チョークがカツカツと音を立てて黒板に様々な数字と記号を書き込んでいく。

 いつもは苦手な数学の授業が一服の清涼剤のように僕の心に染み透っていく。

 清涼剤というものが何なのかは具体的にはわからない。イメージ的には青い色をした小粒の何かだ。どこかに売っていたら買いたい。

「…………」

 さきほど登校した僕は職員室に向かうと、今年度も僕の担任をしている吉岡先生に、二年生になって初めての遅刻を報告し、教室に向かった。

 二年B組のドアを開けると、三時間目の数学の授業がちょうど始まったところだった。

 机に座った僕は気持ちのモヤモヤを追い払うため、何か無味乾燥したものを心に取り入れようとして、全神経を集中して授業を聞いた。

 煙で充満した部屋で死にかけている人がいるとして、そのとき必要なのは窓を開け、新しい空気を取り入れることだ。

 僕は数学に集中した。性的欲望をなんでもいいから満たしたい、でも人見知りで、誰かと対等な人間関係を作るのは怖い、でもとにかくなんでもいいから性欲を満たしたいという、葛藤と欲望の板挟みになった人間が口走った、あの濃い霧のような世迷い事を、僕の精神から追い出すために。

 何が魂だ、何が天使だ。

 この僕が、母親との性的関係や、母親と恋愛関係を築くことや、将来的には母親と結婚し、子を成し家族を作ることを自ら望んで、彼女の子供として生まれてきただなんて、そんな話があるわけないじゃないか。頭がおかしいんじゃないか。

 そんなもの全部忘れて、黒板に集中だ。

 僕はチョークの立てるリズミカルな音や、書き込まれては消されていく数字や記号に、かつてないレベルで意識を集中した。

 そうすると、これまでは、ほぼ何も意味がつかめなかった数学記号たちが、何かしら僕に、それらが持っている意味や、それぞれの記号同士の関係性を囁き始めたような気がした。僕はより深く黒板に意識を集中した。

 もう少しで全部の意味がわかりそうになった。

 だがそのたびに、ささっと黒板消しが黒板を消していく。そして新たな記号が書き込まれる。また僕はその記号に意識を集中する。何もかもの意味がわかりそうになったところで、また黒板消しが動き黒板は綺麗になる。

 そんなことがリズミカルに繰り返されていった。

 そのゆったりとした反復に意識を委ねていると、今朝の何かとても気持ちの悪いエピソードは僕の心の中から薄れていった。

 まもなく数学の授業が終わり、クラスメートたちとの日常的なやりとりに揉まれているうちに、僕の心に完全に平常心が戻ってきた。

 四時間目の英語の授業では教科書を読み上げた。

 ひとみという名の清楚なファッションの女性教師に発音を褒められ嬉しくなった。知らない場所は怖くて苦手なのだが、将来的にはこの発音能力を活かすために、一度ぐらいは外国に行ってみてもいいかもと思った。僕は見たことのない外国のイメージへと心を彷徨わせた。

 さらに僕は、より完全に、今朝の気持ちの悪い何かを忘れ、いい気分になるために、意識を、何か大きなことに振り向けようとした。

 そうそう。

 僕には何か、やることがあった気がする。

 僕の家庭環境は、常識に照らし合わせて考えてみれば、狂っていると言って過言ではない。それを思うと、たまに自分を憐れんでしまうときもある。

 だが、そんなときは、大きなことを考えれば、心が広くなり、大抵のことは小さな問題として気にならなくなる。

 大きなこと。

 それは、自分のことではなく、自分以外の誰かの利便性を考えるということだ。自分以外の誰か、あるいは何かのグループのために、何かいいことをしてやろうと考えることだ。

 そういう大きなことを考えれば、安心感と自信が湧いてくる。

 僕にもなすべき仕事があるのだ、と。

 それにしても、なすべき仕事。

 それは何か?

 それは具体的には、わからない。

 それがなんだったかは、だいたいの時間は、ずっと忘れている。

 今もどうしても思い出せない。

 だけど、僕には何か、なすべき仕事があったはずだ。それは僕の部活動に関係した何かだったような。

「……なんだったっけな? 思い出せないな」

 そのうちチャイムが鳴った。

 僕は席から立ち上がると食堂へと走った。

 *

 クラスの友人たちと食堂で昼ごはんを食べたあと教室に戻り、最近知り合ったアリスとお喋りして昼休みの残り時間を消化していると、さっきの授業中に考えていたことは忘れてしまった。

 もしそれが、いつか思い出して理解すべき大切なことなら、どうせいつか思い出して理解するから問題ない。

 この普通の日常で起こる出来事や出会う人々も、そのときはそう思えなくても、『大切なこと』へのヒントや関係者になっている可能性もある。だから今は目の前のアリスに集中しよう。

