その後、さらに問い詰めてわかったところによれば、耶麻川メタトロン二号は、耶麻川の肉体を不法に乗っ取ったわけではなく、そもそも天使は善良な存在なので、そんな悪いことはできるわけもないとのことだった。天使、それは綺麗でフワフワした存在だという。分裂して小さくなりながら、上から下へと旅してきたのだという。

 僕は先ほど渡された耶麻川の学生証を、ロッカーの貴重品入れにしまうと、振り返って問い詰めた。

「仮にお前が天使だとしてもだ。お前、それを、どうしたんだよ?」

「それ? それとは?」

「これのことだよ!」

 ソファに戻った僕は人差し指で耶麻川、いや、耶麻川メタトロン二号の肩をグリグリと押した。

「い、痛い。怖いよ」

「それはもういいよ! なんなんだよそれは! いいからこの体、これをどうしたのかって聞いてるんだよ!」

「あー、これ。これのことね。フィジカルボディ」

 そいつは急にカジュアルな口調になったが、やはり顔はソファの前方の壁に意味もなく向けられたままだった。

「これはですね。ここに来る途中、水辺に落ちてたんで拾ったんですよ。中身が入ってなかったので。どうやって三次元物理層に降りようかと難儀していたんですが、ちょうどいい重りがあって助かりました」

「……な、中身が入ってなかっただと? 耶麻川はどうなったんだよ?」

「話せば長くなります。それに苦手なんで。話すの。まだこの肉体の脳や発声器官を制御できてないので」

「いいよ。ゆっくり聞いてやるから話せよ」

「面倒ですね」

「このやろう……」

「そうだ、わかりやすく紙に書いてあげましょう。どういう経緯なのかを」

 二号は肩から伸びた光の触手を、エクスプローラー・スーツのポケットに入れると、中から黒のマジックペンを取り出した。

「それと、紙が欲しいんですが」

 二号は光の触手を動かし、ペンで何かの絵を描くジェスチャーをした。

「仕方ないな。これを使え」

 僕は通学鞄からレポート用紙を取り出した。二号はそのレポート用紙を、ペンを持っているのとは別の光の触手で受け取った。そして部室の床にうつ伏せに寝転がり、顔の前にレポート用紙を置いた。

 そして床の上に、肉体の両手で頬杖をつくと、背中から伸びた光の触手でペンを器用に動かし、目の前に置かれた紙に何かの絵を書き込んでいった。

 両足は膝で曲げられ、空中でぶらぶらと揺らされていた。

「ふんふん」

 鼻歌のようなものが聞こえてくる。その音程、音階、メロディは、かつて聴いたことのない異次元的な響きを持っていた。注意して耳を傾けると、光の波のような映像が視界にオーバーラップするのが見えた。その光の波を見ていると心が洗われるようだった。

 そんな鼻歌を歌えるあたり、確かにこいつは天使なのかもしれない。

 しかも二号の右足と、左足のスネと踵、それらと床が作っている線と角度のゆらめきが、何かこう、とてつもなく深い意味、この宇宙の創世にまつわる秘密を表現しているように感じられた。

 二号の鼻歌と佇まいから発せられている、深淵かつ陶酔感をもたらす光の波と情報……それに意識を完全に集中するその寸前で、僕は我に返った。

 耶麻川の安否が気にかかった。

 そう……肉体が落ちていたってことは、中身はどうなったんだ?

 そもそも中身ってなんだ?

