角砂糖に染み込んでいた特殊な薬物によって、女刑事、マリは組織の奴隷となった。

 とある繁華街、その裏道の電信柱の陰で、下卑た顔をした組織の一員からマリは紙袋を受け取ろうとする。

「ほらよ、マリさん。今週の分だ。へっへっへ、その顔、警視庁の敏腕女刑事と言われていたマリも、この5meo-DHAの中毒になっちゃおしまいだな」

「つ、つべこべ言わずに早く渡しなさいよ! 上の方から命令されてるんでしょ、それを私に渡せって」

「そうだ。今日からは俺が連絡係だ。俺の名は夜ノ杜零司。前任のヤマダタロウはこの前の抗争で両腕が切断されて使い物にならなくなってしまったからな」

 心の中で黙祷を捧げるマリ。

 ヤマダも非道な組織の一員であったが、5meo-DHAなしでは生きられなくなってしまい、人間としてのプライドを何もかも失ったマリに対して同情を見せるナイーブな一面を持っていた。

 しかし零司はそんなマリをあざ笑うかのように、ことさら下卑た笑みを浮かべる。

「俺はあんなへなちょこのヤマダとは違うぜ。何年もかけて性格を改造して非道な組織に入ったんだ。そしてついに連絡係の席が空き、あんたのような美しく格好いい女刑事と接する機会を得たんだ。つまりこれは、ついに俺の祈りが天に通じたってことなんだよ!」

「……祈り?」

 唐突に飛躍した話題に怪訝そうな顔をするマリ。

「俺はなぁ、毎日、天に祈ってるんだよ。五年ぐらい前からなぁ! ……知ってるか、お前、俺のような組織の末端の人間でもなぁ、このポジションに来るまでは様々なドラマがあったんだぜ。もともと俺は虫も殺せない繊細なインテリだったんだよ」

 非道なドラッグが入った紙袋をマリの顔の前に掲げつつ、自分語りを始める零司。おそらくその名は偽名だろう。

 しかし夜ノ杜零司という、中二病くさい名前をあえて偽名に選択するあたり、確かにこの男は、生まれながらに非道な組織の一員となるようなパーソナリティの持ち主ではないようにマリにも感じられた。

 また、その名前はマリにとって、不思議なことに、どこかで目にしたことのあるもののように思えた。

 わずかではあったが、マリは零司に興味を惹かれた。

 だがそれ以上に激しく心と身体とその他諸々の部分が紙袋の中の角砂糖に染み込んだ薬品を求めていた。マリは紙袋をひったくろうとした。

 その手は空を切った。

「へっへっへ。そう簡単に渡せると思ってるのか、マリさんよ。確かに俺は虫も殺せない空想の世界で生きる男だった。昔だったら、人に何かをくださいと言われたら、どうぞ、となんでも渡しただろう。そうした方が波風が立たないからな。だが今の俺には明確な目的意識がある! どうやってそんな強い目的意識を手に入れたのかと言えば、そう、俺はある日、健康診断で、大変な病気と診断された。誤診だったとわかるまで、俺は真剣に人生を考えた。だって明日にも死ぬかもしれない身ともなれば考えるもんだぜ、自分が本当に何をしたいのか、俺はこの人生で何をするために生まれてきたのか、ってな。……お前、マリさんよ、お前は考えたことがあるか?」

「いいや、ない、そんなこと。そんなことよりいいから、は、は、早くそのクスリを私によこせっ!」

「おおっと、まだ渡すわけにはいかねえな。それよりも本当なのかよ、自分の人生の目的を考えたことがないだと? だとしたら早めに考えといた方がいいぜ。まだ若いからってそんなことは関係ねえ。人間ってのは、本当に大事なことをやるために生きてるんだ。その大事なことってのは各自で違うし、自然にしてたらわからない。誰も教えてくれない。自分で一生懸命考えて、見つけ出さなきゃいけないんだ。でなければどれだけ年が若くてもゾンビと一緒だ」

「くっ、何の話をしている。いいから渡せ、角砂糖を! こんな意味の分からない会話で私を焦らして、さらに辱めを与えようというのか、卑劣な! ……ていうか、お前、何のために生きてるのか深く考えた結果が、その下卑た顔で非道なことをする人生だというのか。そんなことをするのが人生の目的なら、そもそも生まれてこなかったほうがいいんじゃなかったのか!」

