校門近くのバス停で謎の少女と僕はバスを待っていた。バス停にはプラスチックのベンチが置かれていた。少女はベンチの機能を確かめるように、それを眺め、手で触れると、しばらく何かを考えこんだのちに腰をおろした。そして僕を見上げ、にっと得意げな笑みを浮かべる。

「これはベンチですよ、座るためのものだよ」

「…………」

 僕は蛍光灯に白く照らされた時刻表を確認した。

 六月の夜、梅雨はもう空けたが空気は少し湿っぽい。

 見知らぬ、不可解な少女とバス停でバスを待つというシチュエーションに緊張を感じたのか、僕はどうでもいいことを口走った。

「あと五分くらいで来るって」

「ふーん、そうなんですね。何が来るんですか?」

「そりゃ……バスだけど」

「バス? バス、バス、バス……」

 謎の少女はこめかみに人差し指を当ててバスという単語を連呼した。

 数秒後、少女はバスに関する説明を始めた。

「ああ、はいはい、バスね、バス。……バス、それは大勢の人々を乗せて走る車。もちろん知ってるよ、バスのこと。でも……」

「でも?」

「あなたさんのことはわからないよ。私たち、会うのは始めてなんですよね」

「うん。さっきそこですれ違うときにぶつかっただけの間柄だと思う。ちなみに名前はふみひろ」

「名前。ああ、それは私もありますよ。確かこの中に……」

 少女は上着のポケットを探った。

 何も出てこない。

「あれ? こっちですかね、私の名前」

 ベンチに座る少女は、左手の甲を顔の前にかざして何かを読み取ろうとした。

 バス停の蛍光灯に照らされたその手の甲を、僕も斜め上から見下ろした。

 そこにはマジックペンで何かの書き込みがされていたかのような黒い跡が残っていた。だがかすれていて読めない。

「うーん……名前、名前、ね」

 少女は目を瞑ると、再び人差し指をこめかみに当て、何か考え込むような顔をして硬直した。

 十秒経ったが動きは無かった。

 二十秒経ったがやはり動きは無かった。

 僕は少女の隣に腰を下し、目の前の道路を流れていく車を眺めていた。

 ふいに隣から声が上がった。

「私の名前、それは……め!」

「め?」

「た!」

「た?」

「と!」

「と?」

「ん!」

「ん?」

「めたとんです。私の名前。よろしくね」

「それは……何かのハンドルネーム的な?」

「ハンドルネーム?」

「いや……まぁいいや。現代にはいろんな名前があるからな。めたとん。いい名前だね」

「ふふ、ありがとう、ふみひろ。どちらも四文字なんですね」

 まもなくバスが到着し、僕らの前で扉を開けた。仕事帰りの人々で混み合っている車内に僕らは乗り込んだ。めたとんは物珍しげに車内を見回していた。

 運転手に運賃を払うよう促され、めたとんはそこで思い出したかのようにポケットを探った。だが、何も入っていないようで、慌てている。とりあえず僕が二人分の運賃を払った。

 一番後ろの席が空いていたのでそこを目指して移動する。

 めたとんはまだ慌てているのか、バスの通路に立つほぼ全ての人々にぶつかり、転びそうになっては、見知らぬ人の肩や腕につかまって、立ち直るという動作を繰り返していた。慌てているだけではなく、動く乗り物に慣れていないように見える。

 後部座席へと辿り着き、僕の隣りに座っためたとんは、気持ちを落ち着けるためか深呼吸をすると、窓の外を流れる街明かりに照らされ、明るくなり、そして暗くなるを繰り返していた。

 僕はめたとんのきらめく横顔の輪郭を眺めながら、お金も持たず、バスにも乗り慣れていないこの人は、一体どこから来たんだろうかと、不思議に思っていた。

 めたとんは時間差で運賃の件について呟いた。少し照れくさそうに。

「お金。それが何かは知ってるよ。この世界ではそれが必要だよ。でも私、持ってないみたい」

「大丈夫なの?」

「仕事をすればお金が手に入るよ」めたとんは僕に教え諭すように言った。

「…………」

 バスは夜道を走っていった。

 次第に窓の外は都会的な雰囲気になり、さまざまな商業施設の発する光が眩しさを増していった。終点に着く前に僕は聞いた。

「どこから来たの? めたとんは」

 めたとんは、また人差し指をこめかみに当てて、目を瞑った。何かを思い出そうとすると、そのポーズに入るようだった。

 答えが無いままバスは終点に到着した。車外へと滑らかに流れ出していく人々の最後尾について、僕らも降車口から地面へと飛び降りた。

 そのまま人の流れに乗って、駅前広場へと向かう。向こうから響いてくる音と光に誘われるように、めたとんは小走りになった。僕は早足でその背中を追いかけた。

 駅前広場の左右の商業施設から投げかけられる光が、行き交う人々の影を地面に描いていた。そこに歌や楽器の音が響いている。広場の四方でストリート・ミュージシャンが演奏をしてた。

