山田エリスの夢はダンスミュージックを作り、それをパーティで発表することだった。だがその夢の実現にはいくつかの障害があった。

 まず一つ目の障害は、ダンスミュージックを作る方法がまるでわからないこと。その方法を調べる方法についてもよくわからないこと。インターネットというものがあればどんなことでも調べられるはずだが、それがどこに売っているのかもよくわからない。

 二つ目の障害は長い昼夜逆転生活のために、元気がなくて、すぐに眠くなってしまうこと。寝ているときの方が楽しいこと。

 三つ目は仮にダンスミュージックが完成し、発表パーティを開くとしても、呼べる友達が一人もいないこと。友だちは皆、何百年も前に死んでしまった。新しい友だちを作る方法がわからないこと。

 その他にも障害は大きいものから小さなものまで無数にあった。まじめにリストアップすればその数は百をくだるまい。

 たとえば会話が苦手なこと。日本語もそんなに上手ではないこと。ひっこみじあんなこと。

 誰か知らない親切な人が勝手に向こうから話しかけてきて友だちになってくれたらいいのに。そう思う。

 むろん、こういった障害のすべては、少しでもまじめに解決に向けて頑張ってみたら、どれも乗り越えられそうそうなものばかりだった。でもエリスは頑張れないし、頑張れないから乗り越えられないのだった。アパートで寝てばかりいるから。

 山田エリスは吸血鬼である。生命エネルギーを他の生き物の血液から効率よく吸収する能力を持っている。そのため不老不死である。

 昔は人間の血液から生命エネルギーを吸収していたが、その際に生じがちなさまざまな人間ドラマを回避するために、エリスは動物を利用するようにしている。

 近年ではおよそ十年に一度、夏至の日に、闇の獣医に頼んで家畜の血液をがぶ飲みさせてもらう。

 それで十分、十年分の生命エネルギーはまかなえるのであった。

 吸血後、一ヶ月ほど体臭が獣臭くなり、性格が荒れるが、しばらく水だけで過ごせばいつものさっぱりとした無機質な感覚が回復する。

 あとは十年後の夏至の日までミネラルウォーターのみで過ごす。たまに寒天ゼリーも食べる。

 エリスの財源は金貨だった。大昔に曾祖母から相続したものを大切とっておいたのだ。今は押入の中の金庫に大切にしまってある。

 エリスは吸血鬼なので日光には弱い。長時間、強い日光を浴びていると細胞が溶けてしまう。溶けても寝ていればいずれ回復するけど、見た目が悪くなるので、できるだけ昼間は外に出ないようにしている。

 エリスは年に数回、日が暮れたころに、押入から金貨を数枚、取り出して、貴金属取扱店へと持っていく。

 定期的に金貨を持ち込むエリスは店員に資産運用を勧められたこともあったが、なんだか難しそうなので断った。

 エリスは複雑なことは考えたくなかった。単純なことも考えたくなかった。

 先日もエリスはどもりがちな声で金の換金を駅前の貴金属取扱店に依頼した。金相場は安定しているようだった。

 その帰り、少しだけ夜の駅前のきらめきを遠慮がちに浴びて歩いた。街のざわめきに少し心躍るエリスであったが、それよりも、慣れない環境がもたらす不安の方が大きかった。

 だからエリスはすぐにバスに乗って自宅に戻ろうとした。バスに乗り込む直前、駅前の広場を横切る際、見知らぬ人に斜め後ろから声をかけられた。

「あの、その髪……綺麗ですね」

「えっ?」

 何かほめられていることはわかったが、ずっと家で寝ているだけの生活を送っていたため、とっさに返事を返すことができなかった。足を止めることもできず、歩きながら振り向いて、口をぱくぱくさせて、声をかけてきた人のことを見た。

