「家に来ないか」

 僕は壁を超えたような達成感を得るとともに、いくつかの貴重な洞察を得た。

 まず第一の洞察は、善行を施すというのは気持ちが良いものだということ。特にそれが、こちらの懐が傷まず、いい気分だけを味わえるものならなおさら。

 第二の洞察は、異次元からやってきた、この世に居場所の無い天使を自宅に誘うというシチュエーションに対し、明らかに僕は一種の興奮を感じてるということ。それは例えるなら魅力的だがワケありで衣食住に困っている家出少女を家に連れ込むような感覚と言ったところか。

 二号は即答した。

「いや、いいです」

「遠慮するなよ。いいから来いってば」

「いいですって」

「なんでだよ」

「だって……私達、まだ知り会ったばかりだし。知らない人の家に行ってはいけないというこの世のルールが脳にあるから」

 二号はものを片付けるふりをする手をとめて、そう言った。

「な、何言ってんだよ。そんな耶麻川の脳に入ってる古い記憶なんて、今の僕たちに関係ないだろ。そんなの無視しろよ」

 すると二号はさらりと新しい情報を口に出した。

「ごめんなさい。私、この宇宙を創造した凄い天使、いわば超天使だから。本当は人間とのつきあいかた、よくわからないの」

「はあ? 宇宙を創造しただなんて、そんな大げさな。それじゃ、天使というより神様じゃないか」

「うん。そういってもいいかもしれない。私、無限の超天使なの」

 二号は顔を赤らめると、またティーサーバーのカプセルをカゴから取り出しては並べ、それをまたカゴに戻すという作業に戻った。

「…………」

 一見、家庭的な行為にふける女子高生のようだ。

 その背中を眺めながら僕は唖然としていた。

 おかしい。

 なんだこの、一連の流れは。

 僕の中に謎の空気が醸成されつつある。

 その謎の空気は、言語化するとすれば、たとえば『恋の始まり』とでも言うかのような。

 しかも、さっき二号が口に出した新情報が、その謎の空気を加速させているように感じた。

 その新情報について僕はもう少し探ってみることにした。

「二号さん。お前がこの宇宙を創造したって本当なのか?」

「うん。そうだよ」

「まさか……なに言ってんだよ」

 疑りつつも僕は二号の名前をインターネットで調べてみた。するとすぐに『メタトロンは神の化身である』という説を発見した。

 信頼性が一気に高まった。

「ならお前、どうしてそんなもに馬鹿っぽいんだよ。口調も性格も安定しないし」

「それは、ごめんなさい……前も言ったけど、私、この世界に入ってくるために、意識を小さく分割しすぎた馬鹿メタトロンだから。この肉体にもまだフィットしきれてないし。でも、上の方のメタトロン本部は!」

 賢いよ、全知全能だよ、と二号はまた顔を赤らめてそう呟くのだった。

 そのような二号の、超天使的な、あるいは神的な属性を告げられるたびに、僕はなぜか、自分の心臓の鼓動が高まっていくのを感じた。

 とくん、とくん、と音が聞こえるほどに。

「…………」

 そう言えば、僕は昔から、どんな芸能人も、クラスの美人とされている女子のことも、まったく恋愛の対象として見ることができなかった。

 見た目だけならどんな女性よりも母が美しく性的魅力に溢れていると感じられる。だが人間は見た目より中身だ。母は中身がダメだ。面白いところはあるが、依存的な性格が母の魅力を大きく下げている。

 かろうじて耶麻川には対してはその性格と肉体、その両方にそこはかとない好感を覚えてきた僕だったが、それも友人としての親しみの方が大きかった。だから僕は恋愛に関して、感受性が壊れているのかと思っていた。

 だがもしかしたら、単に僕の好みのタイプが、僕の身近にいなかっただけなのかもしれない。

 初めて感じる胸のトキメキに困惑しながら、そう思った。

「…………」

 そう、もしかしたら僕の好みのタイプは、超天使というか、神の化身というか、そういう類のものだったのかもしれない。実は初見から二号にときめいていたのだが、それを隠すために、僕は小学生のように二号に冷たく当たってきたのかもしれない。

