その後、さらに問い詰めてわかったところによれば、耶麻川メタトロン二号は、耶麻川の肉体を不法に乗っ取ったわけではなく、そもそも天使は善良な存在なので、そんな悪いことはできるわけもないとのことだった。本来は綺麗でフワフワした意識体だという。

 僕は先ほど渡された耶麻川の学生証を、ロッカーの貴重品入れにしまうと、振り返って聞いた。

「じゃ、お前、それを、どうしたんだよ?」

「それ? それとは?」

「これのことだよ!」

 ソファに戻った僕は人差し指で耶麻川、いや、耶麻川メタトロン二号の肩をグリグリと押した。

「い、痛い。怖いよ」

「それはもういいよ! なんなんだよそれは! いいからこの肉体! これをどうしたのかって聞いてるんだよ!」

「あー、これ。これのことね。フィジカルボディ」

 そいつは急にカジュアルな口調になったが、やはり顔はソファーの前方の壁に意味もなく向けられたままだった。

「これはですね。ここに来る途中で拾ったんですよ。中身が入ってなかったので」

 壁に向かって無表情に耶麻川メタトロン二号は言った。

「ダメだろ……人の体を勝手に拾ったら」

「話せば長くなります。それに苦手なんで。話すの。まだこの肉体の脳や発声器官を制御できてないので」

「いいよ。ゆっくり聞いてやるから話せよ」

「面倒ですね」

「このやろう……」

「そうだ。わかりやすく紙に書いてあげましょう。どういう経緯なのかを」

 二号は肩から伸びた光の触手をエクスプローラー・スーツのポケットに入れると、中からマジックペンを取り出した。

「それと、紙が欲しいんですが」二号は光の触手を動かし、空中にペンで何かの絵を描くジェスチャーをした。

「仕方ないな。これを使え」

 僕が通学鞄からレポート用紙を取り出すと、二号はそれを、ペンを持っているのとは別の光の触手で受け取った。そしてソファから腰を上げると、目の前の床にうつ伏せに寝転がり、顔の前の床にレポート用紙を置いた。

 そして床の上に、肉体の肩から伸びた両手で頬杖をつくと、背中から伸びた光の触手で、紙とペンを器用に動かし、何かの絵を書き込んでいった。

 両足は膝で曲げられ、ぶらぶらと揺らされていた。僕はその様子をソファの上から見下ろしていた。

「ふんふん」

 鼻歌のようなものが聞こえてきた。その音程、音階、メロディは、かつて聴いたことのない異次元的な響きを持っていた。注意して耳を傾けると、光の波のような映像が視界にオーバーラップするのが見えた。その光の波を見ていると気持ちが良かった。心が洗われるようだ。

 そんな鼻歌を歌えるあたり、確かにこいつは天使なのかもしれない。

 しかもだ。二号の右足と、左足のスネと踵、それらと床が作っている線と角度のゆらめきが、何かこう、とてつもなく深い意味、宇宙の創世にまつわる秘密を表現しているように感じられた。

 二号が鼻歌と全身の佇まいから発している深淵かつ陶酔感をもたらす光の波と情報に意識を完全に集中するその寸前で、僕はふと心配事が頭に浮かび、我に返った。

 耶麻川の安否が気にかかった。

 そう、肉体が落ちていたってことは、中身はどうなったんだ?

 そもそも中身ってなんだ?

 哲学的な方向に発展して行きそうな僕の疑問をよそに、二号は八本ある触手を起用に動かして、紙を回転させながら、キュッキュッと音を立ててペンを走らせていった。

 まもなく床の上から声が上がった。

「ほい。できました」

 僕はソファから腰を浮かせて紙を覗きこんだ。

 二号は両手で紙をささっと隠した。

「見ないで。絵を描くの、あまり上手じゃないから、恥ずかしいよ」

「くっ」

 僕は唇を噛み、いらいらを我慢した。

「ふふ。どうぞ。あげます」

 メタトロン二号は床に寝そべったまま、光の触手を使って、紙を僕に渡した。

 僕はソファに座りなおして紙に目を落とした。

 メタトロン二号は床の上で体を横に九十度回転させると、焦点の合わない、しかし何かを期待するかのような目で、床から僕を見上げた。

「な、なんだよ?」

「どう? 変じゃない? ちゃんと描けてる?」

「いや……なにこれ?」

 紙には十個の円と、それらをつなぐ直線で構成された幾何学図形が描かれていた。

 僕は意味を読み取ろうとして、しばらくの間、真剣にその図に集中した。

「さっぱり意味がわからない」

「あぁ。神聖幾何学の見方、知らないんですね。じゃあ教えてあげます」

 メタトロン二号はさらに体をロボット的な動きで九十度転がし、床の上で完全に仰向けになると、床から触手を伸ばして、僕が手に持って眺めている紙、その一番上に描かれている円を、紙の裏からつんつんとつついた。

