それにしても、メタトロン二号がゲートから現れてから、もうずいぶん長い時間が経ったように感じる。そんなはずはないとわかっているのだが、主観的にはすでに数ヶ月ほども経っている感がある。

 僕は部長としての今までの経験から、この部室内では時間の流れが早くなったり遅くなったりすることを知っていた。特にゲートが開いた直後はその効果が著しい。しかも今回は僕自身が、意識の一部だけとはいえ、ゲートの向こうに行ったのだ。そのためにいつもより大きな影響を受けたのだろう。

「さて、今は実際、いつなのかな?」

 僕は鞄からW-ZERO3を取り出し、現在の日時を確認した。

 荒い液晶ディスプレイに表示されている日付は、今日がまだ、母にしょうもない昔話を聞かされたその当日であることを示していた。時刻はというと、まもなく閉門のチャイムが鳴るころだった。

 僕はソファから立ち上がった。

 ソファの反対側で、わずかに輝きながら、お茶で湿っている二号はうつろな目で僕を見上げた。

「どこへ行くんですか?」

「そろそろ帰らなきゃ」

「帰るって、どこに?」

「そりゃお前、家だよ」

「あー、家ね、家……家、それは人が帰る場所」

 二号は江戸時代の機械人形のような動きでうなずくと、平坦な声で、何かポエムのようなことを口走り始めた。

「帰る場所、それは暖かいよ。帰る場所、人にはそれが必要だよ」

「おう、そうだな」

 僕は棚に置いていた鞄を肩にかけた。

「でも……私はどこに帰ればいいんですかね」と二号。

「はあ? 知らないよ、そんなの」と僕。

 この二号という存在に対しては、自分でも驚くほどぞんざいな対応をしてしまう。なぜなのだろうか?

「私、この世界に帰る場所も行くあてもないみたいなんですけど」

「そうだな。そもそもお前はこの世界のものじゃないからな。それを承知で来たんだろう」

「あっちからこっちにやってきた他の皆さんは、どうしてるの?」

「例えばミーニャはこの部室で何ヶ月か暮らしてから外に出ていった。それはなぜかというと、もしかしたら……」僕は前々から温めていた自分の考察を語り始めた。

「これは喩え話だが、海に早く潜りすぎると『窒素酔い』ってのになるらしいじゃないか」

「そうなんですか」

「そうなんだよ。逆に水面に浮上する速度が早すぎても『減圧症』ってのになる。つまり、水圧の違う場所に急いで行くと、様々な障害が発生するってことだ」

「ふんふん」

「で、ゲートの向こうの世界を水面だとして、僕が今いる世界を深海だとしたら、この部屋はちょうどその中間地点ということになるんじゃないか」

 二号は光の触手で空中を探る素振りを見せた。

「確かに。この部室のフリークエンシーは、ちょうど四層と三層の中間ぐらいと言えます」

「だからミーニャというエクスプローラーは、この中間地点でしばらく生活して、僕の世界のフリークエンシーに心と体を慣らしてから、外に出て行ったのかもしれない」

「なるほど。賢いですね。それでミーニャさんは、この部屋の外で今、何を?」

「たぶん……猫になってる」

「猫に?」

 二号のうつろな目が驚きのためかわずかに大きくなる。僕はミーニャの逸話を二号に話して聞かせた。将来を期待されたエクスプローラーが今は僕の家で獣になっているようだ、という。

「そんな……この部屋でしばらく暮らしてた意味、何もないよ」

「そうなんだよ。一方でアリスっていう別のエクスプローラーは、何の準備もせずいきなり外に出て行ったけど、きちんと人型を保ってる」

「私が外に出たら、最悪、何になってしまうんですかね?」

「人間か、それともイソギンチャクかな」

「イソギンチャク?」

 僕はW-ZERO3のインターネット表示機能を駆使して、二号にイソギンチャクの画像を見せた。二号の背中から伸びている触手とイソギンチャクの外見的類似性を僕が指摘すると、確かに自分がイソギンチャクになる可能性は十分にあると二号は納得した。

