春だ! 2月だけどもう春っぽい!

春。

それはフリーコミュニケーションワークの季節である。

2016年2月の暖かいある日、私は街へと繰り出した。

フリーコミュニケーション、それは街頭で、見知らぬ者に対してフリーなコミュニケーションを試みる遊びである。それは凝り固まった心を柔らかくするための精神修養でもある。

また、それは同時に、コミュニケーションという分野における心の渇望を満たそうとする直接的なアクションでもある。

ちなみに、何事もそうだが、心の渇望は、その渇望の対象と思われるものを直接ゲットしても、なかなか埋まらない。金に飢えた者が金を沢山ゲットしても、金への渇望は埋まらないということだ。渇望を埋めるには、多かれ少なかれインナーワークが必要となる。

だが、その渇望の対象と思われるものをゲットしようとする物理的行為をまったくせずにして、それを埋めることは難しい。

何かの渇望対象があり、それへの強い執着があるとき、それを得ようとする外的行為をしながら、同時に、その渇望の正体を見極めるために内的瞑想を行うという両面的作戦こそが、渇望を満たすためのもっとも効率のよいアプローチであると私には思われる。

内と外、精神と物質、自己と他者、個人と社会、そのような相反する二つのものに同時にアプローチすることで、それらの間にハーモニーが生まれてゆくのである。

と、それはともかく、とにかくその日、私は街へ繰り出したのであった。電車に乗って。

なぜなら春はフリーコミュニケーションの季節だからである。

街を歩く人々も、心なしかフリーコミュニケーションを求めているように感じられる。

フリーコミュニケーションは2008年ごろから、いや、正確には同級生というPCゲームが発売された1992年頃から、私の中で強いマイブームとして燃え上がっている行為の一つである。その試行の中でフリーコミュニケーターは、恐ろしいものから、喜ばしいものまで、様々な体験をし、他のワークではなかなか味わうことのできない、自己と他者とコミュニケーションに関する様々な洞察を得ることができる。また、うまくすれば、フリーコミュニケーションの果てに、五次元的意識を得ることができるとまで噂されている。

(フリーコミュニケーションに挑戦してみたいという方はこちらのページを参考にするといいだろう。フリーコミュニケーションが美しいワークとして体系化されている。ただし男性向けである。女性向けフリーコミュニケーションワークの開発が待たれる)

だがその日、街に出た私は春の日差しの下で硬直していた。

すべてが無意味に感じられる。

せっかく街に繰り出したというのに、どうしても私は人に声をかけることができずにいた。

これから自分がしようとしていることに、ものすごい無意味さを感じる。

どうして、誰にも頼まれていないのに、わざわざ知らない人に声をかけねばならないのか。こんな緊張感を休日に味あわなければならないのか。

はっきり言って知らない人は怖い。

しかも何も欲しいものなど、今のところ特に無いと感じる。長年のフリーコミュニケーションワークによって、私の中の、コミュニケーション領域における渇望は、かなり満たされている。

少なくともその日はそう感じた。

家で自分の仕事をしていれば幸せだ、と感じた。

もう私はこのフリーコミュニケーションワークをする必要がないのかもしれない。卒業したということかも。家に帰ってこのホームページに載せる記事でも書いてた方が実りある時間の使い方なのではないか。

確かに、そうかもしれない。

だがせっかく街に来たのだから、Uターンして家に帰るのもどうだろう。

なんとかして街で楽しい一日を過ごしたい。

どうすればいいのだろう?

楽しい時間を過ごすためには、何を、どうすればいいのだろう?

と、春の日差しの下、硬直しながらいろいろ考え込んでいると、とあるキーワードが心に浮かんだ。

進化。

必要なのは進化なのではないか。

ふとそう思った。

そうだ……

飽きてしまった何かの行為があるとして、必要なのはそれを進化させることだ。

そして……進化に必要なのは新たなアイデアだ。

そして、新たなアイデアを得るためのもっとも手っ取り早い手段は瞑想だ。

というわけで、私は街頭で瞑想し、新たなアイデアの到来を待った。

十分が経過した。

瞑想をやめ、諦めてドーナツ屋でドーナツを食べていると、新たなアイデアがやってきた。

新たなアイデア、それは、『この街頭フリーコミュニケーションワークを、自分のホームページの宣伝に使ってみたらどうだろうか』というものであった。

 *

私のホームページにはだんだん沢山の文章が貯まってきていた。少しずつ来客数も増えてきた。

たまに自分でホームページの小説やエッセイを読み返してみると、感動で震えたり、その深い意味合いにめまいを覚える。

これを、もっと多くの人に広めたい。

しかも、今まで全く接点の無かった人に読んでもらいたい。

そのための宣伝を今、ここでやってみたらどうだろうか?

