暗闇の中のソファで、僕たちは雑談していた。

 話題は次第に、クラスのうわさ話から、昔の思い出話や、自分たちのこれからのことへと移っていった。

 この部室の特殊な効果によって、僕は耶麻川のテレパシー能力のことや、それに関連する昔の記憶を思い出し、意識にキープすることができるようになっていた。

 その状態で、耶麻川と出会ってから疎遠になる十歳までの記憶を思い出すと、楽しい、満ち足りた、大量の良い記憶が、嬉しい感情と一緒に蘇ってきた。

 よく人に泣かされたりもしていたが、僕はそのたびに耶麻川に慰めてもらっていたわけだ。

 泣かされる苦しさをマイナス千ポイントとすると、耶麻川のテレパシー能力によって、心が繋がった状態で慰められる気持ちよさは、プラス一万ポイントぐらいの素晴らしい体験だった。

 つまり、その差の九千ポイント分だけ儲かっている。

 だから僕は泣かされることを次第に恐れなくなり、傷つくことは、その後のテレパシー慰めという気持ちいい体験の前触れ、つまり気持ちいいことの一部として認識するようになっていった。

「いやー、今思い出して考えると、あれは本当にいい時代だったな。耶麻川のおかげで毎日のように、素晴らしい体験ができた。あんなに良くしてくれて、ありがとう」

「別にいいし。ふみひろ君が気持ちいいってことは、それと同じかそれ以上に、私もいい気分だったってことだし」

 あれから時が流れ、記憶を忘れ、完全に疎遠になった僕と耶麻川だったが、今また近づいて、暗闇の中でソファに座っている。

 とてもいい関係性が耶麻川と僕の間に復活したように感じた。一度、疎遠になり、また近づいたことで、彼女との関係はより強く、実りのあるものになったように感じた。

 数時間前は耶麻川の性的な交友関係について心を痛めていた僕だったが、その件はもはや完全に解決済みのように感じられた。

 また、その件だけでなく、他のどのような問題でも、解決していけると思った。耶麻川と一緒なら。

 心の通じる相手が、誰か一人でも、自分と同じ世界にいてくれているというのは、圧倒的な利点だ。

 何かとてつもない苦しい事が起きても、耶麻川と一緒にいられたら、その苦しさはすぐにプラスに転じるはずだ。

 もし良い事がどちらかの身に起きたなら、その良さは二人の間で増幅され。数倍に膨れ上がるはずだ。

 耶麻川と一緒にこれからの高校生活を過ごせたら、どんなに楽しく、どんなに心強いだろう。

 高校生活だけでなく、その後の人生も一緒に過ごせていけたら、どんなに楽しいだろう。

「…………」

 しかし耶麻川はこれからゲートを超えて、僕の知らない世界に旅立つそうだった。

 だから、一緒の世界で暮らしていくことは出来ない。

 次元が違う世界に行くので、テレパシーも遠距離過ぎて届かないそうだった。

「…………」

 先ほど、と言っても、もうずいぶんと遥かな大昔に感じられる、この部屋の外、部室棟の廊下で耶麻川は言った。

『もしかしたら、ふみひろ君は、私を引き止めに来たのかもしれないし』

 その通りかもしれない。

 確かに、僕は今、耶麻川を引き止めたい気持ちに駆られている。

 そのために、僕は今夜、ここに来たのかもしれない。

 ということで、僕はさっそく、耶麻川を引き止めるためのトークを始めた。

「そう言えば、さっきさ……耶麻川が『振動するエネルギーの体』を出してた時のことだけど」

 ソファの隣に座っている、かすかに青く光っている耶麻川にさり気なく話しかける。

「なんだし?」

「あのとき僕は、初めて見る凄いものに、ただただ驚いていただけだったけど……今思い返してみたら、何かこう、おかしくなかったか?」

「おかしいって、何がだし」

「耶麻川の身体の下の方から光が昇って行く途中、胸の辺りで、光がちょっと暗くなってた気がする。そこら辺、何か故障があるんじゃないか? そんな状態で、旅に出て大丈夫なのか? その『振動するエネルギーの体』ってのは、この先の旅が成功するか失敗に終わるかを左右する重大なものなんじゃないか?」

 僕は当てずっぽうで耶麻川にケチをつけた。

 海外に留学しようとする者の英語力にケチをつける要領だ。

「僕は心配してるんだ。耶麻川のエネルギーの体は、まだ本調子じゃないんじゃないか? もうちょっと、あと八十年ぐらいかな。そのぐらいはこの世界にとどまっていた方がいいんじゃないか?」

