1

 水口時夫が自分の前世を思い出したのは、ある日、テレビで前世に関する番組を観たのがきっかけだった。高校生の時夫は中学生のときに生じた反抗期をまだうっすらと引きずっており、テレビで放映されるものすべてを嫌悪していた。特に、大衆の無知と愚かさにつけ込んでいる、と時夫には感じられる、オカルト的な内容を扱った番組に対しては、激しい敵愾心を示し、夕食後、そのような下劣な番組に釘付けになっている小六の妹には軽蔑を露わにした。

「まったく、よくこんなの観て恥ずかしくないな。マキは馬鹿すぎるんじゃないのか」

「えー、面白いよ。お兄ちゃんも一緒に観ようよ」

 しぶしぶ、と言った感じで、時夫は二階の自室に向かうのをやめ、居間のソファーに座った。父と母はふたり台所で夕食の片づけしていた。基本、父と母は仲が良く、時夫とその妹、真希も仲が良かった。

 真希は鋭い集中力を示してテレビを見ていた。時夫は隣の真希を茶化しながら、ソファに並んで座って、オカルティックな内容のテレビ番組を見ていた。テレビでは『前世』と『今生』と『あの世』の相関関係がCGによって説明されていた。

 白衣を着た研究者が語る。

「前世というのは沢山あります。みなさんは何回もいろんな地方でいろんな人種として生まれ、男と女、どちらの性別も体験し、さまざまな経験を積んでいます。それどころではなく、大勢のみなさんには、遡れば、宇宙人だったころの前世もあります。元宇宙人だった方は、だいたいアトランティス時代に地球に入ってきた人が多いみたいですね。しかし宇宙人に関する話はまた来週の特集なのでスルーして、本番組ではこの地球のローカル的な前世にフォーカスしていきます」

 CGは各時代の人間の暮らしを映す。奴隷。貴族。農民。ヴァイキングの戦士。ビジネスパーソン。歌手。アイドル。邪神を信奉する邪教の徒。野蛮人。侍。ガンマン。銀行員。

 どういう基準で選ばれたのかわからないこれらの職業の、典型的と思われるイメージ映像がババババッと表示されたあと、白衣の研究者が語る。

「ちなみにこのCGはサブリミナル的技術を使っており、要所要所に神聖幾何学図形が埋め込まれています。そのため、これを観た方は、あとで前世を思い出します。サブリミナル技術といっても、それで商品の広告を出しているわけではないので、放送倫理協会からは許可をもらってます。安心して下さい」

 研究者からのそのような説明があったあと、また画面は最新のゲーム映像のようなCGを映した。それは現在の文明よりもはるかに発展していた魔法的超文明が栄えていた時代、アトランティス時代の想像図とのことだった。

 キラキラしたクリスタルの塔が街中にそびえ立ち、街と人々全体が塔の発する光に包まれている。時夫は手元のスマートフォンでWikipediaを調べながら、この番組の語ること全てに文句をつけていった。

 真希は時夫の語るWikipediaからの知識に「へー、そうなんだー」とポニーテールを揺らして頷きながらも、目をキラキラさせてテレビ画面に映るアトランティスの街並みを見て、「いいなー、あんなところに住みたいなー」と言っていた。

 それは確かに一理あった。時夫の住む町はたいへんな田舎で、そこにある美しい海山川の自然は実は、これよりも面白いもの、美しいもの、興味深いものはどんな都会にも存在していないのだったが、若者たちにとっては時としてそれは刺激が少なく感じられた。自分が生きるこの土地、この時代と比べて、アトランティスは面白そうであった。

 つまり、と時夫は思った。

 つまり、今とは違う時代、今とは違う環境、今とは違う自分への憧れ、この現実ではない、何か別の現実への憧れ、つまり現実逃避願望。それを、前世というアイデアは刺激するのだ。だから、自分が今、生きているこの現実に満足できていない人間は、こういうくだらない番組に興味をひかれてしまうのだ。

 しかし僕は現実から目を逸らさせるくだらないファンタジーに逃げ込むことはない。なぜなら僕は真理を求める強い人間だからだ。

 時夫は手を握りしめ、そのようなことを、強く考えた。そしてそのような考えを、妹に教えてやろうとした。たとえそれが苦い味のするものであったとしても、この唯一の現実を受け入れるべきである、と。