「へっ。嘲りたければ嘲ればいいさ、マリさんよ。だがな、俺は自分の人生の真の目的を見つけるまでにノートを百冊ぐらい使ってるんだ。それだけの労力を使って得た確信は神にも否定できない! そう……誰にどう俺の生きる道を否定されようとも、俺はもう止まらない」

「ノート?」

「そうだ。朝、起きてすぐに三十分ぐらい、ノートに好きなことを書き殴るんだ。そうすると潜在意識の中から、自然に、自分の人生の真の目標が浮かび上がって寸法だ。それまで俺はな、俺の人生の目標は『ベストセラー作家になる』ことだと思っていた。そして実際に本も何冊か出版した。だがその人生の充実度は、どんなに最高のときでも八十パーセントぐらいだった。そこで俺は、より究極的な情熱にあふれる人生を探すために、120%の人生を生きるために、自分の心の底を深く深く覗き込み始めたんだ。『朝書くノート』というアイテムを使ってな。そうしたらどうだ、だんだん、本当に、浮かび上がって来たじゃないか。自分の真の生きる意味が」

 熱く語る零司という男に少し気持ちを巻き込まれてしまったのか、自分の中に、角砂糖への渇望以外のものが沸き上がってくるのをマリは感じた。それは零司というこの男の人生への興味だった。角砂糖の中毒症状で意識レベルが低下する中、マリは思わず目の前の男に問うていた。

「なんなんだというんだ?」

「なにが、なんなんだ、だ? マリさんよ」

「なんなんだ? お前の人生の目的は」

「おっと、よく聞いてくれた。それはな、これだよ」

「これ? これとは」

「俺の目の前にあるこれのことだ! そう……高飛車で美しく強い女刑事が、薬物中毒になって下卑たチンピラである俺に屈しているというこの図、これを俺の人生に現実化させること。これこそが、俺の、人生の、究極の目的だったんだよ! そしていまそれはついに叶った!」

 高揚感が零司の全身を包み、あたかも零司の肉体から輝けるオーラが四方へと放射されているかのようにマリの目には映った。5meo-DHA中毒の禁断症状だろうかと訝るマリの目に映るその輝きは、繁華街の薄暗き裏道を鮮やかに夕日と共にキラキラと照らしていた。そのような光に包まれ、光を発しながら零司は自分語りを始めた。

 俺はよ、俺はもとは、小説家だったんだって話はもうしただろ。

 そう……俺は毎日、小説を書いていたさ。真面目にな。

 来る日も、来る日も、編集者とふたりでアイデアを出し合って、全身全霊の力を使って小説を書き上げた。

 毎日、神棚に飾ってある中原中也や坂口安吾やその他諸々の尊敬する作家たちにその日の執筆がうまくいくよう祈願してから、Let’s noteを鞄に突っ込み、健康のために駅前のドトールまで歩き、そこの窓際の席でキーボードを叩きまくる毎日。

 毎日、毎日、俺は小説を書いていたよ。

「へっへっへ。白銀の女騎士と言っても、こうなってはおしまいだな。どうだ、凄いだろう、俺らオークの間に伝わる闇のキノコの効果は。こうなってはお前の理性はあと数分で完全に消滅し、俺達の奴隷になる運命と定められているのだ」

「くっ、殺せ!」

 そんな一行一行に、作家としての魂を込めて俺は小説を書き続けた。

 ニーチェは言っていた。

 血によって書かれた文章のみが魂の文章であると言ってた。

 だから俺の血の滲むような努力で書かれたその小説『白銀の女騎士とオーク五千匹の闇の宴がこんなにエキサイトするワケがない』は、頭から尻尾まで俺の暗き魂、すなわちダークソウルによって書かれた小説だった。

 それは実際、売れたよ。

 アニメ化までされた。

 たくさんのグッズも販売された。

 俺は自分の想像が生み出した小説、全二十巻と、アニメのブルーレイディスクと、各種抱きまくらやそのたぐいのものに囲まれて、ついに俺の人生は完璧な地点に達したと思い、尊敬する作家たちが祀られている神棚に感謝した。

