そろそろ日が暮れてきたころに、土に汚れたアリスと校庭で別れた。

 僕は再び校舎の中に足を踏み入れた。

 そのまままっすぐ、旧校舎の部室棟に向う。

 一番奥の扉を開け、先日、新品に取り替えた蛍光灯をつけ、電気ポットでお湯を沸かす。

 ティーバッグを入れたマグカップにお湯を注ぎ、ソファに腰を下ろして一息つく。

「はあ……」

 瞬間、僕は今まで忘れていた多くのことを思い出した。

 それはたとえば、この部屋の奥にある、異次元に続くゲートのこと。

 今、そのゲートは閉じている。

 だがそれは常に、この世のものではない気配を発している。その異様な雰囲気は、この部屋に充満し、外に漏れ出て、部室棟の廊下にまで浸透しつつある。

 そのためか、誰もこの旧校舎の部室棟に寄り付こうとしない。

 おかげで部員が集まらず、いまだに部を結成することができないでいる。

 しかたないので僕はひとりでずっと待っていた。去年、耶麻川が消えてからずっと、部室で静かに何かを待っていた。

 そんなある日、数ヶ月前のこと、唐突にロッカーが内側から輝きだし、その光によってロッカーはゲートと化した。

 その光のゲートをくぐってやってきたのがアリスだった。

 アリスは紫色に燦然と輝く気体を身にまとった、きわめて美しい存在だった。

 ミーニャが発していた非常事態の雰囲気や、耶麻川が旅立つときに発していた、崖を飛び越えるような悲壮感、そのどちらもアリスは持っていなかった。紫色の気体に囲まれ、神秘的な雰囲気を発し、その中でどっしりと落ち着いている。

 僕からひとしきりこの世界についての情報を聞くと、アリスは自己紹介した。

『私はここに種を蒔きに来たのだ』

『種?』

 アリスは背中のエクスプローラー鞄から小袋を取り出して僕に見せた。中には砕いたクリスタルのようなキラキラしたものが詰まっていた。

『綺麗だろう。これは私がさまざまな世界で採取してきた光の種だ。そしてこの私自身も種なんだ。この世界に根付いてみようと思ってる』

 アリスはエクスプローラー鞄を僕に渡した。

『鞄の中には他にもいろんな世界で集めた貴重なアーティファクトが満載だ。この部屋で預かっていてもらえないか? 外に持ち出すと変質してしまうだろうからな』

 僕はホテルのポーターのように鞄を預かると、部屋の奥にふたつあるロッカーのうち、ゲートではない方にしまった。去り際にアリスは聞いた。

『ところで君、名前を教えてもらえないか』

『ふみひろです』

『そうか、ふみひろ。君のおかげで助かったよ』

『何がですか?』

『ひとりだったら、この部屋の外に出て行くのがもっと怖かっただろうと思う』

『そうは見えないですけどね』

『新しい場所に行って新しいことを始めるのは、どんなタイプのエクスプローラーでもドキドキするものだ。でも、君がこの世界についていろいろ教えてくれたおかげで、迷いなくそこのドアから外に飛び出して行ける』

『それは良かったです』

『私のことを、この部屋の外のどこかで見かけたら気軽に声をかけてくれ。そのときはお互いのことを忘れているだろうけど。それでは縁があったらまた会おう!』

 アリスは躊躇なく部室から出て行った。

 どうやら縁はあったらしい。

 いつも通り諸々の記憶を取り戻した僕は、通常モードの部活動を始めることにした。通常モードの部活動、それは閉校の時間までこの部室にいることである。いつまたゲートが開き、来客があるかわからないからな。