「あれ、そういえばアリスってどこの国から来たんだっけ?」

 窓際の自席に座った僕は、斜め前の席のアリスに聞いた。

 確かこの女、アリスは名前からわかる通り、どこか遠い国からの帰国子女か何かだったはずだ。

「何を言っている、ふみひろ。私はずっとこの街で暮らしている」

「あれ? だってほら、名前がアリスって」

「それがどうしたというのだ。親がそういう趣味だっただけだ」

「ふーん、変な趣味だね」

 僕の言葉にアリスは眉を潜めた。彼女が怒りのような、トゲトゲした感情を露わにするのは珍しい。

『なんでも自分で作る』がコンセプトの、自作同好会の会長をやっているアリスは、最近、エッセンシャルオイルというものの自作に挑戦しているらしく、放課後には学校の裏の空き地でクワを担ぎ、オイルを抽出するためのラベンダーを育てるという農作業に従事している。

 アリスはどちらかというと小柄な体格をしていたが、制服から伸びた手足は健康的に日焼けしており、いわばこの大地と太陽と共に生きる的な存在になっていた。

 精神の安定性も、僕の観察によれば、このクラスでトップクラスだ。

 感情の状態を数値化し、あと五秒で自殺する状態をマイナス百をとし、何の意味もなく幸せになって手を叩く幸せ状態とプラス百とすると、見た限り、アリスの感情レベルはだいたいいつもプラス七十から八十のあたりを持続的にキープしているように見えた。

 僕のような繊細で敏感な心の持ち主からすると、彼女の安定感は尊敬に値した。

 そのアリスが今、怒っている。

 見た限り、眉をひそめるというちょっとしたボディランゲージによってその怒りは表に出ているに過ぎないが、その内面では怒りの炎の嵐が吹き荒れているように感じられる。

 僕は恐怖し、萎縮しつつも、とりあえず寝た子は起こしてみる、特に目的はないけど虎穴に入ってみる、なんとなくヤブをつついて蛇を呼び出してみるの本能に従って、彼女の怒りポイントらしきものを、引き続き刺激している自分に気づいた。

「えっ? アリスって、ただの日本人なのにアリスだったの? てっきりハーフか何かだとばかり。なんだ、詐欺にあって騙された気分だ。これからは苗字で山田って呼ばないとな」

 僕の視界の隅に、アリスが両拳をぐっと握りしめる図が映った。

 だが、ふいに彼女は胸いっぱいに息を吸い込み、一気に吐き出したかと思うと、それと共に怒りの感情も放出したかのようにスッキリした顔を見せた。

「別に、怒らない。そんなことぐらいでは。今まで通りアリスって呼ぶといい。そう呼ばれるのが好きなの」

「でもおかしくない? なんで日本人なのにわざわざカタカナの名前なんだ? 意味がわかんないな」

「わからない。だが私はこの名前を気に入っている。外国のお人形さんのようで可愛い。私は本当にスペシャルで可愛い。こんな存在と二十四時間、一緒にいられて、私は本当に幸せだ……」

 アリスは机の引き出しからスマートフォンを取り出すと、カメラに自分の顔を映し、昼休みが終わるまで愛おしそうに眺めていた。

 幸せそうで、羨ましい。

 僕は聞いた。

「どうやったら、そうなれるの?」

「簡単だ。人を好きになるのに理由はいらない。その理屈で自分を好きになればいいだけだ」

「ちょっと貸して。やってみる」

「どうぞ」

 僕はアリスからスマートフォンを借りた。

 自分のW-ZERO3にはフロントカメラが付いてないから。

「どうだ? できるか?」

 椅子を引っ張って僕の近くに来たアリスは、僕の横からスマートフォンの画面を覗きこんだ。

「うーん」

 最新式のスマートフォンに映っている自分の顔は、誰かによく似ていた。

 誰だっけ?