 すると、耶麻川は謎の過剰反応を見せた。

「た、確かに……私はハートがエクスプローラーにしては閉じてる方だし。エクスプローラーになるために、愛の道ではなく、意志の道、ムリヤリの力の道を通った副作用だし! ……でもそれは、急いでたから仕方ないんだし! きっとこれから少しずつハートは開いていくし!」

 どうやら僕の言葉は、耶麻川の何かの劣等感を確かに直撃したらしかった。僕は罪悪感を覚えたが、大切な人を自分の手元に引き止めるためには、このぐらいのことはやる必要がある。

 ということで僕はさらに、この世界に留まることで得られる利点を語った。先ほどの言葉が冷たい北風だとしたら、次は暖かい太陽だ。

 もしも耶麻川がこの世界に留まったら、僕というテレパシーが通じる相手との生活を楽しみながら、ゆっくりと準備をして、堅実にエクスプローラーとしての実力を高めていくことができるよ。

 そんなプラスの点を耶麻川に語った。

 人間というものは、マイナスなことを避け、プラスなことを求める生き物なはずだ。

 もしこれが逆になっているなら、その人は何かが狂っているといういうことになる。

 しかし耶麻川は僕の見たところ、正常である。

 だから耶麻川はマイナスを避け、プラスを求め、結果として旅立つのをやめるはずだ。

「どうかな?」

 僕は隣を見て、耶麻川の顔色を伺った。

「ちょっと考えるし……」

 ソファ上で耶麻川は長考に入った。

 だが、結局、「ううん、やっぱり行くし」と言った。僕は納得がいかなかった。

「なんで? こっちにいた方がトータル的に見て絶対にいいはずだ。論理的に考えろよ」

「確かに、この肉体に焦点を合わせている日常的な意識にとっては、こちらに残った方がプラスが多いと考えられるかもしれない。でも全体的に見てみたら、私が迷宮を攻略して、できるだけ早く、少しでも、この地球を覆っている下降的思考形態の力を弱めた方が、全体的にプラスになるんだし」

「全体って、なんなんだよ」

「全体は全体だし! 人類とか、私が約束した誰かのこととか、私やふみひろ君や、家族のことや、クラスの皆のことや、生きてるすべてのもの、存在するものすべてのことだし! そう……私が昔、この肉体ではない、違う肉体を自分だと認識していたころ、私は約束したんだし! この世界を、私は、私は、絶対に……」

 耶麻川はソファ上で何かとてつもなく大切なことを思い出したかのように、自分の内側を覗きこむような顔をした。

 それを見ていた僕は気づいた。

 耶麻川が、何か凄く壮大で立派なことを言おうとしている。

 それなのに、僕は自分の利益のために耶麻川を引き留めようとしている。だがそれはそれで僕だ。恥じないぞ、と決意しつつ、僕は軽く合いの手を入れた。

「で、この世界を、なんだって?」

「この世界を……なんだったっけ? 忘れたし」

「ちょっと、大事なことだろ。何忘れてんだよ」

「たぶんアレだし。『この世界を』と来たら、その後は、『救う』とか、『良くする』とか、『改善する』とか、そういうことに決まってるし」

「そんな昔の約束、どうでもよくないか。そんなことより、この世界で僕と遊んでたらいいじゃないか」

「ダメだし。この約束は私の執着であるとともに、私の喜びでもあるし。そう……思い出したし……この世界を天国にする! そのために私はエクスプローラーになって、迷宮攻略に行くんだし!」

「天国……?」

「そうだし。この世を天国にする! それは言い換えれば、この世界を高次元領域にシームレスに接続するってこと!」

「……それってどんな感じだよ。ちょっとふわふわしてて想像できないんだけど」

「いいえ、想像できるし。今の毎日の嫌なことを完全にゼロにし、その代わりにエキサイティングな面白い起こる頻度を千倍にした場所、そこがだいたい天国だし。あなたが想像できる、あなたにとって最高に素晴らしい世界、それが現実化する場所、それが高次元領域だし。この世界を、そういう画期的な場所にする。それが私の仕事なんだし。そのためなら、ふみひろ君、あなたに引き止められても、私、置いていくし!」

 耶麻川は強く決然とそう言った。置いていくし、と。

 だが、そう簡単に耶麻川との楽しそうな生活を諦める僕ではなかった。

 どうしても耶麻川と離れたくない。

 離れないための方法を頭を捻って考えた。

 そして……ひとつ、良さそうなアイデアが閃いた。僕はそれを耶麻川に伝えた。

「じゃあ僕がついていくことにする」

「はあ?」

 耶麻川はぽかーんとした顔を見せた。

「ふみひろ君もエクスプローラーになりたいっていうの?」

「そうそう」

 無下に否定されるかと思ったが、意外にも耶麻川は真面目な顔になると、腕を組んで考え込んだ。そして、しばらく経ってから言った。

「うーん。やってやれないこともないかもだし」

 その顔は少し嬉しそうにも見える。

「ふみひろ君は、すでに私と……ミーニャだっけ、二人のエクスプローラーのフリークエンシーを受け取ってるから、普通よりもちょっとだけ、エクスプローラーになりやすいかもしれない」

