部室のソファに横になっている僕の目に、メタトロン二号の手のひらが被さっている。それが静かに離れて行ったあとも、まだ僕はイメージの続きを見ようとして、ソファに横になって目を閉じたまま、心の中の暗闇に意識を凝らし続けていた。

 先程まで見ていたイメージのすべては、急速にその実在感や意味深さを失い、ソファでの昼寝中に見た、なんてこともない夢のように思えてきた。

 それでもこの夢から得た情報は、いくつか僕の心に留まっていた。

 第一に、メタトロン二号は、確かに、耶麻川の肉体を盗んだのではなかったということ。それは海辺に落ちていたのだ。耶麻川自身がそれを捨てたのだ。

 第二に、その耶麻川が今、大変な危機的状況に陥っているということ。頭がおかしくなった上で、闇の迷宮に取り込まれようとしているということ。

 なんとかして、こちら側から、手助けすることはできないものだろうか?

 考えたが、何もいい考えは浮かばない。

 僕は目を開けて身体を起こした。

「助けるのは無理でしょうね」と、ソファ前の床にあぐらをかいている二号が言う。

「あちらとこちらは、この世界の人間が夜に見る夢と、昼間の物理的体験の間ほども距離が離れてますので」

「そんな……」

「もしYMさんが、最悪、闇堕ちして、エクスプローラーの仕事どころか、その真逆のことに全力を注ぐようになったとしても、それもですね、一つか二つ上の次元から見たら、そんなに問題のないことだとわかりますよ。実際、エクスプローラーが発狂、闇堕ちするのはよくあることですので。彼女のことはもう忘れては」

「……耶麻川は真面目で、見かけ上、有能っぽい奴だから、そう簡単にへこたれないはずだ!」

「真面目そうなエクスプローラーほど、折れるときは早いんですよね、ふふ。しかも、この肉体の脳に残ってる情報によると、YMさん、エクスプローラーとして覚醒するにあたり、そうとう不自然なことをしたそうじゃないですか?」

「あぁ……いきなり不良になったり、性的なハメを外したり」

「そういう突飛なことをして覚醒したエクスプローラーは、だいたいすぐに闇堕ちするってのが天使的な常識ですよね」

「なんなんだよ、さっきから、その闇堕ちってのは」

「立派な大志があり、人類のために善をなさんとして心の力を目覚めさせたエクスプローラーが、その後いろいろあって、闇の勢力の仲間になってしまうことです」

「バカな。耶麻川は元は優等生だ。そんなことにはならない。それに、さっきから、闇ってなんだよ。前にゲームかアニメかマンガか何かで、誰かが言ってたぞ。『光があるから闇があるのだ。それらは裏と表なのだ!』ってな」

「ふんふん」

「つまり、光と闇はどちらも大事だってのが、この現代社会での常識だ。なのにお前、天使だからって、闇のことを見下してるんじゃないか。それは差別的な考えなんじゃないか?」

「むっ。差別なんてしてませんよ。天使はそういう左とか右とか、上とか下とか、三次元的な区別からは完全に自由なんで。なんでも無条件に愛するふわふわした存在なので」

「じゃあ、なんでさっきからずっと、まるで光と闇の二大勢力があって、それが血みどろのバトルを続けている、みたいな背景を感じさせることを言うんだよ」

「え? それはもちろん続けてるからですよ、光と闇のバトル。最近までずっと闇のターンでした。でも最近は光が勝ちそうな雰囲気です」

「はあ? お前、さっき、天使はふわふわしてるって言ってたくせに、何、戦ってんだよ。言ってることが矛盾してるだろ」

「話せば長いんですよ」

「聞いてやるから話してみろよ。全体の状況を詳しく」

「ちょっと複雑で難しいですよ」

「いいよ。この手の話を聞くのはもう慣れてるんだよ。わからないところはスルーするし、いろんな奴から話を聞いた方が、全体の状況を僕なりに多角的に理解できるだろうから、ぜひ話してくれ」

「じゃ、ちょっと待って。さっきから頑張ってIQを上げてましたけど、もっとあげます。今、仕事モードを全開にして、もっともっとIQを上げ、さらに私の本体、メタトロン本部と接続して情報をダウンロードしてみます。メモリが足りないんで、情報の多くは本部に置いてきちゃったんですよ」

 二号は自分の耳に光の触手を差し込むと、その奥にある何かのツマミを回すような仕草をした。それから視線を自分の眉間に向けるようにして白目になったかと思うと「ナウ、ダウンローディング……」と呟きながら、眼球を左右に細かく動かした。その様子はかなり気持ち悪く、僕は何か見てはいけないものを見てしまった気になり、顔をそらした。しばらくすると二号は何事もなかったかのように語り始めた。