 音と光に満ちたこの広場の真ん中には、地下街へと続くエレベーターの地上出入口があった。それは広場の中央を飾るオブジェとしての意味合いもあるようで、LEDに飾られた透明なガラスの塔のように見えた。その塔状のエレベーター出入口に近づいたところで、めたとんは急に立ち止まり、人差し指を塔の頂上、その向こうに広がる夜空に向けた。

「あっちの方、上の方から来たんですよ。私」

 僕はめたとんの背中にぶつかりながら、その指先を目で追った。

 夜空に1ドットの光点が浮かんでいた。

 それは月の隣をゆっくりと横切って、澄んだ夜空に光のラインを描いていた。

 飛行機かな。

 いや、宇宙ステーションのようである。

 めたとんは首を振った。

「上から来たなんて、そんなのおかしいね。ふふ」

「うん。どう見てもこの宇宙飛行士には見えない」

「上じゃなくて、北なのかも。私、北の方から来たのかも。北……それは寒いところ」

「あぁ……」なんとなく合点がいった。

 仕事をするために北の方から来ためたとん。

 フェリーで海を渡って北の方から出稼ぎに来た少女、めたとん、というドキュメンタリー映像が僕の脳裏をよぎっていった。

 駅前広場の奥にはエスカレーターがあり、それは駅ビルに続いていた。

 駅ビルはまだ僕が訪れたことのない様々な土地への接続路である。その接続路を介して行き交う人々により、エスカレーターは昇りも降りも活況を呈している。エスカレーターから降りた人々は、僕らの脇を通り過ぎ、広場の左右に立ち並ぶ商業施設や、バス発着所へと流れこんでゆく。

 めたとんは広場の中央で回転してあたりを見回した。

「凄く人が多いから私の仕事ができるよ。ふふ」嬉しそうだった。

 その横顔や身体の側面は、商業施設のウィンドウや巨大ディスプレイが発する光に照らされ、それら施設内で売られている物品を思わせる、面白さや新鮮さを感じさせる緑や青の輝きを反射していた。

「仕事、何をするのか見ててもいい?」

「えー、恥ずかしいよー」めたとんは人工的な恥じらいの仕草を見せた。

「いいから見せてよ」珍しく強気な発言をする僕だったが、めたとん相手にはなぜかしっくりくる。

 めたとんは二度三度、形式的な恥じらいの仕草を見せてから、承諾の意を示すと、駅前広場の外周を巡るように歩き出した。

 その足取りは軽やかだが、人の流れが作り出すラインに乗ることができず、めたとんはピンボールの玉のように人々にぶつかりながら、僕の方を見た。

「綺麗なとこですね!」

 興奮がうかがえる上気したその顔には、引き続き映画のスクリーンのように四方から光が投影されている。

 ストリート・ミュージシャンたちが奏でる音楽に誘われるように、めたとんは流れる人々にぶつかりながら、気分の高揚を感じさせる足取りで、公園の東から南、南から西、そして西から北、北から東へと巡り歩いていった。

 まずめたとんは東のストリート・ミュージシャンの前で立ち止まった。

 未来的な機能性を感じさせる銀色の衣服に身を包んだ男性だ。折りたたみテーブルに設置された数台の電子機器を細やかに操作していた。

「凄いよね!」とめたとん。

「あっちの方はなんですかね」

 めたとんは南のミュージシャンの前へと移動した。南のミュージシャンはロックバンドのようであった。よく聴き取れなかったが、歌のテーマは『永遠に生きる』ことのようであった。

「ブラボー」とめたとん。他の観客がギターケースにお金を入れるのを真似しようとしてポケットに手を入れたが、やはりそこには何も入っていないようだった。僕は財布からお小遣いの幾ばくかを取り出しギターケースに入れた。めたとんは羨ましそうにそれを見ていた。

