それにしてもメタトロン二号がゲートから現れてから、もうずいぶん長い時間が経ったように感じる。そんなはずはないとわかっているのだが、感覚的にはすでに数ヶ月ほども経っている感がある。

 僕は今までの経験から、この部屋の中では時間の流れが早くなったり遅くなったりすることを知っていた。特にゲートが開いた直後はその効果が著しい。しかも今回は僕自身が、意識の一部だけとはいえ、ゲートの向こう側に行ったらしい。そのためにいつもより大きな影響を受けたのだろう。

「まったく、今は実際、いつなんだ?」

 僕は鞄からスマートフォンを取り出し、現在の日時を確認した。

 ありがたいことに、今日はまだ、母にしょうもない昔話を聞かされた当日であった。まもなく閉門のチャイムが鳴るところだ。

 僕はソファから立ち上がった。

 ソファの反対側で、わずかに輝きながら、お茶で湿っている二号はうつろな目で僕を見上げた。

「どこへ行くんですか?」

「そろそろ帰らなきゃ」

「帰るって、どこに?」

「そりゃお前、家だよ」

「あー、家ね、家。家……それは人が帰る場所」

 二号は江戸時代の機械人形のような動きでうなずくと、何かポエムめいたことを口走り始めた。

「帰る場所、それは暖かいよ。帰る場所、人にはそれが必要だよ」

「おう、そうだな」

 僕は通学鞄を肩にかけた。

「でも……私はどこに帰ればいいんですかね」と二号。

「はあ? 知らないよ、そんなの」

「私、この世界に帰る場所も行くあてもないみたいなんですけど」

「そうだな。そもそもお前はこの世界のものじゃないからな。それを承知で来たんだろう」

「あっちからこっちにやってきた他の皆さんは、どうしてるの?」

「例えばミーニャはこの部室にしばらく留まってから外に出ていったようだ。それはなぜかというと、もしかしたら……」僕は前々から温めていた考察を披露した。

「これは喩え話だが、海に早く潜りすぎると『窒素酔い』ってのになるらしいじゃないか」

「そうなんですか」

「そうなんだよ。逆に水面に浮上する速度が早すぎても『減圧症』ってのになる。つまり、水圧の違う場所に急いで移動すると、さまざまな障害が発生するってことだ」

「ふんふん」

「で、ゲートの向こうの世界を水面だとして、僕が今いる世界を深海だとしたら、この部屋はちょうどその中間地点ということになる」

 二号は光の触手で空中を探る素振りを見せた。

「確かに、そうかも」

「だからミーニャというエクスプローラーは、この中間地点でしばらく生活して、僕の世界の雰囲気、フリークエンシーとかいうやつに心と体を慣らしてから、外に出て行ったのかもしれない」

「なるほどね。それでミーニャさんは、この部屋の外で今、何を?」

「わからない……もしかしたら家にたまに遊びに来る猫がそれなのかもしれない」

「猫?」

 二号のうつろな目が驚きのためかわずかに大きくなる。

「そんな……この部屋でしばらく暮らしてた意味、何もないよ」

「そうなんだよ。一方でアリスっていう別のエクスプローラーは、何の準備もせずいきなり外に出て行ったけど、きちんと人型を保ってる」

「私が外に出たら、最悪、何になってしまうんですかね?」

「人間か、それともイソギンチャクかな」

「イソギンチャク?」

 僕はスマートフォンで二号にイソギンチャクの画像を見せ、二号の背中から伸びている触手とイソギンチャクの類似性を指摘した。

「イソギンチャクになるのは怖いですね……」

「お前、天使のくせに怖いとかあったのか」

「本来は無かったと思うんですけどね」

「大丈夫なのか」

「ふふ、それはわかりませんよ……それよりあなたさん、鞄なんて肩にかけて何しようとしてるんですか?」

「そりゃお前、帰るんだよ。さっきも言わなかったか?」

「帰らないで、ここにいればいいじゃないですか。私ならかまいませんよ」

「ダメだ」

「なんでですか?」

「お腹が空くからな。とにかく僕は帰る。そこのロッカーにエクスプローラー鞄が入ってる。鞄の中にはエクスプローラー・テントが入ってる。そのテントを使えばこの部室内でしばらくは不自由なく過ごせるはずだ」

