セピア色のイメージの中、幼稚園で、小学校で、男の子は、いろいろあって、よく泣いていた。

 そんなとき、女の子が、男の子を慰めた。

 心の中で、伝えたい気持ち、幸せな気持ち、平和な気持ちを思い浮かべて手をつなぐ。そうすると、心の中のその振動が、男の子へと伝わっていく。

 それでも男の子が泣き止まない時は、額と額をくっつける。

 女の子の心の中にキープされている、幸せな気分、平和な気持ちが、男の子に、ダイレクトに伝わっていく。

 それによって、男の子は泣き止んで、幸せな、満たされた気持ちになることができる。

 一つの音叉から発せられた空気の振動が、もう一つの音叉に伝わるように。二つの音叉が同じ振動数で共鳴を始めるように。

 女の子は、そのテレパシー能力を意識的にコントロールしていた。

 特定の周波数を持った感情や思考を心の中で保持し、それを周囲に放射する能力は、女の子に生まれながらに備わっていた。

 しかし女の子が放射する周波数にたやすく共鳴してくれる存在は、彼女の身の回りにいる者の内では男の子だけだった。

 その能力が通じる相手は男の子だけだった。

 他の人間の心の中には、沢山の種類のギザギザした周波数がぎゅうぎゅうに詰まっていて、女の子が発するコヒーレントな性質を持つ周波数には誰も共鳴してくれなかった。

 大人よりも子供のほうが、心の中に詰まっている周波数の種類は比較的少なかったが、それでもやはり家族や社会が無自覚に放射している数多の周波数によって、子供の心の中も一杯に埋められていた。だから女の子が発する周波数と共鳴してくれる人はいなかった。

 女の子の発する周波数に、唯一、あの男の子だけが共鳴した。

 それはなぜか? その男の子の心が、特別、空っぽで無防備だったからかもしれない。

 わからない。だけど、自分のフリークエンシーに共鳴してくれる相手がいることは嬉しい事だった。

 そんなわけで、その女の子と男の子はよく一緒にいた。

 それはとても幸せな季節だった。記憶の中でその季節はソフトフォーカスとキラキラしたエフェクトがかけられたアニメの絵のように煌めいていた。こんな優しい雰囲気の時間は、これまでの沢山の人生の中でも、初めてのことかもしれない。

 女の子は、他の数多の人生で、極端にハードコアな体験を積んできた。

 蛮族として村人を全員殺害したり、村人として蛮族に家族全員を殺害されたり。

 聖者として魔女を燃やしたり、魔女として聖者に燃やされたり。

 中国で煉丹術に失敗して水銀中毒になって死んだり。

 チベットで修行に使う幼女を誘拐したことが村人にばれて袋叩きにあって生きたまま鳥葬されたり。

 いろいろと大変な目にあってきた。

 しかし、男の子と過ごした、この子供時代は、数多のエグみのある人生のあとの、穏やかな凪いだ春の海のような穏やかな時間だった。

 幼稚園でのお遊戯が、いつまでも続けばいいと思ったこともある。

 泣いている男の子に優しさのフリークエンシーを送り、彼がそれをスポンジのように吸収する。そんな日々がいつまでも続けばいいと思っていたときもある。

 だがそんな仲の良い小動物のような日々は、思春期が始まることで、もう続かなくなる。

 男の子と女の子、どちらかが、相手に心を開くことを拒絶し始めたのかもしれない。

 思春期を迎え性の知識を得た女の子が、男の子とその母親の性行為の有り様をテレパシーによって知覚してしまい、それに激しい嫌悪感を抱き、その嫌悪感が男の子にテレパシーによって伝わってしまったという、痛ましいテレパシー事故のせいかもしれない。

 あるいは、女の子が人間社会に溶け込んで行くにつれ、少しずつそのエクスプローラー能力が薄れていってしまったのかもしれない。

 なんにせよ、男の子と女の子の間には、もうテレパシーが通じなくなり、それと同時に、それまで密接に交流していたことへの反作用が生じたかのように、二人は急激に疎遠になっていってしまった。

 そして、最終的にはふたりとも、テレパシーのことも、あれだけ仲良くしていたことも、この世界の発する基底フリークエンシーに上書きされて、ぜんぶ忘れてしまった。

 しかしそれはそれでよかったのだ。

 女の子にとって、優等生として、目の前に送られてくる勉強等のタスクに集中し、善悪の境目がしっかりとした世界に生きることは、とても良い休息になったのだ。

 やはり人間、リズムが大切である。

 働いたら休む、頑張ったらリラックスするという、オンとオフのリズムが、仕事における効率性を生む。

 エクスプローラー業とは、沢山の人生を使ってやっとのことで就職し、その後も沢山の人生を使って少しずつ少しずつ仕事を進めていく、息の長い仕事なのかもしれない。そんな仕事をする上では、なおさら、休暇の時間も大切なのかもしれない。