「いつの間にミーニャのことを? あぁ、テレパシーで伝わってるのか」

 耶麻川は頷いた。

「普通の人間が何の脈絡もなく、二人のエクスプローラーからフリークエンシーをトランスミッションされる。それは偶然とも言えるし、ふみひろ君の魂の望みとも言える。だったらここで、いきなりエクスプローラーになるのは無理にしても、私の見習いの弟子にしてあげて、私のオーラに包んで、一緒にゲートを超えていくことだって、もしかしたら、できるかもしれない」

「見習いの弟子? 耶麻川の言うこと聞かなきゃいけないの?」

「そうよ。でも安心するといいし。マスターとして、弟子の成長と安全のために、指示を出すだけだし。理不尽な命令はしないし」

「僕、なんかの役に立つかな?」

「いいえだし。ここから一つ上の次元、星幽界は感情と妄想の世界だし。その基底フリークエンシーは、実はこの三次元地球よりも低く暗く重い、危険なところだし。私が守ってあげなきゃ、そこに満ちてる『幻惑するもの』に、ふみひろくんはきっと五秒で取り憑かれるし。だから役に立つというよりも、どちらかと言えば迷宮攻略の邪魔だし」

「いや、それはどうかな。僕はどんな局面でも意外に役立つ人材だと思うよ」

 耶麻川は僕の言葉を無視すると先を続けた。

「ふみひろ君の教育にエネルギーを注がなきゃいけないから、私の探索行に相当な遅れが出るのは間違いないし。ま、でも、それでふみひろ君が将来的に立派なエクスプローラーになれば、エネルギーの収支はプラスになるからいいんだけれど。……どうする? ふみひろ君が望むなら、私はいいよ。私の見習いの弟子にしてあげるし。でも、こんな大切な選択の答えは自分の魂にちゃんと聞いて決めるべきだし」

 魂に聞けと言われてもそんなことはよくわからなかったので、僕は考え深そうな顔をして、何かを真剣に考えこむふりをした。

 そして真剣な思考の果てについに答えが出た! という感じで、でも本当は、ただの自分の率直な欲望から「僕はついていくよ。耶麻川に」と、倒置法を使って格好良く告げようとした。

 でも、どうしても、それは言えなかった。

「…………」

 僕の中の何か深い部分が、それを止めようとしていた。

 僕の論理的思考能力による決断は、耶麻川についていけという答えをしきりに叫んでいるのだが、僕の中の何かは、とにかくここに残った方がいいと告げていた。

 僕の中の意見は、二つの真逆の方向性に割れた。

 僕は葛藤を感じた。

 どちらかを選ぶ決断をしなければいけない。

 でも、どうやって?

 どちらが正しい答えなのか。

 わからないので僕は聞いた。

「自分の中に、二つの別の考えがあったら、どちらが正しいか、どうやったらわかるの?」

 耶麻川は腕組みしてしばらく考えてから答えた。

「誰も他人の人生の、何が正しいのかを決めることはできない。でも本当は誰もが、自分自身の、最も高い、正しい道を知ることができるし。わからなくても、知ろうと願えば、いつでもわかるし」

「なんだその正論は。そういう正論というか理想論的には、そうかもしれないけど、現実問題、僕はわからないんだ! 行くか、留まるか、どっちを選べばいいか」

「なんだし! だから私だって現実的なアドヴァイスをしてあげてるつもりなんだし! つまり答えは自分の心に聞きなさいってことだし!」

「だからさっきから聞いてるよ! 聞いてるけど、行けという答えと、留まれという答え、その二つが同時に思い浮かぶから困ってるんじゃないか」

「あぁ……なるほどね。つまりそれは、よくあるパターンだし。ふみひろ君の日常的人格からの答えと、ふみひろ君の本質、深い大きな魂からの答えがバッティングしてるってだけだし。その場合は当然、より包括的な自分である魂の答えを選んだほうが、その先、トータル的に見ていい感じになるし」