 だがそのとき真希のスマートフォンが鳴り、妹はさっと立ち上がると楽しげに友達としゃべりながら居間を出て階段を上り自室に入っていった。父と母はお茶とお菓子を載せた盆を時夫の前のダイニングテーブルに置くと、じゃれ合いながら二階の寝室に向かった。

「…………」

 時夫は黙々と茶菓子を食べながら、ときにいらいらと貧乏揺すりをしながら、前世に関するオカルティックな番組を、午後十一時になるまで、ずっと、ひとりで見続けていた。

 番組の終盤では、スタジオに『アトランティスのクリスタルスカル』なるものが台座に乗せて運び込まれてきた。

 それには黒い布がかけられていた。

 白衣の研究員が説明した。

「これはクリスタルスカルというもので、名前の通り、水晶でできた骸骨です。今からこのクリスタルスカルにかけられている布をさっと取ります。すると、クリスタルスカルから特殊な光線が放射されます。人の心の闇を照らす性質があるその光を浴びると、先ほどのサブリミナル効果のあるCGとの相乗効果によって、心の奥深くにしまわれ、いままでずっと忘れていた前世の記憶が勝手に蘇ってきます。あ、もし前世を思い出すのがイヤな人は違うチャンネルに変えてくださいね」

 そのあとCMが流れた。

 車、カップラーメン、銃火器をかたどった和菓子のCMが流れたあとで、クリスタルスカルを覆っていた布はさっととられた。

 スタジオの照明に照らされたクリスタルスカルはキラキラ綺麗に輝いていた。

 *

 その夜、時夫は夢を見た。

 湿っぽい地下洞窟。

 その奥深くにある広間の床は粘度の高い液体で粘ついている。

 壁では松明が燃え盛っており、その赤くゆらめく炎は流れ出す体液のようだ。

 広間の四方にはうずたかく骨が積み重ねられている。骨はまだ血で塗れており、湿った肉が付着しいており、神経が、筋が絡みついており、それらが発する腐臭と燃える松明の獣脂の煙が広間に濃密に漂っている。それと広間に集う大勢の戦士の汗の匂いと、生贄の発する恐怖の匂いも。

 広間の中央には石造りの祭壇が備え付けられている。祭壇の表面は液体に覆われ、それは四方からの炎の灯りに照らされ不浄な光を発している。

 その石のベッドの上には、若く美しい女性が三名、革紐で拘束されて寝かされている。恐怖によって硬直している者、拘束を解こうと虚しく身をよじり続ける者、すでにこの後の運命を受け入れたのかうっすらと笑みを浮かべて戦士たちを見つめる者。生け贄と一口に言ってもその振る舞いは三者三様である。

 その三者三様の生け贄が乗った祭壇をぐるりと取り囲んでいるのは全身にまがまがしい蛇の文様の入れ墨をした、無数の屈強な男たちと、頭に巨大な獣の骸骨を被った神官戦士だった。男たちの肉体には太い釘が何本も突き刺さっており、その釘には各種の呪い避けの宝玉やビーズが飾られている。男たちの視線は今、石のナイフを握りしめた神官戦士に注がれている。神官戦士は祭壇上の生け贄を残虐に殺し、それを彼らの神に捧げようとしている

 神官戦士はひときわ屈強な肉体を持ち、ひときわ残虐な笑みを浮かべ、とびきりの狂気をその笑みに宿している。

 神官戦士は神に捧げる祈りを唱えた。

「我ら戦士の中の戦士の魂を導く偉大なる者よ。我等の捧げものを受け取りたまえ」

 そして時夫は自らのうちからわき出る陶酔と嗜虐と歓喜に導かれて石のナイフを振り下ろし、石の上の美しき女性を痛めつけながら惨殺していく。

 絶叫があがりそれが広間に木霊するたび、この戦士グループには力が注ぎ込まれ、結束は固まり、次の襲撃の際には神のより大きな加護によって我が軍団は敵の矢から守られる。それが確信として感じられる強大な力のわき上がりにすべてをゆだね、時夫は腹の底から獣のような、いや、かつて宇宙に存在したことなど一度もないざらついた残虐さを表現した長い長い絶叫を熱く燃える地下の空気の中に放射し、戦士たちはそれに唱和し、その生け贄の儀式には完全なる狂気の力が付与され、その狂騒の中において時夫は何度も何度も石のナイフを振り下ろし続けた。

