「……テント? なんだこれは?」

 ドアを開けると五号室の蛍光灯は点きっぱなしになっており、なぜかソファの奥に、テントが設営されいた。そんなに広くないこの部屋で、テントは大きな存在感を放っていた。

「……ああ、なるほど」

 まもなく僕は忘れていたことを思い出し、それに伴う強い精神的混乱を味わいながら、お茶を淹れた。

「…………」

 湯気の立つマグカップをサイドテーブルに置き、テントの側面をぐっと押してみる。

「きゃっ」女性的な可愛らしい声がテント内であがった。

「ちょっと待って。今、私、動けないよ。私のエンジェリック・ボディと脳神経を繋いでるから……手術中にあまり動くと神経が変になるよ」

 その声は二号のものだ。だが昨日に比べて口調が大きく変わっている。いまだポンコツなフィーリングは色濃く残っているが、ずいぶん人間らしい。エンジェリック・ボディとやらを脳神経に繋いでいる影響だろうか。

 とにかくテント内で何か繊細な作業をしているようだったので、僕はそっとしておくことにした。

「吉岡先生の本でも読むか」

 とりあえずソファに座り、お茶のマグカップを傾けながら、可愛い表紙の文庫をめくる。

『新米高校教師の主人公が、ひょんなことから文芸部の顧問になり、そこに集う可愛い部員たちとさまざまな小説を書いていく』というのがメインストーリーのようだ。

 ぺらぺらとページをめくっていく。

「……なかなか面白いじゃないか」

 ちょうど一冊読み終えたところでテント入口のジッパーが内側から開いた。そして二号がごそごそと中から顔を出した。

「良かった。来てくれたんだね」二号は僕を見るなり昨日よりも人間らしい笑顔を見せた。

 だが髪はボサボサに絡まっており、エクスプローラー・スーツにはシワが寄っていた。その様子はテント内での寝苦しい一夜を想像させた。

「よっ」

 二号は掛け声とともにテントから這い出ると、テントの片付けを始めた。その動作は依然として錆びついたブリキ人形を思わせたが、昨日に比べれば、その関節の動きは注油されたように滑らかだった。だがその顔は昨日よりも、いくぶんやつれていた。

「そういえばお前……いや、二号さん」

 僕はテントの片付けを手伝いながら聞いた。

「なに?」

「そういえば、二号さん、ご飯はちゃんと食べたのか?」

「ご飯? ご飯……それは白くて暖かい食べ物。ご飯、それはカロリーがあるよ」

「もしかして、食べてないのか? テントの中には確か保存食料が用意されてるんじゃなかったか」

「食べ物は食べてないよ」

「お腹、減らないのか?」

 二号はテントを畳む手を止めると、手のひらで腹部を撫でた。

「あぁ、お腹、ね。これは、減ってたんだね、お腹が」

「…………」

「昨日からずっと変だなと思ってたよ。このボディが何かを私に訴えかけているみたいで」

 二号は照れを表現するかのように光の触手で頭をかいた。同時にお腹が鳴った。

 僕はテントの片付けを終えると、棚の非常食置き場からカップラーメンを取り出し、お湯を注いだ。そして十分に内容物の温度が下がるのを待ってから、割り箸とともに二号に渡した。