「怖いですね……」

「お前、天使のくせに怖いとかあったのか」

「あれ、おかしいですね。本来は無かったと思うんですけど」

「大丈夫なのか」

「それはわかりませんよ、うふふ……それよりあなたさん、鞄なんて肩にかけて何をしようとしてるんですか?」

「そりゃお前、帰るんだよ。さっきも言わなかったか?」

 この存在と話していると、会話のループが生じることが多々ある。

 記憶容量が少なく、そのためにボケている二号のノリに僕が巻き込まれているためだろうか。それとも二号の醸し出している、通常の時間の流れを超えた雰囲気、今この瞬間にべったりと意識が張り付いている雰囲気のためだろうか。それともその両者が混ざりあった結果だろうか。

「帰らないで、ここにいればいいじゃないですか。私なら構いませんよ」

「ダメだ」

「なんでですか?」

「わからない。お腹が空くからかな。とにかく僕は帰る。そこのロッカーにエクスプローラー鞄が入ってる。鞄の中にはエクスプローラーテントが入ってる。そのテントを使えばこの部室内で何不自由なく過ごせるはずだ」

「はいはい、エクスプローラーテントね。知ってますよ。そういうエクスプローラー装備の元型を作ってるのは私ら天使なんで」

「じゃ使い方もわかるな。良かった、安心して帰れる」

「え? 何も安心じゃないですよ」と二号。

 うつろな瞳の奥に、何か人間的というか、動物的な感情が仄見える。

「テントの使い方がわかるなら、何も問題はないだろ」

「怖いんですけど」

「何が?」

「一人でいるのが。夜になると暗いみたいだし、この世界」

 そのようなことを言って、急に二号は暗闇に怯える幼い少女のような様相を見せ始めた。

 僕は自分の中に反射的に湧いてきた保護欲のようなものを感じながら、そういった的確な感情的レスポンスをリアルタイムに沸き立たせることのできる自分の高度な人間性に感動していた。

 感動しつつ、僕は背を向け壁を指さした。

「ほらここ、照明のスイッチがあるだろ。これを押さなきゃ暗くならないから大丈夫だ。良かったな。それじゃあ」

 僕はさっと部室を出ると、鍵をかけて帰宅した。

「…………」

 帰宅途中、夕日に長い影が伸びている並木道の下で僕はふいに足を止めた。

 何か忘れ物をしたような気がする。

 僕は回れ右をすると部室に取って返した。

「あれ、何しに戻ってきたんですか?」と、ソファで先程と同じ姿勢を維持している二号。

「いや……何か気になってな。でも気のせいだったようだ。じゃあな」

 僕は部室を出ると鍵をかけて帰宅した。

「…………」

 五分後、何か忘れ物をしたような気がして、僕は駆け足で部室に戻った。

「あれ、何しに戻ってきたんですか?」と先程と同じ姿勢の二号。

「いや、何の用も無いんだが、部室の外に出ると、なぜか部室に戻ってこなけりゃいけないような気がして……じゃあな」

 僕はさっと部室を出ると、このまままっすぐ家に帰るという強い意思を固めながら校門を出て、ほぼ完全に日の暮れた並木道を歩いた。

 帰宅気分を高める必要性を感じ、僕は詩的な感覚を無理にでも湧きあがらせようと左右を見回した。

 町並みは昼と夜との境目というライティングの関係で、見知らぬ国の見知らぬ町に迷い込んでしまったような感覚を僕に与えた。まもなく道の左右で点灯した商店街のライトは、青みがかった夕暮れの薄闇の中でいくつも輝き、それは見知らぬ時代、あるいは見知らぬ星の不思議な世界の夢のようなきらめきを僕に想像させた。

 そして、さらに五分ほど歩いた後、僕はふいに何か部室に忘れ物をしたような強い感覚に襲われた。回れ右をして部室に戻りたくなったが、部室には確実に、何の忘れ物もなかったはずだ。それはわかっている。わかっているのだが、どうしても部室に戻りたくて仕方がない。その欲求に逆らえず、僕は回れ右をして駆け足で部室に戻った。