「はいはい、エクスプローラー・テントね。知ってますよ。そういうエクスプローラー装備の元型を作ってるのは私ら天使なんで」

「じゃ使い方もわかるな。よかった、安心して帰れる」

「え? そんな……」

 うつろな瞳の奥に、何か人間的というか、動物的な感情が仄見える。

「怖いんですけど」

「何が?」

「ひとりになるのが。夜になると暗いみたいだし、この世界」

 そのようなことを言って、急に二号は暗闇に怯える幼女のような様相を見せ始めた。

「…………」

 僕は自分の中に反射的に湧いてきた保護欲を押し殺しつつ、背を向けてドアに向かった。

「また明日来るからな。じゃあな」

 そして僕はさっと部室を出ると帰宅した。

 帰り道は昼と夜との境目というライティングの関係で、見知らぬ国の見知らぬ町に迷い込んでしまったような感覚を僕に与えた。まもなく道の左右で点灯した商店街のライトは、青みがかった夕暮れの薄闇の中でいくつも輝き、それは見知らぬ時代、見知らぬ星の、不思議な世界のきらめきを僕に感じさせた。

 家の玄関先で、仕事から帰ってきて車から降りた母と鉢合わせした。

 母はまた今朝の話の続きをしたいようだ。

 僕としても、その問題に関してはきっちりケリを付けておきたいという気持ちがあった。

 まさしく夕食後に、その問題についての討論が始まった。

 己の性欲についての一方的な訴えを僕にぶつける母。だが、彼女のその見苦しい振る舞いは、一本の電話によって遮られた。

「何よ、実家のお父さんから? もう少しでふみひろと私の間に相互理解が生じようとしているいいところだったのに。もう!」

 母はぶつくさ言いながら通話ボタンを押した。直後、素っ頓狂な声があがる。

「えええ? 明日、この家に女子高生がやってくるですって? しばらく泊めてあげて欲しいですって? なんで私がそんなことしなきゃならないのよ!」

 母は、電話向こうにいる彼女の父親、つまり僕の祖父としばらく口論した。

 電話のスピーカーから漏れ聞こえる声から、なんとなくわかった話を整理すると以下のようになる。

 祖父の友人の親戚の娘が、わけあって、この町の高校に編入してくることになり、前もって下宿を下見しに来る。そこで祖父は親切心を発揮し、ホテル代も馬鹿にならないだろうから、その町に住んでいる自分の娘の家に泊まってはどうかと、友人に提案した。とんとん拍子に話は進み、すでに友人の親戚の娘はフェリーでこの町に向けて出発したあとだという。

「なんでそんなこと、私抜きで話を進めるのよ! どうして今になるまで黙ってたのよ!」

「ふっ、わかるだろう、娘よ。大切な友人のトシロウさんの尊敬を失うのが怖い一方で、お前と会話するのが怖かったという父さんの気持ち、お前ならわかってくれるだろう?」そんな声が電話のスピーカーから漏れ聞こえてくる。

「わかるわけないわよ!」

「父さんはね、ずっとこの件をどうしようかって、ひとりで頭を抱えて悩んでいたのさ。だがその悩みがお前を傷つけてしまったようだね。ごめんよ、マイディアドーター」

 しばらく母は電話向こうの祖父に怒りをぶつけていたが、最後には癇癪を起こした。

「もう、来るなら来ればいいわ! でも私、どうやって知らない人と話せばいいかわからないから、何もかもふみひろに任せるからね! 知らないからね! もう!」

 そして通話を着ると自室に駆け込みバターンとドアを閉めた。室内から悲劇のヒロインめいた泣き声が聞こえてくる。

「うえーん。いつもいつも、私のことなんて誰も考えてくれないんだから!」

 僕はテーブルの食器を片付け、洗い物をした。

「逆に凄いよな。よくあんな人格で、社会の中でちゃんと生きていけてるよな」

 祖父や母を許容する社会の懐の広さに畏怖の念を抱きつつ、僕も自室に向かってベッドに倒れ込んだ。

 