 あぁ。

 親か。

 そのうち顔を知ってる方の親、つまり母によく似た顔が、解像度の高い液晶に映っていた。僕はうめいた。

「うぐ。思い出したくないこと思い出しちゃった」

 僕はアリスにスマーフォトンを返した。

「大丈夫か? ふみひろ。青い顔しているぞ。良かったら相談に乗ってあげようか」とアリス。

「いや、これはちょっと話しづらいことで」

「いいから話してみるといい。誰にも秘密だ。実は私は、悩み事を聞くのが上手なのだ」

「そうは言っても、これは本当にキツイ話だよ。精神が汚染されるかもしれないよ。十八歳未満は聞いたらいけないことかもしれないよ」

 僕の警告を聴いたアリスは、より興味深そうに身を乗り出してきた。

 僕は緊張で身を引きつつも、自分の中の闇が、鎌首をもたげて目を覚ます感触を感じた。

 精神的な安定度の高い人間。

 幸せそうな人間。

 アリス。

 この女に、僕の家庭の闇を聞かせたら、どんな反応を見せるだろうか……。

 それはあたかも無垢な存在に、汚れた液体を流し込んで汚すような、綺麗な湖にドロドロの汚濁水を流し込んでみるような、背徳的な興奮の感じられる行為だった。

 しかも相手の方から、僕の話を聞きたい頼んで来ている。

 となれば、全責任は、相手にあると言える。

 この僕という、この世界に苦しめられている子羊の中に、溜りに溜まっている闇のドロドロを、アリスの綺麗そうな精神の中へと、ふと気がつけば僕は無制限に流し込もうとしていた。

「じゃ、言うけどさ。実は家の母親が……」

 僕は話し始めた。

 一度話し始めてしまった以上、もしアリスが途中で不快になって僕の話を聞くのをやめようとしても、何が何でも最後まで、この汚れた情報を、その整った形の耳を通して、アリスの精神の奥深くにまで流し込んでやる、という意気込みで僕は話続けたが、驚くべきことに、アリスは休み時間が終わるまで、僕の話を親身になって聞いてくれた。

 何を非難するでも無く、同情するでもなく、好機の目で見るのでもなく、感情的に絡むのでもなく。

 大木のようにブレず、まっすぐに、アリスは僕の話に耳を傾けていた。

 アリスの心は確かに、美しい湖のように綺麗そうだったが、それよりも強い特徴として、強さや暖かさというクオリティを、今、僕はアリスから大きく感じた。

 その暖かさによって、僕の心の中のヘドロ的な汚染物質は、むしろ生物の成長にとって有益な栄養素のようなものに変化を遂げていくのを感じた。そして僕はいつしか新鮮な空気と水と太陽の元で育つ健康な植物の苗のような、これからまっすぐ生きていく自信が自分の中に芽生えているのに気づいた。

「あ、なんか元気になったかも。凄いな! あんな母を持った僕の人生はこれから裏街道を歩むことになるのかと思っていたけど、どんな生い立ちであっても、すくすく生きていける気がしてきたよ」

「それはよかったな。背筋も伸びている」

 アリスは微笑んだ。

 その微笑みの中に、汚れた部屋を掃除をし終えたかのような労働の充実感と、多少の疲れを僕は見て取った。

 僕は謝った。

「ごめん。疲れさせちゃったみたいだね。やっぱり、人の苦しみというのは、百ポイント僕が軽くなったら、相手にその重みが百ポイント移動してるということなのかな」

「いいや。今回の場合、ふみひろの苦しみが私に移動しているとしたら、せいぜい五ポイントぐらいだ。しかもそれは、私がまだ未熟なためだ」

 アリスは淡々と、ただ事実を語る口調でそう言った。

「未熟?」

「そう。私のエゴによって、ふみひろの苦しみを吸収してしまった。でも、それは、せいぜい五パーセントぐらいに過ぎない。九十五パーセントは完全に消化されている」

「そっか。よくわからないが、まあ、よかった」

「それ以外では、集中して話を聞くから物理的に身体が疲れるというぐらいだ」

 アリスは両腕を上に伸ばしてストレッチした。ストレッチするアリスには窓から差し込む美しい日光が降り注いでいた。僕はその健康そうな身体とその動きを眺めながら思った。

 どうもこのアリスという人間は、悩み相談という作業に関して、その内面において確定的な理論的枠組を持っているようだった。

 彼女の姿には悩み相談におけるプロフェッショナリズムが感じられた。

 超高校生級の悩み相談サービス。

 そんな素晴らしいサービスを受けた僕は、いつしか深い感動に包まれていた。

 そのためだろうか、何かお返ししたい衝動に駆られた。

 鞄の中、机の中に、何かないか探す。

 あめ玉。ガム。スタンプ券。

 ろくなものがない。

 これはどうだろう?

 図書カードを見つけた僕は、お礼と共に、アリスに渡した。

「え、くれるのか? これ」

「うん」

 アリスは顔を輝かせてカードを受け取った。

「嬉しいよ。ありがとう」

「こちらこそ、ありがとう!」

 チャイムが鳴った。

 僕は引き出しの中からノートと教科書を取り出して机の上に置くと、教師が来るまで、窓の外、眼下の校庭に、昇降口から飛び出した生徒たちの軌跡が作り出す複雑なラインを、クリアになった心で眺めていた。