「あれ、なにしに戻ってきたんですか?」と先ほどと同じ姿勢の二号。

 ソファに座り、首をひねってこちらを見ている。

 目は空ろだ。

 だがその口元にはかすかな笑みが浮かんでいるように感じられる。具体的には、口角が角度にして五度ほど上を向いている。

「何だお前、笑ってるのか? 笑うなんて高度な人間的機能が使えたのか?」

「ふふ、バレては仕方ありませんね。そうです、笑ってます、私」

「何が面白いんだよ」

「だって、あなたさんの行ったり来たりするのが滑稽で」

「笑い事じゃない。なんだかおかしいんだ」

「ふふ。これですよ。これ」

 二号は自分の背中から生えている光の触手の一本を矢印の形にすると、その矢で、別の、一本だけとても長い触手を指差した。

 僕は矢印で指さされた光の触手を目で追った。それは二号の背中から伸び、ソファを越え、何もない空間を横切り、途切れることなく、僕に向かってまっすぐ伸びてきていた。

 二号から距離が離れると、触手の放つ光は空気に溶け込むかのように薄くなり、よく目を凝らして見ないと見過ごしてしまう。だが二号の背中から慎重にたどって見ると、その長い触手は僕の身体にまで伸びてきており、まさに僕の胸に刺さっているように見えた。

「おい、お前、これ、抜けよ」

 僕は触手を手でつかんで抜こうとしたが、空気を掴むようにすり抜けてしまう。

「この光の紐、あなたさんの肉体とは違う密度の物質で出来てるよ。だから触れないよ」

「もしかして、この紐が刺さってるせいで、僕は何度もこの部室に戻ってくることになったのか?」

「ふふ」

 どうやらそういうことらしい。

「まあ、今日のところは抜いておきましょうかね」

 二号は僕の胸に刺さっていた光の触手を抜き取った。

 するとそれはするすると短くなり、他の七本の触手と同じ長さになった。

「今日のところはもう帰っていいです。怖いけど一人でいます」

 二号は首をぎくしゃくと曲げると、ソファの正面の棚に顔を向けた。

 僕は思った。

 この存在、一人で部室にいることを、もしかしたら本当に怖がっているのかもしれない。

「…………」

 どうしよう。

 僕はしばらく二号の後ろ姿をソファ越しに見ていた。

 見ていたが、もう何も動きが無かった。

 ある瞬間、僕は部室を出て帰宅した。

 家の玄関前で、ちょうど仕事から帰ってきて車から降りた母と鉢合わせした。

 母はまた今朝の話の続きをしたいようだった。

 僕としてもその問題に関してはきっちりケリを付けておきたいという気持ちはあった。

 でも、なんだか今日はとても疲れていた。

 僕は自室に直行するとベッドに倒れ込んだ。

 深夜、シャンプーの香りと何者かの体温でふと目が覚めた。

 母が隣に潜り込んできたのだ。

 鬱陶しかったが押し返す元気は無かった。ベッドの端に寄り、壁に体を向け、夢の続きに意識を戻した。

 *

 翌朝も母は己の性欲に関する主張を切実に僕に訴えかけていた。僕はスルーして登校した。しかし不安は強まる。排水口が詰まったプールのように、いずれ何かが溢れだし、大変なことになるのではないか。この件に関して僕はどうすべきなのか。

 悩みながら、放課後、職員室に向かった。

 吉岡先生に呼び出されたのだ。

「どうしたんですか? 来ましたけど」

「職員室にようこそ、ふみひろさん。だが今、手が放せないんだ。ちょっと待っててくれ」

 吉岡先生はスマートフォンをせわしなく操作していた。またゲームだろうか。いや、とぎれとぎれに聞こえてくる彼の説明によると、ドバイに住む少女とインターネットを介してメッセージのやり取りをしているところらしい。

 なんのことやら。

 五分ほどスチール机の並んだ職員室の様子を眺めて過ごした。奥の壁にはシンプルな時計がかかっており、その淡々とした秒針の回転が、規則正しい生活がもたらす安定感を表現しているようである。