 若い男性が顔を赤らめながら、自分に一生懸命、話しかけている。少し離れた隣を歩きながら。

「あ、ナンパじゃないんですよ。すごく綺麗な髪だったから。いや、髪だけじゃなく、雰囲気が全体的に気になって……って、まあナンパみたいなものですね。ははは」

 さあっと頬が紅潮していくのがわかった。エリスは顔をそらし、さっと会釈すると、やってきたバスへと走り込んだ。

 精算機にカードをタッチし運転手の後ろの席に座り、呼吸を落ち着けながら、スマートフォンをいじるふりをする。それから、ちらりと窓の外をうかがう。

 エリスはとても優れた視力を持っており、その気になれば赤外線を見ることすらできる。だがその能力を持ってしても先ほど声をかけてくれた男性を見つけることはできなかった。もう雑踏の中に紛れてしまったみたい。

 いったいなんだったのだろう?

 やっぱりナンパなのかな。

 それとも私の髪の色が変だったのかな。

 それとも私の出している雰囲気がおかしかったのかな。

 わからないけど、もう会うこともないだろう。

 せっかく話しかけてきてくれた人を無視してしまった。

 なんだか苦しいけど、忘れてしまおう。

 年に数回、こうしてエリスは面白そうなドラマを逃す。

 エリスは吸血鬼であるためか、実のところ、多くの人間にとってきわめて近寄りがたい雰囲気を醸し出している。だが逆にその雰囲気に惹かれる人間もごく少数ではあるが存在しているのであった。

 なのに外からやってくる面白そうなことをエリスはすべて拒絶してしまう。そうして数千年が経過した。数千年かけて強まってきたこの心の壁はもう自力では崩せそうにない。

 帰宅したエリスはミネラルウォーターを少し飲むとベッドに倒れ込んだ。

 深夜に一度、ベッドから起きて、カーテンから差し込む月明かりの下、冷蔵庫から取り出した自作のトマト寒天ゼリーをスプーンで口に運ぶ。

 エリスの趣味は音楽鑑賞だった。ダンスミュージックが好きだった。歌詞が入っている歌を聴くと人間社会になじめない自分のことを省みて辛くなってしまう。だから歌の入っている音楽は聴きたくない。

 ばーんと派手でわかりやすい音楽が好きだ。でも人間の考えた歌も、人間の手による楽器演奏も好きじゃない。だから電子的なダンスミュージックだけをエリスは楽しむことができた。

 ベッドの中でイヤホンをして、ひとりだけの真っ暗闇の空間で、体はぴくりとも動かさず、心だけをリズムに合わせて揺らす。それがエリスの趣味だった。

 二十年ぐらい前に、自分でも音楽を作ってみたいという欲望がエリスの中に芽生えた。それからずっとエリスは心の準備をしている。ダンスミュージックを作るための心の準備を。あと五百年ぐらいしたらきっと、そういったものを作るための心の準備が自分の中に整うはず。でもそのころにはもう、今みたいなダンスミュージックは古くさいものになっている。

 だからエリスはきっとダンスミュージックは作らない。遙か昔、クラシック音楽を作ってみようとしたけど、結局、何も作らなかったのと同じように。

 あのころはまだエリスの中には行動力があり、好きな作曲家の近くに引っ越すなどということもできた。

 エリスは耳が聞こえない音楽家が住むドイツの森に引っ越した。しかし、森で散歩をしている作曲家と運良くすれ違ったときも、あたりさわりのない世間話しか口に出せないのであった。

 本当は「私はあなたの作る音楽が大好きです。あなたの作るような感動的な音楽を作るにはどうしたらいいですか?」と言いたかったのに。

 言いたいことが言えなかったエリスはドイツの森の自宅に帰宅して雨戸をしめてベッドに横になった。

 それから遙かなときが流れ、今日もエリスはベッドで横になっている。ドイツ語は忘れてしまった。

 住む場所は数百年に一度、世情にあわせて移り変わる。今はわけあって日本という国の都心にいる。

 だが、基本的にはいつの時代もエリスは寝ている。

 きっと私の心はどこかの時代で閉じてしまったのだろう。私に必要なのはカウンセリングなのかもしれない。

 たまにそんなことを思うが、エリスの心がいつ閉じたのかを探るには何千年にも渡る長い記憶を探る必要がある。

 そんな大変なカウンセリングにつきあってくれるカウンセラーはきっとこの世にいないはず。エリスはそう決めつけて今日も横になり眠り続ける。

 食べ物はいらない。ミネラルウォーターさえあればあとは何も口に入れる必要はない。たまに気分を紛らわすために赤いトマトの寒天ゼリーを作って食べるけど、本当はそれも必要ない。