「いいや、馬鹿な……」

 こんな、昨日会ったばかりの、なんだかよくわからない、そもそも性別とか持ってなさそうな変な存在に、僕が一目惚れするだなんて、そんなことがあるわけがない。

 僕は自分の精神の明確かつ自然な動きを否定し、見て見ぬふりしようとした。

 だが、明瞭に感じているものを否定しようとする心の働きは、先ほど廊下を歩きながらパラパラめくって読んだ吉岡先生の著書を連想させた。

 吉岡先生の著書『俺の教え子たちがこんなに俺のことを好きなわけがない』では、主人公は永遠に自分の気持ちの有り様に気づくことがない。あたかも前頭葉あたりに何らかの欠損を持っているかのように、主人公は自分の気持ちにも他人の気持ちにも気づかない。そんな主人公が三人のヒロインとイチャイチャするという話が本の最終部まで延々と続く。

 もし僕がこんなシチュエーションに陥ったなら、絶対に自分の感情を一瞬で認識し、それを明晰に表現するぞ。

 僕は廊下で本をパラパラめくりながらそう思った。

 だが今まさに僕は自分の感情を自分に隠し、言いたいことも口に出せずという、哀れな束縛された引き伸ばし状態に落ち込もうとしている。

 そんなのは吉岡先生の著作の中だけで十分だ。

「こうなったら仕方ない。言うか。二号さん……」

「はい?」

「実は」

「なんですかね?」

「それがさ。実は僕……好きみたいなんだけど」

「何を?」

「二号さんのことを」

「あぁ……それが何か」

 僕は人間の恋愛行動について手短に説明した。二号は自分の脳内を参照する顔つきをすると、まもなく恋愛に関する諸々を理解したと僕に告げた。

「ふふーん。私のことが好き、ね。……なるほどねー、好きなんですねー。ふふーん」

 そしてまた二号は僕に背を向けてお茶のカプセルを並べ始めた。

 しばらく無言の時間が流れる。

 う、馬の耳に念仏、天使の耳に好意の告白だったか。

 僕は虚しい、恥ずかしい、惨めな気持ちに囚われた。

 だが、そのときだった。

 黒髪の間から覗く二号の耳朶が明らかに赤く染まっているのが見えた。

 もしかしたら何かしらの感情的な反応が生じているのかもしれない。

 勢いづいた僕はソファから立つと二号の隣に立って問いかけた。

「あのさ、二号さんは、僕のことどう思う?」

「わかんないですよ。そんなこと言われても」

「いいからなんか言ってみろよ」

「うーん。……愛してますよ」

 二号は首を回転させ僕と目を合わせると、天使的な瞳の光を強調してそう言った。

 その瞳の奥には銀河の輝きが広がっていた。

 僕はその光が放つ透明な愛の感覚に意識を持って行かれそうになったが、ぐっと脳を収縮させ、意識を人間的なレベルにとどめた。

「愛とか言ったって、それはどうせ天使だからだろ。天使はふわっとどんな人間のことでも愛してるんだろ?」

「よくわかってるじゃないですか。天使はね、愛してますよ。無制限に、無条件に、あなたのことを、永遠にね」

「そんなのはどうでもいいんだよ。そういうのじゃなくて、人間的に、女子高生的にはどうなんだよ。さっき言ってただろ。エンジェリック・ボディをその肉体にしっかり繋いだって。だったらもう人間としての気持ちがわかるだろ?」

「そんな……」

 二号は僕から目をそらすと、もじもじとした様子を見せた。

 髪の毛をいじったり、スカートの皺を伸ばすような仕草をしている。その様子をじっと見つめていると二号は一言呟いた。

「……恥ずかしいよ」

「恥ずかしくてもいいから教えてよ。僕のこと、好きか嫌いか」

「わ、わからないけど……嫌いじゃないかも」

「え、ほんと?」

「ふふ」

 二号はいきなり僕の胸をぐっと押した。

 それは思わぬ強い力で、僕はソファにまで押し飛ばされた。そのようにして僕を遠ざけると、二号は棚に並べていたカプセルをひとつティーサーバーに入れ、スイッチを押した。

 マグカップになみなみとお茶が注がれる。

「はい。あげます」

 光の触手が伸びてきて僕に熱いマグカップを押し付ける。

「いらないよ。僕、さっき飲んだばかりだから」

「遠慮しないでいいんですよ。ふふ」

 仕方ないので僕はマグカップを受け取ると、ソファ上で少しずつお茶を飲んだ。

 棚によりかかり、その様子を眺める二号からは、何か嬉しそうな気配が感じられた。ふと気がつけば僕も何かを消化できたような安心感を得ていた。

 そう……一瞬で高まった一目惚れの気分、苦しい恋愛の気分、それは少しずつ安らぎ、穏やかな、心が通じ合うような温かみへと変わっていった。その温かみを吸収し、その安らかな気分が平常モードになったところで僕は言った。