 哲学的な方向に発展して行きそうな僕の疑問をよそに、二号は八本ある触手を起用に動かして、紙を回転させながら、キュッキュッと音を立ててペンを走らせていった。

 まもなく床の上から声が上がった。

「ほい。できました」

 僕はソファから腰を浮かせて紙を覗きこんだ。

 二号は物理的な両手で紙をささっと隠した。

「見ないで。絵を描くの、あまり上手じゃないから、恥ずかしいよ」

「くっ」

 僕は唇を噛み、いらいらを我慢した。

「ふふ。どうぞ。あげます」

 メタトロン二号は床に寝そべったまま、光の触手を使って、紙を僕に渡した。

 僕はソファに座りなおして紙に目を落とした。

 メタトロン二号は床の上で体を横に九十度回転させると、焦点の合わない、しかし何かを期待するかのような目で、床から僕を見上げた。

「……な、なんだよ?」

「どう? 変じゃない? ちゃんと描けてる?」

「いや……なにこれ?」

 紙には十個の円と、それらをつなぐ直線で構成された幾何学図形が描かれていた。

 僕は意味を読み取ろうとして、しばらくの間、真剣にその図に集中した。

「ダメだ……さっぱり意味がわからない」

「あぁ。神聖幾何学図形の見方、知らないんですね。それじゃあ、私が教えてあげます」

 メタトロン二号はさらに体をロボット的な動きで九十度転がし、床の上で完全に仰向けになると、床から触手を伸ばして、僕が手に持っている紙、その一番上に描かれている円を、紙の裏からつんつんとつついた。

 紙に光点が浮かび上がる。

「ここが出発点です。これが、一番上の、一番最初の、初めの初め。この場所は、始まりであり、終わりであり、あなた方が大昔に、下向きの旅を始めたスタート地点であり、いつか未来にUターンして戻るゴールでもある。それでいて今、私たちがいるこの瞬間のことでもあり、『いろはにほへと』の『い』であり、『えいもせず』の『ず』でもあります」

「ぜ、全体的に何がなんだかよくわからない。特に『いろはにほへ』との『い』って言う例えはなんなんだ? お前が何を言おうとしているのか、僕にはまったくわからない」

 二号は空中に目を向け、しばらくぼーっとしていた。

 五分ほど経ったのち、また電源が入ったかのように動き出し、解説を再開した。

「つまり、この一番、上の円は、アルファでオメガな場所ということですね。出発地点であり、ゴールでもある場所、それが同じ地点で重なっているということです。わかりますか?」

「まぁ、さっきの例えに比べれば、若干はな。でもどっちみち、全体的に意味がわからないことには変わりないが……ていうか、お前、こんな難しそうな長いセリフ、話せたんだな」

「だんだんこの肉体や脳と馴染んできたんですよ。それにこういったことは、私の仕事に関することなので、ある程度はメモリーに残して持って来てます」

「ふーん」

「言葉の上で意味がわからなくても、気にしないでください。あなたの抽象思考回路に、情報を、目に見えない光とエネルギーによってダイレクトに伝達しながら進めていくので。で……またちょっと、ここを見てください」

「どこ?」

「この紙の一番上の円。アルファでオメガな、この一番上の光。この出発点から……ひっとつのもっのがー、ふったつに分っかれて、みっつになってー」

 唐突に絵描き歌のようなものが始まった。

 それは本当にしょうもないメロディと歌詞の絵描き歌であると、僕の日常的な感性には感じられた。

 だがその歌の背後には、何か細かなレース編みのような繊細な光の振動が隠れているように感じられた。

「みっつのもっのがー、よっつになってー。みっつとよっつが、なっなつになってー」

 メタトロン二号はその歌に合わせて触手を動かし、一番上の円から、その右下の円、それからその左の円、そこからさらにその右下の円、そしてその左の円へと、右往左往しながら、上から下へと降下していく、のたくる蛇のような、あるいは落下する雷のような、細く長いうねる道の中へと、僕の意識を誘導していった。

