アリスは高台の上の方に、僕とめたとんは下の方に向かった。

 丸めて尻ポケットに入れたチラシの束が、やけに重く感じられる。その重みを感じながら、高台を降り、街灯がまばらに灯る歩道を無目的に歩く。

 隣にはまだめたとんがいる。

「このあとどうするの? 帰るところは?」

「あるよ、もちろん。家ぐらいね」

「その家はよその家だったじゃないか」

「人間だもの、家を間違えることぐらい、あるよ」

「無いよ、普通は……今晩、本当に泊まるところがあるの?」

「う、うん。あるよ」もとから少し焦点が合っていないところがある目が、さらに虚ろになった。

「どこにだよ」

「あ、あっちの方……だよ」めたとんは視線を斜め上に泳がせた。

「じゃあ、そこまで送っていってやるから見せてみろよ」

「いいよ。恥ずかしいよ……」

「遠慮するなって」

「い、いいよ! もう、さよならっ!」めたとんは急に夜道を駈け出した。

「えっ……?」

 鞄の中で弁当箱等の金属物がぶつかる音を立てながら、めたとんは住宅街を走り去っていく。僕はその背中が角を曲がって消え去るのを呆然と見送った。

 カランカランという金属音が、しばらくのあいだ民家の塀に反射して僕の耳に伝わって来た。それもまもなく聴こえなくなった。

「…………」

 もしかしてあの人、本当に今晩、泊まる所が無いんじゃないか……だとしたら僕の家にでも泊まった方がいいんじゃないか……そんな内なるお節介さが目覚めつつあるのを感じた。

 だがすでにとき遅し。

 こんな暗い夜にはぐれてしまったら、もう二度と会えない。

 そ、そんな。

 会いたい……もう一度……。

 だがそのためには、めたとんが、どこに走り去っていったのかを探知しなければならない。

「…………」

 僕は音の反響の記憶を頼りに、めたとんが向かった方向を突き止めようとした。イルカはソナー機能を持っている。同じ哺乳類なら僕にもできるはずだ。

 僕は目を閉じ、弁当箱が立てるカランカランという金属音が向かった先を、心の地図にマッピングした。その空想の地図上で、めたとんの位置を表す光の点は、あの公園へと向かったように感じられた。

 ていうか、もしめたとんが野宿するつもりだとしたら、きっとあの公園に戻るに違いない。

「……よし」

 僕は走って公園に向かうと、再びその門をくぐった。

 先ほどより夜の闇は深く、空気は冷え込んで感じられた。

 シーソー前を通り、恐竜の遊具前に辿りついた。

 左右を見回す。

 めたとんの姿は無い。

 僕は遊具のひしめいている公園辺縁部から、公園中央部に向かった。

 そして、めたとんを探すため、ゆるやかに回転しながら広大な芝生広場に足を踏み入れていった。

「…………」

 公園敷地内には街明かりが届かない。そのため頭上で星々はくっきり輝き、僕を取り巻いていた。

「…………」

 様々な星座が僕の回転に合わせて視界をよぎっていく。

 ひときわ青く眩しい星が正面で輝いている、そこで僕は足を止めた。その青い光の下、広大な芝生広場の中心で、三本の巨木が黒い影を夜空に聳え立たせていた。

 その樹下に、白いテントが張られていた。

 さきほど公園に来たときには無かったものだ。⁠1

 僕は遠巻きにテントを観察した。

 ふいにテント内に明かりが灯った。

 巨木の枝は星空に影絵のような輪郭を描いていた。その下でテントはオレンジ色の光を発し、その周辺を暖かく照らした。

 僕はテントに近づこうとしたが、どうしても前に踏み込めず立ち止まった。この柔らかく気持ちのいい光を、より強く浴びることを恐れるように。

 めたとん、彼女は一体、何者なのだろう。

 ふと吉岡先生の著書が頭に浮かんだ。

 吉岡先生の著作、『俺の教え子たちがこんなに俺のことを好きなわけがない』の第一章で、アメリカから留学して来た金髪のメリッサという女子高生に対し主人公は叫んだ。

『ふおー! アメリカで一二を争う大富豪の孫娘のくせに、日本で放課後はベルトコンベアに段ボールを載せるバイトをしてるだなんて、なんという落差だ! その落差による位置エネルギーがメリッサの魅力をアンプリファイ、すなわち増幅している!』

 作品意図が読者に伝わりやすいようにとの計らいだろうか。作中、主人公はやたらと、出てくる人物のどこがどう魅力的なのかを分析し、それをセリフとして叫ぶ。そのような本を読んだおかげか、今、僕もめたとんという存在の魅力のいくばくかを理論的に分析できたように感じた。

