前回から続く

2007年頃から、私は『ワクワクすること』を意識的に生活に取り入れ始めた。

当時、私が最もワクワクしたアクティビティと言えば、オナ禁であった。

オナ禁とはなんであろうか?

それはオナニー行為をすることを自らに禁ずることである。

ではなぜオナ禁をすることが、そんなにも私にとってワクワクすることだったのであろうか?

それは当時、ネットの片隅で芽生え始めていた『オナ禁ムーブメント』の影響を強く受けてのことであった。

オナ禁ムーブメントの火付け役となったページがここにアーカイブされています。

オナ禁ムーブメントでは、以下の様なオナ禁の効果が語られ、多くの人々がその効果を得ることを期待して、オナ禁を開始し、何度も失敗しながらそれを続けた。

  • オナニーをやめ、数ヶ月経つと、スーパーサイヤ人効果というものが生じる。それにより、勝手にモテ初め、性格が改善され、肉体が若返り、心と体がさっぱりし、多幸感や無敵感に包まれ、エネルギーに溢れるという効果が得られる。

この効果は実際に生じる。それは私が身を持って体験しており、オナ禁ムーブメントに参加した他の大勢の人々も体験している。

私はオナ禁というものに対し、心の底からワクワクした。そのコンセプトには極めて心ときめくものがあった。私は何度も失敗しながら、最終的には、無限にオナニーを禁じていられるようになった。オナ禁最高長期記録は一年以上だったと思う。また、オナ禁によって得られると、オナ禁ムーブメントの中で語られている様々な効果が、どれも実際に得られることを我が身をもって体験した。

オナ禁の魅力に虜になった私は、後に何度かオナ禁オフ会にも参加した。シリアスなオナ禁の実践家は皆、魅力的であり、それはとても得るものの多い会であった。また、現代日本文化にとって今後、強いインパクトをもたらしていくと思われるオナ禁ムーブメントの中心に対し、そのような関わりを持てたことは私にとって大きな誇りとなっている。

しかしその後、しばらくして私はオナ禁から離れた。何かの行為を機械的に禁ずるというようなプラクティスは、どれだけ有用であっても、ロケットブースターのようなものであり、いずれは手放すべきものであると私は思う。

また、特定の行為を禁ずること、あるいは特定の行為を実行すること、それを機械的に行うことは、それがどれだけ立派そうに見える行為であっても、一種の儀式に堕しがちである。ありとあらゆる成長、変化は、心の中のダイナミックな意思から生まれるのだ。

硬直した儀式の中から生まれるのではない。

さらに言えば、この宇宙は、人間に、我慢など求めたりしない。

我慢の必要性、苦しみの必要性、それは宇宙が発明したものではない。それは人間が発明したものだ。そして我慢や苦しみは、我々が、意識的にか、無意識的にか、仕方がないものとして、受け入れるということを選択してしまったものなのだ。

だからあらゆる苦痛、我慢の必要性は、究極的には存在していない。それはそもそも、無くてもよいものなのだ。また、それが必要であるという観念を受け入れてしまった、過去の無意識的、あるいは意識的な選択は、『今』この瞬間、手放すことが可能である。それを手放すことによって、その人の人生の中からは、我慢や苦痛は本当に消えていく。

成長するのに我慢はいらない。喜びを得るために苦闘はいらない。我々は喜びによって成長していくことができる。

これこそが真理である。

もしこれを読んでいるあなたがオナ禁に限らず、何かを禁じることで、パワーを得るという方式の、自己犠牲的によって力を得るという方式の、古いタイプの観念を心の中に持っているなら、以下の呪文を唱えてみることをおすすめする。以下の呪文を唱えることで、あなたの心の中から、古い観念が浄化され、新たな観念と置き換わっていく。

「私は苦闘ではなく、喜びによって成長することを選択する」

だがしかし、それにしても、当時の私にとって、オナ禁は、実のところ、本当にワクワクするものであった。だから当時の私にとって、それをやることは必要なことだった。もしそれが心からの喜びやとして感じられることであれば、どれだけ苦しいことでも、どんどんやればいい。それがその人にとってはワクワクであり喜びなのだから。そして、その行為が色褪せたものに感じられて来たなら、それは感謝とともにそっと手放せばいい。そうすればまた何か新たなワクワクするものがやって来るだろうから。

