放課後になり、教室の掃除を終えた僕は、ひとけの無くなった廊下を歩き、旧校舎の部室棟に向かった。

 西日が埃をきらめかせている。

 僕は部室棟の一番奥の扉を開け、中に入った。

 室内は真っ暗だった。壁のスイッチを押すと、明かりが灯った。

 部室の中央では、ソファが天井の灯りに照らされていた。僕は壁際のティーサーバーでお茶を淹れると、マグカップを持ってソファに腰を下ろし、背もたれに首を預けて一息ついた。

 さらに何回か、深呼吸した。

 四度目の深呼吸の途中で、ふいに僕は、さまざまなことを思い出した。今、この瞬間まで忘れていた、多くのことを思い出した。

 それは例えば、ゲートのこと。

 この部室の奥に二つあるロッカーの左側の方、普段はそれは何の変哲もないロッカーだが、それが光り始めた時、それは異次元へと続くゲートに変わる。

「…………」

 今、ソファはいつでもロッカーの様子を監視できるよう、部屋の奥へと向けられていた。放課後、このソファに座り、正面に見えるロッカーを、閉校時間まで監視し続けるのが僕の仕事だった。

 耶麻川はこの世界を天国にするという仕事のために、ゲートを超えて、どこかに、何かの作業をしにいった。この世を天国にするとは、耶麻川が語ったところによれば、つまりそれは、『この世界を高次元領域にシームレスに接続する』ということらしい。

 つまり、と言われても、なんのことか。

 当然、僕にはよくわからない。

 だが、耶麻川の説明によれば、天国、それは、僕にとって最高に素晴らしい世界、それが現実化する場所だそうだ。

 最高に素晴らしい世界と言われても、やはりそれも、イメージは何も沸かない。

 なぜか。自分にとって、どんな世界が最高なのか、そんなことは今まで一度も考えたことが無かったからだ。

 この世界は、この世界であって、それは、これひとつしかない。これ以外には何もない。だから、他の可能性を考えても仕方のないことだと無意識的に思っていた。

 でも、この部室にはゲートがある。

 ゲートがあるということは、この世界以外にも、沢山の世界がある。

 沢山の世界があるのなら、もしかしたら、自分が住みたい世界を、自由に選ぶことだって、本当は可能なのかもしれない。

 自分の住みたい世界を自由に選べる状態、もしかしたら、その状態こそが、天国にいるということなのか。

 その状態こそが、高次元領域にシームレスに接続されているという状態なのか。

「…………」

 自由に世界が選べるなら、どんな世界に住んでみようか。

 僕はソファに頭を持たれてぼんやりと考えた。

 なんとなくだけど、平和で、毎日、沢山、面白いことがあって、豊かで、情熱が感じられる日々が過ごせたらいいと思った。

 どうやら僕は『安心』や『平和』や、『豊かさ』や『情熱』や、そんな、大多数の人間が求めるであろうと思われるものを求める平凡な嗜好の持ち主のようだった。

 だが人類の中には、『残虐さ』や『殺戮』や『闘争』や『陰謀』などという、ダークな雰囲気の物事に囲まれた生活を好む者もいるだろう。

 だとしても、世界が沢山あるなら、それはそれで問題ない。

 各人が、自分の好きな世界を、自由に選べばいいのだ。

 そんな、万人が、自分の夢を、自由に選び、自由に現実化できる状態。

 もし耶麻川の目標が、そんな状態をこの世界にもたらすことなのだとしたら、それは素晴らしい目標のように思えた。

 僕もそれを手伝いたかった。

 だから、この部室で、僕は、僕に出来ることをしようと思っていた。

 僕にできること。

 その一つが、部長として、この部室内と、部室外の往復を続けることである。

 耶麻川やミーニャが断片的に語ったことから僕なりに推理したところによれば、高次元領域というものは、ゲートの向こうにある。そして、ゲートに接しているこの部室には、いくらか、高次元領域の雰囲気、エクスプローラー用語でいうところの、フリークエンシーが混ざっている。通常、それはすぐに薄れていくもののようだが、ミーニャの魔法で、その高次元のフリークエンシーは、この部室に固定されている。

