深く息を吐き出すごとに、暗闇の中に安らぎが広がっていく。

 心の通じる相手がすぐ近くにいる。

 その事実が僕に深い安らぎをもたらしている。

 耶麻川とこれからの高校生活を一緒ん過ごせたら、どんなに心強いだろう。

 高校生活だけでなく、その後の人生も一緒に過ごせていけたら、どんなに楽しいだろう。

「…………」

 だが僕が落ち着くのを見届けたあとで、耶麻川は再びうっすらと光り始めた。

 輝く耶麻川はソファから立ち上がった。

「…………」

 テレパシーによって、耶麻川の決意が伝わってくる。

 そう、ミーニャが入ってきたゲートを使って、耶麻川はこれから旅立とうとしているのだ。見知らぬ世界へ。

 かつてこの部室の外で耶麻川は言った。

『ふみひろくんは、私を引き止めに来たのかもだし』

 そうなのかもしれない。

 幼児期の記憶を取り戻した僕は今、願っていた。

 ずっと耶麻川と一緒にいたい。

 だが同時に、彼女の旅立ちを応援したい。そんな気持ちもある。

 それらは共にテレパシーによって耶麻川に伝わっていた。

 だから僕は部室内に設営されているテントを畳み始めた耶麻川に、どうでもいいことを言うのだった。

「そのテントはミーニャのだぞ。勝手に自分のものにしていいのか?」

「傷ついたエクスプローラーが回復するには、通常、長い年月がかかるし。私にしてからが、この世界に転げ落ちてきて、再出発できるようになるまで十六年もかかったんだし。だからこれは私がもらって行くし。その方が役に立つんだし」

 耶麻川はテントを畳み終えると、壁際の棚にしまわれていたミーニャの鞄を引っ張りだした。

「このエクスプローラー鞄ももらっていくし。これを背負って私は旅に出るんだし」

 そして耶麻川は僕に背を向け、大きな鞄にテントを詰め始めた。

「…………」

 どのぐらいの期間、会えなくなるのだろう。

 もしかしたらもう一生会えないのだろうか。

 こんなに仲がいい人を失ってしまっていいのだろうか。

「…………」

 僕はいつの間にか流れていた涙を指で拭いた。

 そしてソファから立ち上がって、部屋の中を見回した。

 ギターや碁盤や、よくわからないものがいろいろある部屋をぐるっと見てみた。

「あのさ、僕、この部屋の、部長になるよ。そして毎日、この部屋に顔を出すことにする」

 耶麻川は鼻水をすすった。テレパシーによって別れの悲しみが耶麻川に伝わり、それが互いの間でハウリングしているようだ。

「ぐすっ。部長?」

「ああ……僕も耶麻川についていきたい、でもついていっても役立たないだろう。だけどこの部屋でなら、少しは役立つことがあるんじゃないかと思う。ミーニャみたいなエクスプローラーが、またゲートをくぐってやってきたら、その人がスムーズにこの世界に溶け込めるよう、何かの手助けができるかもしれない」

「うん、とてもいいアイデアだし。ぐすっ。ゲートキーパーってところだし」

「そして部長をしながら、環境を整えて待ってるよ」

「何を?」

「大切な友達が、またいつか帰ってくるのを」

 テレパシーで大きな波のような嬉しさが伝わってきた。

「旅立った先で、今度こそ、私は自分がなんなのか完全に忘れ、何か違うものになってしまうかもしれない。そうなっても、必ずここを思い出して帰ってくるし!」

「ああ、頑張ってきて! 応援してる!」

 僕と耶麻川はロッカーの前で見つめ合った。

 悲しさや不安はテレパシーによってやりとりされ、やがて互いの心の中で速やかに消化され、前向きなエネルギーへと変わっていった。耶麻川はもう一度鼻をすすると笑顔を見せた。