「どっちの答えが人格の答えで、どっちが魂からの答えなの? それをどうやって見分けるの?」

「私にわかるわけがないし。それは自分で判別するしかないし。でも……魂の声をよりダイレクトに聞き取るための具体的な手順、それは教えてあげられるし」

「……どうすればいいの?」

「目を閉じて」

 僕はソファの上で、なんとなく膝を抱えて体育座りすると、指示通り目を閉じた。

「そして深呼吸して」

 僕は指示通り深呼吸した。

 深く息を吸い、そして吐いた。

「できたよ!」

「そのまま続けて」

「何回、繰り返せばいいの?」

「いいから黙って続けるし」

 その通りにしていると、だんだん、意識は静かに、透明になっていった。

「…………」

 耶麻川は僕の耳元に囁く。

「選択肢のことも、これからのことも、何もかも今は忘れて、ただ呼吸を続けて」

 僕は何もかも忘れ、ソファに座っていることも忘れ、ただリラックスして呼吸を続けた。

 そのうち時間の流れも忘れ、空間があることも忘れ、肉体があることも忘れ、ほとんどのことを忘れた。

 なんだか、何もない、なんでもない、なんとも言えない何かが、よくわからない中、何かになっていた。

 *

 どれだけそんな風にぼーっとしていたかはわからない。

 ただ、ちょうどいい頃合いだとふと感じたので、僕はぼーっとするのをやめた。

 そしてソファに接している体の感覚や、時間や空間があることを思い出した。

「…………」

 静かに目を開けると、隣には耶麻川がいて、彼女はうっすら青く光っていた。

 僕は状況を思い出した。

 そうそう、この人について見知らぬ世界に行くかどうか、今、その選択が僕に突きつけられているんだった。

「どうする? 行く? それともやめる?」と耶麻川。

「やっぱり行くのやめる」と僕。

 即答できた。

 だが、自分がなぜそう答えたのかは、まだわからない。

 ぼーっとしたことが、何かの効果を発揮したのだろうか?

 わからない。

 だが、とにかくさっと即答した後も、引き続き、僕にはこの答えが正しいと感じられていた。

「……そう」

 耶麻川は残念そうな顔をしたし、僕の中にも、はっきり言って、急激な強い悲しさが溢れてきたのだが、しかし、この答えが正しい道だと感じられた。

 感情とは別の、何か、感じたことのない……震えるような……崇高な、と感じられるような……振動のようなものが、さっきの答えを包み、僕の身体を包んで導いていると感じられた。

 そして思った。そうだ、これに従って生きていくのだ、と。

 たとえ自分の感情がそれを恐れても。

 たとえ自分のあらゆる考えがそれを否定しても。

 だってそれが、僕の、本当の望みなんだから、と。

「………………」

 耶麻川はちょっと顔をそらし、目元をさっと指で拭った。

 僕も涙目になってきた。

 僕は情に流されないように、行くのやめると繰り返した。

「とにかく行くのやめる。やめるったらやめる。僕はここにいる。耶麻川だけ行ってくれ」

「もう、うるさいし! わかったし! はいはい、それじゃ私、出発の準備するから、ふみひろ君は邪魔しないで、どいてたらいいし! 私はそこのテントをもらってくから、解体しないといけないし!」

「このテントはミーニャのだぞ。勝手に自分の物にしていいのか?」

「エクスプローラーが回復するには長い年月がかかるし。私にしてからが、この世界に転げ落ちてきて、再出発できるようになるまで、この世界の時間で十六年もかかったんだし。だからこれは私がもらって行ってあげるし。その方が役に立つし!」

 耶麻川は無駄に僕を押すとソファから立ち上がり、その脇に設営されているテントに向かった。そして、床に四つん這いになって入り口に頭を突っ込んだかと思うと、中から巨大な鞄を引っ張りだした。

「ふん、懐かしのエクスプローラー鞄とエクスプローラー・テント。これを背負って私は旅に出るんだし!」

 耶麻川は僕に背を向け、何か鞄をゴソゴソいじりながら涙声でそんなことを言っていた。

 僕も歪む視界の中、作業する彼女の背を見ていた。

 どのぐらいの期間、会えなくなるのだろう。

 もしかしたらもう一生会えないのだろうか。

 それでも耶麻川を送り出そうというのか。

 こんなに仲がいい人を失ってしまうというのか。

 そうだ。

 失ってもいい。

 手放してもいい。

 彼女は自由だ。

 エクスプローラーになる、旅立つ、迷宮を攻略する、それが耶麻川の魂の願いなのだとしたら、それは何を置いてもすべきことだ。魂というのがなんなのかはわからないが、きっとそういうことだ。