「というわけで今晩、僕の家に来いよ」

「いえ、いいです」

「別に何もしないから。母親もいるし」

「いいですってば」

 だがそう断られるたび、逃げるものは追いかけて狩りたいの精神によって、二号をどうしても家に呼び込みたいという欲求が僕の中に強まっていった。

 その僕の圧力を感じたのか、二号は拒む理由を説明し始めた。

「私にもね、行く宛てがあったって思い出したんですよ」

「馬鹿な。お前はこの世界じゃ孤独な家出少女みたいなものだろ。家出少女は僕という親切な人の家に来ればいいんだよ」

「むっ、失礼な。私にだって知り合いぐらいいます。とにかくあなたさんのところには行かないですよ。行ったら遊んじゃいますからね」

「何して遊ぶ?」

「ダメですってば。そうそう、私、これから仕事なんですよ。だから行けません」

「仕事?」

「そう、仕事」

 僕は二号の仕事について聞いた。

「知りたいの? 難しいから言ってもわかんないですよ」

「いいから教えてよ」

「それは、簡単に言えば高次元の光を、この世界の人々の心に伝達することだよ」

「そうか。やっぱりよくわかんないな、天使の言うことは」

「実際に体験してみる?」

「うん」

「それじゃ今、高次元の情報とエネルギーの伝達、その許可がもらえたので、ちょっとやってみますね」

 二号は光の触手を耳の穴に差し込むと、脳の中央部にあるらしいツマミを回した。カチっと音がした。

 ふいに部屋の空気が変わった。二号は目を閉じた。

 そして静かに息を深く吸い込むと、それを吐き出し、そして言った。

「それじゃ、目の前にいる、あなたに対して光のエネルギーを送るよ。その前に、もう一度だけ、最終の確認をするよ」

「なんだよ、もったいぶるなよ」

「一応、決まりだから。最終確認。最終確認。えー、この心の目覚めを促す光のエネルギーを受け取ろうとしているすべての存在に告げるよ。このエネルギーがあなたの心に伝達されると、もう後戻り不可能な変容があなたに起り、あなたは目覚めてしまうよ。目覚めを望まず、もう少し、眠りを続けていたいのであれば、このトランスミッションチャンネルをすぐに閉じてね」

 そう言われてみると、一瞬、僕の中で何かが身じろぎしたものがあった。

 それは二号がすでに放射し始めている何かを受け取り、それによって、心の中にもう後戻りできない変化が生じることに抵抗する僕の心の一部分のようだった。しかし僕の大部分は変化を望んでいたらしく、僕は部室を出て行くことはなかった。

「じゃあ、あなたがまだ私のこの声に接し、それを受け取っているというその事実をあなたの許諾として、情報伝達、始めるよ。ちょっと心を開いてね」

 僕は何かが始まる予感に電撃的に打たれ、少し怖くなり、全身に鳥肌が立つのを感じた。

「ふふ、大丈夫ですよ。痛くないし、怖くないので」

 それからまた、二号が呼吸する音が部室に響いた。

 すー。

 息が深く、二号に吸い込まれていく。

 それとともに……なんだこれは?

 光がこの部屋に集まってくる。

 宇宙全体から光が押し寄せてきたみたいに。といっても、その光は目には映らない。だがそれは僕の心の目にはっきりと映り、それは肉体の目、つまり通常の目で見える部室の映像に重なっている。自分に心の目なんてものがあったのかという驚きを感じている間もなく、二号の吸気と共にその透明な光はどんどん強くなっていく。

 そして、あるピークを迎えたところで、二号の胸は満杯になり、そこで息は保持され、光のエネルギーも保持された。

 そのとき、部室の空間のあらゆる座標に緊張が走っていた。この三次元の空間を構成する数億、数兆というあらゆる座標に光のエネルギーが蓄えられ、そのエネルギーは空間のあらゆる点に凝縮していた。

 部室の空間のすべての点はビリビリと電気を発しているようだった。その帯電したような空間の中で、僕も緊張して息を飲んで、ことの成り行きを見守っていた。

 二号は胸いっぱいに吸い込んだ息をまだ吐かない。

 空間に充電された光のエネルギーも圧縮されたまま震えている。

 ど、どうなってしまうのか。

 いつの間にか僕も息を止めてこの時間が止まったような瞬間の中、光の震えを見守っていた。

 そして、ものすごく長い年月が流れ過ぎた気がしたそのあとに、ついに二号が息を吐いた。

 はー。

 その吐息と共に、光は拡張を始めた。

 吐き出される息と共に、空間の各座標は、その内側に貯めていた光のエネルギーを外側へと放射し始めた。空間の各点の内部に凝縮されていた光のエネルギーが、外へ外へと流れだし、そのエネルギーは周囲に存在する他の点へと送り込まれて行った。