 僕の意識は、二号に誘導されるまま、もっとも高く明るいところから、どんどん下の暗い方へと、ゆるやかに滑り降りていった。

 すると、やがて広い道が見えてきた。

 それは暗く、広い車道だった。

 エンジン音が聴こえてくる。

 静かな海の潮騒のようなエンジン音が、夜の空気の中に響いている。

「…………」

 これは何の幻だろう。

 頭の隅で不思議に思いながらも、なんだか居心地のいいそのイメージの奥へ奥へと、僕はより深く意識を彷徨わせていった。

 頭の中で脈を打つ脳波が、寄せては返す夜の海の波のような車のエンジン音に、次第に同調していくのが感じられた。

 それとともに、霧が晴れるように、夜の車道のイメージは刻一刻と鮮やかさ増していった。

 僕はよりイメージに意識を集中するために目を閉じた。

 部室は僕の意識から消え去り、瞼の裏の暗闇に、車道が鮮明に浮かび上がった。広い車道の脇には歩道があり、どうやら僕はその歩道の上を、ひとりで歩いているようだった。

「…………」

 車道を覆う夜空には灰色の雲が浮かんでいた。

 雲の隙間ではチラチラと、月と星とが光っていた。

 その下の国道では、魚の群れのような沢山の車がヘッドライトで前方を白く照らしながら滑らかに走り続けていた。

「…………」

 僕はヘッドライトの光を手で遮りながら、視線を車の群れから離した。

 すると、道路の上部にある交通標識が見えた。

 交通標識には、子供のいたずら書きのような、僕の知らない異国の文字が書かれていた。意識を集中すると、そこには『星幽界』と書かれていると感じられた。

 そうか。

 なるほど。

 僕はうなずいた。

 ここは星幽界か。何もわからないまま、何かに納得した気になった。

 しばらく歩道を歩いていると、右手にオレンジ色の光を発する建物があった。

 ファミリーレストランのようだ。真っ暗な夜道でその建物の窓が発している、ファミリーの団欒を思い起こさせる暖かな灯りに僕は引き寄せられた。

 僕はその窓ガラスに手を当て、少し背伸びをして奥を覗きこんだ。

「…………」

 沢山の家族たちが食事をしている。

 幾組もの子どもたちと親たち。

 窓ガラスに遮られて会話は聞こえないが、彼ら、彼女らの身振り手振りから想像すると、互いの再会を喜んでいるようである。

「また会えたね」

「またこうして一緒に食事できるなんて嬉しい」

 そんな声が聞こえてくるようである。

 窓の中はふわりとした暖かな明かりに満たされ、そこでナイフとフォークを握る人々は再会を祝しているようであり、すでに食事を終えてしまった人々は、再度の別れを惜しんでいるようだった。

「そろそろ行こうか」

「またどこかで会おうね」

 そんな声が聞こえてくるようである。

 そんな情景を窓の外から観ていると、ふいに胸が締め付けられるような悲しみが生じた。

 僕は胸を押さえて、目の前の情景を見ていた。

 親たちと子たちは、食事を終えると、ファミレスを出て、駐車場の車に乗り、どこかへと去っていく。

 しばらくすると別の親と子がやってきて入店し、沢山の皿に並べられた色とりどりの料理を食べ始める。

 それは先程の家族が、長い長い、気の遠くなる旅を経た上で、円運動の果てに、またここに戻ってきたもののように思えたが、しかし先程の親子とは、微妙に姿形が変わっていた。

 もしかしたら親が子に、子が親にというふうに、立場を変えた上で再来店したものかもしれない。

 僕はその再会と別れのファミレスがもたらす、喜びと悲しみ、愛情と切なさの感情から、なんとかして意識をそらした。

「まぁ……今の僕はこんなところには用はない。もっと別のところに行きたいな。僕に関係のある場所に」

 僕はファミレスの窓から意識と視線、そして体を引き剥がし、また歩き始めた。夜の道路を、向こうの方へと。

「…………」

 しばらく進むと海沿いの道に出た。

 左手の方を見ると、ゆったりと上下に波打つ海の水面に、大きな月が反射して揺れていた。

 遙か沖では、イカ漁の漁船が漁り火を出しているのだろうか、まぶしく輝く一ドットの閃光が、水平線の上に浮かんでいた。

 海辺へと近づいていくと、目の前にコンクリートでできた堤防が現れた。僕は堤防を乗り越え、月明かりに青白く輝く砂浜に降りた。

 さまざまな漂流物の合間を歩いて行く。

 乾いたヒトデや、巻き貝、星の形をした流木の合間を歩いて行く。

 異国の言語が書かれたコミックブックが流木の合間に落ちており、その表紙には、僕の知らない文化で行われている、不思議な、そして倒錯的な、謎めいた儀式のイラストが描かれていた。海水にじっとりと湿るそれは、僕の興味を惹きつける怪しい磁力を放っていた。

