小学校で、男の子はいろいろあって、よく泣いていた。

 そんなとき女の子が、男の子を慰めた。

 心の中で、伝えたい気持ち、幸せな気持ち、平和な気持ちを思い浮かべて手をつなぐ。そうすると、心の中のその振動が、男の子へと伝わっていく。

 それでも男の子が泣き止まないときは、額と額をくっつける。

 そうすると、女の子の中にある、幸せな気分、平和な気持ちが、男の子に、よりダイレクトに伝わっていく。

 ひとつの音叉から発せられた振動が、もうひとつの音叉に伝わり共鳴を始めるように。

 女の子は、そのテレパシー能力を意識的にコントロールしていた。

 特定の周波数を持った感情や思考を心の中で保持し、それを周囲に放射する能力は、女の子に生まれながらに備わっていた。

 しかし女の子が放射する周波数にたやすく共鳴してくれる存在は、男の子だけだった。

 他の人の心には、沢山の種類のギザギザした周波数がぎゅうぎゅうに詰まっていて、女の子が発する調和のとれた周波数には誰も共鳴してくれなかった。

 女の子の発する周波数に、唯一、あの男の子だけが共鳴した。

 その男の子の心が、特別、空っぽで無防備だったからかもしれない。

 本当のところはわからない。だけど、自分のフリークエンシーに共鳴してくれる相手がいることは嬉しいことだった。

 そんなわけで、その女の子は男の子とよく一緒にいた。

 それはソフトフォーカスとキラキラしたエフェクトがかかったような、幸せな季節だった。

 幼稚園でのお遊戯が、いつまでも続けばいいと思ったこともある。

 泣いている男の子に優しさの周波数を送り、彼がそれをスポンジのように吸収する。そんな日々がいつまでも続けばいいなと思っていた。

 だがそんな仲のいい小動物のような日々は、思春期が始まることで、終わってしまう。

 男の子と女の子、どちらかが、相手に心を開くことを拒絶し始めたのかもしれない。

 思春期を迎えて得た性の知識が、痛ましいテレパシー事故を招いたのかもしれない。

 あるいは単に、女の子のエクスプローラー能力が少しずつ薄れていったせいかもしれない。

 なんにせよ二人はテレパシーのことも、あれだけ仲が良かったことも、やがてぜんぶ忘れてしまった。

 女の子は、優等生として、目の前に送られてくる勉強等のタスクに集中し、善悪の境目がしっかりとした世界に生きた。

 心を眠らせ、耶麻川はこの世界の中に深く沈んでいった。どこまでも、どこまでも……。

 

 だが、そんなある日、耶麻川の心に衝撃が走る。

 それは数学の授業中だった。

 机に頬杖をつくこともなく、黒板に書かれた数式を手元のノートに几帳面に書き写していた耶麻川は、ふと何の前触れもなく、稲妻に貫かれたかのように全身を震わせた。

 椅子がガタンと音を立て、それが教室中に響いた。

「お、思い出したし……私は……あの闇の迷宮の罠にかかり、この地の底に堕ちてきたエクスプローラーだったんだし」

 だがそのときはまだ、闇の迷宮、エクスプローラー、それらの言葉が何を意味しているのか耶麻川自身にもわからなかった。

 早くそれらの意味を思い出す必要があった。

 それらの意味を本当に思い出すには、この世界の基底フリークエンシーと自分との間にある縁を、すべて切断し、この世界の重力を振り切る必要がある。同時に、今の自分の人格が持っている傾向、パターン、それをすべて破壊する必要がある。

