街路樹が立ち並ぶ通学路で僕は立ち止まっていた。

 あたりはもう暗い。空には星が出ている。

 僕の目の前にはひとりの少女がいた。夜風に揺れる街路樹の脇にたたずみ、こちらを見ていた。

 年齢は僕と同じぐらいか。

 これからキャンプにでも出かけるのか、巨大な登山鞄のようなものを背負っている。

 まったく見知らぬ少女だったが、なぜか心惹かれるのを感じた。

 僕が見つめているその前で、ふいにその少女は眩しい閃光を発した。

 もちろん、そんなわけはなかった。

 ただの人間が光るわけがない。彼女が着ている白いダウンジャケット状の上着に、通り過ぎる車のヘッドライトが反射しただけだ。

 それはどこにでも売っていそうな薄手のダウンジャケットに見えたが、どうやら布と布をつなぐ糸に反射率の高い素材が使われているようだ。車のヘッドライトを浴びるたび、縫い目に光のラインが浮かび上がり、少女の体の上に幾何学模様を立体的に描き出した。

 右手の車道を車が流れ去るごとに、少女は輝いては暗くなるを繰り返していた。そのきらめきと暗転のリズムには、何かの意味深い情報が潜んでいそうに思えた。僕は少女を見つめ続けた。

「…………」

 そして何十台目かの車が少女を輝かせ、夜の闇が少女を再び暗くしたときに、僕は我に返った。

 目の前にいるのは知らない人だ。

 こんなに長く見つめてはいけない。

 今、手を伸ばせば触れられるほどの距離で僕たちは見つめ合っているが、そもそもいったい何がどうなって、こんなことに? どうして僕はここでこうして立ちすくんでいるのか?

 その疑問に対し、僕の脳はロジカルなストーリーを描き出した。

 つまり……部活帰り、僕は夜道をぼんやりと歩いていた。いつもと同じように心ここにあらずで歩いていたため、向こうからやってきたこの人とぶつかりそうになり、お互い自然と立ち止まってしまった……と、そんなところだろう。

 なんにせよ、僕たちは今、この歩道でばったり会ったばかりなのだ。

 いや、会ってなどいない。すれ違おうとしているだけなんだ。

 そんな無関係の人を、こんなに、いつまでも、見つめ続けているわけにはいかない。

「……くっ!」

 僕は強い意志を発動し、視線を切った。そしてさらに強い意志を呼び起こし、右足を斜め前に出して、心を惹かれるこの通行人とすれ違おうとした。

 だが、そのときだった。

 目の前にいる少女の左足が斜め前、つまり僕と同じ方向に出た。このまま進んだら衝突してしまう。

 僕はとっさに体重移動して逆の足を斜め前に出した。だがそのとき少女の逆の足が僕と同じ方向に出た。

 なんてことだ。夜空を貫く稲妻のような軌跡を描いて少女と僕は近づいていく。

 危ない!

 僕はとっさに体重移動をしてさらに反対の足を斜め前に出した。だがそのとき少女も反対の足を僕と同じ方向に出した。

「うっ!」

「きゃっ!」

 肩が衝突し、その反作用で各自、斜め後方に倒れこむさなか、僕は少女に向かって手を伸ばした。少女は倒れこみつつ僕の手を握りしめた。

 だが、大きく崩れたバランスを保つことはできず、僕らはもつれ合って街路樹の根本、冷たい土の上に転がった。

 そして気が付くと、僕は少女に馬乗りになり、彼女の胸の膨らみに手を乗せていた。

 温かい体温が伝わってくる。

 だが今のところ僕が自由に触っていい胸は母の胸だけだ。僕は慌てて手をどかした。

「ご、ごめんなさい!」

 だが意外にも僕に馬乗りになられている少女は「ふふ」と、くつろいだ声を上げた。

「ふふ、面白いですね」

「え、何がですか?」

「あれ、面白くないですか? 私は面白いですけどね」

「だから何がですか?」

「さっきまでとはまったく違う視野と感覚が、私の意識に生じているよ。今、私の目の前には広い星空が広がっているよ」

「はあ……」

「ふふふ」

 僕に馬乗りになられている少女は、心底くつろいでいる様子だった。雄大な精神性を感じさせるその笑みを上から見ていると、僕の中にも謎の落ち着きが伝染してきた。

 脳が緊急モードから、リラックスモードへと変化していく。

 それによって周囲の状況や、自分の感情を感じる余裕が出てきた。

「…………」

 僕はもう五秒ほど、今のこの状況を味わうことにした。

 ただし、体重をかけないよう、少し腰を浮かせて。

 すると、呼吸が楽になったのか、少女は深く息を吸い込んだ。

「すー」という空気が移動する音が聞こえてくる。それに合わせて僕も止めていた息を吸い込んだ。

 湿った土の匂いと、謎の紅茶の香りが肺の中に満ちる。

 やがて「はー」という音が眼下の少女から聞こえてきた。それに合わせて僕も息を吐いた。自分の中に存在していたことも知らなかった沢山の緊張が、夜の空気の中へと解き放たれていく。

