ふと目を開けると、バスの電光掲示板が、停留場の名を薄暗い車内に輝かせていた。

「もう降りなきゃ……」僕は降車ボタンを押し、隣でいびきをかいている少女の肩を揺さぶった。

 めたとんはロボットの再起動シークエンスのように、右腕、左腕、首、肩、両足の関節を順に曲げ伸ばしすると、目をこすりながら電光掲示板を確認した。

「私もここで降りるよ」

 まもなくバスは停車した。僕とめたとんは青白い蛍光灯に照らされた車内から、住宅街を包み込む暗闇の中へと足を踏み出した。

 まばらに立つ街灯の隙間を歩いてゆく。

「こっちだよ」めたとんは薬局の角を左に曲がった。僕の帰り道とは逆方向だったが、最後まで送っていこう。僕もそちらに曲がる。

「ふんふーん」

 めたとんの鼻歌に耳を傾けながらしばらく歩く。

 と、夜の公園の前を通りかかった。

「懐かしいよね、こういう雰囲気」

 めたとんは公園に足を踏み入れた。木々の枝々の、覆いかぶさるような黒い影の下をくぐり抜けてゆく。

 めたとんは遊具広場に辿り着いた。彼女は恐竜を模した遊具の側で立ち止まると、緑の樹脂で作られたその巨体を見上げた。

 恐竜の腹部からは滑り台が地面へと伸びていた。そのステンレスの表面は、街灯を反射して銀色に輝いていた。

 めたとんが一歩、二歩と、近寄ると、滑り台はぼやけた鏡のように、めたとんの髪と顔の輪郭を映した。その面影に僕はなぜか懐かしさを感じる。

「めたとんがいた北の国にも、こんな遊具はあるの?」

「どうかな。向こうで私が好きだった遊び、それが何だったのかは思い出せないよ。でも懐かしい感じがするよ」

 そう言って、めたとんは滑り台にうつ伏せなった。

「…………」

 怪しい挙動を見せるめたとんを無視し、僕は恐竜の側面にふと触れた。その冷たいざらついた感触が、ふいに昔の記憶を呼び起こした。

 そう……ここは近所で一番広く、緑が多く、遊具も豊富な公園なのだ。そのため、近隣の子供はここで遊び、育っていく。

 僕も昔、よく友達とこの滑り台を滑って遊んだ。向こうにあるシーソーでは上下に弾んだ。そこの木陰では、一台の携帯ゲーム機を二人で交互に使った。

「懐かしいな……」

「ふみひろー!」

 恐竜に寄りかかって昔のことを思い出していると、遠くから投げかけられた声によって、僕の意識は現在へと引き戻された。

 顔を上げて見ると、めたとんはいつの間にか、向こうにあるシーソーに座っていた。

足で地面を蹴り、一瞬、宙に浮いては、重力に引かれて地面に落ちるを繰り返している。遊び方を模索しているらしい。

 僕は恐竜を離れ、シーソーの反対側に腰を下ろした。

「よっ」

 足で地面を押す。

 懐かしい浮遊感とともに僕は上昇し、そして下降した。

 正面ではめたとんが上がり下がりし、それとともに彼女の背景は、公園の地面から星空へと、ダイナミックに移り変わった。

 自分とその対面にいる人との、交互に繰り返される上昇と落下の遊びが、しばらくの間、続いていった。笑い声が溢れ、濃い暗闇の下に広がる緑の芝生に響いていく。

「あー面白かった」

 夜のシーソーで気が済むまで遊ぶと、めたとんはそそくさと移動を開始した。公園を奥の方に抜け、また住宅街に入ると、電信柱の間を縫うように長い影とともに歩いてゆく。

 僕は慌ててその後を追った。

 めたとんはしばらく夜道を歩き続け、住宅街の外れで足を止めた。

「そろそろ私の家が見えるよ」

「え、どこどこ?」

 めたとんは握った右の拳を、僕の目の前に掲げた。

「ほら、ここだよ」そしてめたとんはぱっと手を開いた。

 その手のひらの上に、ちょこんと洋風の民家が乗っているのが見えた。まるで手品のように。

 僕は一瞬驚いたが、ふと冷静になり、一歩、脇にずれた。すると民家は、めたとんの手のひらの上にあるのではなく、住宅街の外れにある、あの高台の上に建っていることがわかった。遠近感を利用した錯覚で、さっきは手のひらの上に乗っているように見えたのだ。

