弓削蛇市のカシオペア商店街をザ・スラッシャーがのし歩いていく。一歩足を進めるたび、背中の二本のクロスした手斧が金属音を立てる。

 商店街の道の左右には豚の丸焼きを売る夜店や、エキゾチックな柄の布を売る店や、明らかにただの汚れたボロ布を売る店が並んでいる。

 湯気の立つ屋台からは、精神に不思議な作用をもたらしそうな謎の香辛料の、植物的でありながら化学的な香りが漂い、ザ・スラッシャーの鼻孔をくすぐる。

 弓削蛇市郊外の河川敷で採取される強化カーボン竹、それを市の木工場が加工して作った漆黒のカーボン串に突き刺された999の獣の焼き焼きバーを頬張る赤い髪の少女たちは秋の風に吹かれ街角にたむろし、何か刺激的な事件を待ち望んでいる。それはちょうどよい量だけ彼女らに供給される。何か意味ありげな暇つぶしの相互供給、それがこの商店街の存在意義であるのだから。

 男たちは遙か昔年に絶滅した企業戦士の装いに身を包み、あるいは消滅した言語がプリントされた太古のスポーツ装束のレプリカに身を包み、終わらない祭りの夜を、目的地がどこかに存在でもしているかのように早足で歩くが、どこにも何も目的地は無い。

 そんないつものカシオペア商店街が発する視覚、嗅覚への精神刺激に図らずも心を誘引されかけたザ・スラッシャーは吐き捨てる。

「ふん。こんなもの、すべて子供だましの目眩ましだ。俺は認めんぞ」

 ザ・スラッシャーは背中でクロスさせて担いでいる二本の手斧のうち、右手でつかめる方の斧に手をやり、塗装の剥げた柄に指先を軽く触れた。

 ザ・スラッシャーは精神の安定を欠くと、いつもそうやって馴染みの装備品から心の安らぎを取り戻す。しかし本当は何をどうしてもザ・スラッシャーの心は安まらない。

 なぜなら、ザ・スラッシャーは、おそらく、何かを、スラッシュせねばならないからだ。

 だがザ・スラッシャーは、いったい何をスラッシュせねばならないのであろうか?

 だがそれは、ザ・スラッシャーにはわかっていないのである。

 そもそもスラッシュという言葉が何を意味しているのかもザ・スラッシャーには定かではないのである。

 字義通りに、素直に、率直に、何かを切り裂けばいいのだろうか? この背中の斧で。

 だが人生の真の目的がそのような物理的なレベルの行動によって表現されうるとは思えない。

 安易な斧の使用は刑事事件に発展する可能性もある。

 カシオペア通りの外れには地下街への進入路がその暗き口を開けており、その下り階段の奥、闇の底には慈悲深き市長にも見放された救いがたい犯罪人どもが高度に密集した、蟲毒の壷のごときエリアが存在しているという。

 ザ・スラッシャーが幼児であったころ、眠るスラッシャーの耳元に、マザーがささやいたあの歌曲のリズムとメロディを、ザ・スラッシャーの脳はまだ記憶している。

 その歌曲は、シンセサイザーの耳に心地よい音から始まる。その歌曲は次に、コンピューターマシンによって合成された打楽器のリズムによってビートを刻み始める。その歌曲は次にマザー自身による合成肉声とそれによって語られる詩によって多重化された意味を持つ物語を紡ぎ始める。

 もしもかわいい坊やが犯罪を犯したなら、頭脳警察の霊が塵より生じるであろう。そして取り押さえに抵抗して暴れるかわいい坊やをサスマタで難なく取り押さえ、地下街の外れの、あの深き闇の領域へと永遠に封じるであろう。そのような意味性の感じられる子守歌に揺られながら、かわいい坊やであったザ・スラッシャーはゆりかごの中でゆられていた。

 大崩落の日にマザーが破壊されたため、ザ・スラッシャーはその歌の続きを聴くことはできなかった。その歌の続きに込められていたはずの、ザ・スラッシャーという名の意味を知らぬまま、ザ・スラッシャーは成年した。