 紙に光点が浮かび上がる。

「ここが出発点です。これが、一番上の、一番最初の、初めの初め。この場所は、初まりであり、終わりであり、あなた方が大昔に、下向きの旅を始めたスタート地点であり、いつか未来にUターンして戻ってくるゴールでもある。それでいて今、私たちがいるこの瞬間のことでもあり、『いろはにほへと』の『い』であり、『えいもせず』の『ず』です」

「全体的になんだかよくわからない。特に『いろはにほへ』との『い』って言う例えはなんなんだ? 僕にはお前が何を言おうとしているのか、まったくわからない」

 二号は空中に目を向け、しばらくぼーっとしていた。

 五分ほど経つと、二号はわずかしに眼球を動かしてこちらを見ると、僕が手に持っている紙に描かれている一番上の円を再び触手でつつき、解説を再開した。

「つまり、この一番、上の丸はアルファでオメガな場所ということですね。出発地点であり、ゴールでもある場所が、同じ地点で重なっているということです。わかりますか?」

「まぁ、さっきの例えに比べれば、若干はな。でもどっちみち、全体的に意味がわからないことには変わりないが……ていうか、お前、こんな難しそうな長いセリフ、実は話せたんだな」

「だんだんこの身体や脳と馴染んできたんですよ。それにこういったことは、わたしの仕事に関することなので、ちゃんとメモリーに入れて来てます」

「ふーん」

「言葉の上で意味がわからなくても、気にしないでください。あなたの抽象思考回路に概念を伝達しながら説明するので。で、またちょっと、ここを見てください」

「どこ?」

「この紙の一番上の円。アルファでオメガな、この一番上の光。この出発点から……ひっとつのもっのがー。ふったつに分っかれて、みっつになってー」

 唐突に絵描き歌のようなものが始まった。

 それは本当にしょうもないメロディと歌詞の絵描き歌であると、僕の日常的な意識には感じられた。

 だが、僕の脳の、いわゆるエクスプローラー的なフリークエンシーを受信し、処理することに慣れつつある部分は、その歌の持つ、細かなレース編みのような複雑繊細な振動の魅力に、ふと気がつけば、あっという間に引き込まれていた。

「みっつのもっのがー、よっつになってー。みっつとよっつが、なっなつになってー」

 メタトロン二号は歌に合わせて触手を動かし、一番上の円から、その右下の円、それからその左の円、そこからさらにその右下の円、そしてその左の円へと、右往左往しながら上から下へと降下していく、のたくる蛇のような、あるいは落下する雷のような、細い長い道の中へと、僕の意識を誘導していった。

 僕の意識は、素直に誘導されるまま、もっとも高いところから、どんどん下の方向へと、長い下り道を滑り降りていった。

 最初、一番上では、すべては一つだった。

 それが二つに分離し、分離とともに降下が始まった。

 さらに三つ、四つ、七つと分裂を繰り返すにつれ、意識は細々と分割され、その複雑さは爆発的に増大していった。

「そうそう。そしてとうとう、七つのものから、あれよあれよという間に、無限ほどもある、沢山の世界が生まれました。そんなふうに、抽象的、本質的な、上の世界から、具象的、物質的な下の世界へと、どんどんどんどん、下って、下って、降りてってー」

 光の触手は円と円をつなぐ細い道をなめらかに滑り降り、僕の意識を誘導した。

 僕の意識はそのクイクイと動く光の点を追いかけていった。

 そうすると……。

「そうそう、この辺、この辺りですね、ここに注目してください。そろそろ見えてきたのでは?」

「あぁ……何か見えてきた」

 これは、なんだろう。

 道?