 それを拾い上げて読むという行為に、何か大きな危険性を感じたが、それよりも魅力が勝った。僕は腰をかがめてコミックブックに手を伸ばした。

 だがそのとき、コミックブックを拾い上げるその直前、ひときわ巨大な流木の影に、見知った少女の肉体が、転がって落ちているのが見えた。

 少女の肉体は月に照らされ、ここにある他のすべてのものと同じように青白く輝き、倒れた彫像のように、砂の上に横たわっていた。僕はその肉体の脇にかがみ、その肩を揺さぶった。返事はなく、その瞳は開いたまま、月明かりを反射していた。どうもこれは、一種の抜け殻のようなものであり、この体から抜けだしたものは、まだ近くにいる気がした。

 僕はそれを探して左右を見回した。

 いた。

 巨大な流木の向こう、堤防の脇に、手に発泡スチロールの板を持った透明の少女がいた。

 僕は漂流物の合間を縫って歩き、透明な少女に近寄った。

 堤防の脇で、少女は眉間にしわを寄せて、発泡スチロールでできた、その謎めいた青白い板を覗きこんでいた。

 この存在の名前を僕は知っていたはずだが、その記憶は意識の向こう側に置いてきてしまったため今は思い出せない。

 だがこの存在と僕との間には何かの強い関係性があったように感じられた。僕は透明な少女に挨拶の声をかけた。その声が聞こえないのか、少女は発泡スチロールを睨み、顔を上げず、何かをじっと考え込んでいた。

 やがて、少女はふいに叫んだ。

「とうとうわかった! あの世の構造、わかったし! 死者のゾーンを乗り越えて、闇の迷宮に続く道が私には見えるし!」

 僕はその発泡スチロールの板を横から覗きこんだ。

 少女は最初、見知らぬ人間への警戒心を露わにしてその板を胸に隠したが、僕が無害な存在であるとわかると、むしろ自慢気にその板を僕に見せた。

「さっき、あそこの砂浜に落ちてるのを見つけたんだし」

 青白い発泡スチロールの板には、解きようがないほど複雑にもつれた毛糸のような模様が描かれていた。その絵の意味を少女は解説した。

「これは魂の航路でもあり、闇の迷宮への地図でもあり、迷宮の奥深くに隠された機械室への侵入手順書でもあるし」

 少女は自信満々でそう言った。

「ここに描かれているいることを解読したら、闇の迷宮への侵入には大いなる犠牲が必要であるとわかったし。偉大な善を為すには、それと同じ量の犠牲が必要なんだし。だから私はまず肉体を捨てたんだし」

「そんな……もったいないよ」

「ふん。あんなの、もともと気に入ってなかったんだし。それよりも、肉体を手放すことによって軽くなった私は、意識が高くなり、とうとう明瞭なラインが見えるようになったんだし。この地図に描かれている、迷宮の奥底へと続くラインが!」

 だが、透明な少女が振り回す発泡スチロールの板、そこに描かれているものは、ただのグチャグチャのもつれた線のように見えた。

 無数の線、それは絡まり、必要以上にもつれていて、そこには見るものの意識を迷わせようとする何者かの悪意があるように感じられた。

 そんなものを地図にしたら、どこか抜け出せない場所にさまよい込んでしまうのではないか。

 透明な少女が熱に浮かされたように語る『善を為すには犠牲が必要』という考えにも、僕は何か倒錯した、ねじ曲がったものを感じた。

 だが……次第に僕にも、その発泡スチロールの絵が持つ独特の魅力がわかってきた。絵の中の無数のラインが放つ、ねじ曲がり、もつれた雰囲気の心地よさが理解できるようになってきた。