 2

 時夫は不登校気味になった。

 家族たちは心配した。

 しばらくすると、不登校は治り、登校するようになった。

 しかし元気がなさそうだった。

 家族は遠巻きに時夫を見ていた。

 なぜ遠巻きなのか。

 これまでにすでに何度も、父も、母も、妹も、元気のない原因を時夫から聞き出そうとしてきたのだった。だが、何も聞き出すことができなかったのだ。むしろ理由を探ろうとすればするほど、時夫の中の何かが、時夫をおかしくさせていくように感じられたからだ。

 時夫は人を恐れていた。

 誰とも目を合わさないようになった。

 会話も、できるだけ短い時間で、事務的にすませるようになった。妹ともゲームすることはなくなった。

 夜、父と母はリビングで深刻な顔をして話し合っていた。

「ねえあなた、時夫、あの子、アレ、どうなっちゃったのかしら?」

「なあに、ただの中ニ病的な何かだろう。それか、もっと深い不可視の謎の原因によって生じる何かだろう。なんにせよ俺たちは日々、マックスパワーで愛情を注いでいる。それでありながら、あんな風になるということは、あいつ個人の問題だ」

「そうね。もしこのまま、私たちにはわからない、時夫の心の中の何かの問題が悪化していったとしても、せいぜい最悪、何か凶悪犯罪を犯したり、自殺しちゃったりするぐらいのものよね」

「そうだ。そういったあらゆる可能性を考慮した上で大船に乗った気持ちでいようじゃないか」

「そうね、あなた」

 ということで父と母はいつもと同じように仲よく暮らし、仕事に、趣味に情熱を傾けた生活を送り、たまには二人で旅行に出かけた。

 しかし妹、真希は、そんな大人たちのような腹の座った振る舞いをすることはできなかった。これは何かヤバいと感じた。

「そうだ。私が何かしてあげないと……」

 ある日の夕方のことである。

 時夫はあれだけ力を入れていたサッカー部にも出ずにまっすぐ家に帰って来ると、自室にこもってしまった。最近はいつもこうだ。真希は兄の部屋のドアをノックしたが返事はなかった。

「入るよ、お兄ちゃん……」真希はドアを開け室内に足を踏み入れた。

 時夫はカーテンを閉め切った部屋のベッドで壁際に体を寄せて毛布を被って横になっていた。

 真希はベッドの端に腰を下ろすと、兄の腰のあたりを両手で揺さぶった。

 しばらくゆさゆさと揺さぶっていると、「なんだよ。うっさいな」という声があがった。

「お兄ちゃん」

「なんだよ」

「あのう……」

「ようがないなら出て行けよ。お兄ちゃんは眠たいんだ」

 冷たい厚い壁、踏み込むことのできない壁のようなものを感じ、真希は言われたとおり自室に引き下がろうかと思った。

 だがこの機会を逃したら、壁はどんどん厚くなり、もう完全に、お兄ちゃんとはバラバラになってしまう。そんなことを無意識的に思ったのかどうなのか、真希は勇気を出して踏みとどまった。そして、ガンガンと土足で兄の心の奥に踏み込んで行こうとした。

 三十分ほど踏み込む真希と、押し返そうとする時夫の会話が続く。

 だんだん感情的にもヒートアップしてくる。

 真希は涙目になり、時夫は怒り、そしていつしか時夫は怯え、そして泣き始めた。まるで目に見えない暗闇に怯える幼児のように。

 時夫はずっと怯えていたという。

 何に怯えていたのかと聞けば、自分の中の野蛮なる神官戦士に怯えていたのだという。

 妹、真希は思った。

『結局、ママとパパが正しかったのね。ただの遅れてきた中ニ病なのね。ばからしい。何が自分の中のあの闇の戦士、邪悪なる神の使徒が怖い、よ。寝言はスマホにでも録音しとけばいいのに』