 めたとんはその高台に向かった。そして高台のふもとに辿り着くと、その頂上へと続く坂道へと足を踏み入れていった。

「もうすぐ着くよ」とめたとん。

 高台の側面を左右に蛇行する急な坂道を登っていく。

「はーふーはーふー」

 運動は苦手なのか、すぐにめたとんは息を切らした。途中、何度も足を止め、膝に手を突いて呼吸を整えている。

 僕は助け合いの精神を発揮し、めたとんの手を引っ張った。めたとんは僕の手を両手で掴むと、倒れないギリギリの角度で体重をかけた。

「くっ、重い……」

 めたとんを引いて、一歩、二歩、前に進んだところで僕の足は止まった。このレベルの質量を僕の力で引き上げることなどできそうにない。

 僕は発想を転換し、めたとんの背後に回ると、その背を押して行くことにした。

 めたとんの巨大な鞄を両手で押す。

 めたとんは後ろに体重を預け、体を斜めにしながら歩いていった。斜め上の夜空を仰ぎ、完全にリラックスモードに入っていた。

「星が綺麗だよね。ふふ」

「ふあー、着いたー」

 たどり着いた丘の上で、人ひとりの重みから解放された僕は、膝に手をつき、息を整えた。

 ふと見ると、地面には、街灯を浴びて緑に輝く芝生が広がっていた。顔を上げると、タンポポやシロツメクサが混じったその芝生の奥に、三家族が住めそうな大きな洋風民家が建っていた。