 その下の黒板には連絡事項や今月の予定がびっしりと書き込まれており、たくさんのスチール机の上には大量の書類が乗っている。その合間を教師や生徒たちが入れ替わり立ち替わり動き回っている。人々が発する音と動きには、活力と調和が感じられる。

 もしこの学校がひとつの生き物だととすると、この職員室こそがまさにその中枢である脳に相当する器官に違いない。そんな中、何かにとりつかれたようにスマートフォンの画面をこすり続ける吉岡先生のみが狂った脳細胞のように不協和音を発している。

「…………」

 さらに五分ほど待った。

 すると、ふいに吉岡先生はスマートフォンのスリープボタンを格好付けた仕草で押し、格好付けた仕草で胸ポケットに入れた。そして視線を微妙に僕からそらしたまま、高いテンションで語り始めた。

「ドバイってどこにあるか知ってるか? 先生は知らないぞ。たぶん左の方にある。だがひょんなことからSNSでメッセージが来て、仲良くなったんだ。少女とな! 言っておくがな、先生は、知り合えるものなら、むしろ日本の同い年ぐらいの女性と知り合いたいと思っている。しかしそんなのはスパムメールの業者だけだ! 全員、業者なんだよ! 全員、業者なんだよ!」

「ちょっと、怖いんですけど。僕に向かって怒鳴らないでくださいよ。意味の分からない個人的な叫びを二回も繰り返さないでくださいよ。他の先生方が見てますよ」

「そう、この世界は商業主義に毒されているため、ピュアな人間同士の交流は難しいんだ。他の先生方は先生、つまり俺のことを腫れ物を触るように扱うんだ。そんな汚泥のような世界の中で今、美しい満開の桜が風に揺れるかのような美しいやりとりが先生とこの少女の間は今、芽生えつつあるんだ」

「へー……」

「事の発端はこうだ。ドバイで一番高いビル、ブルジュ・ハリファに住んでいる彼女が、ある日、隣のドバイ・モールにある紀伊國屋書店に何気なく立ち寄った。そのとき奇跡が起きたんだ! その書店の棚の隅には、先生が十年前に出版した本が埃を被って置かれていたんだよ。そして彼女は見慣れないアニメっぽい表紙に何か惹かれるものがあってそれを購入。そして豪華な自室の天蓋付きベッドの中でページをめくるたびに、かつて感じたことのない不思議な感動が彼女の中に電撃的に生じていったというわけだ。そして、ああ、この感動の感謝を著者に伝えたい! そう思った彼女はFacebookで先生の名前を検索し、ファンメールを寄越してくれたというわけさ。以来、先生はもう彼女のことが気になって気になって仕方ないんだ」

「もう行ってもいいですか? 僕も忙しいんですけど」

「待ちたまえ。そうそう、ふみひろさんには言っておかなければならないことがあるんだ。君の部を廃部にしなければならないという件について」

「ていうか……本? 先生が書いた?」

「そうだ。知らなかっただろう。先生は昔、小説家をやっていたんだ。ネットの小説サイトで連載していたら、人気が出て本にしてもらえたんだ」

「へー、凄いですね。どんなの書いてたんですか?」

「そんなに読みたいのか。仕方ないな、ふみひろさんに一冊あげよう。先生が書いたのは、いわゆるライトノベルという様式の本なんだ。面白いぞ」

 吉岡先生はスチール机の引き出しを開いた。そこにはどっさりとアニメっぽいイラストが表紙の本が詰まっていた。高校教師と思われる三角定規を持った男が、三人の高校生らしき少女に抱きつかれているというイラストの本だった。

 僕は一冊、受け取った。

「えー、なになに、著者は吉岡礼司。これって本名ですよね」

「そう! 先生はペンネームを使う意味がわからない。堂々と自分の名前と存在を世界に対して押し出してゆきたいといつも思っている」

「タイトルは『俺の教え子たちがこんなに俺のことを好きなわけが無い』……先生、さっき『同い年ぐらいの女性が好きだ』って言ってたけど、やっぱりこういうのが好きなんじゃないですか。ちょっと、気持ち悪いんですけど」