 そう……めたとんには、幼馴染のような親しみやすさと、人間離れした異質さを同時に感じる。そのギャップがめたとんの魅力を増幅させている。

 だが、どう分析しようとも、足を前に踏み出せない。

 あまり深く関わると、人生が、普通でなくなってしまう気がする。もしかしたら普通よりも、面白い方向へと。だがそれは、なんだか怖い。

 僕の心の保守的な部分は、もうテント内存在のことは忘れ、後退して家に帰れ、そして昨夜と同じように、優しい母に抱かれて眠れとしきりに訴えていた。

「…………」

 だが僕の中の後先を考えない部分、面白さを優先する部分は、いいから前に進め、とにかく適当に新奇な方に進めと訴えかけていた。

 しかしその両者が同等の力で前後に引きあった結果、僕は今、重力が拮抗したラグランジュ・ポイントのような地点で、石化の魔法にかかったかのような恐ろしい硬直に陥っていた。

「…………」

 ま、前にも後ろに進めない。

 このまま朝までここで石像のように固まっていることしかできないというのか? どうしたらいいのだろう?

 だが……そのときだった。

 母がいつだったかベッドの中で読み聞かせしてくれたビジネス書の内容を僕はふと思い出した。

『事情があって、どうしても動けないときは、先方に来てもらうのも一つの手なのよ』

「そうか……そういうことか」僕は母に感謝しつつ、かすれ声を発した。

「め、めたとん……ふみひろだけど」

「きゃっ」即座にテント内から可愛らしい声が上がる。

「ご、ごめん。驚かせちゃったかな」

 じじじじと音がしてテントのファスナーが開き、その隙間から液体のように漏れ出る光とともに、めたとんが顔を出した。

「驚き! 私の事、探して見つけてくれたんだね!」

 なんだか嬉しそうだ。

「良かったら中に入って!」

 僕は芝生に靴を脱いで、四つん這いになってテントの中に入っていった。

 まず目に入ったのが、テントの一番高いところにぶら下げられている携帯ランプの眩しい灯だった。その光に照らされたテントの内部は、外から見たときよりも広く感じる。三人ぐらいが横になって眠ることができそうだ。

 そして次に見えたのが、ランプの眩しさの奥に、足を崩して座っている、下着姿のめたとんだった。

 テント内で顔を赤らめてめたとんは話した。

「さっきはつい恥ずかしくて。発作的に逃げちゃったんだよ。私、恥ずかしがり屋みたい。変だよね、ふふ」

 家を間違えたことや、実は旅費でお金を使い果たして泊まるところが無いことなどが恥ずかしかったという。

 そこでめたとんは軽く首をかしげた。それから、恥じらいの表現として頭をかくには、手を動かす必要があるとふいに気づいたかのように、数秒遅れで右手を動かし、頭をかいた。

「ふふ。本当に行く宛はあったんだよ。ただ、住所を書いた紙がどこかに行っちゃって。どこに行ったのかな」

 めたとんはポケットを探ったり、自分の手の甲をしげしげと眺めたりしていた。そんなところには、行く宛に関するどんな情報も無いと思われた。

「そ、それより……ごめん!」僕はめたとんに背を向け、テントの外に出ようとした。自分の頬が赤くなっているのが感じられる。

「え、どうしたの?」とめたとん。

 僕は少しだけ振り返り、テントの床に目を落としながら、何がごめんなのかについて説明した。

「下着姿だけど。見られていいものなの?」

「暑いから脱いだんだよ。夜の空気は気持ちいいよね。ふふ」

「あぁ……」

 めたとんの笑顔を見ていると、何の問題も無い気がしてきた。

 もしかしたら、『下着姿は恥ずかしいから隠すべき』というのは、僕の街に特有のローカルな風習だったのかもしれない。

 僕は物事の善悪をより明確に判断するため、曇りなき眼で、下着姿のめたとんをよく見てみた。

 テントの吸気口から差し込む夜風の下で、めたとんは涼しそうに素肌を晒しており、そのごく一部だけが下着によって覆い隠されていた。

 肌の白さとその上に流れる髪の黒さが、はっとする色の対比を作り出している。それらの面積比は、入り交じる光と闇を表した太極図を思い起こさせる。

 その他、柔らかさな曲線と直線、人間離れした不思議さと、ほっとする親しみやすさ……そういった相反する要素が混ざり合い、めたとんの肉体は、僕を強く惹きつける、それでいて心安らぐ雰囲気を発していた。

「なんかいいよな」

「ふふ。いいかも」

 僕は少しめたとんに近寄った。そして、目の前にある肉体が発している心地のいい雰囲気や、吸気口から吹き込んでくる、緑の香りがする新鮮な空気、そういったものを吸い込んだ。