 そして僕の魂が僕にここで何かをやらせたいなら、僕はここでそれをする。

 それが自由だということだ。僕は自由だ。

 この悲しさからも、寂しさからも、自由なんだ。

 何をすることになるのか、それが何なのかはまだ具体的にはわからない。ただ漠然とした雰囲気として感じられる。自分がここですべきことがあるってことが。

「…………」

 僕はソファーから立ち上がって、部屋の中を見回した。

 依然としてギターや碁盤や、よくわからないものがいろいろある部屋の中をぐるっと見てみる。

 そして……ふと思いついたアイデアを、耶麻川の背中に向かって宣言する。

「あのさ、思ったんだけど。僕、この部屋の、部長になるよ」

「そう。それもいいし」

 耶麻川は振り返らず、テントを解体しながら答える。

「僕は部長になって、毎日、この部屋に顔を出すことにする」

「そう、ふーん」耶麻川は鼻水をすすりながら相槌を打つ。僕は聞きたいことを聞く。

「エクスプローラーが怪我することってのは、たくさんあるの?」

「もちろんだし。迷宮はどこも大変な罠で一杯。よっぽどレベルの高いグレート・マスターでも、気を抜けば危ないし」

「じゃあさ。もしその大迷宮で怪我したエクスプローラーに会ったら、そこのゲートを通ってこの世界に避難するように伝えてくれないか?」

「そ、そうね。それはいいかもしれない……」

「僕はついて行っても役立たないだろうけど、この部室でなら少しは役立てるんじゃないかと思う。エクスプローラーがそのゲートをくぐってやってきたら、その人達をケアしたり、便宜を図ったりできるかもしれない」

「うん……それはとてもいいと思う。ゲートキーパーってところね。ちゃんと鍵も管理してね。アメニティにも気をつけて欲しいし」

「うん、わかったよ。それに……フリークエンシーってのは、まだ僕はそれが何なのかわからないけど、今までの説明によれば、場所から人に、人から人に、雰囲気というか共鳴によって伝わっていくものなんだろ? だったら、僕がこの部屋に毎日、出たり入ったりすることで、この部屋の中のフリークエンシーが、少しずつ僕を通して、学校や街に広がっていくんじゃないか?」

「確かに……理論上はそうなるかも」

「そうすれば、いずれは街中が、この部室と同じフリークエンシーになる。そうなったら、僕はどこにいても思い出せる」

「何を?」

「ミーニャのことや……大切な友達、耶麻川のことを」

 耶麻川は振り返らずにテントを解体しているが、テレパシーで大きな波のような嬉しさが伝わってきた。

「そしていつか街中がこの部室と同じフリークエンシーに包まれたら、僕以外にも、いろんな人が、耶麻川がどんな仕事をしているのか理解する。テレパシーのこともみんなの常識になる。そしていつか耶麻川がこの世界に戻ってきたら、僕だけじゃない、大勢の人と心が繋がるようになる。そして大勢の人がエクスプローラーになる。ゲートを通じて、他の世界との交流も盛んになる。そうなったら……」

「凄いし……そう、そうなったら、とても凄いし」

「耶麻川の目標って、こういうことじゃない? この世界が天国になるってのは、こういうことなんじゃないか?」

「わからない。でも、そうなのかもしれない」

「そのために僕もここで僕に出来ることをする。だから別れなきゃいけないみたいだ。でもそれは、凄くいい未来のためだ」

「そうね。そうだし。もう帰ってこれない可能性もあるけど……でも私はそれでも行くし! 元気に!」

 とうとうテントの骨組みが取り外され、ペタンと平べったくなってそれは地面に広がった。

 耶麻川は立ち上がると、僕に向かい合った。

「旅立った先で、今度こそ、私は自分がなんなのか、完全に忘れて違うものになってしまうかもしれない。どこかで私は別のものに変わってしまうかもしれない……それは怖いけど! とにかく私、行ってくるし!」

「ああ、頑張ってきて! 応援してる!」

 僕たちは長い間、そうして見つめ合っていた。

 そして、それからしばらくの間、別れを惜しみながら、励まし合いながら、細かな作業をした。

「これはね、エクスプローラー鞄と、エクスプローラー・テントっていうのよ。あ、そこを持って」

 僕は指示通り、テントのこちらの隅を持ち、耶麻川は向こう側の隅を持った。それをくっつけて、半分にたたみ、さらに半分に折り畳んみ、最後はぐるぐる巻いて鞄に詰めていった。

