そして『双子と秘密の書』と題された短編は終わった。一息つこうと体を起こしかけたところで、僕は自分と同サイズの哺乳類に真横から襲われ、体をひっくり返された。唐突にめたとんが僕に抱きついてきたのだ。

「はあ、はあ」

 めたとんはしばらく僕の上で荒い息を吐いていたが、まもなく何事もなかったかのようにもとのポジションに戻っていった。

「…………」

 小説に意識が奪われていたため、僕は今の出来事を他人事のようにスルーした。

 数秒のディレイのあとでめたとんを抱きしめたいという欲求が生じた。さきほどのめたとんも、そのような衝動に駆られ、僕に抱きついてきたのかもしれない。

「…………」

 今めたとんは僕の隣でうつ伏せになり、小説の次の章に目を向けていた。

 僕はめたとんの背中にそっと手を載せた。

「なに?」

「寒くないかなと思って」

「……寒くないよ」

 めたとんの腰はうっすら汗ばみ、呼吸に合わせて滑らかに上下している。

 異様な雰囲気の短編小説を立て続けにふたつ読んだためか、テント内の湿度が上がったように感じる。

 明日、学校に行ったら未沙を探して聞こう。何を思ってこんな小説を書いたのか、と。

 だが本当にこの夜は明けるのか。時間は流れているのか。そして自分の内側から湧き上がるものをどうすればいいのだろう。

 僕はめたとんの背中に乗せた手をわずかに動かそうとした。そのときだった。

「疲れたよね。少し休む?」

 僕が答えるより早く、めたとんは横を向き、腕の中に僕を引き込んだ。振動でテントの壁に立てかけていたスマートフォンが倒れ、テント内は真っ暗になった。

 何も見えない暗闇の中、僕はめたとんに触れた。手のひらが温かく柔らかいものに触れたところで、彼女と目が合った。一切の光のないテントの中でなぜかそれがわかった。

 そしてめたとんはゆっくりと深呼吸した。テント上部の吸気口から流れ込む夜の空気が、めたとんの胸に流れ混んでいくのが手のひらを通じて感じられた。催眠術にかけられたように、僕もただ息を吸い、そして吐いていた。

 触れ合った足や、手や、交差している視線を通じて、僕を突き動かそうとしていた苦しさが、彼女に流し込まれていった。そしてそのお返しであるかのように、彼女から僕へと、深いくつろぎと満足感が送り込まれ、それは僕の中に満ちていった。

 その優しい感覚は、さきほど読んだ小説の記憶の中にまで広がっていった。抜け出せない苦しみ、堕ちていく深い暗闇、そんなものの隅々にまで、柔らかな安らかさが春風のように広がっていった。

 すべて暗闇の中での出来事であり、何もかも錯覚かもしれない。

 わからない。自分の目が閉じているのか、開いているのかも。

「…………」

 だが、めたとんの温かみに包まれ、数秒か、数分か、しばらく眠ってしまったそのあとに、僕はかつてない心のクリアさと共に目が覚めた。

「……あれ? 僕は寝てたのか……」

 テントの中の雰囲気は心なしか爽やかになっていた。

「ふふ。疲れは取れた?」

 まだ何も見えない暗闇のすぐ近くからめたとんの声が聞こえた。

「うん……元気になった気がする」

「この小説、面白いけど、少し疲れるよね。休みやすみ読んでいこうよ」

「そうだな」

 僕は手を伸ばしてスマートフォンをまたテントの側面に立てかけた。液晶が発するかすかな光がテント内を照らしたところで、めたとんは僕から体を離し、またクルッとうつ伏せになって読書姿勢になった。

「次はふみひろがページをめくってくれる?」

「いいよ」

 僕は片手に顎を乗せると、空いた手でページをめくっていった。

 めたとんの読書スピードに合わせられるか不安だったが、肩をくっつけてひとつの小説を読み進めるうちに、めたとんがどの行を読んでいるのか、なんとなくわかる気がしてきた。

 だが人間に読書同期機能などあっただろうか? 触れ合っている肩を通して、互いの神経が結びついているとでも?

 あるいは互いの脳神経が発するパルスが量子力学的な何かの作用によって絡み合い、隣にいる人の心と、僕の心をひとつに結びつけているとでも? 心をひとつにするテレパシー、そんなものが存在しているのか。

 僕には何が正しい現実なのかわからない。またこの気持ちを本当に隣にいる人と共有できているのかもわからない。

 でももし本当に誰かと気持ちを共有できるなら、どんな暗闇の中でも、誰も寂しいことはない。なぜなら誰もが繋がっているからだ。でもそれは錯覚かもしれず、それを思うと怖くなる。なぜならもし心に壁があるのなら、誰もがこの宇宙で孤独だからだ。

「…………」

 僕が少し肩を縮めたそのとき、めたとんは僕の背中に手を伸ばし、ぽんぽんと、優しくそこを叩いた。

 優しい励ますようなその振動にうながされ、僕は行から行、ページからページへと意識を新たに送り込み続けた。そこで体験する闇の迷宮の物語をめたとんと共有しながら。

 短編小説は何編も縦に重ねられ、黒髪の探索者は我を忘れながら、より深い重さの中に、螺旋を描いて墜ちていく。描かれるテーマは支配・被支配、加虐・被虐、そのようなものだ。

 それに付け加え全編に性的なフィーリングが濃く漂っている。何編か読むごとに、その性的なフィーリングに影響を受けたのか、めたとんが大型の哺乳類のように僕にのしかかってくる。