 吉岡先生は肩をすくめ、やれやれというジェスチャーをした。

「これだから一般ピープルは救いがたい。ぜんぜん小説の読み方ってものがわかっていないな。ちょっと可愛い美少女の絵が書かれているイラストだからって、作者がまるで自分の願望を小説にぶつけたみたいに考えるのは早計にすぎるってものだぜ。この本はな、先生が五歳のころから温めた夢と希望が、先生なりに考えた小説理論に則って書かれている魂の表現なんだ。いわば文学だな。先生は芥川龍之介を読んだこともあるほど小説を愛しているんだ。その本、読んだらきちんとAmazonのレビューにいい感想を載せておくんだぞ。いいか、星は絶対に五個付けてくれ」

「それがなんで今、教師をやってるんですか?」

「先生、一作目の小説で、自分のポテンシャルを二百パーセント表現してしまったんだ。それでもう何も書くことが無くなってしまった。天才ゆえのゴールの早さというやつだな。それで次の夢である高校教師をやることにしたというわけさ。親戚が校長をやっていて本当に助かったよ」

「ちょっと待った、廃部!?」

「そうそう、廃部だ。ふみひろさんの部は廃部だ」

「なんで?」

「廃部だったら廃部だ! 目上の人の言うことを聞け!」

「どうして廃部?」

「胸に手を当てて聞いてみたらいい」

 僕は胸に手を当てて、切々と先生に聞いた。

「なぜ僕の大切な部が廃部だって言うんですか!? なんでなんですか?」

「胸に手を当ててというのは、そういう意味じゃないんだが……まぁいい。大切なら、早く部の活動内容を決めて書類を提出しなさいよ! 何をやってるんだ君は! もう何ヶ月も前に書類を渡しただろ。何部にするかを決めて、少なくとも部員をあと二人集めて、活動内容を報告しなさいっていう書類を」

「あー」

「あーじゃないよ! 何度も催促してるだろ。早く何部にするか決めないと廃部だ! 廃部だ! 我々もボランティアでやってるんじゃないんだよ。無気力な生徒に、それなりの持ち場を与えて、仮初めの気力を与えようという大人なりの計算があってのことなんだから」

「うーん……何部にしたらいいですかね」

「そんなこと先生は知らないよ。何か好きなことやったらいい。まぁどうせアレだろ、自分の好きなことが見つからない上に、自分が何者なのかわからないんだろ。自分が何者なのかわかんないから好きなこともわからないんだろ。そんなの常套句なんだよ! 先生だってなぁ、そんなもの分かった試しがない。ブルジュ・ハリファに住む少女に対しては、いつも『夢ってのは自分の本質から自然に湧き上がってくるものさ』的なことを伝えているが、自分の本質と先生の脳みその間には、超えられない厚い壁があって、回路が断絶しているんだ。だから先生はわからないんだ、自分が何者なのかを。だからどんな仕事をしたらいいかもわからないんだ!」