 深夜、シャンプーの香りと柔らかな温もりによって目が覚めた。

 母が隣に潜り込んできたのだ。

 鬱陶しかったが、押し返せば反発を生み、反発が交流を生み、それによって互いの肉体の絡まり合いが発生する確率が高まる。

 ここは無視の一手だ。

 僕はさりげなくベッドの端に寄り、壁に体を向けて寝たふりした。

「…………」

 あるときぎゅっと背後から抱きしめられた。

 肋骨が狭まり、口から息が漏れる。

「ふみひろ。起きてる?」

「…………」

「怖いわ……ふみひろに捨てられると、ママ、ひとりになっちゃうもの」

 少女がぬいぐるみにそうするように、母は僕にしがみついている。

 それはそれとして、僕はひとりで夢の世界に旅立とうとした。

 目を瞑る。

 しかし締め付けはどんどん強くなってくる。このままでは窒息するかもしれない。

「…………」

 僕は母の手に自分の手を重ねた。体温が伝わっていくにつれて、だんだんと締め付けが緩んでいくのが感じられた。安心感だけを伝えるよう、僕は透明な暖かさを彼女に送った。

 翌朝も母は知らない人が家に来るという不安と、己の性欲に関する一方的な欲求を、切実に僕に訴え続けていた。

「もう学校の時間だから行かないと」

「……帰ってきたらゆっくり話しましょう」

 母の目は真剣で、もうこの件をスルーすることはできず、それに正面から対応する必要性を感じさせた。

 どうしたものか悩みながら一日を過ごし、僕は放課後、職員室に向かった。

 吉岡先生に呼び出されたのだ。

「どうしたんですか? 来ましたけど」

「職員室にようこそ、ふみひろさん。だが今、手が放せないんだ。ちょっと待っててくれ」

 吉岡先生はスマートフォンをせわしなく操作していた。

 またゲームか。

 いや、とぎれとぎれに聞こえてくる彼の説明によると、ドバイに住む少女とメッセージのやり取りをしているところらしい。

 なんのことやら。

 僕はスチール机の並んだ職員室の様子を眺めてぼーっとした。

 壁にはシンプルな時計がかかっていた。その淡々とした秒針の回転は、規則正しい生活がもたらす安定感を表現しているようである。

 時計の下の黒板には連絡事項や今月の予定がびっしりと書き込まれており、沢山のスチール机には大量の書類が乗っている。その合間を教師や生徒たちが歩き回っている。人々が発する音と動きには、活力とリズムが感じられる。

 もしこの学校がひとつの生き物だととすると、この職員室こそがまさにその中枢、脳に相当する器官に違いない。そんな中、何かにとりつかれたようにスマートフォンをこすり続ける吉岡先生のみが、ひとつだけ狂った脳細胞のように不協和音を発している。

「…………」

 さらに五分ほど待った。

 するとふいに吉岡先生はスマートフォンのスリープボタンを格好付けた仕草で押し、格好付けた仕草で胸ポケットにしまうと、視線を微妙に僕からそらしたまま、高いテンションで語り始めた。

「ドバイってどこにあるか知ってるか? 先生は知らないぞ。たぶん左の方にある。だがひょんなことからSNSでメッセージが来て、仲良くなったんだ。ドバイの少女とな! 言っておくがな、先生は、知り合えるものなら、むしろ日本の同い年ぐらいの女性と知り合いたいと思っている。しかしそんなのはスパムメールの業者だけだ! 全員、業者なんだよ! 全員、業者なんだよ!」

「ちょっと、怖いんですけど。僕に向かって怒鳴らないでくださいよ。意味の分からない個人的な叫びを二回も繰り返さないでくださいよ。他の先生方が見てますよ」

「そう、この世界は商業主義に毒されているため、ピュアな人間同士の交流は難しいんだ。他の先生方は、先生、つまり俺のことを腫れ物を触るように扱うんだ。そんな汚泥のような世界の中で今、満開の花々が風に揺れるような美しいやりとりが、先生とこの少女の間で今、芽生えつつあるんだ」

「へー……」

「ことの発端はこうだ。ドバイで一番高いビル、ブルジュ・ハリファに住んでいる彼女が、ある日、隣のドバイ・モールにある紀伊國屋書店に何気なく立ち寄った。そのとき奇跡が起きたんだ! その書店の棚の隅には、先生がずっと昔に出版した本が埃を被って置かれていたんだよ。そして彼女は見慣れないアニメっぽい表紙に何か惹かれるものがあってそれを購入。そして豪華な自室の天蓋付きベッドでその本を開いた。そしてページをめくるたびに、かつて感じたことのない不思議な感動が、彼女の中に電撃的に生じていった! そして、ああ、この感動を著者に伝えたい! そう思った彼女はネットで先生の名前を検索し、ファンメールを寄越してくれたというわけさ。以来、先生はもう彼女のことが気になって気になって仕方ないんだ」

