チョークがカツカツと音を立てて黒板にさまざまな数字と記号を書き込んでいく。

 いつもは苦手な数学の授業が一服の清涼剤のように僕の心に染み透っていく。

「…………」

 さきほど登校した僕は職員室に向かうと、今年度も僕の担任をしている吉岡先生に、二年生になって初めての遅刻を報告した。それから教室に向かい、二年B組のドアを開けると、三時間目の数学の授業がちょうど始まったところだった。

 机に座った僕は気持ちのモヤモヤを追い払うため、全神経を集中して授業を聞いた。性的欲望をなんでもいいから満たしたい、でも人見知りで、誰かと対等な人間関係を作るのは怖い。そんな葛藤と欲望の板挟みになった人間が口走った、濃霧のような世迷い事を、僕の精神から追い出すために。

 何が魂だ、何が天使だ。ふざけるなよ。

 この僕が、母親との性的関係を自ら望んで生まれてきただなんて、そんな話があるわけないじゃないか。

 この僕が、将来的には母親と結婚し、子を成し家族を作ることを望んで生まれてきただなんて、そんな話があるわけないじゃないか。

 頭がおかしいんじゃないか。

 そんなもの全部忘れて、黒板に集中だ。

「…………」

 僕はチョークの立てるリズミカルな音や、書き込まれては消されていく数字や記号に、かつてないレベルで意識を集中した。

 やがて数学記号たちは、それらが持っている意味や、それぞれの記号同士の関係性を僕に囁き始めた。

「…………!」

 もう少しで全部の意味がわかりそうになったが、ささっと黒板消しが記号たちを消していく。

「あああ……」

 そして新たな記号が黒板に書き込まれ、また僕はその記号に意識を集中し、再び何もかもあらゆるすべての意味がわかりそうになったところで、黒板消しが速やかに各種のシンボルを無に帰していく。

 そんなことがリズミカルに繰り返されていった。

 その反復に意識を委ねていると、今朝の嫌なエピソードの記憶は薄れていった。

 まもなく数学の授業が終わり、同級生たちとの日常的なやりとりに揉まれているうち、僕に平常心が戻ってきた。

 さらに僕は、より完全に、今朝の気持ちの悪い何かを忘れ、いい気分になるために、意識を、何か大きなことに振り向けようとした。

 そうそう。

 僕には何か、やることがあった気がする。

 それを考えれば、安心感と自信が湧いてくる。

 僕にもなすべき仕事があるのだ、と。

 それにしても、なすべき仕事。

 それは何か?

 具体的には、わからない。

 それがなんだったかは、だいたいの時間は、ずっと忘れている。

 今もどうしても思い出せない。

 だけど、僕には何か、なすべき仕事があったはずだ。それは僕の部活動に関係した何かだったような。

「……なんだったっけな? 思い出せないな」

 そのうち四時間目が始まり、そして終わった。僕は食堂へと走った。

 食堂でお昼ごはんを食べたあと教室に戻って自席に座ると、斜め前の席でアリスが農耕に関する本を読んでいた。窓から差し込む光が読書する彼女をきらめかせている。僕は見とれつつ聞いた。

「そういえばアリスってどこの国から来たんだっけ?」

 先日転校してきたこの女、アリスは名前からわかる通り、どこか遠い国からの帰国子女か何かだったはずだ。そのためか、どことなく教室内で浮いている感じがする。

「何を言っている、ふみひろ。私は確かに、下宿にひとり暮らししているが、別に外国から来たわけじゃないぞ」

 本を閉じて振り向いたアリス、その制服から伸びる手足は農作業によって健康的に日焼けしていた。

『なんでも自分で作る』がコンセプトの、自作同好会の会長をやっているアリスは、最近、ハーブティーの自作に挑戦しているらしく、放課後には学校の裏山でクワを担ぎ、ラベンダーを育てる農作業に従事しているのだった。

 農作物だけではなく、音楽や、工芸品の自作も得意としており、そのための知識や経験も豊富だ。そのため各種の文化部に、たまに助っ人として駆り出されているらしい。

「アリスって有能だよな」

「なんだ、急に。褒めても何も出ないぞ」

 そう言いつつ嬉しそうに目を細めている。性格もいい。

 こんな有能な部員がいたら最高だよな。

 部員?