 そう、道だ。

 だんだん広い道が見えてきた。

 それは僕の意識の全面に広がる、暗く、広い道路だった。

 車道だった。

 なぜ車道だとわかったのか。

 それは、僕の心の耳、僕がそんなものを持っているとは知らなかった心の耳に、向こうからあちらへと、あちらから向こうへと走り去っていく沢山の車の群れの作り出す、静かな海の潮騒のようなエンジン音が、夜の空気の中に響いているのが聞こえてきたからだ。

 これはなんの幻だろう。

 そう不思議に思いながらも、なんだか居心地のいいそのイメージの奥へ奥へと、僕はより深く意識を彷徨わせていった。

 頭の中で脈を打つ脳波が、少しずつその周波数を、滑らかな、ゆったりとしたリズムに変えていくのがわかった。それとともに、霧が晴れるように、車道のイメージは刻一刻と明晰さを増していった。僕はよりイメージに意識を集中するために目を閉じた。

 瞼の裏の暗闇、心の中に、繊細に浮かぶ、その広い車道の脇には歩道があった。

 どうやら僕はその歩道を歩いているようだった。

 車道を覆う空は真っ暗だった。自分がどこからここに来たのか、そして今ここを歩いている自分は一体、何なのかという疑問とそれに対する答えは、いつの間にか薄い壁によって分割された、意識の向こう側に取り残され、なんとなく僕が歩いているこの空間に湧き出てくることはなかった。

 そのため僕は深いことは何も考えずに、透明な気分で、夜道を歩いていた。

 頭の上には真っ暗な空が広がっており、そこには灰色の雲が浮かんでいた。

 雲の隙間ではチラチラと、月と星とが光っていた。

「…………」

 顔を正面に戻すと、広い道の中央分離帯では、等間隔に街灯が灯っていた。真っ暗な夜の国道を、点々と、オレンジ色に照らしていた。

 その道を、沢山の車がヘッドライトで前方を白く照らしながら、あちらからこちら、こちらからあちらへと止まること無く滑らかに走り去っていく。

「…………」

 僕はヘッドライトの光を右手で遮りながら、視線を車の群れから離した。

 すると、道路の上部にある交通標識が見えた。

 それは青いLEDで縁どりされており、反対車線から走ってくる車のヘッドライドにも照らされて文字は暗闇の中に蛍のように輝いていた。その輝く文字は子供のいたずら書きのような、僕の知らない異国の文字だったが、意識を集中して見ていると、『第六層・星幽界』と言う意味の言葉がそこには書かれているように感じられた。

 そうか。

 なるほど。

 僕はうなずいた。

 そして、ここは星幽界か、と、何もわからないまま、何かに納得した気になった。

 しばらく歩道を歩いていると、右手にオレンジ色の光を発する建物があった。

 なんだろうか?

 それはファミリーレストランだった。聞いたことのない店名だったが、真っ暗な夜道の中でその建物が発している、ファミリーの団欒を思い起こさせる暖かな灯りは、自分が何者なのかわからないまま、なんとなく夜道を歩いている透明な僕を引き寄せる力を持っていた。

 僕はファミリーレストランの窓ガラスに手を当てて、少し背伸びをして、その奥を覗きこんだ。

 たくさんの家族たちが食事をしているのが見えた。

 幾組もの子どもたちと親たち。

 会話は窓ガラスに遮られて声は聞こえないが、彼ら、彼女らの身振り手振りから想像すると、互いの再会を喜んでいるようである。

「また会えたね」

「またこうして一緒に食事できるなんてまるで夢みたい」

 そんな声が聞こえてくるようである。

 窓の中はふわりとした暖かな明かりに包まれ、そこにいてナイフとフォークを握る人々は再会を祝しているようであり、すでに食事を終えてしまった人々は、再度の別れを惜しんでいるようでもあった。

「そろそろ行こうか」

「またどこかで会おうね」

 そんな声が聞こえてくるようである。

 そんな情景を窓の外から観ていると、ふいに胸が締め付けられるような、涙が溢れ出るような感覚が生じた。

 僕は胸を押さえて、目の前の情景を見ていた。

 滲む情景の中、親たちと子たちは、食事を終えると、ファミレスを出て、駐車場の車に乗り、どこかへと去っていく。

 しばらくすると別の親と子がやってきて入店し、湯気の立つ沢山の皿に並べられた色とりどりの料理を食べ始める。

 それは先程の家族が、長い長い、気の遠くなる旅を経た上で、円運動の果てに、またここに戻ってきたもののように思えるが、しかし先程の親子とは、微妙に姿形が変わっていた。