それにしても、当時の私にとってオナ禁は最高の楽しみであった。オナ禁日数が一日増えていくごとに、仮初めのものだったのかもしれないが、自信が増していくのがわかった。また、自分がどれほど性欲によってコントロールされていたのかがわかった。今まで自分は自分の意志によって行動していると思っていたのだが、何もかも性欲にコントロールされていたということがわかった。そのように自分を支配しているものに対する支配力を得るという行為、それが私にとってのオナ禁であった。

性の問題について、オナ禁や我慢や抑圧的な手法は、一切の根本的な解決を与えることはない。性の問題を解決し、その領域に喜びと愛を広げるには、無条件の愛によるしかない。

しかしその領域に横たわる、自分を支配している何かしらの問題が存在しているということを、オナ禁は、オナニー中毒になっている者に明瞭に理解させる力を持つ。もしあなたが男性であり、週に何度かの自慰行為をするのであれば、オナ禁を半年以上してみることを私は強くおすすめする。

ところで……

ときに現代人は、闇のコールタールの中に飲まれるようなオナニーをしている。

しかし愛と光に溢れたオナニーが存在してもいい。オナニーすればするほど力に溢れ、愛と光に満ちるようなオナニーがあってもいい。

世界のすべてが変わっていくように、オナニーもまた変わっていく。

まもなく、コールタール・オナニーの時代は終わり、ディヴァインライト・オナニーの時代が幕を開ける。

しかし『ディヴァインライト・オナニー』について語るのはまだ早い。2007年当時、まだ私はオナ禁というプラクティスの持つ可能性に心酔しているばかりであり、その先に広がる想像を超えた可能性の世界にはまだ盲目であった。

オナ禁日数が増えていくごとに、自分の中に何か感じたことのないエネルギーがみなぎり、脳の中の何かの回路が開いていき、世界の見え方さえもが変わっていく感覚の魅力を、当時の私は楽しんでいた。まさか、オナニーをやめるだけで、こんなことになるとは、信じられない思いだった。

世界に生命力が漲っていくのが感じられた。それまでは、物は物のであり、それは生きていないただの物体であった。だがオナ禁を続けているうちに、何かこう、視界から、ヴェールが一つ剥がれたかのような状態になり、見えるものの輪郭にソフトフォーカスがかかったような……なんて言ったらいいんだろう、世界に生気があふれ始めたのである。これがいわゆるオナ禁界で言われているスーパーサイヤ人状態の始まりである。

だが繰り返すが蓄積と放出という二極性に立脚したオナ禁という手法は、長期的かつ継続的な精神的成長を約束するものではない。人生のある時期に、自分の人生を変えるための、強力だが一時的な刺激剤として用いるのが正しいオナ禁の使い方であろう。そして、オナ禁という手法によって、生命エネルギーというものが自分の知覚に与える強い影響が存在していることを一度理解してしまった後は、もうオナ禁から静かに離れていくことを私としては推奨する。

生命エネルギーという計測不能な目に見えないエネルギーによって、実際に、様々な物理的、具体的、社会的な変化が、見えざる手によって自分の人生に生じるということを実体験することが出来たあとは、しめやかに、オナ禁なる、二極的な、揺り返しの激しい、シーソーのようなプラクティスを手放すことを、私としては推奨する。

そしてその後は、他のあらゆる領域に対してそうすべきであるように、自分の性的活動という領域にも無条件の愛を注ぎ、それによって、上昇し続ける螺旋のような、真の、不可逆的かつ継続的な変容を生じさせていくことを、私としては推奨する。

だが真の愛、無条件の愛、そんなものの力を知るのはまだまだ後のことであった。当時の私が欲していたのは、パワーであった。私は自らを弱いと感じていた。それゆえに、パワーを高め、誰よりも強くなる必要があると感じていた。オナ禁も、パワーを高めるためにしていたという側面が大きい。自己を律し、パワーを高めるのだ。自らの弱さを打ち消し、苦痛と戦い、鋼のようなパワーを得るのだ。そのような思想が当時の私の根底には流れていた。

そんなある日、近所に空手道場が建設された。凄く怖かったけど、興味があったので、入会してみた。オナ禁によって全身にパワーがみなぎっていたので、空手とか、そんなのをするのはとても怖かったけど、勇気を出して初めてみたんだよ。

続く