 マザーは数ヶ月後に市庁舎に再建されたが、それはザ・スラッシャーのマザーではなかった。旧マザーの子守歌は爆発によって飛散したメインメモリごと消失した。同様のものを再製することは不可能だった。それゆえに再建された新しいマザーはザ・スラッシャーの名の意味を教えてくれることはなかった。

 ロスト・チルドレン……。

 大崩落によって己の名の意味を失った子供たちは、社会において正常に機能する能力を失い、それゆえに正常な社会からは失われたものとみなされた。

 成年となったロスト・チルドレンたちは心の穴を満たすために、飲む打つ買うの享楽に明け暮れた。彼らの心の穴は何をどうしても満たすことはできなかったが、それはブラックホールのように享楽を求め、新設されたマザーはその鎮痛のための享楽をジェネレートするための鎮魂施設として市の各地に星座の名を持つ商店街を建設した。

 オリオン、カシオペア、シグナス、その他203の商店街が建設され、それは今も増殖中である。

 多くのロスト・チルドレンはそれら商店街のいずこかに引き寄せられ、そこの重力に抗うことができずに沈没し、その地に、おそらくは自らの存在の真の意義とかけ離れたなんらかの商店を出店し、夜毎の享楽の提供と享受という心の痛みを麻痺させるための麻薬的儀式へと己の意識を埋没させていった。

 だがどうしても己の名の意味を見つけることを諦められないロスト・チルドレンは、市内の商店街から商店街へと果てしのない旅を続けながら、失われしマザーの欠片、伝説のメインメモリを探し続けた。その中に眠っているはずの、己の名の真の意味を追い求めて。

 彼らは与えられた名を誇示するかのような過剰な装飾に身を包んでいるため簡単に見分けることができる。その衣装は己の名の意味を必ずやこの手につかむという探求の誓いを表している。

 大げさな衣服に身を包んだ彼、彼女らは、エクスプローラー、探求者と呼ばれている。

 二本の手斧を背負った大男、ザ・スラッシャーも、最近はめっきり数が少なくなったエクスプローラーの一人なのであった。

 *

 カシオペア商店街を素通りするには強い意志が要求される。

 最近はやりのハイブリッド居酒屋の客引きがザ・スラッシャーに見せるメニューの写真には、細やかな小皿に並べられた異国の料理が幾何学的に配置されており、それは人の知性と食欲に対して高度の吸引力を持つ。ザ・スラッシャーは一瞬だけ、電柱の影で足を止めて目を閉じ、抽象思考に耽溺したいという知性の飢えと、たらふく旨いものを食べたいという食欲を、エクスプローラーの基本技術である精神浄化能力によって浄化処理した。

 芽生えた欲望、すなわち、何かしらの欠乏感を埋めたいという欲求を、このようにそのつど処理してゆかねば、それは心の中に溜まり、いずれ閾値を超えて溢れ、ザ・スラッシャーを実際の行動へと誘うだろう。そして様々な欠乏感の喚起と、その穴を埋めるための手段を提供する商店のいずれかに駆け込んだザ・スラッシャーは、そこで何かしらの満足を得るだろう。その一度の満足で、『自分の真の名を探求したい』という、エクスプローラーとしての最も強く深い欲求は消滅しないかもしれない。

 だが二度三度と、欠乏感を喚起され、それをインスタントに埋めることを繰り返すということを習慣化してしまうなら、ザ・スラッシャーは他の数多のエクスプローラーと同じように、その習慣的ループ行動がジェネレートする心の靄によって、己の最も深い欲求を見失ってしまうだろう。

 もしそれを見失っても、それは見えなくなっただけであり、存在が無くなったわけではない。

 その欲求は心の中に存在し続け、『探求せよ』というシグナルを発し続ける。だがそのシグナルは心の靄によって曖昧にされ、ザ・スラッシャーは『うまい店の探求』に心血を注ぐことになる。だがエクスプローラーが求めているのは、己の名の真の意味なのだ。その探求の旅を、心の霧によって曖昧にしてしまうわけにはいかない。

 ザ・スラッシャーはカロリー補給のためだけに、999の獣の焼き焼きバーを夜店で一本のみ購入すると、それをベンチに座って平らげてから、また前を見て歩き出した。

 だがふと気が付くと通信端末のチラシがいつの間にかザ・スラッシャーの手元にあり、それもまたハイブリッド居酒屋のメニューと同様に、彼の意識を強く惹きつける効果を持っていた。

 契約することで生涯年金保証が得られるというその通信端末の広告には、護身機能、暖房機能、送風機能など生活に役立つ百八個もの機能が詳細に述べられており、ザ・スラッシャーに、より良い生活の夢を見せる。だがそのような手段によってこの商店街およびこの市での生活クオリティを向上させようとすることは、己の名の真の意味を見つけたときに得られるであろう、想像を超えた真の満足への熱誠的欲望を薄れさせることになりはしないか?