 民家の脇には巨木がそびえ、かすかな夜風に枝葉を揺らしている。そしてその背後には星空が広がっている。

「雰囲気のある家だな」

「そうだよね。ふふ」

 めたとんは民家の玄関に迷わず一直線に接近していった。

 僕はおそるおそるそのあとを追った。

 まもなく玄関に掲げられている表札が見えた。『耶麻川』と書かれている。

「やまかわ……? ここ……本当にめたとんの家?」」

 初めて聞く苗字であったが、それはなんとなく、めたとんの苗字ではない気がした。

「この玄関を、何度もくぐった記憶があるよ、この中にね」

 めたとんは自分のこめかみ、その奥にあると思われる脳を指さした。

 僕の不安は強まった。

「ドアの開け方も知ってるよ。ここを掴んで回すと開くよ」

 めたとんは玄関のドアノブに手をかけ、力を込めた。だが、それは回らないし開かなかった。めたとんは動じず、次の一手へと流れるように移行した。

「このボタンを押すと誰か出てくるよ」

 めたとんは呼び鈴のボタンに人差し指の爪をカツンと当てると、それを押し込んだ。ぴんぽーん、という澄んだ電子音が高台に木霊した。

 誰も出てこない。

「もっと押してみるね」

 めたとんはボタンを続けざまに押した。

 ぴんぽーん。

 ぴんぽーん。

 ぴんぴんぴんぴんぽーん。

 いつしかめたとんの指先はビートを刻み始めていた。それはかつて聴いたことのない異様なリズムとなって、高台の上に木霊した。

 その拍子は地球由来のものではないように思われた。あたかも太陽系外に住む宇宙的な部族、その伝統的な祭りのリズムのようであった。

 そのループが三巡ほどしたところで、ふいに窓の奥に明かりが灯った。僕は緊張した。

「……誰ですの?」

 インターホンのスピーカーから、おっとりとした雰囲気の女性の声が聞こえてきた。

「めたとんだよ」

「イタズラかしら?」

「めたとんだってば、開けてくださいな!」

 ドアが開き、中から大人の女性が現れた。

 僕の母に匹敵する美しさを感じ、僕は知らず知らずのうちに息を呑んでいた。

 着心地が良さそうでありながら、体の線が美しく表現される衣服に身を包んでいる。

 その物腰からは、成熟、柔らかさ、豊かさといった、僕の母とは違う方向性の魅力が発散されているのが感じられる。その声も耳に心地いい。

「あら、こんばんわ。可愛いお客さんね。こんな時間に何か御用かしら?」

めたとんより頭ひとつ高いその女性は、幼い子どもに接するように膝に手を当て、中腰になり、視線をめたとんに合わせて問いかけた。

「ただいま、ママ!」

 めたとんはタックルするかのように、その女性に抱きつき胸に顔を埋めた。

 背の高い女性は最初、戸惑っていたようだったが、あるとき両手をめたとんに回し、その体を優しく抱きしめた。

「ママ、私、帰ってきたよ!」

 めたとんは、母に抱かれて安らぐ小動物のように、目を細めて至福の笑みを浮かべた。

 温かさが、傍で見ている僕にまで伝わってくるようだった。

 それほどに、しみじみとした気持ちよさが感じられる抱擁だった。

 家族っていいよな。

 だが、しばらくすると安らぎ感が飽和状態を迎えたのか、彼女らはどちらともなく抱擁を解いた。そして、おずおずと距離を取ると、不信感をたたえた目で互いを見つめ合った。

「あなた……どなた?」

「めたとんだよ。あなたさんこそ誰ですか?」

「おい……ちょっと待てよ。親子じゃないのかよ。だったら、さっきのはなんだったんだよ」と僕。

「私は耶麻川まりいですよ。耶麻川荘の管理人です」

「あなたさん、めたとんのママではないの?」

「耶麻川荘では何人か子供を預かっているけれど、私に個人的な娘はいませんよ。独身ですし」

「ふふ……来る所を間違えたみたい」

「ふふ、じゃないよ! 何をどうしたらそんな間違いができるんだよ!」

 激しく反応してしまう僕の耳元に、めたとんは手を当ててこそこそと囁いた。

「帰ろう。私の家、ここではなかったみたい」そして僕の手を引いてそそくさと立ち去ろうとする。

 僕は振り返り、耶麻川まりいに叫んだ。

「ごめんなさい、夜分遅く失礼しました!」

 だが耶麻川まりいは微笑んだ。

「あら、せっかく来たんだから、お茶でも飲んでいったらいかが?」

 非人間的なまでの優しさが感じられる提案だった。僕とめたとんは顔を見合わせた。

 だがそのとき玄関の奥からドタドタと走る音が聞こえてきたかと思うと、小学生らしき背格好の少女が、耶麻川荘の玄関からさっと顔を出した。

 その顔立ち、どこかで見たことがあるような……思い出せそうで思い出せない。