 そして、フリークエンシーというものは、人から人、場所から場所へと伝達されていく作用を持っている。僕はミーニャや耶麻川から、高次元のフリークエンシーを、どのぐらいの量かはわからないが、確かに受け取った。日常生活の中に埋没していると、その影響は速やかに失われていく感覚があるが、この部屋にやってくるたびに、再び高次元のフリークエンシーが自分の心にチャージされるのが、雰囲気として感じられる。

 そのようにして高次元のフリークエンシーを心にチャージした僕が、この部室の外に出て、誰かと接すれば、あるいはどこかの場所に赴けば、その人や場所に、僕から高次元のフリークエンシーが伝達されていくはずだ、理論上は。

 つまり、僕が何度も、この部室内と部室外の出入りを繰り返せば、わずかずつでも、この部室内に溜まっている高次元フリークエンシーが、僕を通して、部室外へと伝達されていくはずだ。

 もし、部室内と、部室外のフリークエンシーが、同調を始めたら、部室外と部室内がシームレスに接続され、出入りするたびに生じる記憶の断絶もなくなるはずだ。

 そしてもし、記憶の断絶がなくなったなら、このゲートの存在を、大勢の人に知らせることができるはずだ。

 大勢の人がゲートの存在を知ったなら、そのとき世界は変る。なぜならこのゲートはこの世界の常識をすべて新しくしてしまう、凄いものだからだ。

 だが今のところ、部室外に出るたびに、僕の記憶は百パーセント、消えてしまう。だからどれだけこのゲートが凄いものであっても、僕はどうしても、これを誰にも伝えることができない。

 また、どれだけ僕が部室の内外を往復しても、何も変化する兆しは見えなかった。

 僕が部内で高次元のフリークエンシーをチャージし、それを部外に持ちだして、部外のフリークエンシーに変化を生じさせることができているとしても、もしかしたらそれは、海に砂糖を混ぜて甘くしようとするぐらいの、気の遠くなるような作業なのかもしれない。

 確かに、僕一人で海に砂糖を混ぜていたら、何万年かかっても海は甘くならないだろう。だがそれを、大勢の人間でやったらどうか。百人、あるいは千人、一万人でやったら、あるいは何かの変化が生じるのではないか。

 そんな想いから、なんとかして部員を増やし、大勢で部室内外を往復しようと考えたこともあった。

 だが、誰も、部室棟に寄り付こうとしなかった。

 理由はいくつか考えられる。

 もともと僕が、人と交流したり、人を集めて遊んだりという活動が苦手であるというのがまず第一の理由だ。

 第二の理由は、この部室外では部室内のことを漠然としか思い出せないため、自分が何の部の部長をやっているのかも、いまだに部室外ではよくわかっておらず、そのため魅力ある勧誘ができていないということだ。

 そして何より大きな理由は、生徒たちの間で、この部室棟は忌避すべき、気味の悪い場所として、いつのまにか知られるようになっていたということだ。不良の溜まり場であったり、神隠しが起こる場だったり、あるいは登校拒否児だけが滞在を許される場であったり、何を考えているのかよくわからない変わり者だけが馴染める空間だったりと、この部室棟に対する生徒たちのイメージは最悪だった。

 しかも、そのようなイメージ以外にも、何かもっと、より強力な力、人を遠ざける力がこの部室棟には働いているように感じられてならなかった。

 怖いもの見たさで部室棟へと足を踏み入れた生徒、あるいは僕の意味不明な勧誘に誘われて、暇つぶしにでもなればと部室棟までやってきた生徒は、西日の差し込む埃っぽい廊下の、その半ばで足を止め、急用が出来ただの、お腹が痛いだのと言って、誰もが回れ右、あるいは回れ左をして新校舎へと帰っていってしまう。

 なぜなのか?

 もしかしたらこれも、フリークエンシーというもののなせる技なのか。

 耶麻川が『振動するエネルギーの体』を出し、フリークエンシーを一気に引き上げた時、僕はとてつもない恐怖と戦慄に襲われた。そのことから考えると、人間は、慣れていないフリークエンシーに接すると、拒否感、抵抗感を示すものなのかもしれない。そして、この部室からは、扉の外、部室棟の廊下にまで、わずかでも高次元のフリークエンシーが漏れ広がっているのかもしれない。そのために、生徒たちがこの部室棟を避けるようになってしまったのかもしれない。