「あれ……先生、今日はちょっと格好いいですね。言葉に力がありますね」

「そうか?」

「ええ。自信を持って。教師も結構、似合ってると思いますよ」

「あ、ありがとう、ふみひろさん……」

「でも確かに、僕も自分がよくわからないな。部活も何やったらいいかわかんない。わかったら言いに来ます」

「今週中に頼むよ。今週中に決まらなければ廃部だぞ」

「ちょっと関係者に相談してきます」

「誰に? 部員はまだいないんだろ?」

「そうなんですけど、なんとなく、部室に誰かいたような……」

 とりあえず礼を言って文庫本を制服のポケットに入れると、よくわからないなりに、とりあえず部室に行ってみることにした。

 *

 ドアを開け、蛍光灯が点きっぱなしの室内に入ると、ソファの奥にテントが設営されているのが見えた。そんなに広くないこの部室の中で、それは大きな存在感を放っていた。

 まもなく僕は部室の外では忘れていたことを思い出し、いつも通りの軽い混乱を味わった。

 急に足場がなくなり、無重力空間に突入したかのような精神的変化を味わいながら、僕は棚に鞄を置き、記憶と気持ちを整理しながらお茶を淹れてソファに座った。

 まもなくテントの入口が開き、ごそごそと二号が中から姿を表した。

 そうそう、部室には異次元へのゲートがあるだけではなく、昨日やってきたこの存在もいるのだった。

 その存在、二号の、というか、二号が入っている耶麻川の肉体の髪は絡まっており、薄手のダウンジャケット様のエクスプローラースーツには皺が寄っていた。その様子はテント内での寝苦しい一夜を想像させた。

