部室内で僕は放たれた矢のように一直線に目標へと向かっていた。

「とにかく僕の家に来いったら来いよ」

 僕はかつて無い勢いで自分の欲求を押し通そうとした。

 天使を家に呼ぶと凄まじい家運上昇効果がありそうだ。何か性的な面白い出来事が起る可能性もある。その他いろいろな動機があるが分析している場合ではない。こういうのは勢いが大事なんだ。

 それに対して仕事がどうとか、行くところがあるとか、力のない抵抗をする二号。僕は次々とその抵抗を論破していった。

「行くところにはあとで行けばいいじゃないか。仕事は僕も手伝うから」

 すると僕の誠意が通じたのかついに二号は折れた。

「うーん、もう、仕方ないですね……それじゃ、あなたさんの家、目指してみます」

「やった!」

「でもですね、本当に行けるかどうかはわからないんですよ。運頼みなんで」

「運?」

「そう、運」

 二号はわけのわからないことを言いつつ出発の支度を始めた。

 ロッカーからエクスプローラー鞄を取り出し、その中にテントを詰めていく。

「私、ここから出たら、記憶と天使の力をほぼ完全に失いますからね」

「記憶も特殊な力も無くてお前、どうやって仕事をするつもりなんだ? 仕事以前に生きていけるのか?」

「わかりません」

「記憶なしでお前、どうやって『行く所』に行くつもりだったんだ?」

「だから、運……」

 やっぱり僕の家に連れていった方がいい。

 だが、よくよく考えてみればそれも難しいのではないか。そう言えば二号だけでなく僕も記憶を失うのだった。この部室の外に出ると。

「基本、運任せなんですよ。こういったディセンション・ワークは」

「ディセンション・ワーク?」

 二号は鞄を背負いながら答えた。

「よっと。ディセンション・ワーク、それは、外界から隔離された低次元プレーンの内部へとディセンション……つまり、その中へと降りてって、その内部から変化を起こそうとする仕事のことだよ」

「ふーん」

 背中の大きな背負い鞄のベルトを調整しながら、かつてない真面目な顔で二号は言う。

「特にこのプレーンは難しいよ。降下したエクスプローラーの上方への未帰還率は九割九分九厘を超えてるよ。超天使の私もどうなるかわからないよ」

「そんな……大丈夫なのか?」

「大丈夫かはわかりませんが、私がダメでも、代わりが沢山いるので安心してください」

 重そうな鞄を背負った二号は一休みのつもりかドサッとソファの僕の横のスペースに倒れこみながら説明した。

 今も昔も大勢のエクスプローラーや天使が、様々なゲートからこの世界へと侵入しており、各自、馬鹿になりつつも臨機応変に頑張って仕事をしているはず、と。

「だから私も馬鹿になるのは覚悟の上です。十年、二十年、いや、それどころか、一旦死んで、他の肉体に生まれ変わってもまだ馬鹿のまま、ふらふらと無目的にこのプレーンを放浪するはめになる、それも辞さない覚悟で部屋の外に出るわけです」

「なんだお前、そんなシリアスなこと考えてたのか」

「そうですよ」

「そうかー」

「そうなんですよ」

「でもさ。この部室にさえ帰って来れれば記憶が戻るだろ」

「確かに。ですが、どうやって帰ってくればいいんですか?」

「昨日のアレを使えないのか?」

「アレ?」

「これだよ」僕は二号の背中から伸びている光の触手の一本を指さした。

「これを昨日みたいに僕に刺してから外に出ればいいんじゃないか? そうすれば、昨日、僕が何度も二号さんのところに戻ってきたみたいに、ふたりは部室の外でも知らないうちに近づき合うことになるんじゃないか?」