 フリークエンシーが外部に伝わっていっていることは僕の目的に叶っているので良いことである。しかし誰も部員になってくれないのは、困ったことである。困ったことだったが、打開策は何も思い浮かばなかった。

 だから今も、僕は一人でこの部屋に通い続けていた。

 一人で通い続け、部室の内外を往復する以外にもう一つある、僕の当面の仕事、それを淡々と続けていた。

 僕のもう一つの仕事、それは、いつゲートの向こうからやってくるかもしれないエクスプローラーを待ち、もし誰かがやってきたら、彼か彼女か、あるいはそもそも性別など無いのかもしれないその存在を、もてなすことだ。

 もてなし。

 そんなもの必要ないかもしれない。

 エクスプローラーという、大きな力を持った存在は、僕のようなただの、どちらかと言えば無力な高校生のもてなしなど必要ないかもしれない。

 確かに、そういった考え方もある。

 エクスプローラーが部室に滞在する時間を、わずかでも快適なものになる手伝いをしたい。

 この世界がどういった世界なのかを彼か彼女かに案内したい。

 これは単にゲート、エクスプローラー、そういった画期的な物事の一端に、少しでも僕が関わっていたいという欲求が作り出している、本当は無くてもいい仕事である可能性もある。

 だとしても、やりたいから、やりたいんだ。

 そんな勝手な義務感や使命感を持って、僕は毎日、部室に来てはソファに座り、いつかゲートが開いて、エクスプローラーが現れるのをじっと待っていた。

 一年の終業式が終わったあと、春休みの間もずっと、部室で静かに何かを待っていた。

 だが、耶麻川が去り、一月が経ち、二月が経っても、エクスプローラーはやってこなかった。

 ロッカーはいつまでも光り始めることなく、ただのロッカーとして部室の奥に設置されていた。

 そんなある日、ついにこの部室に、来客が訪れたのだが、最初の来客、それはエクスプローラーではなく、幽霊だった。

 *

 耶麻川が消え、しばらく経ったある日のことだ。

 僕は部室に幽霊が出没していることに気づいた。

 初めて見たときは物凄く驚いた。目の錯覚かと思った。しかし目をゴシゴシこすっても、確かに空気の中に人影が揺らめいているのが見えた。

 幽霊。

 それは正確な言葉ではない。正確に言うなら、それは、単に透明な、人の形をした何かだった。

 そいつらは老若男女、いろんな年格好をした、半透明の、人間の形をした存在だった。

 それ以上のことは何もわからなかった。

 物凄く薄くぼんやりと見えるので、そいつらのこと便宜上、心の中で幽霊と呼ぶこともあったが、その普通の人間らしい挙動を見る限り、死んでいるようには見えなかった。

 その、透明な彼、彼女らは、ゲートからこの部室に入ってくるのではなく、通常の扉、つまり廊下とこの部室を繋いでいる扉から、この部室へと入ってくる。

 そしてソファに座って、しばらくじっとしている。それから、ふいに立ち上がると、淡く輝きだしたロッカーの中へと消えていくこともある。そんなときも、しばらく経つと、またロッカーから戻ってきて、ソファに座り、一休みすると、部室から出て行く。

 何をしているんだ、こいつらは。

 この部室を、休憩所として使っているのか、それとも、異世界へ旅立つための拠点として使っているのか。その両方か。

 僕がその透明な存在に触れることは出来なかった。話しかけても声が聞こえている様子はなかった。彼、彼女らは僕の存在にまったく気づいていないようだった。

 この部屋で異常なことを沢山見ているうちに、わからないことは、わからないままにしておくというスキルを、僕はいつの間にか身につけていた。

 それでも、無理に説明をつけるとすれば、その透明な存在がいる世界と、僕の世界は、薄いレイヤーというか、層ひとつ分ぐらい、ずれているようだった。

 透明な存在がロッカーに近づくと、それは淡く光を発し始め、異世界へと続くゲートへと変貌を遂げていく。しかし僕の世界のロッカーは、ロッカーのままである。その通常のロッカーに、レイヤーのずれた世界のゲートが、ぼんやりと重なって見えているのである。しかし僕がロッカーを触ると、それは固く、通常のロッカーのままだ。

