通学路の真ん中に、巨大な鞄を背負った少女がいた。なぜか立ち止まり、僕と目を合わせている。

「…………」

 何か引きつけられるものを感じたが、見ず知らずの通行人だ。僕は軽く会釈して脇を通り過ぎた。

 五号室で昼寝したせいか、すっかり暗くなってしまった。通学路を僕は走った。

 自宅の窓には灯りがついていた。玄関のドアを開けると母が立っていた。

「おかえりふみひろ、夕ご飯できてるわよ」

「うん」

「ご飯を食べ終わったら、大事な話があるから寝室に行きましょうね」

 素早く夕食を完食した僕は先手を打った。

「断る!」

 母は呆れ返った、お手上げねというジェスチャーをした。

「禁断の核家族プレイをしようねってあんなに約束したのに、何もかも忘れちゃうだなんて、ひどいな。しゅん……」

 精神的に傷ついたことを表す擬音を口頭で発しながら、母はテーブルの皿を下げて台所で洗い物を始めた。

 肩が落ちている。僕はその背中に声をかけた。

「確かに僕はかつて『禁断の核家族プレイ』をする約束をしたかもしれない。この宇宙、そういうこともあるかもしれない。その可能性は否定しないよ」

 母はエプロンで手を拭うと僕を寝室に連れて行こうとした。僕が抵抗すると母はさらに力を込めた。

「約束を認めたということは、お母さんとセックスする、むしろしたいってことでしょ!」

「違うよ! つまり」

 力では勝てないので僕は戦いのフィールドを知的な議論に移行させようとした。理屈で戦ってやる。

 だが理屈での自己主張は、理屈による反発を呼ぶのであった。

 ダイニングテーブルに腰を下ろした僕と母との論戦が始まった。

 僕の主張の要点は、とにかく母と性行為はしないということだ。

 母は見下げ果てたという顔でお茶を淹れ、デザートのフルーツゼリーを冷蔵庫から出した。

「ふん、どうせ世間体が怖いのね。この今という時代の地球というローカルな惑星のこの国の中だけで通用する狭い常識に縛られてるだけなんでしょう。これだから子供は嫌になるわ。知ってた? 子供って実は大人より頭が硬いのよね」

 僕は輪郭をプルプルと輝かせるゼリーをスプーンですくいながら反論した。

「常識は関係ない。僕の気持ちとして、嫌だって言ってるんだ!」

「ぐすん……やっぱりママのことが嫌いになったの?」

 僕は首を振った。母は綺麗で可愛く、性格も実のところ好ましいと感じている。

 もしかして僕は母のことが大好きなのかもしれない。

 それはそれとして、僕は彼女の訴えを拒絶し続けた。

 最終的に母は泣きながら寝室に消えていった。

「ふみひろ」

 フルーツゼリーの残りをスプーンでつついていると、母が寝室から出てきた。

 目が赤い。背中に風呂敷包みを背負っている。

「ど、どうしたんだ?」

「ううっ、最後のあいさつよ」

 母は嗚咽混じりに言った。

「ママ、人生設計を間違えたみたい。やっぱり書面になってない約束なんて信じるべきではなかったのよ」

「またその話か。もういいだろそれは。どうせバイオリズム的なアレで、数日もすれば気分も落ち着くって」

「そういう問題じゃないのよ!」

 気圧されて、僕は居間の椅子に腰かけたまま後ずさった。

「せっかく真の愛で結ばれた心許せる関係だと思っていたのに……よく考えたら、約束を破ったり、ママの言うことをちっとも聞いてくれない人なんて、タダの他人じゃない!」

「ま、まぁ、そういう見方もあるかな。結局、人間は親であれ子であれ恋人であれ、常にひとりの独立した存在であるという……」

「そんなのとなんて、とても怖くて一緒にいられないじゃない!」

「そ、そうかな?」

「このママという病的な人見知り人間が、誰かを愛し、誰かに愛されるためには、ふみひろ、あなたが必要だったのよ! 生まれる前の魂レベルで了承をとってるから倫理的な問題はないし、自分の子だから怖くないし、実際ふみひろが小賢しい知恵を身に付ける前は何もかもうまくいってたわ! なのに急に社会常識を身につけたと思ったら、今度は自我まで獲得したようで、そうなったらもう、タダの他人じゃない!」

「確かに……うん。そういう意味では他人かもな」

「私はね、もっと一心同体の、身も心も癒着できる相手以外には、心の壁を上げるつもりはないの! 他人とだなんて、恥ずかしくて怖くて、一緒にいられないの! こ、こっちを見ないでよ! 恥ずかしいから……」

 母親は顔をそむけて後ずさり始めた。

 じっと瞳を見つめてみた。

 母はさらに顔をそらし、後ずさって背中を壁にぶつけた。

 なぜか耳たぶまで真っ赤にしている。

「…………」

 僕は椅子から立ち上がると、母の近くまで寄って、人差し指で母のお腹をつついてみた。

 母はビクッと全身を震わせ、その後、硬直した。

 思い出した。

 これは、母が僕以外の人間と接している時のモードだ。最近、しばらく見ることがなかったので忘れていたが、幼稚園での送り迎えのときなど、よその奥さんに話しかけられるたびに、このように母は怯え、硬直するのだった。

 壁際で硬直し、僕から視線をそらし、頰を真赤にしながら母は切なげな声をあげた。

「お願い。私との生活のこと……私としてきたこと、全部忘れて……他人にあんなこと覚えられていられたら、恥ずかしくて生きていけない」

「無理だよ。人間、そう簡単に記憶を出したり消したりできるわけないだろ。全部覚えてるよ」

「終わった……私の人生、終わったわ……許容量を超える恥の多い人生だった」

 母は壁に肩をこすりつけるように居間を出て行った。そして、玄関の棚に『さがさないでください』と書かれた紙と、『これを使ってやりくりしてください』という付箋がはられた預金通帳を置くと、靴を履いて、涙とともに振り返った。

「さよならふみひろ、愛してたわ!」

 そして玄関のドアを開けると外に駆け出して行った。

 呆然と見送ってしまったが、やがて気を取り直した僕は、運動靴を履いて外に出た。

 左右を見回す。

 暗い住宅街に街灯がぽつぽつと灯っているだけだ。

 僕は母を探して歩きまわった。

 どこにも見つからなかった。

 気がつくと、学校の近くまで来てしまった。

 まったく、どこに行ったんだ?

 そういえば今日、来客があるんじゃなかったか? 確か祖父の友人の親戚の娘とかいう……。

「……おっと」

 考えごとをしながら歩いていたら、通学路を向こうから歩いてくる人とぶつかりそうになった。僕が左に避けようとすると、その人も左に避けた。