「ええと……さっきあなたが見てきたところ、ここより一個上の層、そこはアストラル界などと言われてる場所です。そこには確かに光と闇の戦いがありまして。光と闇が、四次元のアストラル界で戦って、この三次元上の地球という領域の支配権を取り合っています。少し前までは闇が四次元と三次元を支配していました。四次元とか星幽界とかアストラル界とか、呼び方はいろいろありますが、ここより一つ上の層に強力な闇の迷宮が構築されていて、それがこの三次元領域を完全に取り囲んでいたのです。その四次元上にある闇の迷宮に取り囲まれ、密閉されている三次元空間は、いわば牢獄のようなものだと言えます。その狭い牢獄に、沢山の人の意識が囚われているのです。その領域に囚われている人々は、そこが世界のすべてだと思っています。本来なら、どのような次元の、どのような現実でも自分の選択で選べるものが、この狭い帯域に狭められた現実のわずかな側面しか体験することができないよう意識を制限されています。でも最近はわたしたち天使やエクスプローラーたちの頑張りのおかげで、あれだけ分厚かった闇の迷宮にも沢山の穴が空きつつあります。その穴を通って沢山の高次元のエネルギーや情報や、意識存在たち、わたしのような天使や、YMさんのようなエクスプローラーが、この空間の内外を行き来して、この密閉空間を解放するための穴を開け、外と内を繋ぐ通路を作ろうとしているわけです。またその障害となっている闇の迷宮や、その迷宮の支配者たちと、まあ、戦ってるといえば戦ってるということになるんですかね」

「なんだよ。結局、天使とか言ったってしょせんは戦ってるのか。戦いは何も産まないって前に誰かが言ってたぞ。そんな常識も知らないのかよ」

「まあ、それは確かにそうなんですが。でもですね、わたしたちの戦いは、バトルするってよりも、愛する、無条件にひたすら愛する、みたいなことなので」

「愛するとどうなるんだ?」

「それはもちろん、気持ちいいですよね。そんな常識も知らないんですか?」

「…………」

「それに、星幽界よりも何層か上の層になってくると、もう完全に、誰もまったく、戦ってないという。光も闇も、そこではより根源的な光のエネルギーによって統合されている、という。わかりますか?」

「いや」

「でしょうね。意識を小さく分裂している今の私にも、本当のところはよくわかりません。とりあえずわかるのは、YMさんのいる場所やそれ以下の領域では、確かに光と闇の戦いがあるということです。そして本来、エクスプローラーというのは光側、ライトサイドの存在のはずなんですけど、強い力を持つがゆえに、闇側、ダークサイドに引きこまれ、そちら側に堕ちがちである、と。そのあたりのことを、このYMさんの件を理解するにあたり、ざっくりとあなたに理解してもらえればいいなと思います」

「うーん。もっとこう、一言で、全世界、全宇宙のことをバッと説明するようなことは言えないのか。天使なら、なんかいいこと言ってみろよ」

「それはやはり、愛」

「愛?」

「愛」

「愛?」

「愛」

 二号はしばらくアイという音を繰り返し発した。

 その音波の裏には、また、何かこう、胸が暖かいもので満たされるような、それでいて脳が開き、意識がものすごく高くなるようなフリークエンシーが設定されていると感じられた。

 この地球にいる各種の動物や、花や木や、学校の生徒達や街の住民たちのことがなんとなく心に思い浮かび、それらが自分自身の一部のように感じられ、それらの相互間に、暖かく気持ちの良いエネルギーの交流が存在しているように感じられ、そのような相互フィードバックシステムの全体こそが、この自分なのであるという洞察を僕は得た。

「つまり……全体的に、愛だということだな。宇宙は」と僕。

「まあそういうことですよね」と二号。

「じゃあ何もかも愛なんだから、耶麻川のこともなんとかなるだろ」と僕。

「いや、それは無理ですよね」と二号。

「なんでだよ、愛なんだろ、何もかも」

「時間と空間という枠組みの中に意識を埋没させるという契約を相互に交わしているこの意識領域の中で、YMさんは過去から連綿と続くエネルギーの流れに導かれて、今、闇堕ちしようとしてるわけです。その領域に意識を固定するというのがYMさんの選択ですし、どの領域にも意識によって共有されている固有の法則があって、それを無理矢理、ねじ曲げたり消滅させることは天使にもできません。子どもたちが何かの遊びをしています。遊びにはルールがあります。そのルールは尊重されるべきものであって、大人の都合で踏みにじっていいものではないのです。大人たちはただ優しく呼びかけます。もっと面白い遊び方があるよ、と。そしていつか子供が古いゲームに飽き、それをやめることを望み、より新しい遊びのルールを求めはじめたら、そのとき初めて大人たちはそのより面白い、愛に溢れた遊びのルールを子どもたちに伝えてあげることができるのです。しかしまず最初に、子供たち自身が求めねばなりません。古いルールの破棄を。そして新たなゲームの顕現を。そのときまで古いゲームは彼らの共有意識領域内において継続されます。つまり、とにかく、あなたがいきなりYMさんを助けるなんてことは難しいってことです」