 そしてめたとんは数秒間、かつて僕が見たことのない、興奮で僕の頭がおかしくなるような、強く誘惑的な動きを僕の上で見せる。

 だがしばらくすると日常性を取り戻すスイッチが入ったように僕から離れ、何事もなかったように読書に戻ろうとする。

 その様子はまさにスイッチが切り替わるようなものであり、各モードの間に非連続的なギャップがあるのが感じられた。もしかしたら本当に、脳の回路がどこか繋がっていないのかもしれない。

 だがめたとんのようにスイッチが切り替わるわけではない僕は、自分の中に留めておくのが難しい強い衝動にそのつど飲まれる。

 だがそれをめたとんに物理的に向けようとするたびに、その欲望は、何か不思議な作用によって、ほぼ非物理的にめたとんに吸収されてしまう。そしてめたとんから返ってくる謎めいた満足感とくつろぎによって、僕は身も心も満たされ、落ち着いてまたページをめくる。

「…………」

 めたとんは僕の隣でうつ伏せになり、曲げた足を空中で揺らしながら、暗闇の中に、強く暖かなものを発し続けていた。

 そして僕はより深く没入していった。暗く淀んだ物語と、温かな人肌との接触が折り重なる、光と闇、渇望と充足のサンドイッチのような時間の中へと。

 だんだん未読のチラシの束は薄くなっていった。それに伴って黒髪の探索者はいくつもの罠に飲まれ、ほぼ完全に正気を失いながらも、それでも闇の迷宮を前進していった。壁の絵に、図書館の本に、劇場のフィルムに、意識を飲み込まれるそのたびに探索者の姿は薄く透明になってゆく。

「でも絶対に闇の魔術師のところに私はたどり着くし! 絶対に!」

 そう足を引きずって探索者は前進していく、それは何のためなのか。

 最後のページに答えがあるはずだ。僕はチラシをめくる手を早めた。

 探索者は螺旋階段を下へ下へと降りていった。螺旋階段の最下部には『機械室』というプレートが貼り付けられた鋼鉄製のドアがあった。

 探索者は透明な手を錆びたドアノブにかけようとしたが、ふとためらって自分の手のひらを眺めた。

 この透明な手で物をつかむことができるかどうか確信が持てない。もし手がドアノブをすり抜けてしまったら、自分はもうまともに存在していない幽霊ではないか。

 だがその怯えは遮られた。

 気づくと、目の前の鋼鉄のドアに、ちょうど探索者が通れるだけの隙間が空いていた。

「…………」

 光を吸い込むその隙間は最初から開いていたのかもしれず、あるいは探索者が瞬きした瞬間、非連続的な挙動で開いたのかもしれない。

 どちらにせよ探索者はその隙間へと自分の体を送り込むしかなかった。

 今降りてきた螺旋階段を見上げると、遥か天上の彼方に、光が差し込む針の穴のような点が見える。だがそこまで戻る気力はない。また、この隙間の奥の暗闇に、自分の旅の目的地があることを探索者は直感していた。

 暗いスリットに自らを滑り込ませていくその最中、探索者の脳裏には、エンジンのような複雑な機械に流し込まれていく燃料のヴィジョンが映っていた。その燃料がすなわち自分であると気づいたときには、背後で扉は閉じ、そもそも扉などなかったかのような暗闇が探索者を包んでいた。

 やがて暗闇に目が慣れた探索者は、機械室の中で静かに稼働を続ける巨大機械を見た。それは歯車と無数のチューブとコードによって構成されている複雑極まりない機械で、探索者が見ている前で目まぐるしく形を変えていく。だから探索者はそれを正しく認識することができない。一呼吸ごとに複雑化していく機械の機構を見つめるほどに意識は朦朧としていく。

 やがて機械室の中に張り巡らされた無数のパイプから、むせ返る熱さの蒸気が吹き出し、探索者の顔や体に浴びせかけられた。その蒸気を含んだ空気は酸素濃度が低いのか、それとも何か特殊な成分が含まれているのか、探索者はより一層、自分の意識の明晰性が低下していくことを感じた。

 そして今、探索者は機械を自分の中に招き入れつつあった。もしかしたらこの機械と一体化するために、私はこんな遠いところまでやってきたのかもしれない。

 束の間、そう思って、機械の中でうっとりと目を閉じるほどに。

 その探索者の受け入れ体勢を察したのか、機械の、伸縮性を持つ動力管が数十本、四方から伸びてきて探索者の足元にまとわりついた。その生温い感覚が探索者の緊張を和らげていく。

 払いのけることもできるはずだが、鈍い色をしたその管が自分の足指に絡まるのを黙って見ていた。

 やがて数十本の動力管は足の指先から体内へと痛みなく滑らかに差し込まれ、ふくらはぎからひざ、そしてふとももへと、毛細血管よりも細かな網の目に枝分かれしながら探索者の体内を上昇していった。そして動力管は探索者の心のあらゆる部分と絡み合った。

 いつしか探索者は機械そのものになっていた。最初は戸惑った探索者だったが、まもなく機械としての業務を開始した。

 日夜、目に見えない数億のコードを迷宮に覆われた世界の隅々へと送り込む。そして人々の心にこっそりとその触手のようなコードを差し込み、人々からエネルギーを吸い上げる。それは気持ち良く、やりがいの感じられる仕事だった。

 こうして探索者は機械の中に沈没した。僕はチラシをめくろうとした。だが次のページはもう無かった。