 ザ・スラッシャーは焼き焼きバーのカーボン串とともにそのチラシをゴミ箱に捨てた。

 このような一種、臆病とも感じられる細心の注意を払い続け、ザ・スラッシャーの意識を引っ張ろうとするあらゆる精神刺激を払いのけることによって、いまだザ・スラッシャーは商店街のどの商店にも沈没することなく、探求の旅を続けていられるというわけなのであった。さすが年季の入ったエクスプローラーは違う。そう、何者も俺を引き止めることはできない。

 そのようなことを頭の隅でチラチラと考えながら前を見て歩き続けるザ・スラッシャーに、また何者かが馴れ馴れしく話しかけてくる。

「よーよー、そこを歩くお兄ちゃん。ちょっと休んで呪怨茶でもどう?」

「…………」

 ちらりと一瞬だけ振り返ってみると、見覚えのないキャンペーン衣服に身を包んだ小娘が視界の隅に映った。

「よーよー、無視するなよ、お兄ちゃん。わかってるって。その衣装をみるにつけ、きっとエクスプローラーだね。この世の悩みを集めたような眉間の深い皺も、お兄ちゃんがエクスプローラーであることを如実に示しているよ。そんなお兄ちゃんにこそ飲んで欲しいこのお茶!」

「…………!」

 何も聞かないようにして険しい顔で歩くザ・スラッシャーのわき腹に、冷たい缶が押しつけられた。ザ・スラッシャーは叫びそうになる。が、悲鳴が漏れるのをぐっとこらえる。なぜなら『ザ・スラッシャー』という名の響きから推理する限り、本来のあるべきザ・スラッシャーは、みだりに叫び声をあげたりしない寡黙なキャラであるはずだからだ。

 だがそれはあくまでザ・スラッシャーの推論である。旧マザーの飛散したメインメモリを発見し、そこに収められているはずのデータを脳にインストールしない限り、本当のところどうなのかはわからない。しかし推論されるザ・スラッシャー像に可能な限り沿った振る舞いをすることは、エクスプローラーとして長年培い、仮に今それを取り外そうとしても取り外すことは難しくなってしまった習性であった。

「呪怨茶だ? なんだそんなもの。俺はいらん。お金もない」

 男らしい声を発すると、ザ・スラッシャーはわき腹に押しつけられているキンキンに冷えた缶入り飲料を押しのけ、商店街を歩き続けた。

 わき腹に残る氷のような感触と、目に焼き付いて離れない缶の禍々しいデザインに寒気を覚えながら頭を振る。

 まったく、何が呪怨茶だ。

 そろそろ街路樹がレモンイエローからミッドセンチュリーレッドに色づく季節であり、はっきりいってそんな禍々しく冷たいものは、仮に俺の名がドリンク・ドリンカーであっても飲みたくない。絶対に何か飲まねばならないとしたら、何かほっとするものが飲みたい。たとえば暖かいスープのような。

 ザ・スラッシャーはそんなことを考えながら、商店街が盛り上がりを見せる酉の刻、波打つような人混みをすり抜けて早足で歩いていく。

 と、まだ背後から茶売りの少女の声が聞こえてきた。

「呪怨茶には高濃度の恐怖喚起成分が入っているよ。飲むと古典ホラー映画の世界観を身を持って体験できるエキサイトメント飲料なんだ」

 ザ・スラッシャーはすらすらと売り文句を唱える少女に思わず感心して振り返ってしまう。

 だが少女は缶に書かれている文章をただ読み上げているだけだった。

 メガネはかけていないが、少女は目が悪いのか、顔の前、一〇センチぐらいまで缶を近づけていた。少し寄り目になって缶を見つめ、肩や肘を波打つ通行人にぶつけてよろけながら、少女は呪怨茶の含有成分を読み上げ始めた。

