。今日も多くの人々から、多くのエネルギーを吸い取らなければならないからだ。機械は迷宮の底から幾億本ものコードを伸ばし、人の心にそれをこっそり送り込み、差し込む。そして機械は人の心のエネルギーを吸い上げ、闇の迷宮を増築するための燃料とするのである。

 その機械のコードは、今まさに僕とめたとんに向かって伸びて来ていて、それは今まさに、めたとんの心に、そして僕の心に、深く突き刺さっていると言う。

 さらにそれらの物語と並行して、めたとんは闇の迷宮と、その中にある各施設の大きさや位置関係を説明した。

 闇の迷宮の各部屋、各施設はネットワーク状に連結されている。そのいずれかの部屋に視点を近づければ、その部屋は宇宙より巨大になるし、視点を遠ざければゴマ粒のように小さくなる。

「よくわからないな。大きさも全体像も、まったくイメージできない」

「じゃあ、ふみひろの体を使って説明してみるね。そしたらわかるよ、闇の迷宮の大きさと形。それは、ここから……」めたとんは僕の頭のてっぺんを指で触り、それから僕の足の裏に、自分のつま先で触れた。

「……ここまでだよ。ふみひろの頭から足まで。これが闇の迷宮の全体の大きさだとするよ。そうすると、闇の機械はこのぐらいの大きさで、このあたりにあるよ」

 めたとんは僕の下腹部に手を載せた。手のひらの熱が体の奥に伝わってきた。

「そして、ふみひろの体の細胞それぞれが、闇の迷宮のひとつの部屋だよ。ひとつの部屋にはひとつの物語が入っているよ。そのどこかには邪神の物語もあれば、双子の物語もあるよ」

 この暗闇の中では視覚が働かない代わりに、体の感覚と想像力が普段よりも増幅されていた。僕は自分の体の中に、闇の迷宮と、闇の機械をありありとイメージすることができた。

「さあ、これから探索者の旅を、始まりからずっと辿っていくよ」

 めたとんは僕の左手の薬指、その先端に触れた。

「ここが出発地点。ここから探索者が出発したとして、どんどん迷宮の奥の方へと旅していくよ。それを自分の体で感じてね」

 めたとんは僕の左手の薬指から前腕、そして二の腕へと、仮想の旅路を指先でなぞっていった。めたとんになぞられたラインが感覚の中で道となり、そこを旅する探索者の足取りが心に浮かんだ。

 不思議なことに、未沙の小説に書かれていない場面までもが心に浮かんだ。

 幼稚園の隅でお遊戯に混ざらず体育座りしている小さい探索者がいる。別の場面では、教室で黒縁メガネをかけて一生懸命に黒板をノートに書き写している探索者がいる。

「このまま左から右に突き進むよ」

 めたとんは僕の左の肩から右の肩、そして右の二の腕、右の前腕へと指を滑らせていった。くすぐったいような気持ちいいようなゾワゾワする感覚とともに、探索者の旅路を僕は観た。

 どこかの部室で頬を紅潮させている探索者がいる。床には体育マットが敷かれており、その上に下着が無造作に脱ぎ捨てられている。そこでめたとんの指は僕の右手の薬指に辿り着いた。

「そしてまた右から左に戻っていって、今度は上の方に行くよ」

 右の前腕、二の腕、肩と戻ってきためたとんの指は、僕の首筋から、右耳の後ろを経由して、頭のてっぺんに昇っていった。

 それにともない、暗い車道の脇で暖かな光を発しているファミリーレストランや、その近くの海辺の、夜の静かな潮騒が心の中に浮かんでは消えていった。その景色の中を半透明の探索者が歩いて行く。

 めたとんの指は僕の頭のてっぺんから、左の耳の後ろを通り、再び首筋まで降りて来ると、そこから鎖骨の中央を通っていった。そしてそこから彼女の指は、右に左に蛇行しながら、ゆったりとした下降を始めた。その下り坂を半透明の探索者が歩いて行く。

 旅を続ける探索者はには、よく見ると、どこかから伸びている透明なコードが突き刺さっていた。そのコードに引き寄せられるように探索者は、長く蛇行する道を歩いて行った。めたとんの指は僕の肋骨の上を、右に左になぞっていった。

 そして探索者は道の突き当たりにある古い旅館へと吸い込まれていった。めたとんの指は僕の鳩尾を通り過ぎ、さらに下の方、下の方へと螺旋を描いて降りていった。そして探索者はいくつもの闇の物語を経由したのち、闇の迷宮の奥深くにある機械室に至った。めたとんは僕の下腹部に手のひらを乗せた。それはさきほどよりもずっと熱い。