 そ、そうだった、僕は五号室の部長になるのだ。そのために部員を集めなきゃいけないんだった。それが僕のやるべきことだった。

「どうしたんだ、ふみひろ。腕を組んで、急に難しい顔をして、何か悩みでもあるのか?」

「悩み? ああ、悩みといえば、実は今朝、僕の母が……」と言いかけてやめた。あんな話を他人に聞かせるわけにはいかない。

「青い顔しているぞ。悩みは私に話してみろ」

「いや、これはちょっと話しづらいことで」

「私は悩み事を聞くのが上手なんだ。秘密は守るから安心するがいい」

「大丈夫かな。アリスの精神を汚染してしまうかも」

 僕の警告を聞いたアリスは、より興味深そうに身を乗り出してきた。

 その反応によって、僕の中の闇が、鎌首をもたげて目を覚ました。

 有能で性格のいいアリス。

 この女に、僕の家庭の闇を聞かせたら、どんな反応を見せるだろうか……。

 それはあたかも澄んだ湖にドロドロの汚濁水を流し込んでみるような、背徳的な興奮の感じられる行為だった。

「じゃ、言うけど。実は母が……」

 僕は母に関する悩みの全てをアリスに打ち明けた。アリスは「そうか、なるほど」と相槌をうちながら、その話を最後まで聞いた。

「で、何かアドバイスは?」

「特にないぞ」

「何か感想は?」

「ふみひろらしい話だと思ったぞ」

「それだけ?」

「ああ。いや……いつか私のハーブティができたら、ママに飲ませてあげてほしい。過剰な欲望を安らぎによって満たす効果があるんだぞ」

 そこで話題はスムーズにアリスのお茶畑の件に移行した。

 なんとなく気持ちがスッキリしていた。まるでドロドロの汚濁水が最新の浄化装置によって無害化されたかのようだ。

 しかしまだ考えることは残っている。

「先日から肥料の配合を少し変えてみたんだが……おい、ふみひろ、どうしたんだ? また難しい顔をして腕を組んでいるぞ。もっと悩みがあるなら話してみろ」

「じゃあ言うけど、あのさ……僕の部の部員になってくれないか?」

「てっきりふみひろは帰宅部だと思っていたぞ。一体、何部をやっているんだ?」

「それが、実はまだ決めてないんだ。部員も集まらなくて」

「私にできることなら協力してもいいぞ。ただしふみひろも私の畑を手伝ってくれ」

 放課後、校庭で待っていると、クワを担いだアリスが向こうからやってきた。

 僕はアリスについて学校の裏手に向かった。

 しばらくすると旧校舎の部室棟が見えてきた。外壁が蔦に覆われており、天気のいい午後だというのに、暗い雰囲気を発している。

「外側から見るとこうなってるのか。あ、あれが僕の部室なんだ」

 僕が部室棟の一番端を指差すと、不思議なことにアリスは僕の背後に隠れた。

「ん? どうした?」

「あの建物、なんだか幽霊でも出そうじゃないか。なんだか怖いぞ」

「毎日、通ってるけど見たことはないな」

 そんな話をしながら、裏山の道無き道に分け入っていく。

 ヤブをかき分け、蜘蛛の巣をくぐると、かつて自然公園の散策道として使われていたらしい、手すりの朽ちた階段が現れた。

 ところどころ足場が崩壊しているその階段を、気をつけて登っていく。

「はあはあ……まだ?」

「見ろ、あそこだ」

 階段の先には竹林が拡がっていた。その竹林の奥に、四畳半ほどの開墾されたスペースがあった。

 畑では、紫色の花を咲かせた植物がかすかな風に揺れていた。

「どうだ、いい香りだろう」

 僕とアリスの間を吹き抜けていく風の中に、かすかだが胸に染みわたる鮮やかな香りがあった。

 思わず深呼吸した僕をアリスは目を細めて眺めていた。

「ふみひろは今日は見学しているといい。クワが一本しかないからな」

 アリスは小さなアウトドア用パイプ椅子を畑の脇に設置すると、そこに座るよう僕を促した。

 ざくっ、ざくっ。

 パイプ椅子に座る僕の目の前で、アリスは畑の拡張に精を出している。彼女がクワを振り下ろすたび、小気味いい音があたりに響く。

 少しずつ傾いてきた陽を浴びながら、テンポよくアリスが動くのを見ていると、だんだん僕はまどろんできた。

 あるときガクッと頭が落ちた。

 アリスはクワを振り上げた腕を頂点で止めるとこちらを見た。

「寝ててもいいぞ。実際、この植物の香りには、心と体を癒す効果がある。その際に眠気を感じるのは自然なことだ」

「…………」

 香り、音、風、さまざまな感覚が立体感を持って僕を取り囲んでいた。小鳥のさえずり、竹林の向こうから微かに差し込んでくる柔らかな日差し、そして植物と土の匂い、そんなものに包まれて僕はしばらく夢のような昼寝を味わった。

 夢の中でアリスは僕に一粒の種を渡した。僕はそれを優しい光が差し込む畑にそっと植えた。種からはかつて見たことのない色鮮やかな夢が、次から次に芽生えていった。