「良かった。来てくれたんですね」二号は僕を見るなり昨日よりも人間らしい笑顔を見せた。

「部長だからな」

 二号はテントから這い出るとテントの片付けを始めた。その動作は依然として錆びついたブリキ人形を思わせたが、昨日に比べればそれなりに人間味が出てきているとも言えた。

 人間らしさを指摘すると、二号は答えた。

「昨日は寝れなかったので、この肉体の脳と神経に、私のエンジェリック・ボディを連結するという作業をしてました。なかなかフィットしてきたよ」

 二号はぎくしゃくとした屈伸運動を見せた。

 だが……その肉体は昨日よりも幾分やつれているように見える。

 バス、トイレ、キッチンに類した機構はエクスプローラーテントの中にあり、それは四次元的な仕組みによってメンテナンスフリーで使えるはずだが。

「そういえば、二号……いや、呼び捨てはよくないよな。二号さん」

 僕はテントの片付けを手伝いながら聞いた。

「なんですか?」

「そういえば、二号さん、ご飯はどうしたんだ?」

「ご飯? ご飯……それは白くて暖かい食べ物。ご飯、それはカロリーがあるよ」

「もしかして、食べてないのか? テントの中には確か保存食料が用意されてるんじゃなかったか。その冷蔵庫の中にも、いくつか食べ物が入ってるけど」

「食べ物? あぁ、それは食べるもののことですね。食べ物は食べてないですよ」

「お腹、減らないのか?」

 二号はテントを畳む手を止めると、手のひらで腹部を撫でた。

「あぁ、お腹、ね。はいはい。これは、減ってたんですね、お腹が」

「…………」

「何かこう、昨日からずっと変だなと思ってたんですよ。このボディが何かを私に訴えかけているような感覚がずっとあって、でもそれが何なのかわからず」

 二号は照れを表現するかのように光の触手で頭をかいた。タイミングよくお腹が鳴る音も聞こえてきた。

 僕はテントの片付けを終えると、ミニ冷蔵庫の小さな冷凍スペースから冷凍えびピラフを取り出し、レンジでチンしてスプーンと共に二号に渡した。

 ソファの右側に座った二号は脳の中にある食事に関する記憶を探り出すかのように、スプーンと湯気の立つピラフを様々な角度から眺めていた。

 二号は最終的に、物理的な両手で皿を持つと、光の触手でスプーンを動かし、ピラフを口に運んでいった。

「はふはふはふ……」

「あまり急いで食べるとヤケドするぞ」

「はふはふはふはふ……あれ、これはなんですかね」

「どうした? ピラフに異物でも混入していたか?」

「いや、私の目から何かが……あれ、これは涙? 私、泣いてるみたい」

「な、なんだよ、どうしたんだよ」

「う、うぐっ……いやー、これはおかしいですね」

 大粒の涙が頬を二号の頬を伝い、ぼたぼたと顎から膝に落ち、エクスプローラースーツに染みを作っていく。

「これ、ちょっと持っててください。ひぐっ」

 二号は僕にピラフの皿を渡すと、手の甲で涙を拭った。

 だが涙は止まらなかった。

 止まるどころか、何かが決壊したように、まもなくそれは嗚咽&号泣という様相を見せ始めた。

「…………」

 僕はうろたえなかった。

 こいつのことだ、どうせまた何かふざけているんだろう。

 僕は食べかけのピラフにラップをして冷蔵庫に入れると、ソファの左側に座り、自分の問題についての考え事をしようとした。

 考え事。

 そうそう、早くこの部を何の部にするのか決めないといけない。なんの部を始めようかな。

 あとあれだ、母の性欲の件は、この先どうなってしまうんだろう。

 それに耶麻川、あいつは今頃、どこで何をしているのだろう。

 などなどのことを考えてみた。

 考えてみたが、どれも一寸先のこともわからなかった。

 わからなかったが、どれもなんとなく、勝手にいい感じになっていくとしか思えなかった。

 僕は自分の甘い見通しをたしなめた。

「僕は甘すぎる。もう高校生だもの、もっと深い現実を見なくてはな」

 そこで僕はよりソリッドな現実について考えるため、なにかシリアスなこと、たとえば世界の暗いニュースについて意識を向けた。だがそれも、何となくいい方向に向かうとしか思えなかった。

「…………」

 実は僕はゲートが開く前から、エクスプローラーなどという存在と合う前から、心の底で思っていた。あまり誰からも同意は得られないから、誰にも喋らないようにしていたが、ずっと心の底で思っていた。

 どうせ、何もかも大丈夫に違いない、と。

 目に見えるものが、大問題の様相を呈していても、何もかも、本当は大丈夫なのだ、と。

 特にこの、二号という存在に関しては、明らかに何がどうなっても大丈夫なはずだ。なぜかといえば天使だからだ。天使について僕が何を知っているのかといえば実は何も知らないのだが、イメージ的には人間的な悩みや苦しみとは無縁の存在に思える。

 だが……僕は二号を観察した。すると、どうやら本当に悲しみの感情が溢れ出して、真剣に二号は泣いているように見えた。僕は動揺を押し殺した。

「お前、天使のくせに泣いたりするんだな。てっきり天使は感情なんてないものだと思っていたよ」

「ひぐっ、うぐっ……肉体をまとったせいで、私にもエモーショナル・ボディが出来たみたいで」

「エモーショナル・ボディ? なんだかよくわからないが、それが感情を生み出しているということか。とにかく、泣いてるってことは悲しいのか? 何が悲しいんだよ」

「うぐっ……あなたさん、戻ってこないから、私、この知らない世界に永遠にひとりきりかと……お腹も空いて……ひぐっ……」

 二号は小さな子供が泣きじゃくるように背中を震わせている。

 僕は理を説いて聞かせた。

「気にするなよ。しょせんお前は天使で、人間の体に一時的に入ってるだけだ」

 だが僕が何か冷静なことを言えば言うほど二号の嗚咽は激しくなっていくようだった。

「ひぐっ……ううう」

 肩を震わせて涙を拭うその挙動には人間味が溢れていた。

「…………」

 これはもしかしたら、慰めた方がいいのかもしれない。

 うまくできるかどうかはわからない。

 だが、とにかく試してみよう。

 僕は二号の肩を軽く手のひらでポンポンと叩いた。

 それから「よしよし」と言った。

 小学生だった頃、バス遠足で牧場に行ったことがある。そこの子牛を撫でた記憶がふと脳裏に浮かぶ。優しく撫でていると子牛は気持ちよさそうに鼻を鳴らした。あのとき学んだことを活用する時が来たのかもしれない。そう、哺乳類は優しく触られると気持ちが落ち着く。人間という哺乳類の身体に入っている二号にとってもそれは同様のはずだ。

「よしよし、よしよし」

 そう言いながら肩をポンポンと一定リズムで叩いていく。

 まもなく、二号の泣き声は静かになってきた。効いてきたようだ。

 手応えを感じた僕は、引き続きこの方向性で二号の感情をなだめようとした。

「よしよし、よしよし、よしよし」

 すると、あるときのことだった。

 ふいに二号はふいに僕に寄りかかってきた。また僕は牧場の子牛を思い出した。あの牧場で子牛は僕に体をすり寄せ、鼻をすりつけてきたものだった。二号もいつしか僕の胸に顔を埋めるような体勢になっていた。まだ涙は止まらないのか、若干の震えが伝わってきた。僕は自然と両腕で二号を抱きとめる形を取っていた。その姿勢で引き続き二号の背中のあたりをポンポンと叩いていった。