 ひととおりの備品は揃えてあり、室内は快適である。

 ポット。マグカップふたつ。沢山のティーバッグ。ソファの前に置かれたサイドテーブルなどなど。

 窓がないという殺風景さをどうにかするため、壁には爽やかな草原のポスターが張られている。

 そういったものに囲まれながら、ソファでじっとしている。

 お茶をすすりながら。

 それが僕の部活動だった。

「…………」

 それにしても今日は眠い。アリスの畑で少し昼寝をしてきたものの、まだ眠い。朝から変な話を聞いたせいか、それとも裏山の長い階段を昇って疲れたせいか。

 なんにせよ、このままではあと五秒で眠ってしまいそうだ。

 僕は手に持っていたマグカップをサイドテーブルに置いた。

 そして僕は目を閉じた。五秒で眠りに落ちた。

 あるとき夢の中で、ふいに強烈な雪崩のような巨大な発光が僕に向かって押し寄せてきた。僕は殺到するその光の奔流に飲みこまれた。

「…………」

 ソファ上で僕は目をこすった。

 壁の時計を見る。

 寝ていたのはほんの五分ほどだ。

 学校の閉門まではまだ時間がある。

 部員を集める計画でも立てるか。僕は鞄からノートを取り出そうとした。

 そのときソファの左端が視界に入った。

 そこには、ひとりの人間が座っていた。

 そいつは耶麻川だった。

 耶麻川みなみ。

 出発時と同じエクスプローラー・スーツを着ている。

「…………」

 無言だ。僕は唖然として、言葉を出せなかった。

 耶麻川は、膝に手を起き、真正面を向いて、目を大きく開けたままの姿勢で、微動だにしていなかった。異様だ。

 その体の表面から十センチぐらいの範囲が、うっすらと青白く光っている。

 耶麻川はその青い光の層に包まれて、じっとしていた。

「お、おい、耶麻川!」

 ついに僕は声をかけた。

「いつの間に帰ってきたんだ? そ、そうか、僕が居眠りしてる間にゲートから帰ってきたんだな! おかえり!」

 見ると、部室の奥のロッカー、その左の扉が開けっ放しになっていて、かすかに光を発していた。やがてその光は薄れて見えなくなった。

「そ、そうだ。お茶でも飲む? いろんな種類があるんだ」

 僕はソファから立ち上がると、棚に向かった。

「飲、み。ま、す」耶麻川は正面の壁を凝視したまま、風邪をひいてもそんな声は出ないだろうという、得体の知れないかすれ声で答えた。

「き、基本のダージリンから、緑茶、ウーロン茶、いろいろあるけど何が飲みたい?」

「ダー……ジ、リ。ン」

 耶麻川は不可解な、宇宙的なアクセントで答えた。

 僕は来客用のマグカップにお茶を淹れた。

「ど、どうぞ」

 僕は耶麻川にマグカップを差し出した。

「ど。う。も」

 耶麻川は、右手の肘の関節を、錆びた工業機械のような動きで九十度に曲げた。それから肩の関節を三十度ほど動かし、さらに手の平を平面状に開くと、そこで固まった。

 僕はおそるおそるマグカップを耶麻川の開かれた右の手の平に近づけていった。

 あと五センチほどというところまで近づいたとき、耶麻川は右手の角度を微調整すると、手のひらをマグカップに接触させ、それをぐっと握りしめた。

「お、おい、熱いだろ!」

「熱い。熱い」

 熱い、といいながら、耶麻川はマグカップを口元に近づけ、顎を落とし、唇を半開きにすると、口内に向けてマグカップを一気に傾けた。

 熱湯が耶麻川の口の中に勢い良く流れ込み、唇の隙間から溢れだし、もうもう湯気を立てて胸元から太ももにかけて流れ落ちた。

 茶の半分以上を体の前面にこぼしながら、耶麻川はなおもマグカップを傾け、ついにそれを空っぽにすると、宇宙的なアクセントで言った。

「おいしーい。おいしーい。ごちそう。さま」

 耶麻川は空になったマグカップをロボットのような動きで僕に返すと、口、喉、胸、腹、足を熱湯でずぶ濡れにしながら、再び正面の壁を凝視した。

 僕は呆然としながらパニックになるという意味不明な精神状態に陥ったが、とにかく冷やさないと!

 流し台に走り、水道の蛇口をひねり、昔この部室が写真部だったころ写真の現像に使われていたと思われる四角いプラスチックトレーを棚から取り出し水を入れて耶麻川にぶっかけた。

