光と闇の戦いが続いていた。

 その戦いの一方の主役は闇の魔術師だ。闇の迷宮の中心にある、冷たい玉座に座るその者は、あまりにも長い光からの逃走の果てに、意識が朦朧としていた。

「私、なぜここにいるかわからないし。ここは一体、どこなんだし?」

 迷宮中央部、氷の渦の中心にある孤独な玉座で、しばらく頭を捻って考えていると、ぼんやりとだが思い出すことができた。

 そうそう。

 私が生まれたのは、大昔のこと。ここではない遥か高みにあるあの天上でのこと。天上で生まれた私は、天の秘宝を盗んで逃げてきたのだ、この地の底へと。そんな私を光の使者、探索者たちが追いかけてくる。だから逃げないと。もっと暗い、深い深い地の底、闇の奥へと。

 そんなところへ逃げてゆくのは、決して私の本意ではない。

 なのに四方八方から、忌々しい探索者たちが、私の城へと無慈悲に侵入しつつある。探索者たちは闇の城を光で照らす。光に照らされたものは、もう闇ではない、何か別のものに変わってしまう。

「…………」

 そのように、いずれ変わってしまうものは、本当に存在しているといえるのか。

 そもそも私は、最初からどこにも存在していないのでは。

「…………」

 闇の属性たる朦朧とした曖昧思考で、闇の魔術師はそう考えて、不安になる。その悩み顔は薄靄に包まれており、角度によって、さまざまな人物の顔に見える。

 それは、魔術師が、この界隈一体を支配していることや、この界隈に存在するすべての意識存在を、この迷宮内から人知れずコントロールしていることに起因しているのかもしれない。

 そのあたりの事情は『迷宮攻略の手引書』にも以下のように説明されている。

『魔術師は、この領域で生きるすべての者の心の奥底にいて、あなたを見えない場所から支配しています。つまり、魔術師は、あなたの一部分と考えることができます。

 そのため、あなたから見た魔術師の顔は、常にあなたと同じ顔をしていて、だから魔術師は百億の顔を持つと言われています。

 いつかあなたが迷宮の最奥に辿りついたなら、あなたは自分自身をそこに発見するでしょう』

 このような迷宮攻略のためのマニュアルが探索者に配布されているという事実は、すでに魔術師が研究され、攻略の対象と化していることを意味していた。

「このままだと光に包囲されて負けてしまうにゃ……」

 不安になるたび魔術師は、無限の魔力がこもった秘宝を握りしめるのだった。

 この暗い、冷え込む闇の底では、はるか昔、天上から盗んできたこの秘密の宝だけが、魔術師を慰めてくれる。

 これだけが、わずかな熱と、強い力を今も魔術師に与えてくれる。

 力。

 そう力!

 それは創造の力だ!

 これがある限り負けはしない。

 たとえ神様にだって、勝てなくたって、負けはしない!

 これまでもこの闇の底で、無限の力を使って、幾千もの探索者を凍りつかせてきたのだ。だからこれからも負けはしない。絶対に。

「こうなったらもっと、もっと深くまで迷宮を作るぞ!」

 こうして今日も魔術師は、自分を見失いながら、闇の塊である自分のことを守るため、秘密の宝から闇の魔法を紡ぎ出すのであった。

 その自らの意図を秘宝に伝えた瞬間、瞬く間に何万行にも及ぶ、ねじ曲がった暗い物語として知覚される闇の質料が無より生じた。

 魔術師はその質料を使い、光の侵入を拒むための地下迷宮を、より深い闇の奥へと増築していった。

 光によって、闇の存在たる自分のことを、跡形もなく溶かされてしまうことのないように。光から自分の存在を守るために。

「……ふふ。もっともっと、奥の奥まで堕ちていくよ」

 その心意気とともに、玉座のある氷の渦の中心が、大渦巻のように下向きの螺旋を描いて、より深い奈落へと落ちていく。その沈降によって生じたスペースに、新たな闇の迷宮が増築されていく。

 迷宮はこのように常に深く進化し続け、そのために探索者は、なかなか魔術師の元にまでたどり着くことができない。このように、今も現在進行形で下方へと増築中なのが、闇の迷宮なのである。

