顔を上げると、目の前にひとりの少女が立っていた。夜風に揺れる街路樹の脇にたたずみ、こちらを見ていた。

 年齢は僕と同じぐらいか。

 これからキャンプにでも出かけるのか、巨大な登山鞄を背負っている。

 確かこの人、下校するときにもこのあたりで見かけた気がする。もしかしてずっとこのあたりをぶらついていたのか。

 まさかな。

「…………」

 と、僕が見つめているその前で、ふいにその少女は閃光を発した。

 彼女の上着に、車道をゆく車のヘッドライトが反射したのだ。

 彼女が着ているのはどこにでも売っていそうな薄手のダウンジャケットに見えたが、布と布をつなぐ糸に反射率の高い素材が使われているようだった。

 右手の車道を車が流れてゆくたび、少女の体の上に幾何学的な光のラインが浮かび上がる。その明滅に僕の意識は吸い込まれた。

「…………」

 何十台目かの車が少女を輝かせ、夜の闇が少女を再び暗くしたとき、やっと僕は我に返った。

 目の前にいるのは知らない人だ。

 この歩道で二回ほどすれ違おうとしているだけなんだ。

 そんな無関係の人を、こんなに、いつまでも、見つめ続けているわけにはいかない。

「……くっ!」

 僕は強い意志力を発動し、視線を切った。さらに強い意志を呼び起こし、右足を斜め前に出した。

 だがそのときだった。少女の足が僕と同じ方向に出た。このままでは衝突してしまう。

 僕はとっさに逆の足を斜め前に出した。だがそのとき少女の逆の足が僕と同じ方向に出た。夜空を貫く稲妻のような軌跡を描いて少女と僕は接近していく。

 あ、危ない!

「うっ!」

「きゃっ!」

 肩が衝突し、その反作用で各自、斜めに倒れこむさなか、僕はとっさに手を伸ばした。少女は僕の手を取った。

 だが、大きく崩れたバランスを保つことはできず、僕らはもつれ合って街路樹の根本、冷たい土の上に転がった。

「あいたたた……あ、あれ」

 気が付くと、僕は少女に馬乗りになり、その胸の膨らみに手を乗せていた。

「ご、ごめん!」

 僕は慌てて手をどかした。

 だが……意外にも僕に馬乗りになられている少女は「ふふ」と、くつろいだ声を上げた。

「ふふ、面白いよね」

「え、何がですか?」

「私は面白いよ」

「だから何がですか?」

「少し前までとは、違う視点と感覚が、私の意識に生じているよ。今、私の目には、差し込む光が届いているよ」

 少女の視線、それは僕の背後の夜空に向けられていた。振りかえって見ると、確かにそこでは雲の隙間に、星々が瞬いていた。

「ふふふ」

「…………」

 雄大な精神性を感じさせる彼女の笑みをまた見おろすと、僕の中にも謎の落ち着きが伝染してきた。僕も星の光を見つめた。少女の瞳に反射している星の光を。ただし体重をかけないよう、少し腰を浮かせて。

 呼吸が楽になったのか、少女は深く息を吸い込んだ。

「すー」という音が聞こえてくる。僕も止めていた息を吸い込んだ。

「すー」

 湿った土の匂いと、謎の紅茶の香りが胸に満ちる。

 やがて「はー」という音が聞こえてきた。それに合わせて僕も息を吐いた。

「はー」

 自分の中に存在していたことも知らなかったさまざまな緊張が、夜の空気の中に解き放たれていった。

 星の光は少女の瞳の中で輝き、車道から繰り返し浴びせられるヘッドライトの閃光は、少女の衣服に幾何学模様をリズミカルに浮かび上がらせていた。

 数秒後、その魔法のようなひとときはふいに終わった。

「きゃっ! いつまで乗ってるの? こ、怖いよ……」

 少女は両手で自分の胸をガードすると、怯えた顔で僕を見上げた。

「あ、ご、ごめん!」

 ハシゴを外されたような不本意な想いを抱えながら、僕はすみやかに少女から離れて立ち上がった。

 意識が急速に日常モードに変わっていき、強い罪悪感が湧いてくる。

 見知らぬ少女に馬乗りになることを楽しむだなんて、僕はなんていう愚かなことを。

「怖いよ」という少女の言い分はもっともなことである。

 だが、いたずらに自分を責めるのはやめておこう。

「…………」

 僕は気を取り直すと、まだ街路樹の根本に転がっている少女に手を伸ばした。

 少女はしばらくの間、その手を取っていいのか迷っているようだったが、やがてグッと僕の手を掴んだ。

「…………」

 少女はさきほどから妖精、あるいは天使のような雰囲気を発していた。そのため片手で軽々と引き上げられそうだっがた、それは先入観に基づく錯覚に過ぎなかった。

 その肉体は普通に重い。しかも少女は完全に体の力を抜いていた。地面から引き上げられる体験を楽しんでいるようだ。

 一瞬前まで「怖いよ」と、怯えた顔を見せていたというのに。

 どうやら気持ちの切り替えが早いタイプのようだった。

「よいしょっ!」

 僕は両足を踏ん張り、全パワーを使って少女を地面から引っ張りあげた。

 少女が二本の足で大地を踏みしめたことを確認してから、僕は手を離した。

「じゃあ……これで」

 名残惜しいが背を向ける。

「……ほい」

 僕は自宅方面に向かって歩き出した。

 母はまだ帰ってきていなかった。祖父の友人の親戚の娘も来ていないようだった。

 僕は玄関で呼吸を整え、今、自分がやるべきことについて考えた。

「…………」

 まず母の家出に関しては、しばらく様子をみようという意思決定がなされた。人間、たまにはひとりになっていろいろ考える時間が必要だ。

 次に謎の来客の件だが、なんとなくまだ来ない気がする。でも念のため、メモを玄関に残しておこう。

『来客の方へ。家の者は外出中ですが、自由にこの家に寝泊まりしていってください』

 メモ用紙にマジックで伝言を書き、玄関ドアの、外からよく見えるところに貼り付ける。

「…………」

 そして僕は学校近くの通学路を目指して駆け出した。

 なぜかわからないが、もう一度、あの彼女に会いたい。そんな衝動に突き動かされて。

 だが彼女と別れてからもう二十分は経っている。

 何の手がかりもないこの町で再び会うことができるのだろうか。

「…………!」

 あ、会えた。

 さきほどの街路樹の脇に、別れたときと同じ姿で少女が佇んでいるのが見えた。

 だが全力で走っていたので、急に止まれず脇を駆け抜けてしまった。その僕の背に声がかけられる。

「あれ、さっきの人かな!」

「そ、そうだよ。こんばんは……君はここで何してるの?」

「それはわからないよ!」

「はあ、はあ……何がわからないんですか?」

「うーんとね、目的……存在……ここでの……自分の……何もわからないよ」

 少女はふっくらした頬に人差し指をあてて小首をかしげた。

「…………」

 膝に手をついて呼吸を整える僕の中に不安が広がっていった。

 大丈夫か、この人。

 だがその人は何の根拠があるのかわからないほほえみを見せた。

「わからないけど、そろそろ仕事を始めるよ! あなたさん、知らない? 私の仕事ができる場所」

「どんな仕事なんですか?」

「人が多ければ多いほどいいよ」

 人の多い場所といえば駅前だが……。

「連れてってあげようか?」

「え、そんな、悪いよー」

 少女は遠慮する素振りを見せた。僕はじっと少女を見つめた。少女は髪をさっと手櫛で梳かした。

「…………」

 僕は決断力を発揮した。

「少し遠いからバスに乗ろう」

 少女を引き連れてバス停へと向かう。