「食べ方、わかるか?」

「ええと……」

 ソファの端に座った二号は、カップラーメンをさまざまな角度から眺めた。

 最終的に、二号は物理的な両手でカップを持つと、光の触手で割り箸を動かし、麺とスープを口に運んでいった。

「はふはふはふ……」

「あまり急いで食べるとヤケドするぞ」

「はふはふはふはふ……あれ。これはなにかな?」

「どうした? 異物でも混入していたか?」

「ううん、私の目から何かが……これは涙? 私、泣いてるみたい」

「な、なんだよ、どうしたんだよ」

「う、う、うぐっ……」

 大粒の涙が頬を二号の頬を伝い、ぼたぼたと顎から膝に落ち、エクスプローラー・スーツの裾に染みを作っていった。

「あのこれ、持ってて。ひぐっ」

 二号は僕にカップを渡すと、手の甲で涙を拭った。

 だが涙は止まらなかった。

 止まるどころか、まもなくそれは嗚咽&号泣という様相を見せ始めた。

「うぐっ、えぐっ」

「お、おい……」

「ひぐっ、あぐっ」

「…………」

 僕は不必要にうろたえなかった。

「二号さん、天使のくせに泣いたりするんだな。てっきり天使は感情なんてないものだと思っていたよ」

「ひぐっ、うぐっ……だって、今は私、人間天使だから」

「そ、そんなに泣くなよ……何が悲しいんだよ」

「うぐっ……だって、あなたさん、戻ってこないから……お腹も空いて……ひぐっ……」

 小さな子供が泣きじゃくるように背中を震わせては涙を拭っている。

「…………」

 僕は少し迷ってから、二号の背中を、手のひらで軽くポンポンと叩いた。

 それから「よしよし」と言った。

 人間は体を優しく叩かれると、気持ちが落ち着いてくるようになっている。

 人間の体に入っている二号にとってもそれは同様のはずだ。

「……よしよし、よしよし、よしよし」

 僕は三十分ほど二号を慰め続けた。

 やがて二号の嗚咽は鎮り、それはすーすーという安らかな呼吸音に変わっていった。

 最後に二号はゴシゴシと僕の制服に顔を擦り付け、涙と鼻水を拭ったかと思うと、そのままソファに横になり、僕の膝に頭を乗せて寝てしまった。

「…………」

 心地好さそうに目を瞑る幼なじみの顔、それは安らかな寝息を立てている。八本の光の触手はソファの上に垂れ、二号の呼吸に合わせてゆるやかに振動し、うねっている。

「…………」

 軽く肩を揺さぶってみたが、わずかな身じろぎが返ってくるだけだった。

 僕は制服の上着を脱いで、風邪をひかないよう二号にかけた。

 

「起きてよ」

 知らぬ間に僕も寝ていたらしい。二号に揺さぶられて目が覚めた。

「もう大丈夫なのか?」

「ふふ。元気になったよ。このボディにも慣れたし、そろそろ仕事に出かけられるよ」

 二号は完全に冷え切ったカップラーメンをズルズルとすすると、屈伸運動をした。その動きはかつてなく滑らかであった。

 アリスはエクスプローラー鞄をこの部屋に置いて行ったが、二号は背負って行くようだ。

 大きな鞄を背負った二号は今にも意気揚々と室外に飛び出していきそうだったが、ふと僕を見た。

「この世界のフリークエンシーにも慣れてきたから、これから私、外に出て仕事してくるよ」

「おう、頑張れ」

「その前に、あなたさんで練習してもいい? 私の仕事」

「いいけど……」

 いったい何を、と聞く前に、二号は僕の肩を押して、僕をソファに座らせた。

「それじゃ今、許可がもらえたので、私の仕事、あなたに向かってやってみるね」

 二号は鞄を背負ったまま僕の前の床に座り込むと、光の触手を耳の穴に差し込み、脳の中央部にあるらしいツマミを回した。カチっと音がした。

 ふいに部屋の空気が変わった。

 二号は静かに息を深く吸い込むと、それを吐き出した。

「今、そこいるあなたに、強い光のエネルギーを送るよ。多くの人にそれを送るよ。それが私の仕事だよ。でもその前に、もう一度だけ、最終の確認をするよ」

「なんだよ、もったいぶるなよ」

「いちおう決まりだから。最終確認。この光のエネルギーを受け取ると、あなたに不可逆的な良い変化が生じるよ。このエネルギーがあなたの心に伝達されると、もう後戻り不可能な変容があなたに起り、あなたは目覚めてしまうよ。いいかな?」

 一瞬、僕の中で何かが強く抵抗した。

 それは変化を恐れる僕の中の一部分だった。しかし僕の大部分は変化を望んでいた。僕はソファに留まり続けた。

「ふふ。あなたがまだ私のこの声に接し、それを受け取っているというこの事実を、あなたの許諾のサインとして、光の伝達、始めるよ。ちょっと心を開いてね」

 二号は光の触手を僕の心にそっと差し入れた。僕の全身に鳥肌が立った。

「大丈夫。痛くないし、怖くないよ」

 そして二号は目を閉じ、またゆっくり息を吸い込んだ。

 すー。

 息が深く、二号に吸い込まれていく。

 それとともに……光がこの部屋に集まってくる。

 宇宙全体から光が押し寄せてきたかのようだ。その光は目には映らない。だがそれは僕の心の目に映っている。自分に心の目なんてものがあったのかという驚きを感じる間もなく、二号の吸気とともにその透明な光はどんどん強くなっていく。