 そのねじれた渦、歪曲と反復の回路の中に意識を没入させ、その渦とともにねじ曲がりたいという欲求が湧いてきた。

 そしてそれは可能かもしれない。

 この絵を構成するラインのひとつひとつは、いわば橋のようなものであるということが、すでに僕には理解できていた。またその橋に乗るには、確かに肉体を捨てる必要があるという情報も、絵から僕へと伝わってきた。

 肉体はその保持者の形態を保存する。だがこの橋に足を乗せて『迷宮』へと向かう者は、一歩歩むごとにねじ曲がり裏返り、影絵のように形を変える必要がある。

 だから肉体は捨てねばならない。

 少女はうなずいた。

「そうだし。あなたも仕組みがわかったのね。もともとあなたは肉体を持っていないようだから、この橋を歩けるし。さあ、一緒に連れてってあげるし!」

 少女は絵の中の橋に「よいしょっ」と足をかけると、そこに飛び乗った。

 絵の中の橋に飛び乗った少女を、僕があっけに取られて見上げていると、少女は絵の中から僕に手を伸ばし、僕を手招いた。

「何してるし? おいで。一緒に行こうよ」

 おそるおそる僕が手を伸ばすと、少女はその手を取って、僕を絵の中に引きずり込んだ。

 気づくと、僕は少女とともに、橋の上に立っていた。

 僕は左右を見渡した。

 橋の左側には剣山のように鋭い林が広がっており、右側にあるのは切り立った崖だった。少女はふいに僕の手を引っ張り、僕を引きずるように前へ前へと歩き始めた。

「行くし」

「どこに?」

「ふふっ」

 少女は答えずに笑い声を返した。

 真横から見たらペンで描いた一本の細長い線に見えるだろうこの橋の上を、小さい棒人間のような少女と僕が、左から右へと歩いて行く。

 少女に引きづられて、遥か昔、幼児だったころ、いや、それよりもっと昔に読んだ絵本の中を歩くように、懐かしい雰囲気の絵に一体化しながら、その絵の部品となっていくように、すでに誰かの足あとの付いている、この長く狭い橋の上を、どこまでも歩いていく。

 どこまでも、と感じられるのは、ここでは時間の流れはねじ曲がっており、空間はところどころでループしているためである。

「とってもふたりでー。タラララーラー」

 一歩先を歩く少女の歌が聴こえてくる。

「タラララ、ふたりでー。タラーララーラー」

 どこかで聴いたことのあるようなメロディ。

 その懐かしい歌を聴きながら、リズミカルに揺れる少女の背中を追って、崖と林に挟まれたこの長い道を歩いて行く。

 少女は道を歩きながらいろいろな話をした。

 僕はそれを黙って聞いていた。

 少女が語るのは、恋愛の話や、さまざまな人生の話だった。

 とても恐ろしい話もあれば、愉快な話もあった。

 幸せな話と、残酷な話が、交互に折り重なって、地層のように積み重なっていった。その層の中に、僕は織り込まれるように飲み込まれていった。

 今、薄靄に包まれている少女の姿は、一歩歩くごとに背が伸び、縮み、男になり、女になり、老人になり、子供になり、と姿かたちを変えていた。僕もそのように自分を見失いながら、この橋の奥へと、もっともっと飲み込まれて行きたかったが……だがこれ以上、一歩も前に歩けないところまで僕はやってきていた。

 もう僕はこれ以上どうしても先に進めなかった。

 どうしてなんだろう?