 だが時夫の心の安定性はいまだ極めて低いままであるように見えたため、妹はそのような罵詈雑言を口にしなかった。また、妹はいまだ小学生であり、噂に聞く中ニ病というものに対しどう接していいのかわからなかったという理由もある。

 妹は頭の中で『ばからしい、ばからしい』と呟きながら、泣きじゃくる兄の肩をぽんぽんと叩いた。

 ああ、ばからしい。

 だが、とにかく心の壁は崩れたように感じる。

 しばらくの間は優しく接してあげよう。

 そんな冷静な看護的計算をしながら兄に優しく接する真希に、時夫は心の中のドラマをドラマティックに打ち明ける。

「自分が怖かったんだ。このままでは周りの人を傷つけるんじゃないかと思って、ずっと怖くて怯えてたんだ!」

 そんなどこかで聞いたようなセリフを聞いているうちに妹は自分の看護熱がどんどん冷めていくのを感じていた。

 3

「ちょっと聞いてよー。家のお兄ちゃんがさー」

 真希は学校の教室で、兄のことを友達に愚痴った。

 するとそのニ名の女子たちは、時夫のその中ニ病を見てみたいと言った。

「ほんとに中学生になるとそんな風になるのね」と、背が高い少し大人びた雰囲気の美香子という名の友人が言う。

「わたしも再来年にはそんな風になっちゃうのかな」と、少し不安げに、文枝という名の、ふわっとした雰囲気の友人が言う。

「なんないよ。なるわけないじゃん」と真希。

「私もならないわ。でも文枝はなるかもしれないわね」と美香子。

 ならない、なるよ、というような会話が、真希とその二名の友達の間でなされた。

 そしてその後、彼女たちはネットで中二病について調べた。

 重い中ニ病を治すには現実の人間との交流が大事らしいとわかった。

 美香子の提案で、放課後、三人で時夫を見舞いに行くことにした。

 色とりどりのランドセルを背負った彼女たちは、学校帰りに、駄菓子屋でお菓子を沢山買って、学校から歩いて十分の住宅街にある真希の家へと向かった。

 三人が家に入ろうとすると、時夫が庭の土にシャベルを振り下ろしているのが見えた。

「なにしてるのかしら?」と美香子。

「なんだか目が怖い……」と文枝。

 興味を持った三人は、少し離れて、塀の影から時夫を観察することにした。

 時夫は庭の松の木の下、『ハム夫の墓』という墓標が立っているハムスターの墓にシャベルを黙々と振り下ろしていた。墓を暴こうとしているらしい。

 しばらくすると時夫は土の中に手を突っ込み、中から何か小さい白いもの、おそらくハム夫の頭蓋骨と思われるものを取り出した。

 時夫はにっと唇をゆがめて笑うと、庭のベンチに移動して腰を下ろした。そして、土がついたままの頭蓋骨に、ポケットから取り出した毛糸をくぐらせ、さらにそれをポケットから取り出したスマートフォンのケースにくくりつけた。

「な、なにアレ?」と、ピンクのランドセルを背負う文枝は真希の背後に隠れながら小さな声を上げる。

「掘り出したハムスターの頭蓋骨を、スマホのストラップにしてるのかしら」と美香子。

「怖い……中ニ病ってこんなに怖いんだ」と文枝。真希を引っ張って後ずさる。

「ダメよ、怖がったら。壁を作ったらどんどん自分の世界に入っていくだけだから、それよりも一緒に遊んであげた方がいいのよ」と美香子。ずんずんと庭のベンチの時夫に近づいていく。そして声をかける。

「時夫さん、なにしてるの?」

「え? ああ、別になんでも、これは何でもなくて」

 時夫は顔を赤くし、目をそらし、美香子から逃げるようにベンチの端へと遠ざかる。その様子が面白くて美香子は時夫の隣に腰を下ろす。文枝と真希も近づいてきて、時夫の前に立った。小学生たちが時夫を囲んでいた。しばらくの沈黙があったが、ふいに美香子が声を発した。