「もう行ってもいいですか? 僕も忙しいんですけど」

「待ちたまえ。そうそう、ふみひろさんには言っておかなければならないことがあるんだ。君の部を廃部にしなければならないという件について」

「ていうか……本? 先生が書いた?」

「そうだ。知らなかっただろう。先生は昔、小説家をやっていたんだ。何十冊も出版したんだぞ。えっへん」

「へー、どんなの書いてたんですか?」

 瞬間、吉岡先生はスチール机の引き出しを開けた。

「仕方ない、ふみひろさんに一冊あげよう。先生が主に書いていたのは、いわゆるライトノベルという様式の本なんだ。面白いぞ」

 吉岡先生は机の引き出しにはどっさりとアニメっぽいイラストが表紙の文庫本が詰まっていた。

「まずはこの一冊がおすすめだ。ファンの間では代表作と言われているし、先生的にもよく書けたと自負しているシリーズ、全七巻の一冊目だ」

「…………」

 吉岡先生に手渡された本の表紙イラストを眺める。

 そこでは高校教師と思われる三角定規を持った男が、三人の高校生らしき少女に抱きつかれていた。

「なになに、著者は吉岡礼司。これって先生の本名ですよね」

「そう! 先生はペンネームを使う意味がわからない。堂々と自分の名前と存在を世界に対して押し出していきたいといつも思っている」

「タイトルは『のべりすと! 第一巻 ~俺の教え子たちがこんなに俺のことを好きなわけがない~』」

「この本はな、先生が五歳のころから温めた夢と希望が、先生なりに考えた小説理論に則って書かれている魂の表現なんだ」

「へー。あれ、ちょっと待った、廃部!?」

「あ、そうそう、廃部だ。ふみひろさんの部は廃部だ」

「なんで?」

「廃部だったら廃部だ! 目上の人の言うことを聞け!」

「なぜ僕の大切な部が廃部だって言うんですか!? なんでなんですか?」

「大切なら、早く部の活動内容を決めて書類を提出しなさいよ! 何をやってるんだ君は! もう何ヶ月も前に書類を渡しただろ。何部にするかを決めて、少なくとも部員をあと三人集めて、活動計画を報告しなさいっていう書類を」

「あー」

「あーじゃないよ! 何度も催促してるだろ。早く何部にするか決めないと廃部だ! いや、廃部以前にそもそも部として存在してないんだから、そのまま無に消えてもらう。我々もボランティアでやってるんじゃないんだよ。無気力な生徒に、それなりの持ち場を与えて、仮初めの気力を与えようという大人なりの計算があってのことなんだから、ちゃんと活動しなさい!」

「うーん……何部にしたらいいですかねえ。それにあそこは場所が悪いのか、なかなか人が集まらないんですよ」

「そんなこと先生は知らないよ。何か好きなことやって、人もなんとかして集めなさい。……だがどうせアレなんだろ、自分の好きなことが見つからない上に、自分が何者なのかわからないんだろ。そんなの常套句なんだよ! 先生だってなぁ、そんなもの分かった試しがない。ブルジュ・ハリファに住む少女に対しては、いつも『夢ってのは自分の本質の奥底から自然に湧き上がってくるものさ』的なことを伝えているが、自分の本質と先生の脳みその間には、超えられない、ぶ厚い迷路のような壁があって、回路が断絶しているんだ。だから本当は先生は何もわからないんだ、自分が何者なのかを! だからどんな仕事をしたらいいかもわからないんだ!」

「あれ……先生、今日はちょっと格好いいですね。言葉に力がありますね」

「そうか?」

「ええ。自信を持って。教師も結構、似合ってると思いますよ」

「あ、ありがとう、ふみひろさん……」

「でも確かに、僕も自分がよくわからないな。部活も何やったらいいか、まだわかんない。わかったら言いに来ます」

「今月中に頼むよ。今月中に決まらなければ廃部だぞ」

「ちょっと関係者に相談してきます」

「誰に? 部員はまだいないんだろ?」

「そうなんですけど、なんとなく、部室に誰かいたような……」

 文庫本の礼を言って廊下に出た。足は自然と五号室に向かう。