 いくらでも僕はこの人についていきたいのに。

 でも無理だ。

 なぜなら僕は、部室棟の五号室にいて、ソファの上で、夢のようなこのイメージを、ただ外から覗き込んでいるだけだったから。

 僕は足を止めた。

 少女は僕の手を離すと、振り返らずに、ひとりで前へと歩いてゆき、ずっと遠くの暗闇の中へと、その身を送り込んでいった。

 僕はその姿を心の目で追い続けた。

 遥か彼方の闇の中に、いつしか明滅する、街灯のざらついた光が浮かんでいた。その荒い光に照らされた、米粒のような少女の姿が見えた。

 少女は暗い夜の歩道の中へと足を踏み入れていく。

 その歩道は生い茂る黒い藪に左右を囲まれており、その藪と、歩道と、明滅する街灯は、少女を、やがてとある木造の建築物へと導いていった。

 その建築物は背の高い雑草に覆われており、その入口には立て札が立てられており、それには滲んだ墨によって『集合旅館』と書かれていた。

「私、今夜はここに泊まっていくし。あなたはどうする?」

 少女は荒れた部屋の隅で壊れかけているブラウン管のテレビの中からそう語りかけてくるようにだった。あるいは電信柱の陰で雨に濡れている破けた絵本の中から語りかけてくるようだった。

 黒くねじ曲がったラインによって描かれる無数の雑草に囲われた旅館の入り口で、今にも切れそうな裸電球が発する重く低い周波数の光に照らされ、少女は振り返り、こちらにいる僕を見ている。

 僕は何か言葉を返そうとしたが、言葉は何も出てこない。何かを言えたとしても遠すぎて届かないだろう。もう歩み寄って近寄ることもできない。もうこれ以上は、一歩も近づけない。

 意識が戻りかかっている。

 意識が、五号室に……。

「リラックスして」

 その物理的な声、空気が震えて鼓膜を震わせる声に僕は瞬きした。

 すぐ目の前に二号がいた。

 僕はソファで、二号の描いた絵を胸に抱えて横になっていた。二号はソファの前にしゃがみ込んで、寝ている僕の耳元に、手と口を寄せ、小声で囁いていた。

「これは天使の神聖魔法ですよ。まだ起きないで。もうちょっと続きがあるよ。目を閉じて」

 僕は素直に目を閉じた。さきほどまで僕が見ていたイメージが、再びうっすら蘇った。しかしそれはまだ朧げで、とらえどころがない。

「力を抜いて」

 僕の瞼の上に、二号の手がそっと重ねられた。

 手のひらの温度と、より厚みを増した暗闇を感じながら、僕は心の中のイメージに意識を向けた。そのイメージの奥には耶麻川がいた。

 耶麻川は長い旅の果てに、闇の旅館へと辿り着いたところだった。

 耶麻川は僕が知っている耶麻川よりも幼く、弱そうで、疲れて、ぼんやりとした顔をして、旅館の軒先で点滅する裸電球のざらついた光を浴びていた。

 その情景に、映画のテキスト・コメンタリーのように、二号の声が被さって聞こえてきた。

「この方の意識が、闇の迷宮に取り込まれるところのようですね」

「闇の迷宮に……取り込まれる?」

 暗いイメージの中で耶麻川はわめいた。

「長い探索の末に、ついに私は迷宮への入り口を再発見したんだし! 今こそ再突入のときだし!」

 不吉な雰囲気を発している、あの廃屋のような旅館の玄関先で、自分を勇気づけようとしているのか、何か勇ましいことを叫んでいる。

「闇の迷宮に取り込まれるだなんて、そんなことになって大丈夫なのか?」

「それは大丈夫じゃないですね。この方……名前は……」

「耶麻川みなみ」

「YMさん、正気を五割五分ほど失ってるみたいですよ」

「YMさんって、なんなんだよ?」

「私、長すぎる人名は、ちょっと覚えられないんですよね。メモリーがギリギリなので」

「やまかわみなみ、って、たったの七文字だぞ。お前も大丈夫なのか?」

「私が大丈夫かはわからないですよ」

「そうか……まあ……とにかく、耶麻川がどうしたって?」

「何の話でしたっけ?」

「闇の迷宮がどうのこうのっていう」

「あぁ。YMさんは闇の迷宮への侵入経路を発見したと思っていますが、闇の迷宮の方が、YMさんの心を捕まえたというのが実情でしょう。おそらくこの人、何かの罠に引っかかって正気を失ったんでしょう」