 やはりこれは、ちょっとずれた世界の映像が、重なって見えているということなのだろうか。

 透明な存在たちとコミュニケーションを取ろうとするすべての努力が無駄になったあと、僕はそんな仮説を立てた。仮説を立てたが、それを検証するどのような方法も無かった。

 結局、僕は透明な存在たちを無視することにした。

 見ていても無益だからだ。

 そいつらが部屋の中を歩き回っていても、ソファに座っていても、ソファでくつろいでいる僕の身体と重なっていても、無視することにした。そいつらがゲートを超えてどこかに旅立っていっても、無視することにした。それはずれた世界での話であり、僕の世界には、直接的には関係のない話のようだからだ。

 そのように無視し続けていると、だんだん、透明な存在が視界に入っても気にならなくなってきた。

 ちょっと次元がずれている存在と、この部室をシェアしているだけだ。

 互いに何の迷惑を掛け合うこともない。

 僕は最終的には、意識のピントを完全に透明存在からずらす方法を覚えた。

 意識のフォーカスを透明な存在からずらすと、そいつらの姿は完全に見えなくなった。

 これによって、何の意味があるのかわからない、『透明な存在の出現』という問題に一区切りがついた。

 *

 それからさらに数ヶ月が経過し、僕は二年生になった。

 結局、何もかも夢だったのではないか。エクスプローラーのことも、耶麻川のことも、ミーニャのことも、透明存在のことも、ソファで毎日、ぼーっとしている僕が考えだした、ふわふわした夢に過ぎなかったのではないか。そんな哲学的なことを考えに耽っていたある日、ついにロッカーが輝きだした。

 ロッカーが内側から輝きだし、その光によってロッカーはゲートと化した。

 その光のゲートをくぐってやってきたのがアリスだった。

 アリスは紫色の輝く気体を身にまとった、人間と気体を混ぜたような存在だった。

 この世界に関する説明を僕からひと通り受けたアリスは自己紹介を始めた。

 アリスはエクスプローラーの一種ではあるものの、いろんな世界を解放するというエクスプローラーの本業に携わっているというより、むしろ旅の研究者というべき仕事を主にしているそうだった。

『研究者、というと、どんな研究をしてるんですか?』

『この地の底のような重いフリークエンシーの中で、アイデアはどのように固体化されるのか、それに興味があってやってきたのだ。存在の中においては、絶えず光のアイデアが上方から下方へと降り注いでいる。そのアイデアが、この世界を包む闇のヴェールを通過して次元を下降したとき、その本質はどの程度まで歪められ、変質してしまうのか。そういったことを、この身を持ってフィールドワークで調べに来たのだ』

 とっさに僕は、わからないことをわからないままにしておくスキルを発動し、理解できそうなことにだけ意識を向けた。

 なんにせよ、この人は、目的意識があって、この世界へとやってきたらしい。

 どこかを怪我して、やむを得ずこの世界に落ちてきたというわけではないのだ。

 ミーニャが発していた非常事態の雰囲気や、耶麻川が旅立つときに発していた、崖を飛び越えるような悲壮感、そのどちらもアリスは持っていなかった。

『あ、そうだ。ここに来る途中、耶麻川という人を見ませんでしたか?』

 僕は耶麻川のことをアリスに伝えた。

『いや、それらしい人は見なかった。その人はこの世界の一つ上の層、第六層が旅の目的なのだろう。私はほとんど第六層は素通りで次元降下してきた。だからすれ違わなかったのだろう』

 淡々とそう言うと、アリスは背負っていた大きなエクスプローラー鞄を床に下ろした。エクスプローラー鞄は、ミーニャがこの世界へと持ってきて、耶麻川がこの世界から持ち去っていったものと、大差ない形をしていた。頑丈そうで、沢山の荷物が入りそうな背負鞄だ。

『これはこの部屋で管理しておいてくれないか。外に持ち出せば、中の貴重な器具やアーティファクトは、ただのガラクタに変わってしまうだろうから。フリークエンシーが高く保たれているこの部屋でなら、役立つ物品もあるだろう』

『たとえば?』

 僕が聞くと、アリスは鞄の口に手を突っ込んで、中から大きな紙袋を取り出した。

 その紙袋の中からは丸められた新聞紙が出てきた。その新聞紙には、見たこともない、まるで子供のいたずら書きのように見える謎の言語が印刷されていた。アリスが新聞紙をほどいていくと、その中から、こぶし大の結晶状の鉱石が出てきた。透明で、よく見るとキラキラした光を発していた。