 もしかしたら親が子に、子が親にというふうに、立場を変えた上で再来店したものかもしれない。

 僕はその再会と別れのファミレスがもたらす、喜びと悲しみ、愛情と切なさの感情から、なんとかして意識をそらした。

「まぁ……なんであれ、どんな仕組みであれ、何かこんなものが意味深く感じられるにしても……今の僕はこんなところには用はない。もっと面白いところに行きたいな。僕に関係のある場所に」

 心の中でそう願うと、ファミレスの窓から意識と視線、そして体を引き剥がし、僕はまた歩き始めた。夜の道路を、向こうの方へと。きっと何かを探しにここまでやってきたのだから、それを探すために前へと。

「…………」

 しばらく進むと僕は海沿いの道に出た。

 左手の方を見ると、ゆったりと上下に波打つ海の水面に、大きな月が反射して揺れていた。

 遙か沖の方では、イカ漁の漁船が漁り火を出しているのだろうか、まぶしく輝く一ドットの閃光が、水平線の上に浮かんでいた。

 海辺へと近づいていくと、目の前にコンクリートで出来た堤防が現れた。僕は堤防を乗り越え、月明かりに青白く輝く砂場へと降りた。

 さまざまな漂流物の合間を歩いて行く。

 乾いたヒトデや、巻き貝、星の形をした流木の合間を歩いて行く。

 異国の言語が書かれたコミックブックが流木の合間に落ちており、その表紙には、僕の知らない文化で行われている、不思議な、そして倒錯的な、と僕には感じられる、謎めいた儀式のイラストが描かれていた。海水にじっとりと湿るそれは、僕の興味を強く惹きつける怪しい磁力を放っていた。

 それを拾い上げて読むという行為には、何か大きな危険性を感じたが、それよりも魅力が勝った。僕は腰をかがめてコミックブックに手を伸ばした。

 そのとき、コミックブックを拾い上げるその直前、ひときわ巨大な流木の影に、見知った少女の肉体が、転がって落ちているのが見えた。

 少女の肉体は月に照らされ、ここにある他のすべてのものと同じように青白く輝き、倒れた彫像のように、砂の上に横たわっていた。僕はその肉体の脇にかがみ、その肩を揺さぶった。返事はなく、瞳は開いたまま、月明かりを反射していた。どうもこれは、一種の抜け殻のようなものであり、この体から抜けだしたものは、まだ近くにいる気がした。

 僕はそれを探して左右を見回した。

 いた。

 巨大な流木の向こう、堤防の脇に、手に発泡スチロールの板を持った透明の少女がいた。

 僕は漂流物の合間を縫って歩き、透明な少女に近寄った。

 堤防の脇で、少女は眉間にしわを寄せて、発泡スチロールで出来た、その謎めいた青白い板を覗きこんでいた。

 この存在の名前を僕は知っていたはずだが、その記憶は意識の向こう側に置いてきてしまったため思い出せない。

 だがこの存在と僕との間には何かの関係性があったように感じられた。僕は透明な少女に挨拶の声をかけた。その声が聞こえないのか、言葉が通じないのか、少女はを発泡スチロールを睨み、顔を上げずに、何かをじっと考え込んでいた。僕は少女とコミュニケーションを取るのを諦め、少女の前に立っていた。

 やがて、ふいに少女は叫んだ。

「とうとうわかった! あの世の構造、わかったし! 死者のゾーンを乗り越えて、闇の迷宮に続く道が私には見えるし!」

 僕はその発泡スチロールの板を横から覗きこんだ。

 少女は最初、見知らぬ人間への警戒心を露わにしてその絵を胸に隠したが、僕が無害そうな存在であるとわかると、むしろ自慢気にその絵を僕に見せた。

「さっき、あそこの砂浜に落ちてるのを見つけたんだし」

 青白い発泡スチロールの板には、解きようが無いほど複雑にもつれた毛糸のような模様が描かれていた。その絵の意味を少女は解説した。

「これは魂の航路でもあり、闇の迷宮への地図でもあり、迷宮への侵入手順書でもあるし」

 少女は自信満々でそう言った。

「描かれているいることを解読したら、闇の迷宮への侵入には大いなる犠牲が必要であるとわかったし。偉大な善を為すには、それと同じ量の犠牲が必要なんだし。だからまずは肉体を捨てたんだし」

 この存在が語っていることは何かが全体的におかしいと僕には感じられたが、何がおかしいのかを明瞭に認識することは僕にも出来なかった。そのため、そのとき確かに感じられる抵抗感を口に出した。

