校門近くのバス停にはプラスチックのベンチが置かれていた。少女はベンチの機能を確かめるように、それに手を触れると、腰をおろした。

「これはベンチだよ、座るためのものだよ」

「…………」

 僕は時刻表を確認した。

 初夏の夜、空気は少し湿っぽい。

「あと五分くらいで来るって」

「何が来るの?」

「そりゃ……バスだけど」

「バス? バス、バス……」

 謎の少女はこめかみに人差し指を当てた。

「ああ、バスね。……バス、それは大勢の人々を乗せて走る車。早いよね」

「うん。そうそう、僕はふみひろ」

「ふみひろ、それは名前だよね。私にもあるよ!」

 少女はダウンジャケットのポケットを探った。

 何も出てこない。

「あれ? こっちかな……」

 少女は左手の甲を顔の前にかざし、何かを読み取ろうとしていた。手の甲には何かの黒い書き込みがあった。だがかすれていて読めない。

「名前……」

 少女は目を瞑ると、再び人差し指をこめかみに当てた。

 五分後に隣から声が上がった。

「思い出したよ、私の名前、それは……め!」

「め?」

「た!」

「た?」

「と!」

「と?」

「ん!」

「ん?」

「めたとんだよ、よろしくね!」

「それは……何かのハンドルネーム的な?」

「ハンドルネーム?」

「いや……まあ……現代にはいろんな名前があるからな。めたとん。いい名前だね」

「ふふ、ありがとう、ふみひろ。どちらも四文字だね!」

 まもなくバスが到着し、僕らを招くようにドアを開けた。仕事帰りの人々で混み合う車内に乗り込んだめたとんは、運転手に運賃を払うよう促され、ポケットを探った。

 ポケットには何も入っていないようだった。とりあえず僕が払っておいた。

「お金。それは豊かさのシンボルだよ」

 後部座席に辿りついためたとんは、照れくさそうに頭をかいた。

「大丈夫なの?」

「仕事をすればお金が手に入るよ!」

 バスは夜道を走っていった。やがて窓の外は都会的な雰囲気になり、さまざまな商業施設が光を発し始めた。終点に着く少し前に僕は聞いた。

「めたとんはどこから来たの?」

 めたとんは人差し指をこめかみに当てた。何かを思い出そうとすると、このポーズに入るようだった。

「…………」

 答えがないままバスは終点に到着した。車外へと流れ出ていく人々の最後尾について車外に出る。そのまま人の流れに乗り、駅前広場へと向かう。

 広場から響いてくる音と光に誘われたのか、ふいにめたとんは駆け出した。僕は早足でその背中を追った。

 駅前広場を取り囲む商業施設から投げかけられる光が、広場を行き交う人々の影を地面に描いていた。それを歌や楽器の音が取り囲んでいる。広場の四方でストリート・ミュージシャンが演奏してるのだ。

「賑やかだよね!」

 めたとんは広場の中央を飾るエレベーターの前で足を止めた。それは輝くLEDに縁取られた高いガラスの塔のように見えた。めたとんは人差し指を塔の上に広がる夜空に向けた。

「そうだ! 私、上の方から来たんだよ!」

 僕はめたとんのその指先を目で追った。夜空に輝く1ドットの光点が浮かんでいた。それは月の隣を横切り、夜空に光のラインを描いた。飛行機かな。宇宙ステーションかな。UFOかな。めたとんは頭をかいた。

「ふふ。上から来たなんて、そんなのおかしいよね」

「うん。どう見ても宇宙飛行士には見えない」

「上じゃなくて、北なのかも。私、北の方から来たのかも。北……それは寒いところ」

「あぁ……」

 フェリーで海を渡って北の方から出稼ぎに来た少女、めたとん。

 そんなドキュメンタリー映像が僕の脳裏をよぎっていった。

 駅前広場の奥にはエスカレーターがあり、それは駅に続いていた。

 駅はさまざまな世界への扉である。どこかへ出ていく人、入ってくる人、その双方の流れによって、エスカレーターは昇りも降りも活況を呈している。

 エスカレーターから広場に降り立った人々は、回路を流れる電子のように、商業施設や、バス発着所など、それぞれの行くべき所へと歩いていく。

 めたとんはそんな広場の中央で回転し、あたりを見回した。

「ふふ、人が多いね!」

 その嬉しそうな横顔や体の側面は、商業施設のウィンドウや巨大ディスプレイが発する青や緑の光に照らされ、それらの施設内で売られている物品を思わせる、面白さや新鮮さやを感じさせる色を反射している。