『これは?』

『ここから少し上の層で採れたクリスタルだ。この地の鉱物王国で育ったクリスタルも光を発しているだろうが、これはそれとはまた別種の光を発している』

『何の役に立つの?』

『インテリアに。また暇な時などに、これを眺めて、君の知らない世界について思いを馳せるために』

 冗談なのか何なのか、よくわからなかった。アリスと名乗ったその存在はあまり喜怒哀楽を表に出さず、ずっとフラットな表情を保っていた。しかし、くつろいだ、愉快な感覚が、その内面から静かに伝わってくるように僕には感じられた。

 僕はクリスタルと鞄を受け取った。

 クリスタルはソファの左の壁際にある棚に飾った。ティーサーバーの脇にちょうどいい空間が空いていたので、そこに置いた。

 エクスプローラー鞄はソファの正面に二つあるロッカーのうち、ゲートではない方にしまった。

『ところで、君の名は?』去り際にアリスは聞いた。

『ふみひろです』

『そうか、ふみひろ君。君のおかげで助かったよ』

『何がですか?』

『一人だったら、この部屋の外に出て行くのがもっと怖かっただろうと思う』

『そうは見えないですけどね』

『新しい場所に行って新しいことを始めるのは、どんなマスターでもドキドキするものだ。でも、君がこの世界についていろいろ教えてくれたおかげで、迷いなくこの世界に飛び出して行ける。ありがとう』

『それは良かったです』

『私のことを、この部屋の外のどこかで見かけたら、気軽に声をかけてもらえると嬉しい。そのときは、お互いのことを忘れているだろうけど』

『わかりました』

『縁があったらまた会おう』

 アリスは一瞬だけ笑顔を見せると、躊躇なく部室から出て行った。

 短い時間の会話だったが、僕はアリスに好感を抱いている自分に気づいた。

 そして思った。また会えたらいいが、それは難しいだろう。

 だが翌日、僕はアリスと教室で再会していた。

 教室でアリスを見た時、深い喜びが僕の中に湧いてきたのを僕は覚えている。

 教室ではふたりとも、この部室でのことを、何も覚えてはいない。

 ただ斜め前に座っているアリスの背中が視界に入るたび、なぜかはわからない安心感が僕の中に湧いてくる。

 放課後、部室にやってきて記憶を取り戻すたび、なるほどという想いとともに、ごく身近にエクスプローラーが存在していることに感謝の気持ちが湧いてくる。

 *

 アリスは、自分の正体をまた思い出すことがでいるのだろうか?

 そうそう、それに家の猫は、いつか猫人間に戻れるのだろうか?

 家にいる猫、あれはきっとミーニャなのだ。

 あの雪の日、この部室から出たミーニャは猫に変化してしまった。そして、この世界での唯一の知人である僕のフリークエンシーを追って街を歩いている内に、僕の家に辿り着いた。そんな顛末であの猫は僕の家にやってきたのではないかと僕は推理している。

 この部室に連れてくれば、たぶん元の猫人間に戻るだろう。だが部室外で僕はこの情報を完全に忘れており、家の猫のことを、ただの雑種の猫だと思っている。

 猫自身も、自分のことを完全に猫だと思っているらしく、僕の家で朝から晩までゴロゴロしている。

 そんなただの猫を、部室外で記憶を無くしている僕が、この部室にまで連れて来るという状況は、たぶん起こりそうにない。

 だからミーニャはこのままではずっと猫だ。

 いつか、耶麻川のように自力でエクスプローラーであることを思い出し、あの美しい猫人間に自力で戻る日も来るのだろうか?

 いや、それは難しいだろう。

 耶麻川はなんにせよ人間だった。彼女は人間の精神力を使ってエクスプローラーに戻ることができた。

 だが、猫はいつも寝てるだけだ。猫に自助努力を期待することはできない。

 どうすればいいのか?