 僕は耶麻川が謎の発泡スチロールの板を持っていたことを思い出した。二号は即座に反応した。

「あ、それですね。その板。それが意識を捉える罠だったのです」

「でもあれはただの発泡スチロールの板に描かれた、ただの変な絵だったぞ。ていうか、なんでお前、僕が何も口に出してないことに反応してるんだ」

「それはもちろんテレパシーですよ」

「あぁ……」

「絵というものは、いや、絵だけではなく、意図を持って創作されたものは、どれも人の意識に影響を与えます。さきほど私が紙に書いた絵は、あなたの心を、特定の時空間に接続する魔法の絵です。それはあなたの心に自由度を与える光の魔法です」

「そうだったのか……じゃあ、闇の魔法なんてものもあるのか?」

「人の意識を奪い、コントロールしようという意図によって創造されたものは、どれも闇の魔法によって創造されたものです。私がここに来る途中に通ってきた星幽界は、そんなもので溢れてましたよ」

「なんで耶麻川はそんなものを拾ったんだ? これから自分が行く場所は危険なところだって、前に自分で言ってたのに」

「焦ってたのでは?」

「何に?」

「私は天使なんでエクスプローラーにはちょっと詳しいんですが。ここみたいな、迷宮によって取り囲まれ、三次元に封鎖された世界から、迷宮が存在する四次元へと足を進めたエクスプローラーは、そこで待っている仕事が、想念形態の地道な掃除だと知って、嫌になっちゃうことが多いらしいですね。それで何か画期的なこと、例えば『闇の迷宮の中枢に一気に進入する手がかり』みたいなものを探し求めがちであると『迷宮探索の手引書』に書いてたような」

「なんだその手引書って」

「天使やエクスプローラーはみんな読んでますよ」

「ていうか、お前、本当にずいぶん喋るな」

「こういった話は私の専門なので、いくらでも喋れますよ。不慣れなエクスプローラーが星幽界でおかしくなって失踪するのは、本当によくあることなんで、気にしなくていいのでは」

「よくないよ……」

「恋人なんですか?」

「いや、そういうわけではないけど」

「とにかくですね、物理次元から多次元の入り口である星幽界に足を踏み入れると、そこらに沢山の四次元想念形態が転がっていて、三次元で長く暮らした意識存在の目には、どれも意味深く見えるらしいです。それで、常識的な識別力を働かせることなく、海のものとも山のものとも知れない、道端に落ちてる想念形態を拾ってしまい、心が変になってしまうエクスプローラーはあとを絶たないようですよ」

 細かいことは例によってよくわからないが、なんにせよ耶麻川が何か大変なピンチに陥りそうな状態だということはわかった。

「じゃあ、耶麻川に僕からのメッセージを伝えることはできるのか? ていうか今、僕が見ているこのイメージ、これは一体、いつ起きている出来事なんだ? これは過去のことなのか?」

「三次元より上の世界には、過去とか未来とかは、あまりないんで。ぜんぶ今、同時進行で起きてることなんで」

「それなら好都合だ。おーい、耶麻川! その中に入ったらヤバいらしいぞ!」

 僕は心の中の耶麻川のイメージに向かって声を発した。

 しかし耶麻川がその声に気づいた様子はなく、むしろ自分のその声で、僕の意識は九割ほど五号室に戻ってきてしまった。心の中のイメージはほとんど消えた。

「向こうとこちらは、私の魔法で細く繋がってるだけだから、情報の入出力はあやふやなはず。YMさんを止めるのは無理だと思いますよ」

「耶麻川、引き返せってば!」

 その声で僕の意識は完全に部室に戻った。瞬間、消え去るイメージの中、耶麻川は旅館の呼び鈴を押した。

 ジリジリという機械音が鳴り響く。

 そして、旅館の戸がゆっくりと横にスライドして開く。

 その隙間から、密度の濃い液状の闇、不吉さが滴るような、汚れた空気が溢れだし、耶麻川の透明な身体を包み、それに染みこんでいく。