 さらに、頭上のランプが灯す光や、それがめたとんの肌に当たった柔らかな反射光までもが、呼吸とともに、僕の中に吸収されていくようだった。

「ふー。なんかいいなー」

 満足感が僕の中に広がっていく。

 めたとんは足を前に投げ出して、くつろいだ様子でほほえんでいた。

「ふふ。いいよね」

 だがあるとき、何かの回路が入ったかのように、めたとんは足を閉じ、両手で胸を隠すと顔を赤らめた。

「きゃっ! 恥ずかしいよ」

「ご、ごめん!」

 急激に我に返った僕は、全身の筋肉を連動させて素早くめたとんに背を向けた。再び自分の顔がかっと熱く、赤くなっていくのがわかる。

 僕は四つん這いになって、テントの外に出ようとした。

 まったく、僕はまた、なんていう非常識なことを……そんな後悔とともにテントの入口で靴を探る。

 だが靴を履こうとする僕の背中に向かって、声が投げかけられた。

「あれ、どうしたの?」とめたとん。

 僕は少し振り返り、視界の端でめたとんを見た。

 相変わらずめたとんは下着姿だったが、もう恥じらっている様子はない。そのためか僕の波打つドキドキした気分も、急速冷凍された炎のように、すみやかにフラットになっていった。

「さっき、自分で恥ずかしいって言ったじゃないか。もう恥ずかしくないの?」

「あれ、おかしいよね。なんともないよ」

 めたとんはまた足を前に投げ出して座り、手を後ろの床についた。

「ほんとかな……」

 僕は不信感を覚えながらテント内に戻ると、めたとんの横に座り、おそるおそる、くつろぎの態勢になってみた。

「…………」

 相変わらずめたとんの肉体は、何かいいものを発しており、近くにいると気持ちがいい。

 僕は深呼吸した。

「ふー、なんかいいよなー。こういうのが家庭や職場や教室に一人いると、全体の雰囲気が良くなりそうだよな」だがその瞬間めたとんは胸を隠した。

「きゃっ! 恥ずかしいよ」

「あ、ごめん」と言いつつ、面倒くさくなってきたので、僕はもう背を向け、外に出ようとはしなかった。

「は、恥ずかしいよ。本当に……」

「……恥ずかしいなら、ちょっと暗くしてみようか」

 僕は腰を浮かせて手を伸ばし、頭上のランプの光量を調整した。

 つまみをひねり、光量を絞っていくごとに、視界は暗くなっていった。

 めたとんの輪郭が暗闇の中に溶け込んでいく。

 意外なことに、光が薄れ、テントの中を闇がより厚く覆うごとに、めたとんは怯える様子を見せた。

「あの、怖いよ……」

 めたとんは心細そうな表情を浮かべ、自分の腕を抱いた。

「へー、そうなんだ」

 僕は無慈悲につまみを『消』の方向へとひねっていった。

 ランプがほとんど光を発しなくなっても、自分の中に光源を持っているかのように、めたとんは暗闇の中でうっすらと輝いているように見えた。だがそのきらめきもやがて完全に闇に飲まれた。

「…………」

 予想より近くから、強い緊張を感じさせる浅い呼吸音が、空気を介して僕に伝わって来た。

 この濃い暗闇のすぐ向こうに少女がいる。

「…………」

 誰だったっけな?

 こんなふうに暗闇に包まれて消えた誰かが、いつかどこかにいたような。

「…………」

 僕は体温を感じる方向に手を伸ばした。

 指先が温かい空気の層をかすめた。

「…………」

 もっと深く暗闇の奥に手を伸ばそう。

 そうすれば届くかもしれない。

 僕は腰を浮かせた。

 そのとき僕のポケットから、スマホとチラシの束がこぼれ落ちた。

 マジシャンの手によって並べられたトランプのように、チラシの束は床の上に、さらさらと扇状に広がった。

 一方、スマホは床に落ちて空中に跳ね上がった。

 衝撃で電源が入ったのか、スマホは一瞬、空中で、そのディスプレイを眩しく輝かせた。

 その束の間の青白い閃光が、チラシの裏の、細かな文字列を照らした。

『光の小説 第一章 ~闇の迷宮~』というタイトルと、その後に続く文字列が、暗闇の中に、光の文字として浮かび上がった。

「…………」

 スマホは床に転がり、その明かりは消えた。そしてテント内が再び暗転したあとも、その文字列は僕の心に焼き付いていた。

 記憶に残るその文字列を僕は口に出した。

「耶麻川……みなみ?」

 暗闇の奥から返事らしきものが返ってきた。

「私、なぜここにいるかわからないし。ここは一体、どこなんだし?」

 僕は暗闇の中に手を伸ばした。

 向こうから伸びてくる手が僕を掴んだ。