「プーアール茶。高麗人参。有効ホラー喚起成分としてトリクロロヘキサ……

「いらん。そんなもの。何がホラー喚起成分だ。俺はそんなまがい物の娯楽など欲しくない。俺が欲しいのは本当の、意味のある何かだ」

 ザ・スラッシャーはエクスプローラーとして模範的なことを言った。

「よーよー、まじめなエクスプローラーのお兄ちゃん。自分がホラーみたいな恰好をしてるくせに、本当は怖いんじゃないのか、呪怨茶を飲むのが」

「そんなわけあるか。俺はザ・スラッシャーだ。ホラーごとき、何も怖くはない。俺がおそれるのは、俺の真の存在意義を見出すことができぬままこの市で朽ち果てることだ」

「呪怨茶、試供品だから無料でいいよ。眠気を覚ますカフェインや、本物の花から抽出された新鮮な香料も入っているみたい……うわっ!」

 ふいに少女の悲鳴が背後から聞こえた。

 振り返って見ると、少女は商店街の波打つ通行人と激突したようで、道ばたに仰向けになっていた。

 ザ・スラッシャーの足下にころころと呪怨茶の缶が転がって近づいてくる。

 ザ・スラッシャーは、缶を拾い上げると、少女に手をさしのべた。

 少女は寝転がったまま言った。

「よーよー、スラッシャーのお兄ちゃん、なかなか優しいじゃない。お礼に、安くしといてあげる。呪怨茶、五千円でいいよ」

「お前、さっき試供品で無料だって言わなかったか?」

「そうだったっけ? 忘れたけど、そんなに飲みたいなら、無料でもいいよ。私はアリス。吸血鬼の山田アリス。今は見ての通りキャンペーンガールのバイトしてるんだ。この缶、百年も誰も受け取ってくれない。もう目も疲れちゃった。そろそろ老眼なのかな」

 山田アリスとやらは、ザ・スラッシャーの手をつかんで勢いよく跳ね起きると、自分の腰をとんとんとこぶしで叩いた。

「なんだお前、吸血鬼って。珍しいな。そんな設定の市民、見たことないぞ」

「私はね、マザーから産まれたんじゃないの。本物の、リアル吸血鬼なの。この市の外、時間の外からやってきたの」

 一介のエクスプローラーにすぎないザ・スラッシャーには、広大な世界の広がりを感じさせる山田アリスのその言葉の真意は計りかねた。山田アリスは一歩、そして二歩と、ザ・スラッシャーに近づいてくると、その瞳をザ・スラッシャーの瞳に向けた。

 山田アリスの虹彩は赤い。その奥には無限の宇宙が感じられた。

 *

 いつしかザ・スラッシャーの右手には茶の缶が握られていた。

「遠慮しなくていいよ。エクスプローラーの流儀に凝り固まっているお兄ちゃんの心には、呪怨茶、それはいい刺激になるよ。さーさー、お飲みなさい」

 その声には不思議な説得力が備わっているように感じられた。またその声の伝える内容には確かな論理性があるように感じられた。

 エクスプローラーとしてあてもなく商店街を彷徨ううち、知らず知らずのうちに硬直化していく俺の頭脳には、確かに、未知の、自分の想像を超えた刺激が必要なのかもしれない。