 そのような一瞬の閃きを心に焼き付けた耶麻川は決意した。

「そうだ、私……不良になるし」

 情報量の多い夢が終わった。気づくと僕は、青白い光に照らされた五号室の中で、ソファに横になっていた。

 頭の下には何か柔らかく温かいものがある。

「やっと起きたし。ふみひろくん、十分ぐらい寝てたし。すっきりした?」

 目を開けると頭の上に耶麻川の顔があった。どうやら膝枕されていたらしい。

 テレパシー通信により、互いの仲良し時代を思い出したためか、この密接な距離が心地よく感じる。

 もうしばらくこうしていたい。

 頭上の耶麻川はうなずいた。僕は耶麻川の体温を感じ続けた。

 膝枕上で、永劫の時が流れすぎそうになった。深く膝枕を堪能した僕は、体を起こし、ソファから立ち上がった。

「…………」

 目をこすりながら周囲を見回す。

 ソファの脇に、謎のテントが設営されていた。中には誰も居ないようだ。

 壁際には流し台と、写真の現像機が設置されていた。部屋の奥にはロッカーと、ギターや碁盤の置かれた棚があった。

 天井の蛍光灯は真っ暗だ。交換していないから、スイッチを入れても点かないだろう。

 しかし部室内はうっすらと青白く照らされている。

 僕は首を巡らせて光源を探した。室内にあるあらゆるメカニカルな光源は壊れているはずだが。

 僕は目をこすった。

「おかしいな。耶麻川が光って見える」

「そうだし。光ってるんだし。これは私の心の光」

 耶麻川はほほえんだ。それとともに耶麻川が発する光はより柔らかく、その明度を増した。

 その光を浴び僕は思い出した。似たような光を前にも見たことがあった。それはミーニャが見せてくれた光。ゲートの向こうから溢れてくる光。

 そうだ。

 ミーニャ。

 そして、ゲート。

 僕は息を呑んだ。

 耶麻川が発する青い光は、どんどん強くなっていった。

 部屋中が青く照らされていた。

 その不思議な光はどんどん眩しくなっていった。

 熱くもない、透明な青い光。

 耶麻川から溢れだす光が、僕の体と心の中に染み通ってくる。

 僕の背筋を下から上へと、電流のような、磁気のような、チリチリとした感覚が駆け上っていく。

 全身に鳥肌が立つ。

「なんだこれ? まだ僕は夢を見てるのか」

 僕は後ずさった。背をロッカーにぶつけた。耶麻川は光に包まれてほほえんでいる。

「これも現実なんだし。存在は光であるということ」

 僕の背後のロッカー、その冷たい感触が、手のひらを通じて僕に伝わってくる。

 その冷たさが、今、波打つ振動として感じられる。

 波。そして光。

 僕は気づいた。

 心に認識されるもの、そのすべてが波だ。

 存在の中にある、ありとあらゆるものが光の振動だ。

 さっきまで硬い物質だと思っていたすべて、床、ロッカー、自分の体、肉も、骨も、歯も、脳も、自分の思考も感情も、この僕という感覚も、波打つ光のパターンなんだ。この気付き、この考えも光でできてるのだ。

 波打つ光、それだけが存在しているのだ。

 目に見えるものすべて、感じられるものすべて、感情も思考も、過去も現在も未来も、すべて揺らめく光の波なんだ。

 それはちょっと、ヤバくないか。

 なんだか凄すぎて、ヤバくないか。

「うぐ……すごく怖いんだけど」

「怖い?」

「うん。怖い」

 足ががくがくする。

「つかまるといいし」

 耶麻川は手を伸ばして近づいてきた。心を貫く光の源が近づいてきて、僕は余計に怖くなった。だが、背後はロッカーだ。こうなったらもう前に出るしかない。

 僕は覚悟して耶麻川の差し出す光る手に掴まった。瞬間、光がより強く僕の心の中で炸裂した。

「パニックになりそう。そうか、こういうときになるんだな。人は過呼吸に……はあ、はあ」

「こ、こっちに来て! ソファに座って、深呼吸するし」

 耶麻川は僕をひっぱってソファに座らせると、自分も隣に腰を下ろした。

 だが物質に座ってる感じが薄い。

 光の隣で光の上に光が座ってる感がある。

「ど、どうしよう。何かが変になっちゃいそう」

「そのパニックは一時的なものだし。でも気分を落ち着かせたいなら、何か日常的なことを考えるといいし」

「日常? 日常ってなんだったっけ?」

 朝が来て、夜になり、また朝が来るという時間のサイクルが日常だ。

 そのサイクル全体もまたひとつの光でできた波のパターンであり、そのゆらめくパターンは、すべてのものが織りなす壮大な光の織物の一部にして全体であって……そんな洞察におののいていると、耶麻川に肩を揺さぶられた。

「ふみひろくん、ファーストフードとか好き?」

「え? まあ、たまに食べるぐらいかな」

「ポテトとコーラが美味しいし。油と砂糖と塩のハーモニーだし」

「あぁ、美味しいよな」

「ふみひろくんはラーメンとか好き?」

「まあ……たまに食べるかな」

「コシのある麺と、奥深いスープのハーモニーだし」

「あぁ、美味しいよな」

 相変わらず光に満ちたフィールドの中で、僕は溺れる者のように耶麻川につかまりながら、この前食べたラーメンのことや、各種の美味しい食べ物のことを思い出した。

 そのおかげか、だんだん意識が普段使いの、いつもの感じに戻ってきた。

 いつしか世界は見慣れたいつもの固さを取り戻していた。

 今、床は床として、通常の硬い物質として感じられた。

 それとともに、僕に、僕という、まとまりの感覚が戻ってきた。

 ソファの隣に座っている耶麻川も、少しずつその明度を落としつつあった。光量調整機能付きのLEDランプ、そのツマミをゆっくりOFFの方に回していくように。

「た、助かった……」

 耶麻川が暗くなるのに連動し、室内もスムーズに暗くなっていった。まもなく完全な暗闇に包まれた部屋の中で、僕は体の力を抜き、もう一度、大きなため息をついた。

「はあ……」