「まりいちゃーん、どうしたのかにゃ? ……あ、そ、その人! 駅前でパフォーマンスしてた人だにゃっ!」

 少女は素早くサンダルを履いて、庭の僕らに駆け寄ってきた。そしてめたとんに、至近距離から憧れに満ちた視線を投げかけた。

「未紗ちゃん、この人のこと、知ってるの?」と、まりい。

「駅前で画期的なパフォーマンスをしてた人にゃ! 私、感動して、なけなしの五百円を払ったにゃ!」

「あぁ、あのときの小学生か」と僕。だが、なんだか腑に落ちない。もっと昔にも、どこかで見たことがあるような、無いような。

「あら、五百円も! 無駄なお金は一円も使わない、必要なお金も使おうとしない未沙ちゃんが、五百円も出すだなんて、凄いじゃない! どんなパフォーマンスなのかしら?」

「それを言葉で表すのは難しいにゃ。見なきゃ絶対わからないにゃ」

「見てもわからないけどな」と呟いた僕に、未沙という少女はトゲトゲした視線を向けた。

「そこのお前、さっきから何、私の顔、ジロジロ見てるにゃ」

「な、なんだよ。人の勝手だろ。お前こそ何こっち見てんだよ」

「見てなんかいないにゃ。睨んでるだけにゃ。このお方のパフォーマンスの価値もわからない、芸術について何もわかっていない者が、なぜこのお方の隣にいるにゃ」

 未沙という名の少女は僕より頭一つ小さいのだが、何か暴力的な雰囲気を発しているように感じられる。鋭い眼光が斜め下から僕を威圧してくる。

 圧力を受けた僕は一歩後退したが、なんとか踏みとどまり、押されたら押し返すの原理に従って、未沙とやらにできる限りの圧力をかけた。

「芸術? そんなものはなあ、僕だっていろいろ考えてる。凄くな」

「嘘にゃ! 芸術のことを深く考えている人間なら、このお方の、あれだけのパフォーマンスを観たなら、興奮せずにはいられないはずにゃ!」

「子供のくせにお前に何がわかるっていうんだよ。ていうか、そもそもあれは芸術だったのか?」

「子供じゃないにゃ! もう立派な女子高生にゃ!」

「え、あれは芸術だよ。もちろんね、ふふ」と、少し離れたところから、めたとん。

「ほんとかよ……」

「ほら、何もわかってないのはお前だけにゃ!」

「……さっきからその語尾はなんのつもりなんだよ。猫にでもなったつもりか? ぜんぜん似合ってないし、可愛くもないんだよ」

「て、てめえ、もう怒ったにゃ! 言葉でわからないなら、体にわからせてやるにゃ。この世の人間は本当にわからずやの、頭の固い、モノの良し悪しのわからないノータリンばかりにゃ!」

 未沙という頭のおかしい少女は腕まくりすると、その瞳に暴力的な光を輝かせた。まりいとめたとんは、少し離れたところで寄り添うように観戦する構えのようだった。

 母親ではないようだが、未沙の保護者的立場と思われるまりいが、そのような観戦的立ち位置を取った……ということは、僕が未沙に物理的な制裁を加えることについて、社会的な許可が出たと考えていいだろう。

 この失礼な子供の、伸びすぎた杭のような自己主張を、叩いて凹ませてやる。それは僕の内側から湧き出る自然な欲求でもあり、年長の者としての社会的な義務でもあった。

「来るなら来い」

 僕は肩の鞄を耶麻川荘の芝生に投げ捨てた。背も体重も僕の方がある。スポーツ科学的に考えて、ちょっと突き飛ばすだけで勝てるはずだ。軽く可愛がってやる。

 だがそのとき未沙はさっと身をかがめたかと思うと、鋭く僕の足元に踏み込み、手を伸ばして僕の足首を取った。

「うっ!」

 気が付くと僕は芝生に転がされていた。だが学校で柔道を学んでいたことが幸いし、僕は無意識的に顎を引いて受け身を取り、後頭部を強打することを免れていた。

 しかし気がつくと僕の右足首は未沙の脇に、がっしりと抱え込まれていた。逃げようとするが、右足全体が、未沙の両足にホールドされていて、引き抜くことができない。

「参ったと言うにゃ! 私に暴言を吐いたことを謝るにゃ!」

「誰が謝るか、ばーかばーか!」

 挑発しながら僕は全力で未沙の拘束から逃れようともがいた。だが、もがけばもがくほどアキレス腱が締め付けられ、足の甲にも強い圧迫が加えられていく。い、痛い。

「早く参ったと言えにゃ!」

「お、お前みたいな小学生の暴力には絶対に屈しないぞ!」こうなったら僕の足に絡みついている美奈の足を取って、逆に何かしらの技をかけてやる。技? そんなものは何も知らないが、哺乳類の体の性質上、本来曲がらない方向に関節を曲げてやれば、何かしらの痛みを与えることができるはずだ……という僕の試みは、ふいに体勢を変えた未沙に遮られた。