「そんな……もったいないよ」

「ふん。あんなの、もともとあまり、気に入ってなかったんだし。それよりも、あの供物によって軽くなった私は、意識が高くなり、とうとう明瞭なラインが見えるようになったんだし。この地図に描かれている、迷宮へと続くラインが!」

 だが、そういって透明な少女が振り回す発泡スチロールの板に描かれている絵は、僕にはただのグチャグチャの線で描かれたいたずら書きのように見えた。

 無数の線を目で追うと、それは絡まり、必要以上にもつれていて、そこには見るものの意識を迷わせようとする何者かの意図があるように僕には感じられた。

 そんなものを地図にしたら、どこか抜け出せない場所にさまよい込んでしまうのではないか。

 怪しい。

 透明な少女が熱に浮かされたように興奮した表情で語る『善を為すには犠牲が必要』という考えにも、僕は何か倒錯した、ねじ曲がったものを感じた。

 僕は警戒しながらその青白い発泡スチロールの絵を横から覗き込み続けた。

 だが、次第に僕にも、その発泡スチロールの絵が持つ独特の魅力がわかってきた。絵の中の無数のラインが放つ、ねじ曲がり、もつれた雰囲気の心地よさが理解できるようになってきた。そのねじれた渦、歪曲と反復の回路の中に意識を深く没入させ、その渦とともにねじ曲がりたいという強い欲求が湧いてきた。そしてそれは可能かもしれない。

 この絵を構成するラインの一つ一つは、いわば橋のようなものであるということが、すでに僕には理解できていた。またその橋に乗るには、確かに肉体を捨てる必要があるという情報も、絵から僕へと伝わってきた。

 肉体はその保持者の形を維持する傾向があるが、この橋に足を乗せて『迷宮』へと運ばれていく者の姿形は、その者を運ぶラインが渦を巻いてねじ曲がり、裏返るたびに影絵のように移り変わっていく必要がある。

 だから肉体は捨てねばならない。

 少女は頷いた。

「そうだし。あなたも仕組みがわかったのね。もともとあなたは肉体を持っていないようだから、一緒に連れてってあげるし」

 少女は絵の中の橋に「よいしょっ」と足をかけると、そこに飛び乗った。

 絵の中の橋に飛び乗った少女を、僕があっけに取られて見上げていると、少女は絵の中から僕に手を伸ばし、僕を手招いた。

「何してるし? おいで。一緒に行こうよ」

 恐る恐る僕が手を伸ばすと、少女はその手を取って、橋の上へと引っ張りあげた。少し、手や肩が引っかかったが、上手に橋の上に乗ることができた。

 僕は少女とともに、橋の上に立っていた。

 僕は左右を見渡した。

 橋の左側には剣山のように鋭い林が広がっており、右側にあるのは切り立った崖だった。少女も楽しげな表情で左右を見回していたかと思うと、ふいに僕の手を引っ張り、僕を引きずるように前へ前へと歩き始めた。

「行くし」

「どこに?」

「ふふっ」

 少女は答えずに笑い声を返した。

 *

 真横から見たらペンで描いた一本の細長い線に見えるだろうこの橋の上を、小さい棒人間のような少女と僕が、左から右へと歩いて行く。

 少女に引きづられて、遥か昔、幼児だった頃に、いや、それよりももっと昔に読んだ絵本の中を歩くように、懐かしい雰囲気の絵に一体化しながら、その絵の部品となっていくように、すでに誰かの足あとの付いている、この長く狭い橋の上を、どこまでも歩いていく。

 どこまでも、と感じられるのは、ここでは時間の流れはねじ曲がっており、空間はところどころでループしているためである。

「とってもふたりでー。タラララーラー」

 一歩先を歩く少女が歌っているのが聴こえてくる。

「タラララふたりでー。タラーララーラー」

 どこかで聴いたことのあるような無いようなメロディ。

 その懐かしい歌を聴きながら、リズミカルに揺れる少女の背中を追って、崖と林に挟まれたこの長い道を歩いて行く。

 道を歩きながらいろいろな話を少女はしていた。

 僕はそれを黙って聞いていた。

 少女が語るのは、恋愛の話や、さまざまな人生の話だった。

 とても恐ろしい話もあれば、愉快な話もあった。

 話を聞けば、心の中にその話の情景が思い浮かんだ。

 幸せな話と、残酷な話のイメージが、交互に折り重なって、心の中に地層のように積み重なっていった。その層の中に、僕の意識はネジを巻くように飲み込まれていった。

 今、薄靄のようなものに包まれている少女の姿は、一歩歩くごとに背が伸び、縮み、男になり、女になり、年を取り、子供になりと姿を変えているようだった。僕もそのように自分を見失いながら、この橋の奥へと、もっともっと飲み込まれて行きたかったが……それ以上、一歩も歩けないところにまで僕はやってきていた。もう僕はこれ以上はどうしても先に進めなかった。