「だったら、どうすれば?」

「忘れたらいいのでは? YMさんのことは」

「そ、そんな……」

「おや、その感情的な反応は、もしかしてYMさんって、あなたの恋人だったのですか?」

「いや、違うけど……」

「もしかして、YMさんのこと、好きだったのですか?」

「……天使って、そういう人間のプライベートなことに興味があるのか?」

「おかしいですね。もちろん本当は、好きとか嫌いとか、そんな三次元の風習なんて、ぜんぜん興味ないんですけどね。わたしは天使なんで全方位への無条件の愛しか興味がないんですけどね」

 二号はこつんと拳で自分のこめかみを叩く。

「やっぱり、この脳の影響を、思いの外、結構強く受けちゃってるみたいですね、わたし」

「大丈夫なのかよ」

「わたしが大丈夫かはわかりませんよ」

「…………」

「心配ですか?」

「ああ」

「わたしのこと? それともYMさんのこと?」

「なんで僕がお前のことを心配しなきゃいけないんだ。もちろん耶麻川のことだ」

「あ、そう。つまんないですね。でもですね、もしあなたがYMさんの力になりたいなら、なおさら、『心配』のフリークエンシー』ではなく、『愛と光』のフリークエンシーを送るべきです」

「どうやって? 耶麻川はゲートの向こうだ。そして僕には何の超常的な力もない」

「誰しもが、気づいていようといまいと、今、この瞬間、アルファにしてオメガである、ひとつなるものと、ひとつです。だから今この瞬間、あなたはありとあらゆるものとひとつだし、YMさんともひとつです」

「天使だからって禅問答みたいなことをいいやがって」

「禅問答って何ですか?」

「わけわかんないことを言うことだ。お前みたいにな」

「え? わけがわかんなくはないですよ。一体わたしの言うことの何がわけがわからないというんですか?」

 床にあぐらをかく二号は僕の目を耶麻川の瞳でじっと見つめた。僕は自分から目を逸らしたら負けだという謎の対抗心にかられ、その目を見つめ返した。一瞬の沈黙がよぎる。その沈黙の中で僕の思考は、わずかなひとときだが完全にストップした。

 その思考と思考の隙間に、何かがあった。

「ほら、わかったでしょ」

 二号のカジュアルな口調で僕は我に返った。

「何がだよ。何もわからないぞ」

「あれ、おかしいですね。もう一回やってみますよ」

 床にあぐらをかく二号は僕の目をまつげの長い美しい耶麻川の瞳で見つめた。耶麻川の顔形のことを僕はとても好ましく感じていた。耶麻川がよその世界に行ってしまった今、耶麻川の存在は僕の中でプレミア感を増し、あたかもテレビの中の手の届かない偶像的存在、すなわちアイドルのような幻想の付加価値が付与されていた。その耶麻川の瞳にじっと覗きこまれ、僕はさまざまな感情的混乱を感じながらも、やはり負けないぞという謎の対抗心にかられ、耶麻川の目の奥に感じられる二号の存在を正面から見つめ返した。再び一瞬の沈黙がよぎる。その沈黙の中で僕の思考は再び完全にストップした。

 その停止、無の中に何かがあった。

「ほら、今度こそわかったでしょうよ」

 二号のぞんざいな口調で僕は我に返った。

「何がだよ。何もかも何も何一つわからないぞ」

「あれ、おかしいですね。もう一回やってみますよ」

「もういいよ」

「え? もういいんですか?」

「いいよ……」

「遠慮しなくてもいいですよ。天使は時間を超えてるんで、結構、暇があるんで」

「……………」

「あ、でも今はフィジカル・ボディの中にいて、意識はこの三次元空間にほとんど完全同調してるんで、実は時間を超えてないです。ですのでぜんぜん暇じゃないですね。急がないといけないですよね」