 それは魔術師の要塞であり、貫き通すことが難しい、厚く重い壁に守られた城であり、上方と下方を貫く蛇行し屈折した塔であり、地下迷宮でもある闇のラビリンスだ。

 より深い奈落へと身を投げ、光の届かない深みへと逃げていくごとに、魔術師の意識はより濃い闇に包まれて、朦朧となる。

 濃霧のような心の中で魔術師は夢を見る。

 自分で紡いだ厚い毛布に包まれて眠る夜の、息苦しい悪夢を。

 闇の迷宮を、黒髪の探索者が歩いている。

「まったく、どこもかしこもトラップだらけだし」

 長く複雑な迷宮の回廊には、いたるところ無数の罠が仕掛けられている。

 今、黒髪の探索者が歩いている回廊の壁面には、立派な額縁をかけられた絵画が掲示されている。黒髪の探索者は横目でチラチラとその絵画を眺め、吐き捨てる。

「綺麗だけど、ぜんぶ罠だし!」

 壁の絵画たちは、迷宮を構成する質料、すなわち闇の物語が、結晶のように凝縮されたものである。長時間、それを見つめていると意識を飲み込まれてしまう。

「こんなもの、私がひっかかるわけないし」

 黒髪の探索者はきっと歯を食いしばり、名残惜しさを振り切って、すたすたと迷宮を前進していく。

 するとあるとき、薄暗い回廊の奥に、他の探索者の姿が見えた。

 等身大の観賞用人形のように硬直している。

 絵画に意識を飲み込まれたのだ。

「罠に沈没するだなんて、おろかだし。ああはなりたくないものだし」

 黒髪の探索者はひとりごとを呟きながら、前方で凍りついている探索者へと近づいていった。人影はだんだん大きくなり、やがて細部が見えてきた。

「ふーん。猫人間とは珍しいし」

 凍りついている探索者の頭には猫耳が生えており、尾てい骨のあたりからは尻尾が伸びていた。しかし意識が絵画に吸い取られているためか、その姿は薄く半透明だった。

 黒髪の探索者は、救助したいという欲望を振り切るために、批判的な言葉を唱えながら、前進した。

「意識を常に目的に集中していないから、そんな脇道に捕らわれてしまうんだし。私だったらどんな罠にかかっても、必ず抜け出してみせるし」

 さらに歩を前に進め、猫耳探索者の冷え切った姿が近づいて大きくなってくるにつれて、手を伸ばして助けてあげたい気持ちが強くなる。だがそれはできないのだ。

 黒髪探索者の心の奥にずっと昔からしまわれていた『迷宮攻略の手引書』には、迷宮の罠について以下のような記述がある。

『迷宮に所狭しと飾られている、あの額縁に縁取られたいくつもの絵画たちは、意味深く感じられる物語を探索者に提示しますが、それらに深い意味は何もなく、ただ時間の引き伸ばしを目的としています。

 その物語に意識を惹きつけられた探索者たちは、探検の足を止めて、手にしたランプの暖かな光で絵画を照らすかもしれません。

 しかし絵画に描かれた複雑な物語は、探索者の放つ心の光を、照り返すことなく、ただ冷たく吸収します。

 ひとつの物語を覗き込むだけであれば、いずれそこから意識を引き剥がし、自分を取り戻すことができるかもしれません。ですが、ふたつ、みっつと物語を覗き込むごとに、探索者の正気は失われ、いずれ探索者はどこかの物語に沈没します。そして探索者は意識を絵画に吸い取られたまま、心の熱を失って、その場で凍りついてしまうのです。

 しかしそんな人たちを助けることはできません。熱を失った者に手を伸ばせば、あなたまでもがその罠に飲み込まれ、大切な心の熱を失って、その場で凍りついてしまうでしょうから。そうならないよう、どうか気をつけて』

 罠にかかり、氷の彫像と化した探索者を、黒髪探索者はこれまで幾人も見てきた。

 回廊の曲がり角で、直進通路で、階段の踊り場で、罠にかけられた探索者たちは、時が止まったように凍りついていた。そして今、猫耳探索者が、手を伸ばせば届くところで固まっている。