 どうしてなんだろう? なぜなんだろう。

 僕はその理由を考え、そして気づいた。

 なぜなら僕は、部室にいて、ただこのイメージを、外から覗き込んでいるだけだったのだと。だからもっと、深く意識を埋没させ、この少女にずっとついていくことは、これ以上は無理なのだと。

 僕は足を止めた。

 少女はそのことに気づいていないかのように、自然に僕の手を離すと、振り返らずに、一人で前へと歩いてゆき、ずっと遠くの暗闇の中へとその身を運んでいった。

 僕はその姿を心の目で追い続けた。

 遥か彼方の闇の中に、いつしか明滅する、街灯のざらついた光が浮かんでいた。その荒い光に照らされた、米粒のような少女の姿が見えた。

 少女は暗い夜の歩道の中へと足を踏み入れていく。

 その歩道は生い茂る黒い藪に左右を囲まれており、その藪と、歩道と、明滅する街灯は、少女の姿を、次第にとある木造の建築物の入り口へと導いていった。

 その建築物は蔦によって覆われており、その入口には立て札が立てられており、それには滲んだ墨によって『集合旅館』と書かれていた。

「私、今夜はここに泊まっていくし。あなたはどうする?」

 少女は荒れた部屋の隅で壊れかけているブラウン管の白黒テレビの中からそう語りかけてくるように見えた。あるいは電信柱の陰で雨に濡れているページの破けた絵本の中から語りかけてくるように見えた。

 視覚的にも、情報量的にも、次元的にも、とても遠くに行ってしまった少女は僕にとって、朝に目が覚めた後、すぐに忘れていく夢の記憶の中だけに存在しているあやふやな、だけど忘れたくないイメージのようだった。

 黒くねじ曲がったラインによって描かれる無数の藪に囲われた旅館の入り口で、今にも切れそうな裸電球の発する重く低い周波数の光に照らされて、闇のトンネルの向こう側で少女は振り返り、こちらにいる僕を見ている。

 僕は何か言葉を返そうとするが、言葉は何も出てこなくて、仮に何かを言えたとしても遠すぎて届かないだろう。歩み寄って近寄ることはできない。もうこれ以上は、一歩も近づけない。

 意識が戻りかかっている。

 意識が、部室に……。

 そうだ、僕はふみひろだ。二号が描いた謎の絵を見ているうちに、いつの間にか眠って夢を見ていたのか?

「ううん、夢ではないですよ」

 その物理的な声、空気が震えて鼓膜を震わせる声に僕は瞬きした。

 すぐ目の前に二号がいた。

 僕は部室のソファで、二号の描いた絵を胸に抱えて横になっていた。二号はソファの前にしゃがみ込んで、寝ている僕の耳元に、手と口を寄せて、小声で囁いていた。

「これは天使の神聖魔法ですよ。もうちょっと続きがあるので、ゆったりしててください」

 僕は素直に力を抜いた。すると、ソファと自分の肌が接している部分の感触や、目の前にいる二号の顔や髪や、部室の壁、棚の輪郭などの、物理的に見えるもの、感じるものの向こう側に、先ほどまで僕が見ていたイメージの雰囲気が、再びうっすらと重なるのが知覚できた。しかしそれはまだ朧げで、とらえどころが無い。

「続きを見たければ、目を瞑ってください」

 二号のその声の背景には、声が表している日本語の意味とは別の、特殊な、不思議な、抽象的な、何かの情報が潜んでいるように感じられた。

 僕は意識を二号の声に向けた。すると、その情報はデコードされ、コンパクトに折りたたまれていた情報は、僕の心の中に光の幾何学模様として展開されていった。

 デコードってなんだ? という疑問に対する答えも、その情報の中にあらかじめ織り込まれていた。それは僕の三次元的な脳には処理するのが難しい抽象的な高次元情報を、僕の脳でも取り扱えるような映像情報に変換することである、と、なんとなくわかった。