「確かに、この光のコードには、モノや人を引き寄せる力がありますが……」

「そうそう、その触手で僕と二号さんを繋げば、僕が部室に来るたび、二号さんも部室に戻ってこられるんじゃないか」

「きっとすぐ抜けちゃいますよ。外に出たら私の天使の力も弱くなるもの」

「思いっきり刺せばいいんじゃないか? 抜けないぐらいに」

「いいの? 本当に抜けなくなっちゃいますよ」

「もちろん」

「えー、悪いですよ、そんな」

 二号は謎の遠慮を見せたが、僕の説得に最終的には応じた。

「えー、それじゃあ……刺しますよ」

 一本の光の触手が伸びてきて僕の胸の中ににすすすっと入っていった。

 特に僕としては感覚がない。

「いや……ちょっとムズムズするかな」

「抜けないように、あなたさんのハートセンターに固結びしますね。よっ、よっと」

「どうだ、できたか?」

「もうちょっと……あ、オーケーです。たぶんこれでリンクが固定されました」

 二号は他の七本の光の触手で、僕の胸に刺さっている触手を引っ張った。それはピンと伸びたが、僕の胸から外れることはなかった。

 いいみたいだ。

 僕はソファから立ち上がった。

「じゃあ……行ってみるか。外に」

「はい」

「外では、僕と二号さんはどういう関係性になるんだろう」

「それは……わかりません。あやふやな設定をもとに、新たなストーリーを創っていくことになるのでは」

 僕は自分の胸からうっすらと二号に向かって伸びている光の触手を見下ろした。引っ張って強度を確かめようとしたが、やはりすり抜けてしまう。

「そう言えば、あなたさんの名前、まだ聞いてなかったですよね」

「ふみひろ。伊藤ふみひろだよ」

「ふみひろさん、ですね。覚えておきます。それでは……行きますかね。あなたの世界に光をもたらすために」

 部室のドアの前に立つ二号の表情はいつも通りうつろだったが、なぜか強い意思の力が感じられた。ふいに僕はこの存在に多少の敬意を抱いた。遠いところからわざわざ僕の世界に、何かいいことをするためにやって来てくれたのだ。僕としても出来る限りサポートしたい。

 二号は部室のドアノブに手をかけた。

 僕はその横に並んだ。

 ふと目と目が合う。

 二号の瞳の奥には光の海が広がっていた。僕とメタトロン二号はその光の海で、永遠のような一瞬のようなひとときを体験した。その後で、少し微笑みながら、二号は部室のドアをがちゃりと開けて、部室の外へと足を踏み出した。

 僕も後を追った。

 部室を出ると外はもう夜だった。背後でドアが音を立てて閉じた。

「…………」

 二号は息を呑んで部室棟の廊下の真ん中で立ちすくんでいる。

 廊下には窓が一列に並んでおり、その向こうには日が暮れた夜の世界が広がっている。廊下の天井では切れかけた蛍光灯がざらついた光を発しており、そこから灰色の蜘蛛の糸が垂れ下がっている。

「……行くか、あっちだ」

 二号は頷いた。

 僕と二号は回れ右をして廊下を歩き始めた。

 旧校舎を抜け、新校舎の昇降口に向かう。

 僕ら以外に生徒はいない。

 月明かりに照らされ靴箱が長い影を作っている昇降口で、僕は上靴を外靴へと履き替えた。

「あの、私はどうすれば」

 二号は靴箱の前で立ち止まり、自分の登山靴風の靴を見下ろした。

「二号さんはそのままの靴で外に出ていいよ」

 二号は恐る恐る昇降口のスノコから足をおろした。

 昇降口を出て校門も出ると、並木道を走る車のライトが僕らを眩しく照らした。歩道には帰宅中の生徒と思われる暗い影がいくつか歩いていた。

 その中に僕らも影となって歩き出していく。隣を歩く者の輪郭はまだうっすら輝いているが、この夜の暗さに取り囲まれて今にも消えそうだ。

「まるで重力に引かれて堕ちていくようですね」

 僕の隣を歩く者が不安げに呟く。

 いつの日か耶麻川とも歩いた学校前の夜の道を一歩歩くごとに、隣を歩く者の光の触手は一枚ずつ夜の空気の中に蒸発していく。僕らを繋いでいた一本の光のコードももう見えない。

「大丈夫だよ」

 それが誰だったかわからなくなりつつある、隣を歩いている女性に対して僕は声をかけた。不安と緊張を和らげようとして。

「きっとまた戻ってこれるから」

「むっ。上から来た光の何かである私を、こんな暗いところで生きてきたあなたが励まそうというのですか?」

「うん。いらなかった?」

「いいえ……嬉しく思いますよ」

「そうか。よかった」

「連れて行ってくださいね。私を。あなたの家に」

「さっきは、どうしてあんなに抵抗していたんだ?」

「だって、あまり優しくされると、本当に好きになってしまいますから。そしたら仕事のこと、忘れてしまいそうで」

 僕は足を止めて二号を見た。

 そのとき二号の全身は、寿命の切れた電球が最後に一瞬の閃光を発するかのように、パッとまばゆく輝いた。

 その光は四方から押し寄せる夜の暗闇に包まれ、もう見えない。