「冷たーい。冷たーい」

 耶麻川は宇宙的なエフェクトのかかった声を発した。

「だって! 火傷! 冷やさないと!」

 耶麻川のエクスプローラー・スーツの裾から伸びた太股は真っ赤に腫れている。

「やけど。や、け、ど? ああ、火傷しました。喉の中も火傷しました。お茶を飲んで大火傷しました」

 僕の頭の中を救急車のイメージがサイレンとともに走り抜けていった。

 耶麻川は正面を凝視したまま言った。

「肉体の時間を巻き戻します。だから、火傷は、なんともないです。よっ」

 掛け声とともに、耶麻川の体表面から発せられていた光の層の色が、青白色からバラ色に変わった。かと思うと、すぐにまた元の青白い色に戻った。

 そして、いつの間にか、真っ赤に腫れていた太股の色は、もとの健康そうな肌色に戻っていた。

「ほい。九割九分九厘、細胞は復活しました」

「そうか……よ、よかった。それにしても、な、なにしてるんだよ! お茶はゆっくり飲まなきゃ火傷するだろ!」

「ええ、火傷しました」

「これからは気を付けろよ!」

「気を付けます」

「よし。ふう。一安心だ」

 一安心だ、一安心だと繰り返しながら、僕はお茶と水でドロドロになっているソファ、その耶麻川の隣に腰を下ろした。パンツに水が染みる。

 だが、どれだけ安心だと繰り返しても、不安な気持ちが高まっていった。

 なぜかというと、隣に座っている生命体、それは確かに、耶麻川の肉体を持ってはいたが、その正体、その中身は、明らかに、耶麻川ではないように思われたからだ。

「…………」

 なんだか怖くなってきた。

 見て見ぬふりをしたい。

『親しい人がすでにゾンビと化しているのに、それを認めることができない』という、映画に頻出する人間心理を僕は身を持って体験した。

 だが僕は、一度、深呼吸すると、ふいにめらめらと沸き上がってきた、藪をつついて蛇を出す本能に従って、ずぶぬれの耶麻川の顔を睨んだ。

「おまえ……誰だ?」

「ええと。あー。あー。あー? だいぶ発声器官の制御に慣れてきました。そう思いませんか?」

「確かに。さっきよりは、声が人間らしくなっている。って、そんなことどうでもいいよ! お前は誰なんだよ!」

 僕が怒鳴ると、耶麻川の肉体を持った存在は、エクスプローラー・スーツのポケットをロボット的な動きで探り、その中から耶麻川の学生証を取り出した。

 そいつは僕に学生証を渡すと言った。

「私はここに書いてある名前の人間です。なんて読むんですか?」

「読めないのかよ!」

「ひらがなは読めます。め、ら、め?」

「読めてないよ!」

「と、ま、と?」

「…………」

「ご、ご、ご?」

 だめだ。

 どんどん正解から離れて行ってる。

「みなみ。耶麻川みなみって読むんだよ」

「そう。それです。それが私です」

「嘘つけ! お前、明らかに耶麻川じゃないだろ。耶麻川をどうしたんだよ!」

 僕は耶麻川の肉体の肩をつかんで、その中にいると思われる謎の存在に向かって叫んだ。

 すると……。

「い、痛いよ」

 謎の存在は顔を赤らめ、上目遣いで僕を見ると、苦しそうな声を出した。

「あ、ごめん」

 僕は肩をつかんでいた手を離した。

 それから、ソファの端に寄り、耶麻川の肉体から、自分の体を遠ざけた。

 うつむいて謝る。

「ご、ごめんよ。手荒なことをするつもりじゃなかったんだ……」

「私の名は、やまかわ……その後はなんだったでしょうか? もなも?」

 謎の存在は壁を凝視しつつ聞いた。

 僕は謎の存在の肩をつかみ、がくがくと揺さぶった。

「こ、このやろう! お前、誰なんだよ? 耶麻川をどうしたんだよ? お前、まさか、耶麻川に乗り移っている悪霊か何かか!」

 そういえばゲートの向こうは危険が一杯だと、いつか小耳に挟んだことがあった。耶麻川がゲートの向こうで、さっそく何かのアクシデントに遭い、何かの悪い存在に取り憑かれた可能性は十分にある。

 だとしたら大変じゃないか。

 なんとかしてこの悪霊を追い出さないと!

 がくがくがく……これでどうだ!?

「い、痛い。怖いよ……」

 謎の存在は上目遣いで、苦しそうな声を発した。

「ご、ごめんよ……手荒なことをするつもりじゃなかったんだ……」

 僕は条件反射的に手を離し、またソファの端に寄った。

 そのループを四回ほど繰り返したあと、謎の存在はついに白状した。

「しかたないですね。言います。私は」

「私は?」

「…………」

「早く言えよ!」

「私は、て」

「て?」

「ん」

「ん?」

「しっ!」

「このやろう、ふざけるなよ! お巡りさん呼ぶぞ!」

 僕はまた謎の存在につかみかかり揺さぶりをかけようとした。

 だがそいつはロボット的な動きで首を回転させ僕を見据えると、背中の肩甲骨のあたりから幾筋もの透明な光の触手のようなものをさっと出した。

 光の触手、それは空中でうねうねとうねっている。

 うねうねさせながら、そいつは言った。

「私は天使メタトロン」

「め、メタトロンだと?」

「そう、私は天使メタトロン」と言ったところで、そいつは自分の左手の甲に目を落とした。そこには何かの数字がマジックペンらしきもので書き込まれている。

 そいつはしばらく左手の甲を眺めてから、それを僕の方に向けた。

「これはなんて読むんですか? 桁が多すぎて」

「えーと……二億六千八百五十九号」

「そう、私は天使メタトロン、におく……ろく……せん?」

「二億六千八百五十九号」

「そう、私は天使メタトロン、四捨五入して二号」

「何の番号か知らないけど四捨五入しすぎだろ! 大雑把すぎるだろ!」

「上の方から来ました。上というのは下の反対の方角です」

「別にどうでもいいよ! そんなこと聞いてないよ……もう……」

「私のことはメタトロン二号とでも呼ぶといいでしょう」

 そいつの肩から生えた光の触手……もしかして天使の羽のつもりなんだろうか……それは海の底のイソギンチャクのようにわさわさと蠢いていた。