 お互いの悲しさや恐れは作業中、テレパシーによってやりとりされ、お互いの心の中で深く感じ取られ、消化されてゆき、前向きなエネルギーへと変わっていった。

 そしてついに、耶麻川はテントを鞄に詰め終えると、それを背負って立ち上がった。

 もう完全に涙の跡は無かった。

 表情に、物腰に、力がみなぎっているのが感じられた。

 それはきっと、筋肉の力、肉体の力ではない、それを超えた意志の力、心の力だ。

 今、その力が目に見える光となって、再び耶麻川の体から溢れ始めた。その青い光に包まれて耶麻川は言った。

「それじゃ、次は……魔法でエクスプローラー・スーツを顕現させるし」

「魔法? そんなことできるの?」

「できるし。エクスプローラーだから」

 耶麻川は目を軽く閉じると、右の人差し指を胸の前で立て、何かの呪文のような言葉を唱えた。

「聖なる紫の炎の守護者よ。私の学生服を、大迷宮の探索に役立つエクスプローラー・スーツに書き換えてください」

 瞬間、学生服は紫色の細やかな炎に覆われた。

 紫の炎がかき消えると、耶麻川は灰色のゆったりとしたダウンジャケット状の上着を着ていた。ミーニャが着ていたものにそっくりだ。

「凄いなそれ」僕は感動した。

「もしかして、それでお金も作れる?」

「どうかしら。ちょっと試してみるし」

 耶麻川はまた半分目を閉じると、呪文のようなものを唱えた。

「高次元に存在するお金のなる木よ。無条件の豊かさのフリークエンシーを、この場に接しているすべての意識存在に拡張してください。……よし、これで、この部屋に繋がりを持つすべての意識に、豊かさのフリークエンシーが流れ込んでいくはずだし。さらにこの魔法を強化したい場合は、物理的なお金のなる木を買ってきて部屋の隅に置いておくといいし。スーパーにじゅうまるで、五百円ぐらいで売ってるの、この前見たし」

「あ、ありがとう。そうする。あとで買ってくる」

「それじゃ、そろそろ行くけど、この部屋の座標があっちに行っても思い出せるよう、何か欲しいし。この部屋のフリークエンシーが染み付いた何かのアイテム」

「何に使うの?」

「道に迷い、傷ついたエクスプローラーが、そのアイテムを通じて、この世界にグラウンディングできるように……そしていつか、私が迷宮攻略を終えたなら、ここに帰って来られるように」

「これはどうかな?」

 僕は壁際の棚から、囲碁に使う碁石をひとつかみ手にとって耶麻川に渡した。

 耶麻川は頷いた。

「うん。とてもいいし。白いほうが綺麗だから、こっちに魔法をかけるし」

 耶麻川は手にいっぱい載せた白い碁石に、また何かの魔法の言葉らしきものを呟いた。しばらくすると白かった碁石は淡くバラ色に輝きだした。

 耶麻川はポケットにその輝く石たちをじゃらっと流し込むと、つかのま、こちらを見て、僕に微笑んだ。

「迷い、傷ついたエクスプローラーたちが、この石の波動を頼りに、この部屋にやってきたなら、その時はよろしくね、ふみひろくん。みんなに優しくしてあげてね。社会の決まりも守るのよ」

「うん」

「それじゃ私はもう行くし。また波動を上げるから怖いわよ。怖かったら、もう部屋の外に出ていいし」

 耶麻川は部屋の奥、ロッカーの前へと移動した。

 そして、その場で再び、軽く目を閉じ、右手の人差し指を胸の前に立てた。

 耶麻川の体から溢れだす青い光の球が少しずつ膨らみ始めた。

「いや、ここで最後まで見送ってるよ。もうこの光には慣れてきたから」

「そうかしら。私が今まで出していたのは『振動するエネルギーの体』に過ぎないし。これから出すのが、エクスプローラーの本当の体。すべての人類に与えられている光の体。ライトボディ! 誰もが持つ本質の光の体を、ふみひろ君、見てみたい?」

「見たい!」

 すると、耶麻川を包む青い光の球の中心、耶麻川の胸のあたりに、空間を針の先で突いたような、これまでとは質の違う、強烈な光の点が生まれた。

 僕がその光の点を見ていると、ふいにそれは拡大し、僕を一瞬で飲み込んだ。

 気づくと僕と耶麻川の周囲には、半径十メートルほどの巨大な光の空間が生まれていた。

 その光の巨大な空間の中に、様々な種類の周波数が渦巻いているのが感じられた。

 渦を巻く周波数、素早く精密な弧を描いて回転する周波数、光のインパルスを発し外へ外へと拡大していく周波数、時間と空間を超えて永遠と繋がる周波数、すべての境界を調和させる周波数、無から無限の光を無限に生み出す周波数、そしてすべてが透明になる空の周波数……これらが耶麻川であり僕であり、これが光の体、ライトボディだというのか。