 次にめたとんが聴き入った西のミュージシャンは、水色のワンピースを着てキーボードを弾き語る女性だった。人を好きになる気持ちが歌われていた。

「いいですね」とめたとん。

「いいよね」と僕。ミニアルバムを購入した。

 最後にめたとんが聴き入った北のミュージシャンは、バケツを手で叩き、塩化ビニールの水道管に息を吹き込んでいた。水道管が唸り、バケツは爆発したかのようであった。めたとんは水道管の前にしゃがみこむと、その中を覗き込むようにして、興味深そうに演奏に耳を傾けていた。

「じゃ、私もそろそろ始めるよ」

 ひと通り駅前広場を巡っためたとんは、広場の中央、エレベーターの裏に立ち、背中の鞄を下した。

「何を?」僕は個性的なミュージシャンたちの演奏に打たれて意識朦朧としていた。

「ふふ。仕事だよ。見ててね」

 めたとんは鞄をごそごそ漁り、中からアルミ製の弁当箱を取り出した。

 そしてそのふたを開けると、自分の足元に置いた。

「これでよし、と」

 まさか、めたとんも、ストリート・ミュージシャンだったというのか?

 僕は固唾を呑んでめたとんを見守った。

「あーあー、えーえー、がーがー」

 めたとんは発声練習らしきものを始めた。

 ど、どんな歌が聴けるのだろう。

 僕は邪魔にならないよう斜めの位置に移動した。

 めたとんは、ゆっくりと目を閉じ、深呼吸をし、それからぱちっと目を開いた。

 そして駅ビルのエスカレーターから降りて来る人々に向かって、大きく口を開けた。

 ……あ、あれ?

 その大きく開いた口から発せられたのは、歌ではなかった。

 めたとんの声、それは歌というより、演説のようだった。

 しかも日本語でも英語でもなかった。

 テレビでも映画でも聴いたことのない、どこか遠い国の、謎の言語のようだ。めたとんはそれを身振り手振り付きでしゃべり続けている。だがその身振り手振りも、何を表現しているのか僕には何一つ理解できない。

 これは……どういうパフォーマンスなんだろうか?

 コンセプトがまったくわからない。

 そのためか、誰一人めたとんの前に足を止めない。

 それどころか、めたとんの周囲に、人を遠ざける結界ができたかのようだ。彼女を中心に半径四メートルほどの球状のスペースが空いていた。それはそれで逆に凄いことであったが……とにかく誰にも顧みられることのないまま、めたとんは謎のパフォーマンスを続けた。

 完全に没頭しているようだった。

 一時間経ったあたりで、仕事帰りと思われる男性が、ついに空白のスペースに入ってきて、めたとんの斜めで呆然としている僕に小声で聞いた。

「これは……何やってるの?」

「わ、わかりません」

 男性は首をかしげつつ、すぐにめたとんの声の及ぶ範囲から去っていった。

 さらに一時間経った。

 本当にこれは一体、何をやっているのかと質問したかったが、めたとんは一心不乱にパフォーマンスを続けており、口を挟める隙はなかった。

 立ち去るわけにも行かず、しかし目の前で行われているこれが何なのか理解できないまま、目をかっと見開いて演説を続けるめたとんの斜めで、僕はだんだん朦朧としてくる意識をなんとか保って立ちすくんでいることしかできなかった。

 と、そんなあるとき、塾帰りか何かの、小学生と思われる少女がひとり、興味深そうに、柱の影からめたとんのパフォーマンスを伺っているのを、僕は視界の隅に目撃した。

 その小学生はじりじりと空白のスペースに近づいてきたかと思うと、ついにその結界の内側へと足を踏み入れた。そしてさっと小走りで、めたとんの足元のアルミ弁当箱に駆け寄り、そこに硬貨をそっと置いた。かと思うとすぐにささっと走り去っていく。

 めたとんは両手を広げて垂直にジャンプし、駆け去る少女の背中に何語かわからない言葉を投げかけた。

「…………」

 最終バスの時間が近づいてきた。

 謎の言語による演説というパフォーマンスを、もうめっきり人通りも少なくなった駅前で枯れた声で続けているめたとん、しかもたまに跳躍するめたとんに、僕は斜めからそっと声をかけた。