 お前、さっきから何してるんだだよ、勝手なことするなよ、と二号に条件反射的な文句を言いたい気持ちもあったが、心の中で輝くその幾何学模様には、非常に興味をそそられた。

 結局、僕は素直に目を閉じた。

 閉じられた瞼の上に、二号の手がそっと重ねられた。手の平の温度と、より厚みを増した暗闇を感じながら、僕は心の中の、光の幾何学模様に意識を向けた。

 その幾何学模様は一瞬、瞼の裏の暗闇の中に、前に二号が紙に描いたものと同じ図形をさっと浮かび上がらせたかと思うと、その図形の一部分へと僕の意識を導いていった。

 気になる夢の途中で目を覚ました朝、夢の続きを再び見るために二度寝をするように、僕は意識が心の中のイメージに導かれていくに任せた。

 そのイメージの奥には耶麻川がいた。

 そうだった、耶麻川は長い旅の果てに、暗い闇の旅館へと辿り着いたところだった。

 耶麻川は僕が知っている耶麻川よりもより幼く、弱そうで、疲れて、ぼんやりとした顔をして、旅館の軒先で点滅する裸電球のざらついた光を浴びていた。

 その情景に、映画のテキスト・コメンタリーのように、二号の解説が被さって聞こえてくる。僕の意識を完全に部室に引き戻さないよう気をつけているのか、それは聞こえるか聞こえないかレベルのかすかな小声だった。

「これは、この方の意識が、闇の迷宮に取り込まれるところのようですね」

 僕はイメージの中に意識を送り込みながら、イメージの外、つまり部室にいる二号に聞いた。

「闇の迷宮に……取り込まれる?」

 それは自分にも聞こえないぐらいの小声だったが、それでも物理的に口を動かし声を出すことで、僕の意識の何割かは、部室の物理的な空間へと引き戻されてしまった。

 だが、背中に接しているソファ、瞼に被せられている二号の手の平の温度などという物理的感覚を感じながらも、まだ五割ぐらいはこの薄暗いイメージの中になんとかして留まっていた。そのイメージの中で耶麻川はわめいている。

「長い放浪の末に、ついに迷宮への入り口を発見したんだし!」

 不吉な雰囲気を発している、あの廃屋のような旅館の玄関先で、自分を勇気づけようとしているのか、何か勇ましいことを口走っている。

「闇の迷宮に取り込まれるだなんて、そんなことになって大丈夫なのか?」

「それは大丈夫じゃないですね。この方……名前は……」

「耶麻川みなみ」

「耶麻川みなみさん、正気を五割五分ほど失ってるみたいですね。闇の迷宮への侵入経路を、この……」

 二号はそこで口ごもった。

 しばらくすると何事もなかったかのようにセリフを最初からやり直した。

「YMさん、正気を五割五分ほど失ってるみたいですね。闇の迷宮への侵入経路を、このYMさんは見つけたと行っていますが、逆に罠にかかって、取り込まれようとしているというのが正味のところですね」

「YMさんって、なんなんだよ?」

「わたし、長すぎる人名は、ちょっと覚えられないんですよね。メモリーがギリギリなので」

「やまかわみなみ、って、たったの七文字だぞ。お前も大丈夫なのか?」

「わたしが大丈夫かはわからないですよ」

「そうか……まぁ……とにかく、耶麻川がどうしたって?」

「なんの話でしたっけ?」

「闇の迷宮がどうのこうのっていう」

「あぁ。闇の迷宮への侵入経路を、YMさんが発見した、というより、闇の迷宮の方が、YMさんの心を捕まえたのでは、と。おそらくこの人、何かの罠に引っかかって正気を失ったんでしょう。光に同調した肉体を、せっかくコード化して上の層に持って行ったのに、それを脱ぎ捨てるだなんて、正気を失っている行為と言わざるを得ないです。そんなことをしたら低いフリークエンシーへの抵抗力が失われてしまいますので」

 僕はなんとなく、耶麻川が謎の発泡スチロールの板を持っていたイメージを思い出した。二号は即座に反応した。

「あ、それですね。その板。それが罠だったのです」

「でもあれはただの発泡スチロールの板に描かれた、ただの変な絵だったぞ。ていうか、なんでお前、僕が何も口に出してないことに反応してるんだ」

「なんでですかね? テレパシーですかね」

「あぁ……」

「絵というものは、いや、絵だけではなく、意図を持って創作されたものは、どれも人の意識に対して力を持ちます。さきほどわたしが紙に書いた絵は、あなたの心を、あなたが行きたい場所、見てみたい場所に……わたしがこのフィジカルボディを拾った場所に、時空と次元を超えて接続する魔法の絵です。それはあなたの心に自由度を与える光の魔法です」