「はー」

 土に横たわる少女の瞳には星々の煌きが反射していた。

 車道から繰り返し注がれるヘッドライトを浴び、少女の体を包む衣服には、幾何学模様が浮かび上がっていた。

 車のエンジン音と、どこかで鳴いている虫の音、そして自分と少女の呼吸音が、僕の意識を包んでいた。

「…………」

 数秒後、日常の中にふいに生まれた、その魔法のようなひとときはふいに終わりを告げた。

「きゃっ! いつまで乗っているんですか? こ、怖いよ……」

 少女は両手で自分の胸部をガードするような姿勢を作ると、怯えた小動物のような目で僕を見上げた。

「あ、ご、ごめん!」

 ハシゴを外されたような不本意な想いを抱えながら、僕はすみやかに少女から離れて立ち上がった。

 意識が急速に平常モードに変わっていく。同時に凄まじい自責の念が湧いてくる。

 見知らぬ少女に馬乗りになることを楽しむだなんて、僕はなんていう異様でおろかなことを。

「怖いよ」という少女の言い分はもっともなことである。

 だが、そもそも考えてみればこの少女の反応が異様だったせいで、僕までが異常な反応をすることになったという側面もある。いたずらに自分を責めるのはやめておこう。

 僕は気を取り直すと、まだ街路樹の根本に転がっている少女に手を伸ばした。

 少女はしばらくの間、その手を取っていいのかどうか迷っているようだったが、やがてグッと力を入れて僕の手を掴んだ。

 実は少女はさきほどからずっと妖精、あるいは天使のような雰囲気を発していた。少なくとも僕にはそう感じられた。そのため片手で軽々と引き上げられそうに思えたが、それは錯覚に過ぎなかった。

 僕と同じぐらいの身長だけあってその肉体は普通に重い。しかも少女は、完全に体の力を抜き、地面から僕の手によって引き上げられるという体験を楽しんでいるようだった。さきほど「怖いよ」と言って怯えた顔を見せたくせに。変わり身の早い奴だった。

 まあ、いつまでも怯えられるよりはいい。

 僕は両足を踏ん張り、全身全霊の力を使って少女を地面から引っ張りあげた。少女が二本の足で大地を踏みしめたことを確認し、僕は手を離した。

「じゃあ……これで」名残惜しいが背を向ける。

「あ、はい」

 見知らぬ通りすがりの少女もそっけなく答えた。

 僕は自宅方面に向かって歩き出した。

 五分ほど歩いてから、足を止めた。

 このまま家に帰ったら後悔する気がする。逆に言えば、ここで反転して引き返せば、何か凄く楽しいことが待っている気がする。

 僕はかつて体育の時間にすら出したことのないスピードで走って戻った。

 すると、さきほどの街路樹の脇に、別れたときと同じ姿で少女が佇んでいることに気づいた。

 物凄いスピードを出していたので、急に止まれず通りすぎてしまう。

 その僕の背に声がかけられる。

「あれ、どうしたんですか?」と少女。

「いや、あの……はあ……はあ……はあ……そっちこそ何してるんですか?」

「私? 私ですか? 私は……わかりませんよ」

「はあ、はあ……何が?」

「うーんとね、目的……存在……ここでの……自分の……わからないよ」

 少女は頬に人差し指をあてて小首をかしげた。

 その目の前で僕は膝に手をついて呼吸を整えながら不安を覚えた。

 大丈夫か、この人。

「まったく、わからないよ。でも、わからないなりに、とにかく仕事を始めようかな。でも……」

「でも?」

「どっちに行ったらいいかもわからないよ。この場所の地理がよくわからないよ。そ、そうだ、あなたさん、知りませんか? 私の仕事に適した場所」

「適した場所?」

「人が多ければ多いほどいいよ」

「そ、それなら……」人の多い場所といえば駅前だ。それはこの道をずーっと行った先にある、と反射的に教えてあげそうになったが、ぐっとこらえた。

 僕はもっと長くこの人の近くにいたい。そのために……。

「案内しようか?」

「ええー、そんな、悪いよー」

 少女は遠慮する素振りを見せた。

 僕は真実を見定めるために、ドキドキするフィーリングを強く感じながらも、目をそらさず少女をよく観察した。

 少女は顔を赤らめながら、髪をさっと手櫛で梳かしたりしている。

 僕はひとつの結論を下した。この少女は僕とのコミュニケーションを決して嫌がってはいない、むしろ望んでいる、と。

「遠慮しないで。そうだ、ちょっと遠いからバスに乗ろう!」

 僕はバス停へと向かった。

 気づくと少女の手を引いて歩いていた。

 また伝わってくる少女の体温が、僕の奥深くに浸透し、そこの何かを溶かし、熱くさせていくようだった。