「仕事、何をするのか見ててもいい?」

「ええー、恥ずかしいよー」

 めたとんは人工的な恥じらいの仕草を見せた。

「いいから見せてよ」

 めたとんは二度三度、形式的な恥じらいの仕草を見せてから承諾の意を示すと、駅前広場の外周を巡るように歩き出した。

 その足取りは軽やかだったが、人の流れが作り出すラインに乗ることができず、めたとんは何度も人々にぶつかりながら僕を見た。

「綺麗な場所だよね!」

 興奮のためか赤くなっているその顔には、引き続き四方から光が投影されている。

 輝く彼女はストリート・ミュージシャンたちが奏でる音楽に誘われるように、流れる人々にぶつかりながら、気分の高揚を感じさせる足取りで、公園の東から南、西、そして北へと巡り歩いていった。

 まずめたとんは東のストリート・ミュージシャンの前で立ち止まった。

 未来的な機能性を感じさせる銀色の衣服に身を包んだ男性が、電子機器を細やかに操作していた。その機器から生成されているのはとても知的な音楽だった。澄んだ水面に風が吹いて波紋を作り、それが重なって花のような模様を描く。心の中にそんなイメージが浮かび上がった。

 演奏に一区切りがついたところで、めたとんと僕は南のミュージシャンの前に移動した。ロックバンドだ。よく聴き取れなかったが、彼らの歌のテーマは『永遠に生きる』ことのようだった。

 次にめたとんが聴き入った西のミュージシャンは、水色のワンピースを着てキーボードを弾き語る女性だった。人を強く愛することが歌われていた。歌の放つ深い感情の波に飲み込まれ、僕は恍惚となった。

 最後にめたとんが聴き入った北のミュージシャンは、バケツを手で叩き、塩化ビニールの水道管に息を吹き込んでいた。重い鼓動とうねりは、僕の中に振動する波を作り出した。その波と波の間で僕とめたとんは視線を合わせた。

「私もそろそろ始めるよ」

 ひととおり駅前広場を巡っためたとんは、広場の中央にそびえるガラスの塔のようなエレベーター、その横に鞄を下した。

「何を?」

 僕はミュージシャンたちの演奏に打たれて朦朧としていた。

「仕事だよ。見ていてね」

 めたとんは鞄に手を突っ込み、中からアルミ製の弁当箱を取り出した。そしてふたを開け、自分の足元に置いた。

「これでよし、と」

 めたとんは満足気にうなずくと、発声練習らしきものを始めた。

「あーあー、がーがー、えーえー」

 そしてめたとんは、ゆっくり目を閉じ、深呼吸をすると、ぱちっと目を開き、駅ビルのエスカレーターから降りて来る人々に向かって、大きく口を開けた。

 その喉から発せられたのは、歌ではなかった。

 めたとんの声、それは歌というより、演説のようだった。

 だがそれは日本語でも英語でもなかった。

 テレビでも映画でも聴いたことのない、どこか遠い国の、謎の言語のように感じられた。

 めたとんは人々に向け、謎の言語を、大きな身振り手振りと共に語った。その身振り手振りも、何を表現しているのか僕には理解できなかった。

 その手は左右非対称な動作を、体の前面と側面で続けていた。音楽記号を描くような手の動きに合わせて、十本の指がさまざまな形を作る。それはときに鋭い剣に見え、ときにはユーモラスな動物の顔に見えた。目まぐるしく移り変わるその手指の動きに四方から街の灯りが浴びせられ、それは僕の目に残像を残し、空気の中に漢字より複雑な光の文字を浮かび上がらせた。

 彼女の口からは流暢に謎の言葉が発せられ続けており、それはときに何かを断言するように力強く、またときにそれは大切な秘密を耳元に打ち明けるささやき声のようだった。

 どうしても理解することができないその言葉は、手指で空間に描かれる光の残像と何らかの関係性があるのかもしれない。音と記号が互いの意味を補強するというような。だがその意味を僕の意識が捉えるより早く、それらは次々に形を変えていく。

 やがて僕はそれを理解するのを諦め、空間に描かれる光の残像と、鼓膜を揺らす声が織りなすその表現を無防備に浴び続けた。打ち寄せる海の波に洗われるように。あるいは長い長い糸電話の糸を伝ってくる遥か遠方からの光のシグナルを心に刻みこむように。

「……はっ?」

 僕はふと我に返り、あたりを見回した。

 誰もめたとんのパフォーマンスを観ていない。

 めたとんの周囲には、人を遠ざける結界ができているかのようだ。

 めたとんは誰にも顧みられることのないまま、謎のパフォーマンスを続けていた。完全に没頭している。

 一時間経ったあたりで、仕事帰りと思われる男性が、ついにパフォーマンス空間に入ってきて、めたとんの斜め前で呆然としている僕に小声で聞いた。

「これは……何やってるの?」

「わ、わかりません」

 男性は首をかしげつつ、すぐにめたとんの声の及ぶ範囲から去っていった。

 さらに一時間経った。

 本当にこれは一体、何をやっているのか。

 僕も質問したかった。

 だが、めたとんは一心不乱にパフォーマンスを続けており、口を挟める隙はなかった。

「…………」

 立ち去るわけにも行かず、しかしこれが何なのか理解できないまま、かっと目を見開いて演説を続けるめたとんの斜め前で、僕は朦朧としてくる意識をなんとか保って立っていることしかできなかった。