「あの、時夫さん」

「え?」

「真希ちゃんから聞いてます。思い出したんですよね。前世」

「…………」

 時夫は顔を真っ赤にし、うつむいて、自分を責めるように唇を噛んだ。美香子はふいに、その仕草が可愛らしいなと思った。話を聞いてあげたいと思った。

「話してくれませんか? どんな前世なのか」

「わ、私も聞いてみたい。真希ちゃんのお兄さんの前世の話。確か、とても、ひどいことをしていたんですよね」と文枝。

「ほら、お兄ちゃん。話してあげなよ。みんな気になって、聞きに来たんだよ。お兄ちゃんの話」

 もう流れに身を任せよう、真希はそう思っていた。

 時夫は最初、頭を抱えたり、小学生たちから距離をとろうとしていたりしたが、前と左右を囲まれており、しかも、時夫は小学生に触れるのを恐れているようでもあり、結局、そのベンチの上から動くことはできなかった。

 諦めたのか時夫は語り始めた。日に日に強まっていく過去の記憶のことを。

 最初は、できるだけ、残虐なシーンのことを、やんわりと、抽象的な表現で語ろうとした。

 しかし小学生たちは時夫が隠そうとするところを、的確に指摘し、そこに隠れている残虐なイメージと、その残虐な行為をしているときの、時夫の気持ちを暴いていった。

 隠そうと時夫が頑張っている、神官戦士としてのあの瞬間の興奮と気持ちよさを、小学生たちは畳をひっくり返すように露わにしていった。まもなく集団での快楽殺人の記憶をすべて語り終えた時夫は小学生に懺悔するかのように涙目で告げた。

「いつ自分がまたあの残虐な戦士になって人を傷つけるか怖くてたまらないんだ」と時夫。

「試しに今、やってみたら?」と美香子。

「ちょうど三人いるし。その記憶の中でも三人の女の人を虐殺したんでしょう? もっと記憶が蘇るかもしれないから、私たちを生け贄にするフリをしてみたらどう?」

「ちょっと、怖いよ」と文枝。

 その文枝を抱きかかえてベンチに横になる美香子。

 美香子たちはこのあと家に帰るからいいが、私はこの兄とここで暮らしていくわけで、あまり関係性に複雑性が生じそうな遊びはやめたいところだ、と無意識で計算する真希。

 しかし何かしら直感的に、この中ニ病プレイ、それでいてお医者さんごっこのような禁忌のフレーバーもあってドキドキする遊びによって、兄の心の病気は、今の固定化した症状を離れ、何かしら新たなステージへと移行するのではないか、という予感もあった。友達二人と共に被害者の役を演じて、祭壇を模したベンチに横になるという遊びに倒錯的な魅力を感じたのも確かであった。

 妹は友達二人の横に並んで寝た。

「バカ、やめろ。そんなことをしたら、俺は、俺は」

 ベンチから立ち上がり少女たちを見下ろす時夫は大げさに頭を抱えて葛藤している様子を見せた。

「俺はどうなっちゃうの?」と美香子。

 その面白がるような、ふたをしているものの中を興味本位で開けて見てみようとする声に触発され、時夫の中から何かが表にわき上がってきた。

 それは暴力アンド破壊アンド略奪アンド暴行の衝動。

 なんでもいいからやってはいけないことを勢いに任せてやってみたいという衝動。

「だめだ! この衝動に身を任せたら、俺は、俺は……」

「俺はどうなっちゃうのよ。いいからなんかしてみなよ」と真希。

「やだー、怖いよ」と笑いながら怯える文枝。

(ゆだねるのだ)と時夫の中の神官戦士の声。

 闇の中の燃えさかる炎と骨の山の中で神官戦士は生け贄の血を浴びて爛々と目を黄色く輝かせ白い歯をむき出して笑っている。

(血の衝動に身をゆだねるのだ)

「イヤだ、そんな衝動に俺は負けない!」

 小学生三人は、ベンチの上で横になりつつ、青空の下、白い雲の下、何かの葛藤に頭を抱えて苦しんでいる高校生の様子を笑いながら眺めていた。

 高校生の肩の向こう、そのさらに奥の庭の木の枝の向こうでは、青空に白い雲が流れていき、そしてふいに吹くそよ風に、庭の枝が揺れる。

「…………」

 ある時、時夫は足元に転がっていた大きめの石を一つ拾うと、それを握りしめ、ゆっくりと右腕を動かし、その先端を、静かに美香子の肋骨にあてた。そしてまもなく、石は時夫の手から離れ地面に落ちた。ベンチに横になっている小学生たちはなぜか泣いている時夫を不思議そうに見上げていた。