「怖いでしょうけど。お兄ちゃんにはね」

「馬鹿な。俺に怖いものなどあるか。生も死も、どのような苦痛も、しょせんは思考と感情と感覚の組み合わさったものにすぎん。見てろ」

 ザ・スラッシャーは呪怨茶のプルトップを引き上げると冷たい茶を飲み干した。

 その冷たさは内臓へと染み渡り、血管を通してザ・スラッシャーの脳にまで流れ込んでいった。

 そして湧き上がる、かつてない不吉な予感に、ザ・スラッシャーは幼子のように怯え始める。

 商店街を通り過ぎる老若男女の影にザ・スラッシャーは未知の恐怖を覚える。

 恐怖をやわらげようとして、ザ・スラッシャーは背中の手斧に手を伸ばす。

 指先が手斧の柄に触れようとしたところで、背伸びをした山田アリスが、折れそうな勢いで、その指をつかみとった。

「よーよー、お兄ちゃん。あっちに遊びに行ってみようよ」

 そして山田アリスは震えるザ・スラッシャーの手を取ると、商店街を奥へ奥へと引っ張っていった。

 *

 歩く二人の影が夕闇に延びる。

 夕闇の奥には、地下街の入り口が開いている。

 闇の底へと続くその地下街の入口からは、闇の中に封印された影のような者共の、荒々しい呪いの言葉が響いてくる。

 恐怖によってびっしょりと汗まみれになったザ・スラッシャーの顎から汗がこぼれアスファルトに染みを作る。硬直して動けないザ・スラッシャーの背中に回った山田アリスはごそごそと何かをしている。

「何をしてるんだ?」

「重そうだからね。お兄ちゃんの装備を解いてあげてる」

 抵抗する間もなく革紐が外れ、重い音を立てて二本の手斧がアスファルトに落ちる。その音がザ・スラッシャーの心と体に斬撃のような凄まじい衝撃を与える。

「さーさー、身軽になったところで、行ってみようよ。この暗そうな穴の中に」

 手斧が無くなったことによって、身を守るすべと、アイデンティティのかけらを失ったザ・スラッシャーは、たった一つの自分のものだった、なにより大切だった、己の名前すら失われてしまいそうな予感に怯える。

 呪怨茶の効果も依然として強まり続けており、ザ・スラッシャーはパニックに陥る。そのパニックがザ・スラッシャーのアイデンティティを高速で解体し、彼の思考回路を再編していく。もつれた糸がほどけていくように、失われていくアイデンティティの、最後の一欠片を撚り集めて、彼は叫ぶ。

「俺はザ・スラッシャー。高度に発達したエクスプローラーだ! 誰も俺を沈没させることはできない」

 うんうんと山田アリスはうなずく。

「誰も俺を特定の商店に押し込めることはできない。なぜなら俺はありとあらゆる商店を超え、ありとあらゆる商店街を踏破し、それらが発するすべての重力を断ち切る者だからだ!」

 その叫びは秋の風に吹かれ市の隅々へと涼やかに広がっていく。

 ザ・スラッシャーは己の名の意味を今このとき自分の叫びの中に見つけたと思ったが、それは見つけた瞬間、必要ないものだったと気づく。

 なぜならその意味を認識しようがしていまいが、彼はずっと、それそのものであったのだから。

 確かにそうやって、そのように生きてきたのだから。

 気づいていようといまいと。

「今までよく頑張ってきたね。なかなか偉いね、お兄ちゃん」

 山田アリスは、ザ・スラッシャー改め、もはやなんだかよくわからないものに、さっと一言そう声をかけた。笑顔で。

 なんだかよくわからないものは、そのねぎらいの言葉によって、自分の中から多くの悲しみが流れ去っていくのを感じた。その量はとても多い。

 悲しみがすべて流れ去るまで、なんだかよくわからないものは、地下街へと続く階段に腰を下ろし、しばらくそこで休んでいるようだった。

 山田アリスもその隣に腰を下ろした。足をぶらぶらと揺らす。

 その上空では天球が回転していた。昼と夜、すべてを包む白色光と、突き刺すような青白い星明かりが光の尾を棚引かせながら巡っていった。

 そして、しばらくの時間、あるいは無限ほどの時間が流れ過ぎたあと、なんだかよくわからないものは立ち上がった。

 山田アリスも立ち上がり、なんだかよくわからないものの一歩先を歩き、カシオペア地下街への階段を軽やかに降りていく。

「らーららー、散歩日和だね!」

 その二人の背後、青空に向かって口を開けた出口は刻一刻と小さくなっていく。

 その小さな点から差し込む光と、一歩歩くごとに舞い上がる埃のキラメキの加減によって、山田アリスの横顔は、少女のように見えるときもあれば、老婆のように見えるときもある。

 深く広大な闇の奥へと二人は小さくなりながら降下していく。

 二人を迎え入れるように闇は二人を包み、二人を闇と同化させていく。

 山田アリスの歌声が木霊する闇の中を歩きながら、なんだかよくわからないものは、無明を愛し、闇を楽しむすべを学び始めてゆく。