「小学生じゃないにゃ! 立派な高校一年生にゃ!」

 未沙はそう叫びながら僕を瞬時に裏返したかと思うと、僕の両足を脇に抱え込み、僕の体を逆エビ型に反り返らせた。背骨が反対側に曲がり、腹部が圧迫され、通常の生活の中では感じることのない苦痛が僕の全身に走った。僕はとっさに叫んだ。

「わかった! 参った! ごめん! 謝る!」

「もう遅いにゃ……泣くまで苦しめるにゃ」

「僕が間違ってた! 本当にごめん」

「泣くまで苦しめると言ってるにゃ。芸術を理解しない野蛮人は、泣いて悔いるがいいにゃ!」

「あー、ごめんごめん許して! あー!」

 視界の隅に腹を抱えて笑っているめたとんとまりいが見えた。僕の喉からリアルな悲鳴が謎のデジャヴとともにほとばしった。まもなくめたとんとまりいの顔から笑顔が消え、彼女たちは走って駆け寄って来ると、未沙を僕から引き離した。

「ご、ごめんなさいね、この子、芸術のことになると頭がおかしくなるの。ほら未沙ちゃん、暴れないで! 深呼吸して落ち着いて! 深呼吸!」

 まりいに羽交い締めにされた未沙は、両手両足をばたつかせながら、家の玄関と引きずられて行った。

「てめえ、今度会ったらまた泣かせてやるからにゃ!」

 そこでバタンと扉が閉じ、庭には僕ら二人が取り残された。

 庭の芝生に、誰かが嗚咽を我慢している音がかすかに響いていた。

「ふみひろ、泣いてるの?」とめたとん。

「ま、まさか」

 僕はさりげなく顔を隠すと涙を拭った。

 めたとんは僕の背中をぽんぽんと叩いた。

 小学生のころ、いじめっ子にハードにいじめられた記憶がふいに蘇ってきた。

「う……」

 じわっと涙の第二波が滲んだ。

「よしよし」

 めたとんは引き続き、僕の背をぽんぽんと叩いた。

「う、うぐっ……」

「よしよし、よしよし」

 ぽんぽん、ぽんぽん。

「うぐっ、ひぐっ……」

 ぽたぽたと涙が顎を伝って地面に落ちていった。

「よしよし、よしよし、よしよし、よしよし」

 ぽんぽん、ぽんぽん、ぽんぽん、ぽんぽん。

 一定のリズムで背中を優しく叩かれているうちに、まもなく悲しみはピークを迎え、やがて次第に波が引くように消えていった。

「…………」

 あとには強い恥ずかしさが残ったが、それは照れくささへと変化し、さらにそれは親密さへと変わっていった。

「助けるの、遅くてごめんね」とめたとん。

「ひどすぎる。あんなに笑って」

「次はすぐに助けるね」

「別にいいよ! もし次があったら絶対、あいつには負けないからな」

「どうかな、ふふ」

 首を傾げてめたとんは笑った。

 僕たちは耶麻川荘を離れ、高台の芝生を離れ、街へと続く下り坂を降りて行った。

 途中、何度かめたとんは名残惜しそうに、高台の上の洋風民家を振り返った。脳の中の古い記憶を懐かしむように。

 高台の側面を右に左に蛇行する道の途中、僕の学校の制服を着た女子が、下から上に昇ってきた。

 顔が見える距離まで近づいたところで僕は驚いた。

「誰かと思えば、アリスじゃないか」

 手に通学カバンを持ち、背中に鍬を担いでいる。鍬はよく研がれているようで、月明かり、星明かりを反射してきらめいている。

「おや、ふみひろじゃないか。耶麻川荘になんのようだ?」

「いや、ちょっとたまたま……ていうか、アリスこそ、どうしてここに?」

「なんだ知らないのか。耶麻川荘に私は下宿しているのだ。私の実家は遠いところにあるからな」

 自分だけではなく、他にも数人、さまざまな地方から単身やってきている学生が、耶麻川荘には下宿しているのだ、とアリスは教えてくれた。ちなみにまりいさんの料理は当たり外れが大きいとのことだった。