 *

 そして、それ以上、いつまで経っても何の動きも見せない時夫に飽きたのか、ある時、美香子が提案した。それによりまた時間が流れ出したように動きが生じる。

「よくわからないけど、とにかく少しずつ、その、衝動というのを表に出したらいいんじゃないかしら。つまり、何か、外に出したらダメなものがあって、それを出したいけど、出したらダメだと思ってるんでしょ?」

「そう! そうなんだよ」涙を拭い、何度もうなづく時夫。

「じゃ、ちょっと寒くなってきたし、家に入ろうよ」

 そう真希が提案すると皆は家の中に入り、居間のテーブルの周りに座った。

 小学生たちは駄菓子屋で買ってきたお菓子をランドセルから取り出すとテーブルに載せた。時夫は真希の指示でお茶を淹れた。

「お兄ちゃん、ちゃんと手を洗ったの? ハムの骨を触った手でお茶入れないでよ」

「洗ったよ! うるさいな」

「あの……その骨のストラップ……いったいどういう考えで作ったんですか?」と文枝。

「いや……どうも、前世で俺、こういう飾りを沢山持ってたみたいなんだ。それで、どうしても同じものが欲しくなって」

「そうそう。そんな感じで、少しずつ、隠れた衝動を表に出していけばいいのよ。自分の衝動を悪いものだと思って、隠さないで」と美香子。

「いや……このストラップは結局、俺一人のことであって、誰にも迷惑はかけてないから表に出せるけど。でも、これ以外のことはダメだ」

「そうかしら?」

「絶対にダメだ。死人が出る」

「一応、どんなことをしてみたいのか、話だけでも皆に教えてみたら」とお菓子を食べながら真希。

「うーん。何かこう、凄く残虐なことがしたいというのがあって、細かくはわかんないな」

「それなら……」文枝はランドセルの中からノートブックを取り出し、時夫に渡した。

「なんでも複雑なことは紙に書いて考えてみるといいって先生が言ってました。箇条書きで、書いてみてください。時夫さんの隠れた衝動」

「いやだよ、恥ずかしい」という抵抗はあったが、結局、時夫は小学生三人に見守られながら、心の中の隠れた衝動をすべて、箇条書きで紙に書き出していくことになった。

 五十項目ぐらいから時夫に何かの別人格が乗り移ったかのようになり、爛々と輝く目で時夫は勢いよくノートに自分の欲望を書き殴っていった。

 翌日、小学生たちはそのノートを学校に持って行き、他の友達たちに見せた。その話はPTAにも伝わり、その地域の各家庭でその情報は共有されることになった。

 水口時夫の心の中にはバーバリアンの神官戦士が生きている。そいつはこの現代においても、過去にやった残虐行為をやれるものならやりたいと思っている。その願望を時夫の人格が押さえ込んでいる。そう時夫は思い込んでいる。

 そんな情報がその地域一帯の人々に共有された。

 4

 もう完全に終わった。僕の存在は社会に否定されるに違いない、と時夫は部屋で怯えていた。自分の心の中の邪悪な欲望を正直に書きつづったリストが流出してしまったからだ。リストの流出を中学の友達経由で知った時夫は、妹に絶交を突きつけ、それから自室にこもった。

 ベッドの中で、人々が自分を嫌い、恐れている図を想像していると、これから先、どうやって生きていけばいいのかわからなくなった。

 そんなとき、心の中の野蛮人が時夫に話しかけてきた。

(何を恐れることがあるのか。お前は俺だ。誇り高き戦士だ。烏合の衆がいくらお前を恐れようと、それをお前が悩む必要など何もない。むしろ恐れられることはお前の力の証明なのだ。恐れられることの喜びを知るがいい。そしてあまたの輪廻を経て身につけた偽りの仮面によって俺を否定しようとしたこと、俺というお前の本質を否定しようとしたすべての試みが徒労であったことを知り、いまこそ再び俺を受け入れるがいい)