 水にもこだわりはない。エビアンでもボルヴィックでも、コントレックスでさえも、なんでも気にせずにちびちびとペットボトルを傾ける。

 ベッドの上で、長年電源を入れられぬまま机上に放置された、Windows95がインストールされたパソコンの前で、空っぽのバスタブの中で、ちびちびとエリスは水を飲む。

 こんな生活をしていれば、一世紀や二世紀ぐらい、あっという間に過ぎていくのだ。

 こうして何もせずに時間を湯水のように使うことに対し、エリスも昔は罪悪感や焦燥感を感じていた。でも今はこれが自分なんだと思っている。

 ずーっとずーっと眠る気持ちよさを味わうのが私。主に水ばかり飲む水飲み吸血鬼が私。仕事もせず創造的なこともまったく何もしないのが私。

 ううん、それは正確じゃない。

 私だって、ごくたまにほんの小さな創造的なことはする。

 眠りに落ちる直前に、頭の中で鳴らすダンスミュージックの太鼓の拍動。それは私の中に無い臓器、胸の中に無い心臓の鼓動のように、少しずつ、おずおずと、布団の中の心の中で鳴り響く。そんなものを想像する日もある。

 どん。

 どん。

 どん。

 どん。

 今夜もエリスの心の中では、この想像の音が規則正しく繰り返されていた。

 それはエリスが今年になってから修得した、最大限の創造的な行為であった。

 どん、どん、どん、どん。

 エリスは心の中でひたすら繰り返されるその太鼓の音の列に没入し続けた。

 二十一世紀のある日、エリスが心の中に作り上げたダンスミュージックはずっとエリスの隅で鳴り響き続けているようだった。耳を澄ませばいつでもそのかすかな音を聴くことができた。

 今夜もその音に合わせてエリスは心の中で心を躍らせ続けた。今夜は本当に、自分の心が、音に合わせてダンスしている。そんな想像をすることができた。

 まず、自分の心の中に、箱のような空間が広がっていることを想像する。それは箱のような空間なので、前後、上下、左右がある。それら各部位は自由に動かすことができる。

 ひとつめの「どん」で、エリスは心の右端を、少し前に出した。

 ふたつめの「どん」で、エリスは心の左端を、少し前に出した。

 みっつめの「どん」で、エリス心の上部を、少し前に出した。

 よっつめの「どん」で、エリスは心の下部を、少し前に出した。

 そのように、心の中の空間の、その各部位を少しずつ前に出す想像をしたあとで、その動作を逆再生するかのように、次の「どんどんどんどん」という鼓動のループに合わせて、エリスは心の各部位を少しずつ後ろに下がらせていった。

 すなわち、どんどんどんどん、前前前前。

 どんどんどんどん、後ろ後ろ後ろ後ろ。

 エリスの心はそのように、前に、後ろに、小刻みなステップを踏み続けた。

 その後、寝ているとき以外は、いつもエリスは心の中でのそのシンプルなダンスを踊り続けた。

 エリスが心の中で五万回目のステップを踏んだとき、ふいにエリスは気がついた。

 自分の心の各部位が、もう何の意識も必要とせず、勝手に前後にステップを踏み続けるようになっていることに。

 エリスがベッドの中で暗やみに包まれているときは当然として、歯を磨いているときも、水を飲んでいるときも、心の中で勝手に鳴り響くリズムに合わせて、エリスの心の中の空間は、前に後ろにリズミカルにステップを続けた。