 それは今の僕の認識能力を遥かに超えていた。それを見ていると意識が空白に飲み込まれてしまう。

 僕は意識の焦点を耶麻川の肉体に向けた。

 その美しいと感じられる手足、その胴体、その頭。直線と曲線で構成され重みを持つ耶麻川の肉体に僕は意識を向けた。

 それは滑らかな曲線によって構成されており、それはシンプルな図形が組み合わさり複雑化したもので出来ている肉体だ。

 僕はその肉体を耶麻川として認識している。それが、この肉体が、これからどこか僕の目に見えないところに消えようとしている。

 だがもう一度、一瞬だけ、ライトボディに意識を向ける。するとそこに、永遠の周波数が空の中で踊っているのが認識できる。それは明らかに時間と空間を超越し、肉体はそれに優しく包み込まれその光と共鳴し調和している。

 だから……だから……もう一度、もう一度、彼女の美しい肉体を見て、それがもう僕の手の届かないところに消えてしまうことに胸が張り裂る苦痛を僕は感じる、だとしても、もう僕はわかっている、それは錯覚だと。

 誰もが、あらゆるすべての人が、本当はこのような光だとしたら、誰もが別れることもなく、年を取ることもなく、病気になることもなく、死ぬこともない、それゆえに苦はない、これが、これこそが本当のことなのだ! 何も去らず何も減らず全ては永遠の光の喜びなんだ!

「わかったよ、耶麻川!」

 耶麻川の肉体は僕の歓喜の声に笑顔で頷く。

 そして光はロッカーから溢れだし、ロッカー全体を透明に輝かせ始める。

 耶麻川は胸の前の人差し指を天に掲げると、強く、大きく声を張り上げ、叫んだ。

「ではここに、七つの高き光を召喚する! 七人の原初の光の守り手たちよ! 今ここに七つの聖なる光線をトランスミッションし、光によって、次元をつなぐ光の橋を顕現してください! ここにゲートを開いてください!」

 耶麻川のその声は空気を震わせ、空間を震わせ、次元に裂け目を作った。その裂け目に向かって耶麻川はさらに叫んだ。

「来てください、力の第一光線よ! 古きものを破壊し、新たなものを創り始める破壊と再生の第一光線よ! ここに来て、この世界を包む古き思考形態に、不可逆的な風穴を開けてください!」

 瞬間、雷のような電撃的な光が滝のように流れこみ、耶麻川とロッカーとこの部屋の空間を貫いた。

 そして、その電撃的な光を追うように、後から後から、新たな種類の光がこの部屋へと降り注いだ。

「来てください、愛の第二光線、進化の第三光線、調和の第四光線、知性の第五光線、献身の第六光線、顕現の第七光線! ぜんぶここに来て、虹の橋を創ってください!」

 耶麻川はそれらの光線を全身で受け止め、光の流れを指揮し、ロッカーを光で満たしていった。

 光が共鳴し、聴いたことのない美しい音色が周囲のものを振動させ、共振させ始めた。今やロッカーの戸の奥の暗闇までもが、虹色の光に共振して震えだした。

 その振動は次第に大きくなり、うねり始め、波となってゆらぎ、ついに空間に、物理的な裂け目を作った。僕はその側で、耶麻川の振動するエネルギーの体に同調し、巨大なライトボディに包まれ、沢山の光線の余波を浴び、すべてとつながった感覚に浸りながら、耶麻川に向かって、これまで一度も出したことのない、こんな強いものが出ると知らなかった、心からの応援の気持ちを送った。それは耶麻川のライトボディの中で増幅され、七つの光線によってエネルギーを充填され、加速され、世界に存在するすべてのエクスプローラーへの応援へと変容を遂げた。

 新たなことを始める者への、見知らぬ場所へと旅立つものへの応援。自分の本質を探ろうとするものへの応援。すなわち過去現在未来、すべての探索者への、心からの応援……それは時空を超えて世界中に広がり、目覚めたエクスプローラーのハートへと、そして今まさに目覚めつつあるエクスプローラーのハートへと、そして今はまだ眠っているがやがて覚醒めるエクスプローラーの、心の中の光の種へと、深く、深く、浸透していった。