「へー、そうだったんだ。あ、この人は……」

 僕はめたとんを『さっき道端で仲良くなった人』としてアリスに紹介し、めたとんにアリスを『なんか変な同級生』として紹介した。

「ふふ、よろしくね」とめたとん。

「ああ、よろしくだ。私は山田アリス。自作部の部長をやっている」と言いつつも、アリスは何を思ったか、めたとんの周りをぐるっと一巡りすると、その背中や腰をぱんぱんと叩いた。

「ふむ、普通に触れる……ということは人間か。失礼、 人ならぬものの気配を感じたのでな」

「めたとんが人間じゃなければ、なんだってんだ。なんか変な本か漫画の読みすぎじゃないか」と僕。

「ふみひろ、君がこんな可愛い娘と道端で仲良くなるなど、怪しいと思わないか? もしかしたら新種の妖怪の類かもしれない。モテない男を持ち上げて落とすような」

「いやいや、いないから、妖怪なんて! それに僕、モテなくないから」

「誰にモテてるというのだ? ふっ、母親にか」

「そ、そのとおりだ。悪いかよ!」

「私、妖怪ではないよ……母親? ふみひろのお母さんがどうかしたの?」

アリスは、例のことについて話していいのかと、声を出さず僕にうかがった。僕は顔をしかめ、素早く首を横に振った。

「そうか、オーケー、なるほど、妖怪ではないか。でもめたとん君、君にはどこかファンタジックな雰囲気があるな。そういった雰囲気は大切だ。失くさないようにしたまえ」

 アリスの偉そうなアドヴァイスにめたとんは笑顔でうなずいた。

「わかってくれて嬉しい。そう……生活の中でのささやかなファンタジーは大事にしてゆきたいものだな。私なんてサンタの実在を信じている」

「赤いよね、サンタさん。ふふ」

「気が合うな、めたとん君。ところで……」

 めたとんとアリスは和やかに世間話を始めた。

「…………」

 アリスとめたとんの世間話は長くなりそうだった。

 僕の意識は内側に向かった。

「…………」

 ふと足元を見ると、古びたベンチが道端に置かれているのに気づいた。少しペンキが剥げているが、座り心地が良さそうだ。

 高台のジグザグな道の中腹、見晴らしのいい場所に設置されているそのベンチは、草むらに隠れ、周りに咲く白い花々に飾られているようだった。

 僕はベンチの真ん中に腰を下ろした。

「…………」

 頬に風を感じる。

 目の前に広がる星空の下、僕の暮らす街が広がっているのが見える。

 学校はあっちかな。

 駅前はあそこで、公園がそこで、僕の家はこっちかな。

 こうして見ると、この街って綺麗だよな。

「はー……」

 花の香りがする夜風に吹かれ、僕はベンチで一息ついた。

 夜風が街の上空を吹き抜けていく。

「ふー……」

 ふいに僕の周りの温度が数度上がったように感じた。立ち話に疲れたのか、右にめたとん、左にアリスが腰を下ろしたのだ。少し肌寒さを感じていたので、温かさが嬉しい。

 僕を間に挟んで彼女たちは、引き続き世間話を続けた。タイミングを見計らい、僕はその会話に割って入った。

「そういえば、あいつは一体何者なんだ。あの変な語尾の女は」

「ああ、未沙か……変わり者ばかりの耶麻川荘の中でもトップクラスの変人だ。会ったのか?」

「まあな……」

「ふみひろ、泣いたよね。かわいそうだったよね」とめたとん。彼女は身振り手振りを交えて、高台での出来事を説明した。アリスは背中を震わせて笑った。心の痛みが僕の中に蘇ってきた。その痛みを押し殺すため僕は怒りを呼び起こした。