 まるで心の中に、そのような動きを続ける生命が宿ったかのようだった。

 貴金属取扱店に金貨を売りに行くときは、意識がバスや店員に集中するため、一時的に心の中のビートとダンスを忘れたが、もしかしたらそれは、エリスに忘れられているときも、心の中で響き続け動き続けていたかもしれない。 貴金属取扱店のカウンターに金貨を出し、ソファに座っておとなしく査定を待つ間、ふいに心の中に意識が向いたその瞬間、エリスはそこでずっと鳴り響いていた音と、そこでリズミカルに動き続けていた空間の存在に気がつくのだった。

 それはまるで、エリスの心の中に、ひとつの新しい生物が生まれ、そこで独自の命を持って息づいているかのようだった。

 帰宅途中、エリスはバスの中で、こう思った。

 このリズムを、さらに進化させてみよう。

 もう一つ音を付け足してみよう。

 どん、ちー。

 どん、ちー。

 どん、ちー。

 どん、ちー。

 こんな風に。

 その計画が心躍るものであったからか、夜のバスの暗い窓に映るエリスの青い顔には、数年ぶりの自然なほほえみが浮かんでいた。

 と、そのときである。

「あれ、今日は何かいいことあったんですか? 笑ってますね」

 発車間際のバスに乗り込んできた何者かがエリスに声をかけてきた。その者はエリスが座る席の脇に立ち、吊革につかまっている。

「え、あの、はい」エリスは顔に笑みを張り付かせたまま、あわてて受け答えをした。

「あ、僕はこの前、そこで声をかけちゃった者なんですけど。覚えてませんか?」

「え、あの、は、はい。お、覚えてます」

 そうだ、この人、この前、この髪が綺麗だと急に話しかけてきた人だ。

「僕はいつもこのバス使ってて、結構乗ってる人の顔覚えてるんですけど、あなたのことは初めて見ましたよ」

「え、はー、はい。数ヶ月に一回しか乗らないから」

 寝てばかりいるうちに、イタリアのように気さくに他人に話しかける文化が日本に根付いたのだろうか? いや、そんなわけはない。バス車内で他人に話しかけているのは男ひとりだ。なぜ……?

 という心の中の疑問を口にするより早く男は喋った。

「あ、実は僕、凄く人見知りなんで、こうやってトレーニングしてるんですよ。一日一回、魅力を感じた人に無理矢理、声をかける、という。でないとすぐに閉じこもっちゃうんで」

 ちらりと顔を上げて男を見る。男の日に焼けていない白い顔は紅潮している。もしかしたら男も緊張しているのかもしれない。もしかしたら、人見知りという言葉は本当なのかもしれない。そう思わせる、緊張しながらも頑張って話しかけているという気合いが男からは感じられた。

 変なの。

 人見知りなら、わざわざ話しかけなきゃいいのに。

 魅力?

 それを私に感じたってのは本当なのかな。

 どうなのかな。

 その後も男が勝手にあれこれ喋る言葉にかすかに相づちを打ちながら、エリスは心の中でそう独り言をつぶやいた。

 男はエリスのアパートの一つ手前のバス停で降りた。

 また会ったら声をかけますね、と言って男は去っていった。エリスは少し迷ってから、こくりと頷いた。

 帰宅し、手と顔を洗い、うがいをしてから、ミネラルウォーターを二口飲んで、ベッドに横になった。

 目を閉じる。

 心の中の空間に太鼓の音が鳴り響いている。

 それが心の耳で聴き取れる。

 エリスはそこに、ちー、という音をそっと付け足した。

 どん、ちー。

 どん、ちー。

 前よりも少しだけ贅沢になったその音楽に合わせて、心の中の空間は、前後にステップを繰り返した。

 その前後に揺さぶられるダンスフロアに、エリスはさきほどの男の姿を招いてみた。

 最初、男の姿は、鳴り響く音と揺れる空間に戸惑っていたようだったが、まもなく安心してその鼓動に身を任せた。

 その様子を、エリスはじっと外から眺めていた。

 迷惑にならないように、そっと、静かに。