 そして、耶麻川の中にも。

 応援の気持ちが伝わっていく。

 耶麻川はふと振り向いて、こちらを見る。

 僕は頷いた。

 ゲートは開いた。

 今、荘厳な光の音楽とともに、虹の橋が大迷宮へとつながった。

 耶麻川はロッカーをくぐり、虹の橋に足を踏み出し、はるか彼方の大迷宮へと歩いて行った。

 だんだんその姿は小さくなっていく。

 ロッカーの奥からは、この世のものではない透明な風が吹き込んでくる。

 その風に耶麻川が包まれ、姿がどんどん小さくなり、完全に見えなくなって……ロッカーはいつの間にか、普通のロッカーに戻っていた。

「…………」

 五号室は完全な暗闇に包まれ、僕は何も見えなくなっていた。

 僕は手探りでソファまでたどり着き、そこから方向に見当をつけて、ドアへと向かった。

 ノブをひねると、今回はあっさりと回った。

 ドアの外に出ると、また、この部屋で起きた事、そのすべてを忘れてしまうのだろう。

「……いいさ、忘れても」

 なぜなら。

「僕は部長になる。僕はこの部屋の、部長になる」

 この決心を強く心に焼き付けてから、廊下に出た。

 そして鍵を閉め、暗い部室棟を歩き、校門を出て、帰宅した。

 星の明かりの下、チラホラと雪が振っている。

 いつの間にか首に巻かれているマフラーがあったため、それほど寒い思いはしなかった。ただ、なぜかはわからない強い悲しみと、意味のわからない喜びとが、僕の胸を満たし震わせていた。

 家の玄関に立っていた母は僕を抱きしめた。

 僕の顔は母の柔らかな胸に埋もれた。

「ふみひろ! こんな夜にどこに行ってたのよ? 家出? だったらママも一緒に行く!」

「いや、ちょっと……なんだったっけ? そうそう、確かスマホを部室に忘れてて、それを取りに行ってきたんだった」

「ごめんねふみひろ。ママはもう無知に漬け込んだ性的イタズラなんて絶対にしないから。これからは合意の上でするから、ママのこと置いて行かないで!」

「あ、そうだ、それより猫、猫飼っていい?」

 僕は自室のドアを開けた。

 中からミーニャが走って出てきて、僕の足元に寄ってきた。

 母は喜んだ。

「きゃーなにこれ可愛い! これなんて生き物? 触ってもいいの? ねえねえ、これ、家で飼わない? 飼ってもいいでしょこれ」

 あっさり猫を家で飼うことになった。

「ねえねえ、これ、名前はなんてつけようか?」

「もう決まってる。ミーニャ」

「可愛い! ミーニャ。ミーニャ」

 遅くまで母はミーニャと戯れていた。

 遊び疲れると、母は僕の部屋で寝ようとしたが、僕はそれを押し返した。

 翌日、登校した僕は、吉岡先生に、五号室の部長をやることを告げに行った。

 吉岡先生は「鍵、お前が持ってたのか。あそこは物置じゃなかったか? え? 部室として使える? だったら使ってもいいが、報告に来るのが遅過ぎないか?」とスマートフォンで何かのゲームをしながら言った。

 僕は申請が遅くなってすみませんと謝った。

「まぁいい。あ、それと四号室の奴らに言っておいてくれ。悪いことばかりしてると許さないぞって。見て見ぬふりするのにも限界があるぞって」

 一応、その伝言を告げに、放課後、四号室に向かった。

 室内には何名かの男女がたむろしており、他校の生徒もいた。

 灰皿として使われている空き缶が部屋の隅に転がっていた。

 楽しそうで少しうらやましかったが、僕は冷酷な顔で告げた。

「お前たち、ここで遊ぶのもそろそろ潮時みたいだぞ。噂が広まってるんだ。いつか先生たちも対処せざるを得なくなって、そろそろ大問題になる。ここの部長は誰だ?」

「……部長? 誰だっけ。そんなヤツいたっけ?」

「なんだ、部長もいないのか。ちなみに僕は隣の部屋の部長だ。これからよろしくな」

 そう挨拶したものの、数ヶ月もするうちに、四号室には人が集まらなくなった。

 誰が部長なのかもわからない部室なので、求心力が無いのだろう。

 そして僕はと言えば、毎日、放課後、五号室で掃除をしたり、何かよくわからない衝動に駆られ、少しずつ、ゴミ捨て場から拾ってきた家具を増やしたりしている。

 今ではLEDの照明がつくようになり、テレビでゲームもできるようになった。

 タオルや歯ブラシなどのアメニティもひと通り揃った。

 小型の冷蔵庫にはコーラが入っている。

 僕はコーラ片手にソファーに座り、真っ暗なテレビの画面を眺めている。

 そうすると、心の奥から何かが浮き上がってくる。

 何か不思議な記憶。

 うちの猫に関する記憶。

 消えてもう誰も覚えてない同級生の記憶。

 それらはすべておぼろげでハッキリとは思い出せない。

 しかし何かの役割が自分にある気がするから、僕は毎日、登校し、掃除当番の日には掃除をし、放課後には部室にいる。

 そんなある日、ついにロッカーが輝き出す。

 その虹色の光を浴び、僕は思い出す。

 自分の仕事を。

「お客さんだな」

 僕はロッカーの前に立ち、現れてくる人を笑顔で待った。