 猫耳探索者の尻尾とすれ違う間際、黒髪の探索者は呟いた。

「助けられなくて、ごめんだし……」

 猫耳探索者の半透明の猫耳と尻尾には、埃が厚く積もっていた。

 長いまつ毛に縁取られた、縦長の瞳孔を持つ琥珀色の瞳は、現代的な意匠の額縁に縁取られた絵画を凝視していた。

 猫耳探索者が瞳を微塵も動かさず見つめ続けているその絵に描かれているのは、『学校』と『教室』と、『不安』と『焦燥』だった。

 絵画の中、夕日の差し込む教室にひとりの少女がいる。彼女は自分の理想を表現できないことに苛立って、手にした鉛筆をへし折っている。

 懐かしい雰囲気を感じ、黒髪探索者はその絵に意識を没入させかける。

 だが闇の迷宮、その回廊には、黒髪探索者がさきほど発した「ごめんだし」という声が木霊している。

 我に返った黒髪探索者は意識を回廊の前方、薄暗くて何も見えないその奥に向けた。

 ここを最後まで歩いていかねばならない。

 一番奥のその奥にまで。

 だが真横をすれ違うとき猫人間探索者の尻尾が黒髪探索者の指先に触れた。それは毛先まで驚くほど冷たい。

「…………!」

 死体に触れたような感覚に背筋を泡立たせ、その感覚にひとつ正気を失いながらも、まだ残る心の熱に駆り立てられ、黒髪探索者は、より心の凍える迷宮の深みへとその身を躍らせていく。すでに肉体を失い、なかば目的を見失い、迷宮の踏破を実は心のどこかで諦めながらも。前方で待つ罠に心ひかれ、それが放つ闇の引力に抵抗する力を一歩ごとに失いながらも。