「まったく、なんだったんだよ、あいつは! ……芸術って、なんかやってるのか?」

アリスはふいに深刻な顔を見せた。

「……未沙はな、呪われているんだ。芸術に」

「呪われてる? 心の病気か何かか?」と僕。

「いや、ずっと、芸術について考え込んでいるんだ。取り憑かれたように」

「考えてるだけか!」

「いや、未沙は美術部、写真部、漫画部、軽音楽部、映画部に次々と体験入部しては次々と辞めている」

「辞めてるのか! 結局何もやってないじゃないか!」

「どうやら絵を描くことも映画を撮ることも、思ったより難しかったらしい」

「飽きっぽいだけか!」

「いいや、未沙はやるときはやる人間だぞ。『小説という芸術を極めるにゃ!』と言って、最近はずっと放課後に執筆作業を頑張っていたんだぞ」

「小説? 面白そうだよね!」とめたとん。

「……実は数ヶ月前から授業中に書き溜めたという未沙の原稿がここにある」

アリスはカバンから分厚いチラシの束を取り出した。

「なんだそれは。スーパーのチラシじゃないか。よくこんなに集めたな。何枚かA4のプリント用紙も混ざっているが……」

「裏を見てみろ」

 軽く百枚はありそうなチラシの束のその裏面は、ボールペンで書かれたと思われる細かい文字列によって埋め尽くされていた。僕は適当なところを読み上げた。

「『闇に堕ちた探索者が罠に満ちた迷宮を奥へ奥へと駆け抜けていく』……なんなんだ、これは?」

「だからこれが、未沙の書いた小説だ。私も読んでないから、内容は知らない」

「なんでわざわざチラシの裏に?」

「わからない。何か未沙なりの考えがあるのであろう。さあ、そろそろ返すがいい」

 アリスはチラシの束を引っ張った。僕は引っ張られたら引っ張り返すの法則に従って、チラシの束を全力で引っ張った。

 これ以上引っ張り合ったら、丈夫で厚いチラシの束と言えども張力に耐えきれず破れ散るのではないかと思われたが、いきなりアリスは手を離した。

 両足を踏ん張ってチラシを引っ張っていた僕は後ろに倒れこみそうになったが、めたとんに柔らかく受け止められた。

 目の前のアリスはシリアスな顔で僕に告げた。

「こ、このチラシの束を私から奪い取る力を持っているとは……ふみひろ、君は資格者だ。力を持つ者のみがこのチラシの裏を読む資格がある」

「あ、どうも……」

「未沙が『どうしてもハッピーエンドにならないにゃ! こんなの失敗にゃ!』と叫んでゴミ箱に捨てたものを私がこっそり回収してきたこの原稿、存分に読むがいい!」

「そ、そんな、いいのか? 勝手に読んで」

 読んでからかってやりたいのは山々だが、あぁいう野蛮な人間に限って、内面は無駄に繊細で折れやすかったりする。心にトラウマでも負われたら責任問題になってしまう。それは回避したい。

「私しか友達がいない未沙が、他の誰かと子どものようにプロレスごっこをして遊ぶだなんて、私が知る限り初めてのことだ。なあふみひろ……この小説を話のネタにして、未沙の友達になってやってくれないか。私一人で未沙の相手をし続けるのは負担が大きいんだ」

「いや、ちょっと、それは……」

 気がつくと何か重いものが強い力によって押し付けられそうになっていた。僕は慌ててチラシを押し返そうとした。だが今、僕はベンチに座り、めたとんにもたれかかっている。押し返すのは体勢的に難しい。

「……あ」

 気づくと僕はチラシの束を胸に受け取っていた。

 しかたない。

 パラパラとめくってみる。僕の肩越しに、めたとんもチラシの裏を覗き込む。

「…………」

 ゴミ箱に捨てられた際に付いたものだろうか、チラシには、コーヒーらしき茶色のシミや、消しゴムのカスなどがところどころ付着していた。右下に通し番号が振られていたが、その並びはバラバラになっていた。

 僕は最初のページを探して、チラシの束をめくった。

 まもなく右下に「0」というページ番号が振られている表紙を見つけた。

 そこには全面に作品タイトルが太いマジックペンで強く殴り書きされていた。

「『光の小説』」僕とめたとんの声が同時に出た。

「どんな話なんだ?」

 アリスは、知らない、わからない、と肩をすくめた。