 最初はその声の提案を否定していた時夫だったが、何をどう否定しようとも、その声はそもそも自分の声であり、それがたとえ前世であろうとなんであろうと自分は自分なのであり、それから逃れることはできないとある日、時夫は悟った。

 むしろ今まで思い出せない心の奥底に隠されていた前世の記憶が蘇ったことで、自分の中の大切なパーツの一部を取り戻すことができ、それによっておそらく物心ついたときからずっと感じていた自分自身への違和感、何かがしっくりきていない感じの、少なくとも原因の一部分を理解することができた。それは幸運なことといっても差し支えなと思うまでに、日に日に時夫は前向きさを取り戻していった。

 そして、ある日、時夫は決心した。

 そうだ。

 この僕の中の邪悪な野蛮性。これを、受け入れつつ、それをどうにかして、社会と折り合いがつく形に変えてみよう、と。

 毒は薬にもなる。爆発物も使いようによっては社会の役に立つのである。

 時夫は自分の中の悪と感じられる側面を社会的に役立つ方向に伸ばしていこうとした。

 それは成功した。

 それまで引っ込み思案だった時夫は、クラスのリーダー的な役割を買って出るようになった。自然なカリスマ性が時夫に生じ始めた。女子にもモテるようになった。時夫と同じような野蛮性を精神のうちに宿している子供をどう伸ばしていけばいいのか、時夫には本能的にわかった。時夫は荒ぶる若者たちをサポートするボランティアを始め、地域社会と良好な関係を気づくようになった。

 そんなある日、時夫が大人になり、自分の性質を生かせる仕事をしていたころ、ある女性と出会う。彼女は時夫が幼き日、妹とともに家に遊びに来た小学生、美香子だった。駅前のスタバで彼女は時夫に相談する。

「私も前世を思い出したみたいなんだけど。この前、夢で」

「そうか。それはいいことだ」

「私、生け贄だったみたい。あなたに殺される役の」

「そうか。それはいいことだ」

「何もよくないわよ! どうすればいいの? 私の中の哀れな生け贄は、何も自主性がなくて、人に大切なものを奪われることが自分の運命で、それは仕方のないことで、むしろそれは自分にふさわしい、望ましいことだと感じている存在なの。だから私の人生は、そんなエピソードの連続なの。このままでは私の人生、完全不幸になってしまうわ」

「なればいい」

「生まれ持った人のサガ、宿命は変えられないということ?」

「己の生まれ持った使命を我々は全うするのみ。もしお前の使命が、『自分の宿命を変えること』なら、それは変えられるだろう」

「私は何のために、何の生け贄になればいいの? 何のために自分を犠牲にすればいいの?」

「お前が生きている意味、お前の人生の使命、それは俺にはわからん。お前にのみわかることだ」

「私、もう犠牲者の役を受け持つのはイヤよ」

「それは本当か? 信じられんな」

「本当に本当よ。私、もう、弱い存在ではいたくないの。でも私の前世は生け贄なの。それは変えられないなら、私はどうしたらいいの?」

「では……もっともっと昔の前世を思い出すことだ。前世を思い出す力を持った強力な映像を一緒に観てみようではないか」

 時夫はポケットから情報端末を取り出し、十年前の夜に妹と見たあのテレビ番組を検索し、その映像を美香子に見せた。小さな画面の中でクリスタルスカルが輝いている。

 その光が時夫の前世を次から次へと時夫の心に映し出していく。その光が美香子の前世を次から次へと美香子の心に映し出していく。その一つ一つが映画のフィルムのコマようだ。左から右へと直線をなしていたフィルムは、リールにくるくると巻き取られて、円環を成し始める。

 そのくるりと丸まった人生の連なりを映写機にかければ、あまたの前世が一つながりの映画を成している。映画のストーリーと同じように、前の人生が、そのあとの人生の原因を作っている。前のものが、後のものの原因を作っている。その因果の流れを変えることは不可能のように思える。そのような回転するリールの中に時夫と美香子は存在している。