「…………」

 そんなあるときだった。

 塾帰りか何かの小学生と思われる少女がひとり、広場の柱の影からめたとんのパフォーマンスを、興味深そうに伺っていた。

 その小学生はじりじりと空白のパフォーマンス空間に近づいてきたかと思うと、ついにその結界の内側に足を踏み入れた。そしてささっと小走りで、めたとんの足元のアルミ弁当箱に駆け寄り、そこに硬貨をそっと置いた。

 そしてすぐにささっと走り去っていく。

 めたとんは両手を広げて垂直にジャンプし、走り去る少女の背中に何語かわからない言葉を投げかけると、着地してよろめいた。僕は駆け寄り、転びかけためたとんを支えた。

「あっ、ふみひろ!……はあ、はあ……見ててくれたんだね」

「ずっとそこにいたよ」

「集中してたから気づかなかったよ。はあ、はあ……」顔は赤く染まり、全身汗だくだ。ライブ後の歌手のような、達成感に満ちた笑みを浮かべている。

「ちょっと待ってて」

 僕は近くのコンビニエンスストアに走った。

 めたとんは鞄からタオルを取り出して額の汗を拭いつつ、広場の隅の花壇に腰掛けてジュースを飲んでいた。

「ジュースは甘くて美味しいよね。めたとん語はどうだったかな?」

「あれはめたとん語だったのか……めたとん語で、めたとんは何を喋ってたんだ?」

「それはね」

「それは?」

 めたとんは、まためたとん語なるものを僕に発した。

「だからそれ、なんなんだよ」

「これはね」

「これは?」

「めたとん語だよ」

「だからそのめたとん語はどういう意味んだよ」

「それはめたとん語でないと言えないよ」

「……日本語に翻訳できないのか?」

 僕は湧き上がる貧乏ゆすりを抑えることができないまま低く聞いた。めたとんは首を振った。

「めたとん語でしか表現できないことを表現するために、めたとん語はあるんだよ」

 僕はもうこの件に関して考えることをやめた。

 広場を見回す。ストリート・ミュージシャンたちはもう皆、機材をたたんで広場から撤収していた。

 駅前広場の時計を見ると最終バスの時間が近かった。

「僕はそろそろ帰るけど、めたとんはこのあとどうするんだ?」

「私も帰るよ」

 めたとんは花壇の縁から立ち上がった。

「……行く所、あるの?」

「あるに決まってるよ! この土地でお世話になる家があるんだよ。もう連絡が行ってるはず。確かあっちの方にあるよ」

「僕の家もそっちだ」

 めたとんは駅前に来たときと同じバス乗り場の列に並んだ。その横に僕も並んだ。

 まもなくバスが来た。

 めたとんは、アルミの弁当箱から硬貨を取り出し、運賃箱に入れた。出てきたお釣りを使って、止める間もなく僕の分も払ってくれた。

「ふふ。遠慮しないでいいからね」

「あ、ありがとう……」

 後部座席でめたとんは手のひらに残った小銭を見た。

「今日の仕事は八十円の儲けだよ。これならやっていけるかも」

 何をやっていくつもりだろう。非現実的なことを口走っているめたとん。しばらくすると規則正しい呼吸の音が聴こえてきた。

「すー、すー」

 僕の隣でめたとんは目をつむっていた。もしかしたら寝ているのかもしれない。僕も目を閉じる。

「…………」

 謎の演説に酔ったように揺れる心の中に、夢のように不思議な映像が浮かんでは消えていく。

 猫のような耳を頭に生やした美しい女性。めたとんにそっくりの、腰に手を当てた不機嫌そうな顔の少女。

 夢の中に現れる人物は、誰もが何かの象徴であると、かつて僕は夢に関する雑誌の記事で読んだことがある。では、感情とともにぴくぴくと動くあの猫の耳と尻尾は、何を象徴していたのだろう。あの女性の夢のような美しさは何を表していたのだろう。あいつの不機嫌そうなそぶり、あれは一体、何だったのだろう。バスの窓の外から差し込んで、まぶたを通して僕を刺激し続けるこの光、これは何の象徴なんだろう。

 眠りに落ちる間際で、疑問への答えが、ひとつずつ現れては消えていく。その答えは僕が普段使っている言葉を超えた高みにあり、だから言葉になって固まることなく、一瞬、心の中に形を結んでは、すぐにほどけて移り変わっていく。

「ぐー、ぐー、がー」

 半分、夢の中、半分、バスの中、夢と現実が混ざりあった世界の中で、隣から聴こえてくるいびきに耳を傾けながら僕は揺られていた。