「よしよし、よしよし、よしよし、よしよし」

「ひぐっ、う、うぐっ……ううううう」

 そのまま数えきれないほど背中を叩き「よしよし」と言ううちに、ついに二号の状況に変化が訪れた。嗚咽は完全に鎮まり、それはすーすーという静かで安らかな呼吸音へと変わっていった。そして、ふいに二号はゴシゴシと僕の制服に顔を擦り付け、涙と鼻水を拭ったかと思うと、そのままソファに横になって、頭を僕の膝に乗せた。

「よしよし、よしよし……お、おい」

 慣性でよしよしと言い続けているうちに、それが一種の睡眠導入のような効果を発揮したのかもしれない。

 僕の膝の上に見慣れた顔が乗っており、それは心地よさそうに目をつむって寝息を立てていた。八本の光の触手はソファの上に垂れ、二号の呼吸に合わせてゆるやかに振動し、うねっていた。軽く肩を揺さぶってみたが反応は返って来なかった。

「…………」

 制服の上着を脱いで、二号にさっとかけてみる。

 風邪を引かないように。

 僕は様々な感情的混乱と、伝わってくる耶麻川の身体の暖かさ、そして昨日、二号を部室に置いていったことへの軽い後悔を味わいながら、このボディと、その中に入っている存在の目を覚まさないよう、そのまま静かに座っていた。

 *

「ちょっと、起きてくださいよ。何寝てるんですか」

 ソファの前に立つ二号に揺さぶられて目が覚めた。僕は目をこすりつつ聞いた。

「もう大丈夫なのか?」

「え? 何がですか?」

「いやお前、さっき泣いてただろ」

「まさかー、私が泣くなんて、そんな。夢でも見ていたのでは」

 二号はティーサーバーの前に移動すると、僕に背を向け、お茶のカプセルをカゴから出してはまた戻すという、整理作業のようでいて、何の意味もない作業を始めた。

 僕はソファ上からその後ろ姿を観察した。

 たまにチラチラ見える横顔や耳たぶが物凄く赤くなっている。

 どうやら、恥ずかしさ、そして照れ、という感情が表現されているようだ。

 一日でずいぶん進化したものだな。

 いや、天使から人間に退化した上で、人間として存在することに適応したということか。

 そのように冷静に二号を分析しつつも、その存在の放ち始めた人間らしい感情表現に、僕は強く感情移入しつつあった。

 この二号という存在は昨夜、慣れない異次元でひとりぼっちになるという孤独な一夜を体験したわけだ。

 もうそんな思いはさせたくない。

「……あの、二号さん」

 僕は無意味な作業を続けている二号に声をかけた。

「はい、何ですか?」

 無意味な作業の手を止めて二号は振り返った。

 僕は先程から思っていたこと、もしかしたら昨日から思っていたことを言おうとした。

 だが、なぜかその言葉はなかなか口に出せなかった。

 不思議な抵抗感、胸が疼くような抵抗感があって、僕は誘いの言葉を口に出すことをためらった。

「…………?」

 二号は不思議そうに首をかしげると、少し微笑みを浮かべた。

 そしてまた僕に背を向けて無意味な作業を再開した。お茶のカプセルがカゴから取り出され、棚に並べられては、またカゴに戻されていく。そのループが三回繰り返されたあと、ついに二号の背中に向かって、やっとのことで僕は言うことが出来た。

「二号さん、今日は僕の家に来ないか?」

 困っている旅人に親切にしてあげるだけのことだ。なのにそれを口に出すことが、どうしてこんなにも勇気が必要だったのだろう。

 わからないけど、言いたいことを言うことが出来て良かった。何かの壁を超えた。そんな達成感があった。