「なんだよ。お前、何かすることあったのかよ」

「ありますよ。ビジネスをするためにやってきたんですよ、ここには。あぁ忙しい、忙しい、三次元は忙しいですよね、まったく」

 二号はおたおたと慌てふためく素振りをみせ、額の汗を拭うフリをした。

 僕は二号が始めた寸劇のようなものをソファから眺めていた。

 そうこうするうちに、時間差で、僕の日常的な心の中に、ひとつの洞察が浮かび上がり始めた。

 先ほどの、思考の止まった無の中……それは無のように感じられたけど、実は無ではなくて、その逆の、充満だった。

 それは隙間なく、満ちていた。

 隙間が無いために、すべては一つに繋がっていた。

 その中に、ありとあらゆる全ては同時に存在していた。

 二号は忙しいフリをするという謎の寸劇をやめると、「ほら、わかったでしょうよ」と言った。

 依然として僕にはわからなかった。

 しかし何かがわかったような気もした。

 しかし何がわかったのかは、わからなかった。

 なぜならそれは思考を超えた領域に関する事柄だったからだ。

 普段の思考によって、わかるとか、わからないとか、そんなことを超えている何かだったからだ。

 だからわかったとも、わからないとも言えない。

「ふふ、混乱してますね。人の子よ」二号は言った。

「なんだ人の子って。天使の使う人間に対する蔑称か何かか?」

「混乱しててもいいんですよ。とにかくですね、YMさんとあなたは、今も、いつも、ひとつだということです。世界はフリークエンシーのオクターブにより、各種の層によって切り分けられ、肉体によって切り分けられ、時間と空間によって切り分けられている。もしかしたら、あなたの目にはそう映っているかもしれない。それだから、あなたと、誰かの間には、越えがたい距離があるように感じられているのかもしれない。それでも、あなたとその人は、いつもひとつ。心の壁、それが次元を産み、時間を産み、空間を産み、それがあなたと世界、あなたと彼女を隔てている。でもその壁は錯覚なんです。だからひとつですよ、本当は。私とあなたと万物が、いつも一つであるように。そして、だからこそ、あなたがその人のことを思って、心に抱いた愛と光のフリークエンシーは、時間を超え、空間を超え、次元を超えて、その人に今この瞬間、即座に届くんですよ。そしてそれは彼女の力になりますよ、他の何よりも。心から、心へと送られる、愛と光のフリークエンシー、それこそがこの宇宙で最も強い力なんですから!」

 何か得も言われぬ謎の感動が心の底から湧いてきたのを隠すため、僕は条件反射的な軽口を叩こうとした。

「お前、そんな長いセリフ……」

「今は私、脳を仕事モードにして、いろんな情報もダウンロードできるよう本部との連結してるから、いくらでも喋れますよ。こういうことは。それに、天使だから、人の子を慰めるのは得意なんですよ……」

「本当にできるのか? そんなこと。何の力もない僕が、愛と光のフリークエンシー、そんなものを、時間と空間を超えて耶麻川に送るだなんて」

「信じる必要はありません。ただ、やってみれば、わかります。さあ、一緒にやってみましょう。目を閉じて……」

 僕は目を閉じた。

 しばらく自分と、二号の呼吸音だけが聞こえていた。

 やがて、二号の声が聞こえてきた。

 それはこのように僕を促した。

「ゆっくりと深呼吸して」

 僕は深く息を吸い、そして吐いた。

 二号は続けた。

「その呼吸とともに、光があなたのハートに吸い込まれていくのを想像してみてください」

 僕は想像した。

 空気の中にある光の粒が空気とともに僕の中に入ってきて、心臓のあたりが光輝くイメージを想像した。

「ではその暖かな光を、好きなだけ、深呼吸を繰り返して、大きく強めてみてください」

 僕は自分のリズムで深呼吸を繰り返した。

 心臓のあたりで強まる光は、暗闇そのものが輝いているようであり、闇そのものが拡張していくようであり、透明な意識そのものでもあるように感じられた。

「ではその光で、包んでください。人、物、シチュエーション、なんでも。高いフリークエンシーを伝えたいものを、心の中で思い浮かべ、そのイメージに、心の光を重ねてください」

 僕は耶麻川のことを思い浮かべた。

 腰に手を当てて廊下に立つ、その少し不機嫌そうな姿、形に、心の光を重ねあわせた。

 やがてそれは耶麻川のイメージに同調を始め、そのイメージの奥深くに浸透していった。わずかながら、耶麻川は微笑んだように感じられた。

 *

 ティーサーバーの稼働する音で目が覚めた。

 目を開けると部室の天上が見えた。どうやらソファの背に首を預けて、一瞬、眠ってしまったらしい。

 身体を起こし、辺りを見回すと、うつろな表情の二号がティーサーバーの前に立っていた。

 まもなく、コポコポという小気味の良い音とともに深く繊細なダージリンの香りがソファの僕のところにまで伝わってきた。

 朦朧としていた僕の意識はだんだん冴えてきた。肩甲骨のあたりから伸びた八本の光の触手、その内の二本で、湯気の立つマグカップをひとつずつ持った二号は、また床から5センチほど浮いているような歩き方でこちらに移動してくると、ソファの僕の隣に腰を下ろした。