「めたとん」

 僕はその手に自分の手を重ねた。

「なに? ここが機械だし」

 めたとんは手を引っ込めると、小説の登場人物のような口調で言った。

「私は機械だから、あなたからエネルギーを吸い取っちゃうし」

 僕は明るいものはすべて無くなった、何も見えない暗闇の中に声をかけた。小説に書かれていた探索者の昔の名前を思い出しつつ。

「機械……探索者……耶麻川なのか?」

「私は機械だし。あなたは誰だし?」

「ふみひろだよ。ここは公園のテント」

「ふみひろ? テント? わからないし。私は機械だから、人からエネルギーを吸い取るだけだし。……どうやって人からエネルギーを吸い取るか、あなた、わかりますか?」

 瞬間、僕の中にさまざまな性的なイメージが渦巻いた。それは心の中で発火するように瞬いた。

 そして暗闇からの声は途切れ、またかすかな吐息だけが、何も見えない空間から響いてきた。空気が彼女の胸に滑らかに出入りする音がとても近くから聞こえてきた。

 浅い息遣いと興奮に溶けるような時間と空間の中、僕は体を起こし、彼女がいる方向に近づいていった。床に手をつき、膝を前に出すたび、空気の温度と湿度が少しずつ暑く濃くなっていった。

 そして暗闇の中で僕の手が何か温かいものに触れた。それが彼女の肉体のどの部分かはわからなかった。柔らかく汗ばんでいて、しなやかで柔らかな何かと僕は触れ合っていた。接触している部分はやがて拡大していき、お互いのパーツが強く絡まり始めた。もう僕の欲望が涼やかなものに昇華されることはなかった。それは熱くたぎり続けた。なぜならこれは耶麻川だから。

 耶麻川。

 その体をまさぐりながら僕は気づいた。

 これは、本当に、機械と化した耶麻川なのか。

 今、奥を見通すことができない影のような、複雑な構造体が僕の腕の中にあった。何も考えられない興奮の中、僕は自分の一番の欲望を探った。

 そうだ、僕は自分が一番したいことを彼女にする。

 一番したいこと、それは一体なんだろう。

 頭がおかしくなる興奮の中、興奮で震える手で自動的に進んでいく性行為の進行の最中、僕はずっと昔、誰かにしてもらったことを思い出した。

 貪るように求めあっていた唇をふと離し、唇ではなくて、額に額を僕はぶつけた。

 ごつんと音がした。

「い、痛いし……」

「ごめんよ」

「なにさ。変だし」

「変かな」

 わからないけど……僕は心の中で、光をともした。

 光?

 それが何かはわからない。なぜ今それが必要なのかもわからない。ただ光、それは、優しい光だ。なぜそれがここにあるのかはわからない。だがそれは僕の中で輝いている。小さく、心細く、でも消えずに。

 僕は今、目を閉じているのか開けているのかわからなかった。だからこの光は僕の心の中、想像の中で輝いているのかもしれない。それとも、もしかしたら、今ここ、目の前で、光が輝いているのかもしれない。見えるだろうか。この光が。

 僕は腕の中の存在に光を伝えようとした。その存在のあらゆる部分に光を送り、伝え、暖めようとした。

 機械の隅々、記号の隅々、裏と表に揺れるさまざまなイメージ、感覚と感情とすべての記憶と想いの中に、沢山光を伝えようとした。

 するとさまざまな場所で僕がいくつも受け取ってきた、沢山の光の記憶が蘇り、それは僕の中にある心細い光に溶け合って混ざり合い、やがて奔流のように僕の腕の中の存在に流れ込んでいった。

 駅前で輝いていた未来的な街の灯りが、そして東西南北から響き続ける音楽の記憶が立体的に蘇り、僕たちを守るよう四方を取り囲んだ。

 そして息を吸うごとに空間に光が凝縮し、息を吐くごとにそれが心の内と外に溢れ出し始めた。溢れ出す光は透明なきれいな花のようにどこまでも開き続け、僕たちを包み、癒やしていった。

 そしてそれは耶麻川が歩いた道のりのすべてに光のラインを描いて流れ込み、そこに優しさを広げていった。

 そしてテントの外、木の枝の遥か上方の高みからは、無数の星の光が降り注いでいた。

 それらの光は僕たちの体の細胞の隅々、心の部屋の隅々、その中にあるいくつもの物語の隅々に流れ込んでいった。そして光は闇の迷宮の奥深くに届き、そこを包んだ。機械は光に満たされ、光は迷宮の隅々へと静かな波のように広がっていった。その優しく暖かな光の波に洗われ、僕たちはお互いにつかまりながら、大きな陶酔の中へといつまでも我を忘れて広がっていった。