 だがある日、先程も語ったとおり、健康診断で余命一ヶ月という誤診を受けた俺は、考えた。

「俺の人生、本当にこれでよかったのか」

 俺の表面的な意識、日常的な意識は言う。

「もちろんだ。これこそが百パーセントだ」と。

 しかし俺の深い部分にある違和感、俺はそれをどうしても無視することはできなかった。それゆえに俺は『朝ノート』というアイテムを使って自分の心の中に深く深く潜っていったんだ。つまりサイコダイバーとなり、己の精神の深奥を覗きこんだんだ。

 そしたら……とうとうわかったんだ。

 囚われ、闇に堕ちる女騎士と、下卑たオークというイメージ。

 そのイメージを形あるものに、目に見えるものにクリエイトする。表現する。

 その方向性は間違っていない。

 そのイメージを想像するたびに心がトキメキ、俺のハートが魂の炎によって燃えあがるのを感じる。

 だが、もう一歩、あともう一歩、先に進む必要があるのだ。

 俺の人生の真の目標、それは、決して、今までの方向性で間違ってはいないのだが、後もう一歩だけ、深いところにまで足を進める必要がある。

 俺はそう認識し、その『もう一歩』が何なのかを『朝ノート』や、その他諸々の、自分の人生の真の目的を追求するための各種ツールやワークを用いて追求した。

 そしてある日、愕然となり、このあと自分がやらねばならないことへの恐怖に襲われながらも、俺は悟ったのだ。

「そう……俺の人生の真の目標。それは、小説の中ではなく、現実の中で、女騎士のような存在を見つけ、そいつに対し、俺自身がオークのような立場になって、自分の欲望をむき出しにしながら、何も隠すこと無く、己の欲望を肯定しつつ、つまりこの闇の欲望を心の中に抱える俺自身を全肯定しながら、それを堂々と表現し、あこがれの美しき存在に、自分の存在を完全開示して接することだったのだ! それを、この三次元の現実の中で具現化すること! それこそが! これこそが! 俺の人生の、真の目標だったのだ!」

 そう気づいた俺は小説を書くための筆であるLet’s noteのマグネシウム合金ボディを物理的に膝で折り、書店に向かい、『非道な存在になるための精神改革』という本を購入した。

 なぜ非道な存在になる必要があったのかといえば、オークのようになるためだった。俺はかつての繊細さ、優しさをそのままに、心の奥底に眠っていた、様々な野生の力を目覚めさせていった。

 そう、荒ぶるオークのように。

 そして俺は仲間を求めて、非道な組織の門を叩いたのだ。

 そしてその組織の中で死線をくぐり抜けながら、人間性を見失いながら、俺は自分の夢が現実化することを願い続け、女騎士を卑劣な罠にかけるというイメージを心に抱き続け、その夢を少しずつ、少しずつ、自分の現実へと手繰り寄せ続けたのだ。

「その結果、今、俺の目の前に、お前がいる。へっへっへ……たまんねえな……」



 そう語り終えた零司にじっと瞳を覗きこまれたマリは、完全な禁断症状で口の端からよだれを垂らしながら、どうもこの話は、先程まで自分が考えていたような、加害者と被害者というような、単純なものではないようだと考え始めていた。

 マリは5meo-DHA中毒で意識レベルが低下する中、自分の過去をふと思い出し、自分がさきほど『嘘』をついたことを思い出した。

『人生の目標など考えたことはない』

 先ほどマリはそう言った。

 しかし実は、マリも、自分の人生の目標を、一から考えなおしたことがあった。

 それは女刑事として生きることに慣れたころのこと。

 女刑事、それは自分の天職であると感じ、疑問を抱くこと無く職務に若いエネルギーのすべてを捧げていたある日。

 マリは胸に銃弾を受け、そして臨死体験をした。

 トンネルを超え、光を超え、『向こう際』に渡り、マリは見て、知った。

 自分は、そして世界は、今まで自分が思い込んできたものとは違うということを。

 では、自分は、世界は、本当はなんだったのか?

