あけみは旅に出ることにした。

 旅。

 目的地はわからない。

 しかし、とにかく、旅に出なければならない。

 なぜなら、あけみがそう決めたのだから。

 旅に出ると決めてしまったのだから。

 どうしても旅に出なければならない。

 そういうわけで、あけみは準備を始めた。

 旅の準備と言っても、そんなこと、今まで一度もしたことがない。東京のこのアパートも親に決めてもらった。大学も自分の偏差値にちょうどいいところを何となく選んだ。

 でも旅はしたことがない。中学、高校の修学旅行には行ったけど、あれもやはりスケジュールや目的地は誰か他の人が決めてくれたのだ。

 でもこの旅は自分でする旅だから、やり方が分からなくても、準備も自分でせねばならない。

 でもこの旅は自分で始める旅だから、やり方が分からなくても、準備も自分でせねばならない。

……よし、やってみるか」

 あけみはそれまで埋もれていたビーズクッションから立ち上がった。

 そして、とりあえず、こんなことをすれば準備になるのではないかと思われることをやってみることにした。

 まずはアパートの自室の真ん中にある折り畳みテーブルの上に、旅をするのに必要だと思われるアイテムを集めていく。

 歯ブラシ。

 ドライヤー。

 バスタオル。

 靴下。

「こんなもんか……

 あけみは緊張で汗ばむ額を手の甲で拭った。

 そして思った。

 こんなもんか、ではない。

 何かが大幅に足りない。

 そうだ。ドライヤーを海外で使うには、変圧器というものが必要なはずだ。海外と日本では電気の規格が違うんだ。

 でも、私の旅、それは海外旅行なのだろうか。

 ボーイフレンドとよく行った電車で片道一時間ぐらいの日帰り小旅行ではダメなのだろうか。

 ダメな気がする。

 なんとなく、変圧器が必要だ、と思ってしまったせいで、旅の行く先が海外に固定されてしまったような気がする。あけみはその雰囲気を取り消そうとしてぶんぶんと頭を振ったが、もう手遅れのようだった。

 心に浮かぶ旅行先のイメージは、常夏の島や、ヨーロッパの石畳の歴史ある町並みや、ニューヨークの摩天楼などなどの非日本的なものから何をどうしても動かなかった。

 こうなったらもう海外に行ってみるしかない。

 そう、お金ならある。沢山は無いけれど、夏の間、皿洗いや害虫駆除をして貯めた十万円がある。

 あけみは新しい紙幣が入った封筒をバンと音を立てて折り畳みテーブルに置いた。そして、押入の中から、高校の修学旅行に使った古いドラムバックを引っ張り出し、それもテーブルの上に乗せた。さらにパスポートも押入れの奥で見つけた。高校の卒業旅行のために作ったが、結局使わなかったパスポート。それもテーブルの上に置いて見ると胸が痛いようなドキドキするような感覚に襲われる。

 だがそのとき、惰性で付けていたテレビではよく見るバラエティ番組が放映されており、その音声があけみの意識を引きつけた。

 あけみはパスポートにに注がれていた視線を、背後にある小さな液晶テレビに何気なく向けた。瞬間、一時間が経過した。

 バラエティ番組が終了してCMが流れたとき、あけみは旅のことを思い出してテレビを消した。

「危な……」

 危うく旅のことすべてを忘れて、いつもと同じようにテレビを観て寝てしまうところだった。時計を見ると午後十時だ。今夜中にわたしは旅に出る準備をやり遂げてしまわなければならない。でなければこの勢いは消えてしまうだろうから。

 あけみはテレビの電源プラグをコンセントから引き抜いた。

 そしてあけみは、より具体的な旅行プランを立てるために、スマートフォンのブラウザを覗き込んだ。瞬間、二時間が経過した。

 世界ではさまざまな事件が起きているらしかった。そんなものを読んでいる間に、目は疲れて意識は朦朧としていた。眠かった。時計を見るともう寝る時間だった。ここで寝てしまい朝になれば、もう絶対に旅なんて出ない。そして旅に出ないまま十年が過ぎるのだ。

「ダメだ、とにかく旅立たないと!」

 あけみはスマートフォンの電源を切った。

 そして蛍光灯の下で白々と光る旅の荷物をドラムバックに黙々と詰め込む作業を始めた。なぜ旅に出るのか、その理由を考えるために手を止めようとする脳の働きを無視しながら。

 そしてもう詰めるものが何もなくなり、この部屋でできる準備も何もなくなり、あとは旅立つだけになったとき、あけみは布団に横になって目を瞑った。

 今日の夕方に別れを告げた恋人のことを思い出した。今ならまだ関係を元に戻すことができるかもしれない。高校生の頃から仲良くしていた恋人。目を閉じるとその者との沢山の記憶が思い浮かぶ。

 あけみはそれも切ろうとした。心の中に勝手に沸いてくるその者との楽しかった記憶たち、その電源を切ろうとした。そして手を伸ばし、長く延長されて垂れ下がる蛍光灯の紐を引っ張って部屋を暗くし、旅立つ前に少しだけ眠ることにした。だがテレビのこと、ネットのニュースのこと、そして恋人のことが代わる代わる心の中に沸いてくる。電源を切ったはずなのに、切れていなかったのかもしれない。

 でも暗闇の中を手で探っても電源がどこにあるのかわからないから、あけみは電源を切ることをあきらめた。

 恋人との思い出が心の中に浮かんで来るにまかせて、それはそれとして、そこに置いておくことにした。そして、いくつも浮かんで来る、思い出に飲まれ、過去に飲まれ、自分が行きたい方向のことを忘れてしまわないよう、旅のことを忘れてしまわないよう、何か強い、行く先の標を心の中に思い浮かべた。

 テレビよりもニュースよりも恋愛よりも輝いている、それは北極星だった。

 心の中のその光を浴びながら、あけみは眠りに落ちていった。

 行く先の見えぬ真っ暗な海原を航海する船のマストに、白い射すような光を、それはいつまでも投げかけていた。

Stars and boats at night