 表情に、物腰に、力がみなぎっているのが感じられた。

 それはきっと、筋肉の力、肉体の力ではない、それを超えた心の力だ。

 今、その力が目に見える光となって、再び強く耶麻川の体から溢れ始めた。

 その光は耶麻川の学生服の上に幾何学模様を取って広がると、やがてその全面を炎のように覆い尽くした。それにより光が学生服に縫い込まれ、それを光の服と変えていった。

「凄いな、それ」

「エクスプローラー・スーツだし。これによって世界の壁を安全に超えることができるし。それじゃ、そろそろ……」

 行くのか、と思ったところで、耶麻川は壁際の棚の碁石を手に取った。

「そんなもの、何に使うの?」

「いつか、私が迷宮攻略を終えたなら、ここに帰って来られるように」

 耶麻川は手にいっぱい載せた白い碁石に、何かの魔法の言葉らしきものを呟いた。白かった碁石は淡くバラ色に輝きだした。

 耶麻川はポケットにその輝く石たちを流し込むと、つかのま、こちらを見て、僕にほほえんだ。

 そして耶麻川は部屋の奥、ロッカーの前へと移動した。

 耶麻川の体から溢れだす青い光が少しずつ外側に膨らみ始めた。

「怖かったら、もう部屋の外に出ていいし。さよなら、ふみひろくん、私がいない間、ちゃんと社会の常識を守って生きていくのよ」

「ああ……でも、ここで最後まで見送るよ。もうこの光には慣れてきたから」

 耶麻川はうなずいた。

 彼女を包む青い光の中心に、これまでとは質の違う、強烈な光の点が生まれた。

 ふいにそれは拡大し、僕を一瞬で飲み込んだ。

 その巨大な光の中に、さまざまな光のパターンが渦巻いていた。

 渦を巻く光、精密な弧を描いて回転する光、外へ外へと拡大していく光、時間と空間を超えて永遠と繋がる光、すべての境界を融合させ調和させる光、無から無限の光を生み出す光、そして澄み渡った透明な光……これらが耶麻川であり僕であり、それは宇宙のすべてと繋がっていた。

 それは僕の意識の容量を遥かに超えていた。

 だから僕は意識の焦点を耶麻川の肉体に向けた。

 その美しい手足、顔、髪。重みを持つ耶麻川の肉体に僕は意識を向けた。

 それは滑らかな曲線によって構成されている。それはシンプルな図形が複雑に組み合わさってできている。僕はその構造物を耶麻川として認識している。それが、その肉体が、これからどこか僕の目に見えないところに消えようとしている。

 だがもう一度、耶麻川が発する光に意識を向ける。するとそこに、永遠の光の波が踊っている。それは明らかに時間と空間を超えている。

 だから……もう一度、彼女の美しい肉体を見て、それがもう僕の手の届かないところに消えてしまうことに、胸が痛くなる、悲しくなる。だとしても、もう僕はわかっている、何も消えない。

 誰もが、あらゆるすべての人が、本当はこのような光だとしたら、誰もが別れることもなく、老いることもなく、病気になることもなく、死ぬこともない、だから苦はない、これが本当のことなんだ!

 そして光はロッカーから溢れだし、その全体を透明に輝かせ始めた。

 耶麻川は人差し指を天に掲げた。

「今ここに七つの光によってゲートを顕現させるし!」

 耶麻川のその声は空気を震わせ、空間を震わせ、次元に裂け目を作った。その裂け目に向かって耶麻川はさらに叫んだ。

「第一の光よ! 古きものを破壊し、新たなものを創り始める破壊と再生の光よ! ここに来て、この世界を包む古き想念形態に風穴を開けるし!」

 瞬間、雷のような電撃的な光が滝のように流れこみ、耶麻川とロッカーとこの部屋の空間を貫いた。

 そして、その電撃的な光を追うように、後から後から、新たな種類の光が到来し、耶麻川へと降り注いだ。

「愛に満ちた第二の光、すべてを進化させる第三の光、調和をもたらす第四の光、明晰さをもたらす第五の光、そして第六、第七の光! 七つの光によって、今ここに虹の橋を創造するし!」

 耶麻川はそれらの光線を全身で受け止め、光の流れを指揮し、目の前のロッカーを光で満たしていった。

 光が共鳴し、聴いたことのない美しい音色が周囲のものを振動させ始めた。今やロッカーの奥の暗闇までもが、虹色の光に共鳴していた。

 その振動は次第に大きくなり、波となってうねり、ついに空間に物理的な裂け目を作りだした。僕はその側で、心からの応援の気持ちを送った。それは耶麻川の中で増幅され、あらゆるすべてのエクスプローラーへの応援へと拡大していった。

 新たなことを始める者への応援、見知らぬ場所に旅立つ者への応援……それは世界中に広がっていった。

 そして耶麻川の中にも。

 応援の気持ちが伝わっていく。

 耶麻川はふと振り向いて、こちらを見た。

 僕はうなずいた。

 耶麻川はゲートをくぐり、虹の橋に足を踏み出した。

 ゲートの奥から、この世のものではない透明な風が吹き込んでくる。

 その風に耶麻川が包まれ、姿がどんどん小さくなり、完全に見えなくなって……いつしかゲートは閉じ、それはいつものロッカーに戻っていた。

 五号室は完全な暗闇に包まれ、何も見えなくなっていた。

 僕は手探りでソファまでたどり着き、そこから方向に見当をつけて、ドアへと向かった。ドアノブをひねると、今回はあっさりと回った。

「…………」

 このドアの外に出ると、また、この部屋で起きた事、そのすべてを忘れてしまうのだろう。

 だが僕は部長になる。

 そして必ずこの部屋に戻ってくる。

「…………」

 決意を強く心に焼き付けてから、廊下に出た。

 そして鍵を閉め、校門を出て、帰宅した。

「…………」

 星明かりの下、雪が振っている。

 いつの間にか首にマフラーが巻かれていた。だからそれほど寒い思いはしなかった。

 ただ、なぜかはわからない強い悲しみと、意味のわからない喜びが、僕の胸を満たしていた。