「そうだったのか……じゃあ、闇の魔法なんてものもあるのか?」

「それはあるでしょうね。人の意識の自由度を下げようという意図によって創造されたものは、どれも闇の魔法によって創造されたものだと言えます。星幽界のことを、『ドロドログチャグチャしてて、湿ってて、私は好きじゃないわ』って、誰かが言ってたのを聞いたことがあります。その人がその領域について、『湿っている』という感覚を得たということは、人の意識のコントロールを奪おうとするフリークエンシーがその場に満ちていることを意味します。そんな場所に落ちてる絵、つまり固定化された想念形態は、闇っぽいですよね。そんなものを心に取り入れたら変になるのも頷けます」

「落ちてた絵を拾って心に取り入れて馬鹿になるって、腐ったものを拾い食いしてお腹を壊した犬みたいだな。でもなんでそんな真似を耶麻川はしたんだ? これから自分が行く場所は危険なところだって、前に自分で言ってたのに」

「焦ってたのでは?」

「何に?」

「私は天使なんでエクスプローラーにはちょっと詳しいんですが。ここみたいな、迷宮によって取り囲まれ、三次元に封鎖された世界から、まさに迷宮のある四次元へと足を進めたエクスプローラーは、そこで待っている仕事が、想念形態の地道な掃除だと知って、嫌になっちゃうことが多いらしいですね。それで何か画期的なこと、例えば『闇の迷宮の中枢へ一気に進入する手がかり』みたいなものを探し求めがちであると『エクスプローラー取り扱いマニュアル』に書いてたような」

「なんだその取り扱いマニュアルって」

「天使はみんな読んでますよ」

「ていうか、お前、本当にずいぶん喋るな」

「やっぱりこういった話題はわたしの専門なので、いくらでも喋れますよ。不慣れなエクスプローラーが星幽界でおかしくなって失踪するのは、本当によくあることなんで、気にしなくていいのでは」

「よくないよ……」

「恋人なんですか?」

「いや、そういうわけではないけど」

「とにかくですね、物理次元から多次元の入り口である星幽界に足を踏み入れると、そこらに沢山の四次元想念形態が転がっていて、三次元で長く暮らした意識存在の目には、どれも意味深く見えるらしいです。それで、常識的な識別力を働かせることなく、海のものとも山のものとも知れない、道端に落ちてるような想念形態ををインストールすることで、心が変になってしまうという成り行きは、エクスプローラーのサポート業をしている天使なら、うんざりするほど体験しますよ」

 細かいことは例によってよくわからないが、なんにせよ耶麻川が何か大変なピンチに陥りそうな状態だということはわかった。

「じゃあ、耶麻川に僕からのメッセージを伝えることはできるのか? ていうか、今、僕が見ているこのイメージ、これは一体、いつ起きている出来事なんだ? お前が耶麻川の身体を拾ったときの状況を見ているってことは、これは過去のことなのか?」

「この部室のある三次元プレーンよりも上の世界には、過去とか未来とかは、あまり無いんで。ぜんぶ今、同時進行で起きてることなんで」

「それなら好都合だ。おーい、耶麻川! その中に入ったらヤバいらしいぞ!」

 僕は心の中の耶麻川のイメージに向かって声を発した。

 しかし耶麻川がその声に気づいた様子はなく、むしろ自分のその声で、僕の意識は九割ほど部室に戻ってしまった。心の中の映像はほとんど消えるギリギリだ。

「いやー、無理だと思いますよ」と二号。

「向こうとこちらでは、わたしのちょっとした魔法による、ドリームボディを使った接続だから、まさに夢を見るようなもので、情報の入出力はあやふやなはずです。YMさんを止めるのは無理だと思いますね」

「耶麻川、引き返せ!」その声で僕の意識は完全に部室に戻った。その瞬間、消え去るイメージの中、耶麻川は旅館の呼び鈴を押した。

 ジリジリという機械音が鳴り響く。

 そして、ゆっくりと旅館の戸が横にスライドして開く。

 その隙間から、密度の濃い液状の闇、不吉さが滴るような、汚れた空気が溢れだし、耶麻川の透明な身体を包み、それに染みこんでいく。

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