 だが、そのような映画を深遠なる静寂に満ちたホームシアターで観ている者がいる。

 その者は、その映画を見ているとき、映画に感情移入をして、自分を時夫だと思い、また自分を美香子だと感じたときもあった。

 しかしその者はスクリーンに映る映像ではなく、その者は深遠なる静寂に満ちたホームシアターの座席に座って映像を観ている者であった。

 映画を観ているさなか、どういう仕組みか、ふいにスクリーンにはホームシアターの座席が映る。ポップコーンを食べている自分の映像がスクリーンに映し出されたのを観た偉大なるその者は、そのときに自分が何者であったかを思い出す。そうそう、自分は映画の内容とは何の関係もない、それを観ている者であった、と。そしてその者は自分の力を思い出す。

 自分は映画の内容を好きなように編集することができる。なぜならこのホームシアターは自分のものだからだ。それだけではない、フィルムのコマの順番を入れ替えることもできれば、別のコマに差し替えることもできる。あるいは全く新たなコマを撮影してフィルムに織り込むこともできる。そんな、フィルムに対する無限の力、無限の創造能力をその者は思い出す。なぜならその者はクリエイターであり、創造者が創造の力を持っているのは当然のことだからである。

 しかしすぐに映画はホームスクリーンの座席を映し出すのをやめ、また通常の映画らしく、物語の内容をスクリーンに投影し始める。そのスクリーンの中、スタバのソファで時夫と美香子が会話をしている。

「何? 今のは?」と美香子。

「さあな、わからん。クリスタルスカル映像の効果だろう。俺が初めて見たときには、ただ前世のひとつを思い出すだけだったのだが、今回はあまたある前世のすべてを映画のフィルムのように思い出し、しかも、それだけではなく、俺という存在のより深い、より根源的な側面が、俺に対してあらわになったようだ。何にせよ面妖なことであり、愉快なことよ」

「私の悩みはどうなったの?」

「さあな、わからん。ただ俺が思うには、心の中には無限の広がりがあり、それは過去と未来に無限に続いているパターンの連なりであり、そのパターンは積み重なって、無数の次元を作っている。そのような超次元の中で、内と外とはつながっており、俺とお前と全人類と宇宙は一つにつながっている。そんなものが理解できるわけもなく、だが理解できそうな気もする、そんな想像を越えた画期的な存在の織物の中に俺たちはいるということだ。そのような洞察を俺は得たが、この一件でお前が何を得たかはわからん」

 秋。

 時夫と美香子は駅前のスタバでそんな会話をしていた。

 まもなく話すことがなくなったので、美香子は白いコートに赤いマフラーを巻くと立ち上がり、紙コップをゴミ箱に捨てて店外へと出た。

 落ち葉を踏みしめて街路樹を歩き始める。

 右に顔を向けるとガラスの向こう、ソファで時夫が文庫本を読んでいた。

 軽く手を振り、また前を見て歩き始める。

 もう被害者でいるのはイヤ。

 だから強くならなきゃ。

 でも、強くなる? どうやって? こんなにも私は弱いのに。

(すでに強いと知れ)

 心の中に見知らぬ者の声が湧き上がる。

(お前は俺だ)

 まだ美香子は知らないがそれはあの神官戦士の声だ。

 秋の街の色とりどりの美しさに意識を奪われ、その声はまだ美香子の意識の表面には届かない。だがその日の夜に美香子は自分の心の中に数多の存在が住んでいることを知る。哀れな生贄、犠牲者としての自分がおり、その一方で、加害者としての自分、闇の殺戮マシーン、あの恐るべき血に濡れた神官戦士も美香子の心の中に住んでいるのであった。

 心の中の数多の窓がより大きく開き、その窓の向こうの部屋に住まうあまたの意識との交流が生まれようとしている秋、美香子はいまだ己の人格を変えるためには苦闘が必要であると思い、これから先の努力の必要性を思って重い足取りで駅ビルの下を歩く。

 だが必要な心の要素は、すでにどんなものでも、心の奥のマンションの薄いあまたの窓の向こうに、すべて揃って存在しているのだ。

 あの女がそれに気づくのはいつのことになるだろう。

 時夫はスタバの中、文庫本からちらりと顔を上げ、窓の向こう、駅ビルの中へと歩き去る美香子を見送っていた。