 彼女は自分の名前を忘れている。

 だがかつて別の世界では耶麻川みなみと呼ばれていたこともあった。

『耶麻川みなみと呼ばれていたこともあった』という文章で、チラシの裏の小説は一段落した。

 僕は朦朧とした意識で、自分が今どこで何をしているのか思い出そうとした。

 そう。未沙が書いた小説が床に散らばり、スマートフォンのフラッシュがその小説を一瞬照らし、文の一節を目にしためたとんがそれを読み上げたのだった。

「私、なぜここにいるかわからないし。ここは一体、どこなんだし?」

 フラッシュが消え、完全な暗闇と化したテントの中、僕は声がした方に手を伸ばした。瞬間、暗闇の中から伸びてきためたとんの手に掴まれ、僕は床の上に引き込まれた。

 上下の感覚が消えた。何も見えない無重力空間に投げ出されたかのようだった。

 だがしばらくすると、肌に触れるものの感触によって、僕は自分の位置や姿勢を理解した。

 床は柔らかく、その奥に植物の存在が感じられた。さらにその奥に厚く固い地面が感じられた。

 僕はテントの天井に吊り下げられているはずの携帯ランプを点けようとして、体を起こしかけた。だがまた暗闇の中から伸びてきた手に掴まれ、平面上に引き戻された。

「いいよ、このままで」

「暗闇、怖いんじゃないのか?」

「明るいと恥ずかしいよ。私、下着姿だから」

 だがしばらくすると、すぐ隣から浅く早い呼吸音が聞こえてきた。やはり暗闇は怖いのか。このままでは過呼吸になるのではないか。

「大丈夫か?」

「はあはあ。暗いの、慣れてないみたい。こんな気分、初めてだから、どうしたらいいかわからないよ」

 怖さと恥ずかしさの板挟みになっているようだ。

 僕は手探りでスマートフォンを探して電源を入れ、節電機能をオフにしてからテントの側面に立てかけた。

 液晶がうっすらと輝き、互いの顔や手元が見える程度の弱い光が生じていた。

「これなら恥ずかしくないだろ」

「うん。でも、ほとんど何も見えないから、まだ怖いよ……」

 確かに、目に見えるものと言えば、お互いの横顔の輪郭と、顔の前の床に広がるチラシの裏の文字列ぐらいだ。

 僕は何気なくその文字列に顔を向けた。

 めたとんもうつ伏せになり、チラシの裏に顔を近づけた。

 床にうつ伏せになっている二人の顔の、ちょうど目の前に小説があった。

「…………」

 僕らは床に頬杖をついて、どちらともなく小説を読み始めた。

 まもなくめたとんの、はあはあという浅い息遣いは、長く深いものに変わっていった。

 ちょうど僕がチラシ一枚分の小説を読み終えたところで、めたとんがかすかな声を発した。それは二人の意識が小説からテント内へと完全に戻らない程度のささやき声だった。

「ページ、めくっていい?」

 僕はうなずいた。

 その後も、僕が小説を一枚読み終えたところで、めたとんは手を伸ばしてチラシをめくった。

 ふとチラシの表にプリントされた、色鮮やかな広告が目に入る。電化製品の鮮やかなロゴ、それは一瞬、僕の意識を引きつけたが、すぐに裏返され、読了済みの小説の束に重ねられていった。そしてまた僕らは新たなページに意識を向ける。

「…………」

 液晶の弱い光が届く範囲はとても狭く、小説を読むためには顔を十分紙に近づけなければならない。

 あるとき、めたとんと肩が触れ合った。

 少し距離を取って隙間を空けた。だがすぐ小説に引き込まれ原稿に顔が近づいていく。そしてまためたとんと体が触れ合う。

 触れ合ったところが気持ちいい。その感覚に怯えるのをやめ、それを吸収しよう。肩を触れ合わせながら小説を読んでいく。

 テント内にある僕の体は、隣にいる人の肌の温かさを感じ、一方で僕の意識は小説内をさまよった。僕はふたつの世界を同時に生きた。

 小説内では主人公の黒髪探索者が闇の迷宮内を駆けずり回っていた。回廊から回廊へ、いくつもの罠から罠へ。

 その小説の中心には、一本の回廊が通っていた。そして、その回廊の壁には、いくつもの絵画が飾られていた。その絵画のひとつひとつが、別の世界、別の物語への入り口だった。

 未沙が書いた小説、それは『闇の迷宮』というメインストーリーによって数珠つなぎにされた、いくつもの短編小説の集合体なのだ。

 とある短編小説はとても短くチラシ半分で終わり、別の短編小説はチラシ十枚分もあった。

 迷宮の回廊を歩く黒髪探索者は、ときどき壁の絵に強く興味をひかれ、ついにその前で立ち止まり、そこに描かれている物語に意識を没入させてしまう。そのとき新たな短編小説が始まり、探索者はその物語を体験する。

 そしてだいたいいつもひどい目に遭う。

 そのひどい物語から、なんとか意識を引き剥がし、意識のコントロール権を自分自身に取り戻すことができたとき、黒髪の主人公は回廊で正気に戻り、探索者としての自分を回復する。

 だがまた闇の迷宮をしばらく歩くと、黒髪探索者はまた罠にかかり、壁にかかっている絵画に意識を奪われる。そして始まる新たな短編小説の中で、ひどい体験を味わうのである。

「次の話で、探索者さんは邪神の生贄に捧げられちゃうみたい。かわいそう……」とめたとん。

 僕は意識を小説に意識を戻した。

 闇の迷宮の回廊の奥に大ホールがあり、そのアーチ型の入り口には『VF3585』という記号が書かれたプラスチックの板が埋め込まれている。

 探索者はそのアーチをくぐると、左の壁面を見上げた。そこには高い天井まで届く、大きな洋画が飾られていた。

 赤と青と黒の絵の具が多用された宇宙的スケールの絵が、地獄の門を思わせる彫刻に縁取られ飾られている。

 その絵の前には、金色の垂れたロープのパーティションが置かれている。ここで立ち止まって鑑賞するよう、探索者の意識を静かに誘導しているようだ。

 そのパーティションが作り出す美術館めいた雰囲気に安心感を覚えたのかもしれない。探索者は半透明の体をふらふらと絵画に近づけると、無防備な心を開いた。

 赤や黒の色とともに探索者の心に流れ込んでくるその絵のモチーフは、夜の廃校や宇宙やセーラー服だ。郷愁とともに探索者の意識は『邪神と私』という表題が与えられているその絵に速やかに没入していった。