 それはもう忘れてしまった。

 見たことはすべて『向こう際』に置いてきてしまった。

『あちら』で見たあのヴィジョンは、トンネルのこちらには持って返ってくることができなかった。

「生きてる……い、生き返ってしまった……」

 後に病院のベッドでマリは目覚め、見知らぬ天井を見つめながら、そう呟いた。

「私は……なんのために、生き返ったというのか……あんなものを見てしまったあとで、なおまたこの世界で生きる意味はなんだ……あんなものとは、だが、なんだったのだ……」

 何も思い出せない。

 マリは人生の足場を失ったように感じ、途方にくれてベッドに横になっていた。

 できることなら、もう一度、『あちら側』に行きたいとまで思った。

 だがそれはつまり自殺を意味する。どうしてもそれはすることができなかった。マリは見知らぬ天井を日がな一日中見上げながら、自分のこの先の人生は何のためにあるのだろうかと、うつろな瞳で考えていた。

 そんなある日のことだった。

 同僚が病院の売店で買ってきた小説をマリにプレゼントした。

『白銀の女騎士とオーク五千匹の闇の宴がこんなにエキサイトするワケがない』というタイトルの小説だった。

 最初は他愛もないちょいエロな小説かと思って読み始めたマリだったが、いつしかその物語と文章が持つ、得体のしれない熱さに自分が巻き込まれていくのを感じた。

 売店に続刊が売っていなかったので、病室からAmazonに続編を注文し、マリはレントゲン検査の時間も忘れてその本の読書に没頭した。

 そして『白銀の女騎士とオーク五千匹の闇の宴がこんなにエキサイトするワケがない』を読み終えたマリの心の中には『自分も何か、本当に好きなモノを全身全霊で表現したい』という強い欲求が芽生えていた。

 しかし、それが何なのかは、わからなかった。

 どうしても、マリには、自分が、何を表現したいのか、それはまだ、わからなかった。

 いつか、自分がこの世に創造したいものは、きっと必ず見つかるはずだ。だからまだ『こちら』で私は生きてるのだ。

 そんな確信が芽生えていた。

 しかし、今はまだ、自分が『ここ』に創造したいもの、それはわからなかった。

 だから、マリは思った。

 今は、まだわからない。この、わかっていない、この今のうちは、私は誰かのサポートがしたい。

 すでに自分が表現したいものを見つけている者のサポート、お手伝いがしたい。それならきっと役立てるはずだ。

 マリは病床でまた天井を見上げながら、しかしもう、うつろではない、強い光を宿した瞳で、その願いが叶うよう、退院する前日の夜に、何者かに対して、もしかしたら自分の魂に対して、真摯に祈った。

 そして今、5meo-DHA中毒で朦朧とする意識の中、マリは口からよだれを垂らしながら、そのようなことを、頭の片隅、潤んだ瞳の奥に思い出していた。

 そのマリの前で、自分の夢が現実化した零司は、充血した目をらんらんと輝かせて、あたかも下卑たオークのようなことをマリにわめき続けている。

 この夕闇に包まれつつある街の裏道で。

 長く伸びた電柱の影と、二人の影、そして通り過ぎて行く男と女たちの影と影とが織りなす光と闇の交錯の中で。

 このイメージの中に巻き込まれているマリは、零司が長年、叶えようとして、ついに今ここに現実化させた夢のパーツの構成部品に、自分が織り込まれていることを悟った。今私はこの男の夢の中にいる。

 だがそれに関しては逆の見方もできる。

 なぜなら、表現者のサポートがしたい、表現者が創造しようと望むものが現実に具現化するための手伝いをしたい……そんな私の夢が、いまここに確かに、具現化している。

 だからこの男、零司は私の、夢の一部。

 そんな風に共同で創造され、相互に折り重なりながら現実化された現実、あるいは夢、あるいは夢であり現実であるリアリティの中、マリはかすれた声で何か女騎士めいたセリフを零司の耳元に囁く。

 そして、やりとりされるパターン通りのセリフの応酬の中、二人はいままさに望みのものが創造されていることを、身をもってリアルタイムに体験している充実感に包まれながら、街の片隅で、特殊なルールに則った、不思議なダンスのようなやりとりを続けている。

 そのダンスの中に意識は安心して埋没し、マリは久しぶりに深い安らぎと解放感を覚える。夢をかなえる力が自分にはある。だからこの先も大丈夫。そんなことをふと思い、そしてまたマリは目の前のドラマに自分を委ねる。