「どうでしたか? 上手にできましたか?」

「わからん。でも……」

「でも?」

「何かが……出来た気がする」

 それが何なのかはわからないが、何かの違いを生む行為を、確かに自分が行なったという感覚が胸の中に残っていた。行為といっても、それは何も目に見えるものを動かすことのない、心の中だけの作業だったが。

「目に見えないことは信じられませんか?」

「そりゃ、まぁ」

「そうですか……でも、わたしは天使なので、あなたのしたことがわかります。上手なエネルギー・ワークでしたよ」

「エネルギー・ワーク?」

「心のエネルギーを使った仕事全般のことです。今後もYMさんについては、心配のフリークエンシーを送るのではなく、さっきのような、愛と光のエネルギーを送るワークを続けてください。もしあなたが彼女の力になりたいと思うのならね」

「わかった……でも、まだ耶麻川のことを思い出すたび不安になるだけど。あのあと耶麻川がどうなったのか、どうしても気になる。実際、不安だ。そんなときどうすればいいんだ?」

「気合ですね」

「気合?」

「そう。気合で無理矢理、YMさんについて何か明るいことを考えてください」

「そんなんでいいのか?」

「気合に何か問題でも?」

 もっと天使的な、フワフワしたスマートな解決策があるのではないかと思ったが、そんなものはないらしい。

「わかった。気合だな」

「そう。気合です」

 僕は決意した。

 耶麻川のことを想うたびに、何か無理矢理、明るいことを考えることにしようと。そしてその明るさを、心の中の耶麻川に重ねようと。

 そして、その決意を終えると、ようやくこの、二号がゲートから現れてからの、一連の流れに、とりあえずの一区切りがついたと感じた。

 ふう、と溜息をついて、二号を見る。

 二号は心なしか微笑んでいるようだった。

 二人で何かの仕事をした。

 そんな充実感を僕は勝手に感じながら、しばらくの間、この訳の分からない存在と、心が通じあったような感覚を味わっていた。

「では……私もそろそろ日常モードに切り替えます。よっ」

 ふいに二号は空いている光の触手を自分の耳に差し込むと、その奥にある何かのツマミのようなものを回す仕草をした。

 カチッという音が聞こえたような気がした。

「なんだそれ」

「仕事モードにしていると天使力やIQが高くなって助かりますが、ちょっとこのフィジカル脳に負担がかかりすぎなんですよね。あまり連続で天使モードを続けていると、この脳、きっと焼き切れちゃうでしょうね。だから、使用後はスイッチを切り替えないと」

 そう説明しながらも、二号の瞳はどんどんうつろになっていき、先程までの天使的なオーラは薄らいでいき、最初に出現した時と同様の、壊れたロボットのような気配が濃厚になってきた。

 二号は光の触手に持っていたマグカップのひとつを、油の差されていないからくり人形のような動作で僕に渡した。

「ほい。お茶です。熱くて美味しいですよ」

「さ、サンキュー」

「わたしもお茶でも飲んで一休みしますね」

 そして、二号は光の触手にもう一つ残っていたマグカップを、危うい動作で物理的な右手に持ち替えた。

 そして、うつろな瞳を湯気の立つマグカップに向け、顎を五センチほど、機械的に開いた。

 そして、僕が止めるまもなく二号は唇の隙間に一気にお茶を流し込んだ。大量の熱湯が唇の隙間から身体に零れ落ち、飛沫が四方に飛び散り、もうもうと立つ湯気に包まれて二号は言った。

「おいしい、おいしい。ダージリンは熱くておいしいですよね。熱くて気分がスキっとしますよね」

 後始末をしたあとにメタトロン二号に聞いたところによれば、お茶を飲むとは熱による痛みと、それを冷やしたときの安らぎの、相反する対をなす感覚を楽しむための遊びであると思っていたとのことだった。

「このプレーンには詳しくないので」

 メタトロン二号は服の裾や髪から水滴を垂らしながら、機械的な動作で頭をかいた。

「じゃ、どこなら詳しいんだよ」

「上の方なら比較的、詳しいですよね。上の方から来たので。下の反対が上です」

「そうか……ちゃんと治ししとけよ。火傷」

「ほい」