 *

この、今までにない画期的なアイデアの到来によって、自然と自分の顔に、リチャード・D・ジェイムス・アルバムのジャケット写真のような笑みが浮かびあがるのを私は押さえきれなかった。

ドーナツ屋で私は思った。

(こ、これはすごく新しい気がする……

なぜなら、今まで、私はすごく受動的に、自分の文章を人に読んでもらってきた。

文章を読んでもらうとは、鳩を豆でおびき寄せ、かごを被せる罠にひっかけるような、受動的な行為だと思っていた。

だが、この街頭フリーコミュニケーションによる宣伝なら、まったく逆のアプローチで人に文章を読んでもらうことができる。猟銃を持って山に繰り出すようにアクティブに読者を捜すことができる。

つまり、『この人に私の文章を読んで欲しい』という人をピンポイントで見つけ、その人に対して、能動的な、ダイレクトアプローチを仕掛けることができるのである。

私は自分の革命的アイデアに震えた。

街で、自分のホームページの宣伝をする。

これこそが新時代の広告戦略だったということなのか!

 *

だが、アイデアをアイデアのままで終わらせてはいけない。アイデアそれ自体には価値がないと様々な賢者が言っている。さっと行動に移してこそアイデアの価値が生じるのである。

とうわけで、さっそくやってみよう。

まずはドーナツを食べきり、一緒に注文した紅茶も飲みきる。

それから、店を出て、大通りの柱にもたれて、知らない人に声をかける緊張感を取り除き、安心感を呼び起こすための瞑想をする。

しばらくするとイケそうな気がしてきた。

ふと目を開けると、春らしいフレッシュな雰囲気を発している人間存在が目の前を歩いていることに気づいた。

私はさりげなく声をかけた。

「あ、こんにちは」

「えっ?」

「今日は……いい一日でしたか?」

「あ……いい一日でした」

「それはよかったですねー。何してたんですか?」

「友達と遊んで」

「あ、そうですか。ところで実は僕、今、ホームページ作ってるんですよ」

「えっ?」

「ホームページで、しょ、小説を書いているんです。小説とか読みますか?」

「いや、読まないです。私あの、ぜんぜん本とか読まないんですよ」

「あー……

ここで頭が真っ白になり、その後、何か適当な世間話めいたことを数秒交わしたあと、私は春らしいフレッシュな雰囲気を発している人間存在に感謝しつつその場を離れた。

photo by Iwamoto Keizo

 *

この試みによって多くのことを学ぶことができた。

私は自分のホームページや作品に、まだぜんぜん自信をもてていないということを学ぶことができた。

自信が無いから、すぐに宣伝を諦めてしまうのだ。

もっと私のこのすばらしいホームページに対して自信を持つべきだ。

そして自信を身につけるための瞑想音声なら私のiPhone入っている。OrinDaben.com7ドルで購入したBecoming Self-Confidentというシングル瞑想音声だ。あぁ、英語を勉強しておいてよかった。英語がわかるおかげで、このような世界でも最も最先端の誘導瞑想が聴ける。

家に帰ってこれを聴こう。そして自分のホームページや、自分が作っている作品や、これまで沢山作ってきた作品や、自分の存在のあり方そのものに、無条件の自信を持とう。

夜、私は電車に乗った。

自信は持っていい。

なぜなら、自信は持っていいものだからだ。

疑いは手放していい。

なぜなら、疑いは手放してもいいものだからだ。

そして、毎日、ちょっとちょっとずつ、楽しいことをやっていこう。

子供の遊びのように。

Walking on Ice

photo from fotolia

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