 空間の一点から他の点へとエネルギーが伝わっていく。エネルギーを他の点から吸収することで、各点はより眩しく輝き出し、その光の放射を周囲の点へと送る。輝きが輝きを呼び、とてつもない光のハウリングが始まる。

 空間の各点は相互に光の連結を始めた。光が光を呼び、その強まった光がさらに強烈で濃厚な光を呼び出した。

 それらはハウリングを起こし、空間のすべては強まり続ける光によって、完全に一杯になった。

 そして、コップに一杯になった水が溢れ出すように、光があふれ始めた。

 光はもう縦横高さの三次元に収まらなくなり、四次元へと、さらに五次元方向へと、チョコレートファウンテンのように滑らかにあふれ始めた。

 かつて見たことのない美しく濃い光、それはそれを見ている僕の感覚に満ち、感情に満ち、思考の中にまで満ちていった。

 その光と波、そして、それら存在するすべてのものが浮かんでいる透明な意識のフィールドと一つになって、僕は言葉を失い、存在していた。その中で僕は完全なる智慧を手に入れた。

 その深い静寂の中で時間を超えた時間が流れていく。

 僕は存在することの神秘を知った。

 *

 そして、無限に思える、もしかしたら本当に無限だったのかもしれない時間が流れ過ぎたあとで、だんだん光が薄らいできた。

 それとともに意識状態が、少しずつ日常のものにシフトしていくのが感じられた。先ほどまで僕と一つのものだった、この宇宙に存在する万物とのリンクがゆっくり切断されていくとともに、意識の範囲がこの僕という独立した存在の中にスススっと狭められ押し込められていくのが感じられた。

 だがそれはそれで、まるでもう一度、この肉体を持った人間として再誕生するような爽快感溢れる体験と言えた。

「はふー」と吐息が漏れる。

 まるで生まれて始めて呼吸したような爽快な気分で僕は深呼吸をした。

「ふふ」という笑い声が聞こえてくる。見ると、二号の瞳はいつもよりちょっと焦点が合っている。

 僕は二号とニコニコと見つめ合った。

 僕は友愛の感覚や、恍惚とした一体感を二号に対して覚えた。

 *

 その気持ち良い感覚を速やかに吸収し、消化したあとで、僕は襟を正して、事務的なことを聞いた。

「で……お前の仕事ってのは結局なんだったんだ?」

「え? 今のヤツを出来るだけ大勢の人に、何らかの手段でやることですけど」

「あぁ、なるほど……」

 先ほど僕が体験したものを、多くの人びとに体験させたいということか。

「なんだか冷静ですね」

「耶麻川のせいで、僕は昔からこういう体験、意識がいきなりグワーッと拡大する体験に慣れてるからかな。それに、ミーニャ。彼女に抱きしめられた時も似た感じになったし」

「あぁ……もう沢山、経験積みだったんですね……私はこれ、人にするの初めてだったんですけどね……」

 二号は耳の穴に光の触手を差し込むと、脳の奥にあるらしいスイッチをカチッと音を立てて回した。そして、うつろな視線を床に落とした。

 部室には盛り上がった祭りの後のような、気怠い空気が流れた。

 とりあえず僕はサイドテーブルに置いておいた茶を飲んだ。ズズズと茶をすする音が響く。それはもう冷めかけていた。

「……でもですよ!」と、ふいに顔を上げる二号。

「これまでの体験より、もっともっと気持ちよかったのでは? 何と言っても私という超天使からのダイレクトな光のトランスミッションですからね!」

 だが、僕の気分はさきほどの深い神秘体験の反動か、急速にフラットに冷えきっていくばかりであった。

「まぁ、確かに、良かったといえば良かったかな」

「あ、そうですか……」

 二号の目はもう一段階うつろになった。

「私の初めてだったのに……」

「お前、その妙な比喩的な表現はやめろよ」

「なんだか私、自信、無くなっちゃいましたね」

「なんの自信がなくなったって言うんだよ」

「仕事を始める自信……」と、肩を丸める二号が妙に人間らしく見える。

「じゃあ僕の家に来るか? 今日のところは何かして遊ぼう」

「ダメだよ……」と断る声に力がない。

 弱っているところをこのまま押せばイケるんじゃないかという気持ちが僕の中に高まってきた。