 わからない。

「まぁ、そのうちに何かいいアイデアでも思いつくかもしれないな」

 ということで、僕はミーニャのことはひとまず脇に置くことにして、通常モードの部活動を始めることにした。

 通常モードの部活動。

 それは閉校の時間までこの部室にいることである。

 ひと通りの備品は揃えてあり、室内は快適である。

 テレビとゲーム。それを読むとこの世界の雰囲気が分かる何冊かの写真付きの本。飲み物の入った小型冷蔵庫。電子レンジ。ティーサーバー。ソファの前に置かれたサイドテーブル。歯磨きと歯ブラシ。タオルと枕と毛布など。

 もしエクスプローラーがこの部屋に長期間、滞在することになったとしても、エクスプローラー・テントの超次元空間内には、人間が生きていくのに必要な各種施設が用意されていると言う。

 こうなると、この部室はもうエクスプローラーにとってのホテルといっても過言ではない。

 元は暗室なので、窓がないという殺風景さをどうにかするため、壁には爽やかな草原の写真ポスターが張られている。

 そういったものに囲まれながら、ソファーでじっとしている。

 お茶をすすりながら。

 それが、僕の部活動だった。

「…………」

 沢山考え事をしたせいか、今日は眠かった。

 このままでは後五秒で眠ってしまいそうだ。

 僕は手に持っていたマグカップをサイドテーブルに置いた。

 だが、寝てしまったら、部長としての責任が果たせない。

 僕は眠気を覚ますために、部室内に面白いことを探した。

 面白いこと。

 テレビゲームが一番それに近いように感じたがが、もっと画期的なものはないだろうか?

 そもそも面白さとはなんだろうか。

 僕は目を閉じて、真っ暗になった視界の中で、面白さについて、考え続けた。

「面白さ、面白さ……」

 そしてふいに、心の中の暗闇の中に、面白さの欠片のようなものを僕は見つけた。

 真っ暗な夜の中で輝く一粒の砂粒のような、面白さの欠片、それを拾い、また失くしてしまわないよう、よく見えるところに僕はそれをそっと置いておいた。

 それは真っ暗な中、その真ん中に浮かんで、光を発していた。

 その光を浴びていると、気持ちが落ち着き、呼吸が楽になってくるようだった。

 中心から球状に広がっていくその光は、暖かいさざ波のようだった。

 僕自身の中から湧き出るそのさざ波を浴びて僕は安らいでいた。

 ずっと。

 時間を忘れて。

 すると、ある時、僕の正面、そのちょっと左側の方から、ふいに強烈な雪崩のような巨大な発光が僕に向かって押し寄せてきた。僕は殺到するその滝のような光の奔流に飲みこまれた。

 いつの間にか眠っていたらしい。

「…………」

 僕はソファの背にもたれて天井を向いていた頭を正面に起こすと、目をこすった。

 左の壁にかかった時計を見る。

 良かった。寝ていたのはほんのちょっとの間だけだ。

 閉門まではまだ時間がある。

 テレビゲームでもするか。

 僕は腰を浮かし、正面右奥の棚に置かれているゲーム機の電源に、人差し指を伸ばした。

 そのときソファーの左端が視界に入った。

 そこ、つまり僕の左隣には、一人の人間が座っていた。

 そいつは、耶麻川だった。

 耶麻川みなみ。

 出発時と同じダウンジャケット状の上着、エクスプローラー・スーツを着ている。

「…………」

 無言だ。

 僕も唖然として、言葉を出せなかった。

 耶麻川は、膝に手を起き、真正面を向いて、目を大きく開けたままの姿勢で、微動だにしていなかった。異様だった。

 その体の表面から十センチぐらい外側の範囲が、うっすらと青白く光っていた。

 耶麻川はその青い光の層に包まれて、じっとしていた。

「お、おい、耶麻川!」

 ついに僕は声をかけた。

「いつの間に帰ってきたんだ? そ、そうか、僕が居眠りしてる間にゲートから帰ってきたんだな! おかえり!」

 見ると、部室の奥のロッカー、その左の扉が開けっ放しになっていた。もうその内部から虹色の光線が溢れだしているわけではないので、異世界に通じるゲートはすでに閉まっているようだった。