 そして、あるピークを迎えたところで、二号の胸は満杯になり、そこで息は保持され、光のエネルギーも保持された。

 部室の空間のあらゆる点に緊張が走った。光のエネルギーが空間のあらゆる点に凝縮していた。

 部室の空間のすべての点はビリビリと電気を発しているようだった。

  二号は胸いっぱいに吸い込んだ息をまだ吐かない。

 空間に充電された光のエネルギーも圧縮されたまま震えている。

 僕も息を止めて震える光を見守っていた。

 そしてそのまま、ものすごく長い時間が流れ過ぎたように感じられたそのときついに二号が息を吐いた。

 はー。

 その吐息とともに、光は拡張を始めた。

 吐き出される息とともに、空間の各点は、その内側に貯めていた光のエネルギーを外側へと放射し始めた。空間の各点の内部に凝縮されていた光のエネルギーが、外へ外へと流れだし、そのエネルギーは周囲に存在する他の点へと送り込まれていった。

 そして各点は、エネルギーを他の点から受け取ることによって、より眩しく輝き出し、その光の放射を周囲の他の点へと送り出した。

 空間の各点は相互に光の連結を始めた。輝きが輝きを呼び、とてつもない光のハウリングが始まった。光が光を呼び、その強まった光がさらに強烈で濃厚な光を呼び起こした。やがて空間のすべては強まり続ける光によって、完全に一杯になった。

 そして、コップに一杯になった水が溢れ出すように、光があふれ始めた。

 光はもう縦横高さの三次元に収まらず、四次元へと、さらに五次元方向へと、チョコレートファウンテンのように滑らかにあふれ始めた。

 かつて見たことのない美しく濃厚な光、それはそれを見ている僕の感覚に満ち、感情に満ち、思考の中に満ちていった。

 その光と波のフィールドとひとつになって、僕は言葉を失った。

 深い静寂の中で時間を超えた時間が流れていった。

 僕は存在することの神秘を知った。

 光の奔流が一段落し、気づくと二号は僕の前でほほえんでいた。僕は少し恥ずかしくなり、頭をかいてソファから立ち上がった。

「じゃあ……そろそろ行ってみるか。外に」

 二号は棚の非常食置き場からカップラーメンを取り出した。

「これ、もらっていい?」

 僕がうなずくと二号はそれをエクスプローラー鞄に詰めた。

「なあ。外では、僕と二号さんはどういう関係性になるんだろう」

「それはわからないよ。でも新しいストーリーを創っていけたらいいよね。私は外では天使の力をほとんど失うよ。だから私の仕事も、きっとひとりではうまくできないよ。よかったら協力してね」

 僕はうなずいた。

 二号は出口に向かい、ドアをがちゃりと開けて、五号室の外へと足を踏み出した。

 僕も後を追って廊下に出た。

 背後でドアが音を立てて閉じた。夜だった。

「…………」

 二号は息を呑んで部室棟の廊下の真ん中で立ちすくんでいる。

 廊下には窓が一列に並んでおり、その向こうには日が暮れた夜の世界が広がっている。廊下の天井では切れかけた蛍光灯がざらついた光を発しており、そこから灰色の蜘蛛の糸が垂れ下がっている。

「行くか。あっちだ」

 僕と二号は回れ右をすると、廊下を歩き始めた。

 旧校舎を抜け、新校舎の昇降口に向かう。

 もう遅いので、僕ら以外に生徒はいない。

 月明かりに照らされ、靴箱が長い影を作っている昇降口で、僕は上靴を外靴に履き替えた。

「私、どうすれば」

 二号は靴箱の前で立ち止まり、自分の靴を見下ろした。

「二号さんはそのまま外に出ていいよ」

 二号はおそるおそる昇降口のスノコから足を下ろした。

 校門を出ると、並木道を走る車のライトが僕らを眩しく照らした。歩道には帰宅中の生徒と思われる影がいくつも歩いていた。

 その中に僕らも影となって歩き出していく。隣を歩く人の輪郭は、まだうっすら輝いているが、この夜の暗さに取り囲まれ、今にも消えそうだ。

「重力に引かれて落ちていくみたい」隣を歩く人が不安げに呟く。

 やがて隣を歩く人の光の触手は一本ずつ夜の空気の中に蒸発していった。彼女はふいに足を止め、上下左右を見回し、そして呆然と自分の手のひらに目を落とした。

「私……」

「大丈夫だよ」

 それが誰だったかわからなくなりつつある、隣を歩いている人に僕は声をかけた。不安と緊張を和らげようとして。

 隣の人は僕を見た。

「大丈夫」

 僕がうなずいたそのとき、隣を歩く人は、寿命の切れた電球が最後に光を発するように、その全身を一瞬まばゆく輝かせた。

 その光は四方から押し寄せる夜の暗闇に包まれて、もう見えない。