「あの……」

「あ、ふみひろ……げほっ、げほっ。見ててくれたんですね」

「ずっとそこにいたけど」

「集中してたので気づかなかったよ。ごほごほごほ」

「ちょっと待ってて」

 僕は小走りでコンビニエンスストアからジュースを買ってきて、めたとんに渡した。

 広場の隅の花壇に腰掛けてジュースを飲み、額の汗を拭いつつ、めたとんが言う。

「どうでしたかね? 私の仕事」声は枯れ切っているが、何か充実感のようなものを滲ませている。

「うーん。よくわかんなかったかな」正直に答えた。

「えー、なんで?」

「だって、何を言ってるのかわからなくて」

「めたとん語だよ。めたとんが考えた言葉だよ」

「……めたとん語で、何を喋ってたの?」

「それはね」

「それは?」

 めたとんは、まためたとん語なるものを咳き込みつつ僕に発した。

「だからそれ、何なの?」

「これはね」

「これは?」

「めたとん語だよ」

「めたとん語で、なんて喋ったの?」

「それはめたとん語でないと言えないよ」

「日本語に翻訳できないのか?」僕は湧き上がる貧乏ゆすりを抑えることができないまま低く聞いた。

「日本語に翻訳できることを喋るなら、日本語で喋るよ。めたとん語でしか考えたり、喋ったりできないことを考えたり、喋るために、めたとん語はあるんだよ」

「へーそうなんだ」

 本当に意識が朦朧としてきた。僕はもうこの件に関して考えることをやめた。

 広場を見回す。ストリート・ミュージシャンたちはもう皆、機材をたたんで広場から去っていた。

「私、身体の操縦は苦手だから、音楽はできないの。でもめたとん語は上手だよ」

「…………」

 駅前広場の時計を見ると本当に最終バスの時間が近い。

「僕はそろそろ帰るけど、君はこのあとどうするの?」

「私も帰るよ」

 めたとんは花壇の縁から立ち上がった。

「家、あるの?」

「何を言ってるんですか。あるに決まってるよ」

「でも、北の方から来たって」

 めたとんは、人差し指をこめかみにあてて長考を始めた。

「生まれた家は遠くにあるよ。でもこの土地でお世話になる家があるんだよ。もう連絡が行ってるはず。確かあっちの方にあるよ」

「僕もそっちの方だ」

 めたとんは駅前に来た時と同じバス乗り場の列に並んだ。その横に僕も並ぶ。

 まもなくバスが来た。

 乗り込んだめたとんは、アルミの弁当箱から硬貨を取り出すと運賃箱に入れた。出てきたお釣りを使って、めたとんは僕の分も払ってくれた。

「あ、ありがとう」

「ふふ。どういたしまして」

 ジャラジャラと小銭がめたとんの手のひらから運賃箱に流れ落ちていく。

 バスの奥へと歩いてゆくさなか、足取りに合わせて、めたとんのポケットから、残りの小銭のキラキラと弾む音が聞こえる。青い蛍光灯の下、僕らは後部座席に、手足を縮め、膝の上に鞄を置いて座る。

 その周りにぎっしりと乗客が座ったところで、バスは発進した。

 めたとんはポケットから小銭を取り出し、胸の前で手を広げた。

「今日は八十円の儲けでした。これならやっていけるかも」

 何をやっていくつもりだろう。非現実的なことを口走っている。

「…………」

 ふと見ると隣でめたとんは目をつむっていた。もしかしたら寝ているのかもしれない。僕も目を閉じる。

「…………」

 二時間近く謎の演説を聞いて酔ったように朦朧とした心の中に、夢のように不思議な映像が浮かんでは消えていく。

 猫のような耳を頭に生やした美しい女性。めたとんにそっくりだが、より人間味がある、腰に手を当てて不機嫌そうな顔の少女。

 夢の中のすべての登場人物や舞台は、どれも何かの意味の象徴であると、かつて僕はコンビニで購入した、夢に関する雑誌の中で読んだことがある。では、感情と共にぴくぴくとよく動くあの猫の耳と尻尾は、あれは何を象徴していたのだろう。あの女性の夢の様な美しさは何を表していたのだろう。あいつの不機嫌そうなそぶり、あれは一体、何だったのだろう。窓の外から差し込んで、まぶたを通して僕を刺激し続けるこの光、これは何の象徴なんだろう。

 眠りに落ちるライン際で、疑問への答えが、ひとつずつ現れては、消えていく。だがそれは僕が普段使っている言葉では考えられない、だから言葉にはなって固まること無く、一瞬、心の中に形を結んでは、すぐにほどけて消えていく。

「ぐー、ぐー」

 半分、夢の中、半分、バスの中、夢と現実が混ざった世界の中で、僕は安心してバスに揺られていた。

 隣から聴こえてくるいびきに耳を傾けながら。