「そ、そうだ。お茶でも飲む? いろんな種類があるんだ」

 僕は自分がきちんとこの部屋を管理し備品も増やしたことを誇示しようとして、ソファから立ち上がると、左の壁際の棚に向かった。

「飲みます」

 耶麻川は正面の壁を凝視したまま、風邪をひいてもそんな声は出ないだろうというような、得体の知れないかすれ声で答えた。僕は聞いた。

「き、基本のダージリンティーから、緑茶、ジャスミン、ウーロン茶、いろいろあるけど何が飲みたい?」

「ダー……ジ、リ? ン」

 耶麻川は不可解な、宇宙的なアクセントで答えた。

 僕はお茶のカプセルと来客用のマグカップをティーサーバーにセットし、ボタンを押した。

 コポコポという音と、いい香りの湯気と共に、来客用のマグカップにお茶がなみなみと注がれた。

「どうぞ」

 僕は耶麻川にマグカップを差し出した。

「…………」

 耶麻川は、まず右手の肘の関節を、錆びた工業機械のような動きで九十度に曲げた。それから肩の関節を三十度ほど動かし、それから手の平を平面状に開くと、そこで固まった。

 僕はおそるおそるマグカップを耶麻川の開かれた右の手の平に近づけていった。

 あと五センチほどというところで、耶麻川は右手の角度を微調整すると、手のひらをマグカップに接触させ、それをぐっと握りしめた。

「お、おい、熱いだろ!」

「熱い、熱い」

 熱い、といいながら、耶麻川はマグカップを口元に近づけ、顎を落とし、唇を半開きにすると、口内に向けてマグカップを一気に傾けた。

 熱湯が耶麻川の口の中に勢い良く流れ込み、唇の隙間から溢れだし、もうもう湯気を立てて胸元から太ももにかけて流れ落ちた。

 茶の半分以上を体の前面にこぼしながら、耶麻川はなおもマグカップを傾け、ついにそれを空っぽにすると、宇宙的なアクセントで言った。

「おいしいー。おいしいー。ごちそう。さま」

 耶麻川は空になったマグカップをロボットのような動きで僕に返すと、口、喉、胸、腹、足を熱湯でずぶ濡れにしながら、再び正面の壁を凝視した。

 僕は呆然としながらパニックになるという意味不明な精神状態に陥ったが、とにかく冷やさなければ。

 流し台に走り、水道の蛇口をひねり、昔この部室が写真部だったころ写真の現像に使われていたと思われる四角いプラスチックトレーを棚から取り出し水を入れて耶麻川にぶっかけた。

「冷たーい。冷たーい」

 耶麻川は宇宙的なエフェクトのかかった声で言った。

「だって! 火傷! 冷やさないと!」

 耶麻川のエクスプローラー・スーツの裾から伸びた太股は真っ赤に腫れている。

「やけど。や、け、ど? ああ、火傷しました。喉の中も大火傷しました。お茶を飲んで大火傷しました」

 僕の頭の中を救急車のイメージがサイレンと共に走り抜けていった。

 耶麻川は正面を凝視したまま言った。

「瞬間ヒーリングします。だから、火傷はなんともないです。よっ」

 掛け声とともに、耶麻川の体表面から外側に広がっていた光の層の色が、一瞬、青白色からバラ色に変わった。かと思うと、すぐにまた元の薄い青白い色に戻った。

 そして、見ると、いつの間にか、真っ赤に腫れていた太股の色は、もとの健康そうな肌色に回復していた。

「ほい。九割九分九厘、細胞は復活しました」

「そうか……よ、良かった。それにしても、な、なにしてるんだよ! お茶はゆっくり飲まなきゃ火傷するだろ!」

「ええ、火傷しました」

「これからは気を付けろよ!」

「気を付けます」

「よし。ふう。一安心だ」

 一安心だ、一安心だと繰り返しながら、僕はお茶と水でドロドロになっているソファ、その耶麻川の隣に腰を下ろした。

 だが、どれだけ安心だと繰り返しても、不安な気持ちはどんどん高まっていった。

 なぜかというと、隣に座っている生命体、それは確かに、耶麻川の肉体を持ってはいたが、その正体、その中身は、明らかに、耶麻川ではないように思われたからだ。

 なんだか怖くなってきた。

 見て見ぬふりをしたい。

 僕は、親しい人が、すでにゾンビ化しているのに、それを認めることができないという、映画に頻出する人間心理の脆弱さを身を持って体験した。

 だが僕は、一度、深呼吸をすると、ふいにめらめらと沸き上がってきた、藪をつついて蛇を出す本能に従って、聞いた。

「おまえ……誰だ?」

「ええと。あー。あー。あー? だいぶ発声器官の制御に慣れてきました。そう思いませんか?」

「確かに。さっきよりは、声が人間らしくなっている。って、そんなことどうでもいいよ! お前は誰なんだよ!」

 僕が怒鳴ると、耶麻川の肉体を持った存在は、エクスプローラー・スーツのポケットをロボット的な動きで探り、その中から耶麻川の学生証を取り出した。

 そいつは僕に学生証を渡すと言った。

「私はここに書いてある名前の人間です。なんて読むんですか?」

「読めないのかよ!」

「ひらがなは読めます。やま、かわ。め、ら、め?」

「読めてないよ!」

「と、ま、と?」

「…………」

「ご、ご、ご?」

 だめだ。

 どんどん正解から離れて行ってる。

 僕は正解を教えてやった。

「耶麻川みなみって読むんだよ」

「そう。それです。それが私です」

「……いいからお前、誰なんだよ。嘘をつくなよ。お前、明らかに耶麻川じゃないだろ。お前、耶麻川をどうしたんだよ!」

 僕は耶麻川の肉体の肩をつかんで、その体の中にいると思われる謎の存在に向かって叫んだ。

 すると……。

「い、痛いよ」

 謎の存在は顔を赤らめ、上目遣いで僕を見ると、苦しそうな声を出した。

「あ、ごめん」

 僕は肩をつかんでいた手を離した。

 それから、ソファーの端の方に寄り、耶麻川の肉体から、自分の体を遠ざけた。

 うつむいて謝る。

「ご、ごめんよ。手荒なことをするつもりじゃなかったんだ……」

「私の名は、やまか……その後はなんだったでしょうか? わ? もなも?」

 謎の存在は壁を凝視しながら言った。

 僕は謎の存在の肩をつかみ、がくがくと揺さぶった。

「こ、このやろう! お前、誰なんだよ? 耶麻川をどうしたんだよ? お前、まさか、耶麻川に乗り移っている悪霊か何かか!」

 そういえばゲートの向こうは危険が一杯だといつか小耳に挟んだことがあった。耶麻川がゲートの向こうで、さっそく何かのアクシデントに遭い、何かの悪い存在に取り憑かれた可能性は十分にある。

 だとしたら……大変じゃないか。

 なんとかしてこの悪霊を追い出さないと!

 がくがくがく……これでどうだ!?

「い、痛い。怖いよ……」

 がくがくと肩を揺さぶられると、謎の存在は上目遣いで、苦しそうな声を発した。

「あ、ご、ごめんよ……手荒なことをするつもりじゃなかったんだ……」

 僕は条件反射的に手を離し、またソファーの端に寄った。

 そのループを四回ほど繰り返したあと、謎の存在は、ついに白状した。

「しかたないですね。言います。私は」

「私は?」

「…………」

「早く言えよ!」

「私は、て」

「て?」

「ん」

「ん?」

「しっ!」

「こ、このやろう、ふざけるなよ! お巡りさん呼ぶぞ!」

 僕はまた謎の存在につかみかかり揺さぶりをかけようとした。

 だがそいつはロボット的な動きで首を動かし僕を見据えると、両肩のあたりから幾筋もの透明な光の触手のようなものを、さっと出した。

 光の触手、それは空中でうねうねとうねっている。

 うねうねさせながら、そいつは言った。

「私は天使メタトロン」

「め、メタトロンだと?」

「そう、私は天使メタトロン」と言ったところで、そいつは自分の左手の甲に目を落とした。そこには何かの数字がマジックペンらしきもので書き込まれている。

 そいつはしばらく左手の甲を眺めてから、それを僕の方に向けた。

「これはなんて読むんですか? 桁が多すぎて」

「えーと……二億六千八百五十九号」

「そう、私は天使メタトロン、におく……ろく……せん?」

「二億六千八百五十九号」

「そう、私は天使メタトロン、四捨五入して二号」

「何の番号か知らないけど四捨五入しすぎだろ! 大雑把すぎるだろ!」

「上の方から来ました。上というのは下の反対の方角です」

「別にどうでもいいよ! そんなこと聞いてないよ……もう……」

「耶麻川という名の肉体に入ってるみたいなので、私のことは耶麻川メタトロン二号とでも呼ぶといいでしょう」

 そいつの肩から生えた光の触手……もしかしてそれは天使の羽のつもりなんだろうか……それは、海の底のイソギンチャクのようにわさわさと蠢いていた。