 そんなわけで、しばし仕事のことを全部忘れるのは、耶麻川にとって、とても良い休暇だったと言える。

 自分がエクスプローラーであったこと、早くエクスプローラーにもう一度進化して、あの迷宮攻略を再開しなければいけないこと、それを前前前前前前前前前世で強く心に誓ったこと、そういうことを全部忘れて休むことで、耶麻川はエネルギーをチャージしていたのだ。

 日本の一介の子供として、日々の勉強や、クラスでの友だち関係などに意識を埋没させること、それは耶麻川にとって最高のくつろぎの時間だったのだ。

 温泉のようなものだったのだ。

 耶麻川はちょうどいい温度のお湯の中に深く沈んでいった。

 どこまでも、どこまでも……。

 だが、そんな動きのない、暗く温かい水の中にも、ある日、衝撃が走る。

 休暇の終わりを告げるトランペットのファンファーレのように。

 目覚めの時間を告げるスマートフォンのアラームのように。

 電撃のような衝撃が水の中に走り、眠りに落ちていた小さな心を貫く。

 それは数学の授業中だった。

 机に頬杖をつくこともなく、黒板に書かれた数式を手元のノートに几帳面に書き写していた耶麻川は、ふと何の前触れもなく、全身をびくんと震わせた。足元が抜けた夢を見て、びっくりして跳ね起きたかのように。

 椅子がガタンと音を立てる。

 その音が教室中に響く。

 教室の中、教師と、生徒たちが耶麻川を見る。

 耶麻川はすべての視線を受け止め、見つめ返し、それから自分の手のひらに目を落とし、呟く。

「思い出したし……私は……あの闇の迷宮の罠にかかり、エーテル体に傷を負い、この地の底に堕ちてきたエクスプローラーだったんだし」

 そのときはまだ、闇の迷宮、エーテル体、エクスプローラー、それらの言葉が何を意味しているのか耶麻川自身にもわかっていない。

 早くそれらの意味を思い出す必要があった。

 それらの意味を本当に思い出すには、この世界の基底フリークエンシーと自分との間に解き難く絡まっている縁を、すべて切断し、この世界の重力を振り切る必要があった。

 先ほど空間に走った光の衝撃によって、わずかに覚醒した心の一部分を使い、耶麻川は、覚醒めるための手段を考えた。

 すぐに閃いた。

 それは、これまでの数多の前世で用いてきたのと同じ手法。

 振り子のように、右から左、左から右へと、極端から極端へと心を揺らし、それによって加速度を得て、この世界の基底フリークエンシーからの脱出速度を獲るのだ。

 ブランコを前後に揺らし、揺れが最大限に達した所でジャンプするのだ。

 そんなこと、もちろん危険かもしれない。

 本当はもっと、効率がよくて、安全な方法があるのかもしれない。

 でも、私はこれしかできない。

 この方法しか知らない。

 そういう光の下に生まれてるのだ。

 だから、やってやるし!

 そのような一瞬の閃きを心に焼き付けた耶麻川は、今の自分のありようと真逆の方向に全力で加速すること、すなわち、不良になることを強く決意したのだった。

 *

 情報量の多い夢から醒め、気づくと僕は、うっすらと青白い光に照らされている部室の中で、ソファに横になっていた。

 頭の下は柔らかく温かかい。

 耶麻川に膝枕されていたようだ。

「やっと起きたし。ふみひろ君、十分ぐらい寝てたし。すっきりした?」

 僕はうなずいて、身体を起こし、なんとなくソファから立ち上がった。

 目をこすりながら周囲を見回す。ソファの脇には謎の小さなテントが設営されている。中には誰も居ないようだ。

 ソファの前方の壁際には流し台と、写真の現像機が設置されている。部屋の奥の壁にはロッカーと、ギターや碁盤の置かれた棚がある。

 天井の蛍光灯は真っ暗だ。交換していないから、たぶんスイッチを入れても点かないだろう。

 しかし部室内はうっすらと青白く照らされている。その光源、つまり耶麻川に向かって、僕は先程まで見ていた夢の内容を伝えた。

 夢。

 それは、廊下でのテレパシーによって僕の脳に伝わっていた情報の未処理分が、夢という形で処理され、意識化されものだろう。そんなことを耶麻川は言った。僕はうなずいた。

「なるほど……そういうことか。でも、それにしてもテレパシーって、そんな……いや……まぁ、いいか。別に、そういうのも」

「そうだし。それでいいんだし」耶麻川は微笑んだようだった。

 さっきまで僕の中にあった、テレパシーという言葉への拒否感は、いつの間にかほぼ無くなっていた。

 心の中にあることが他の人に伝わっていくこと。

 それは十分、あり得ることのように思えた。

 また、テレパシーだけでなく、エクスプローラーという存在、そういったものが存在することも、ありえることのように思われた。

 ちょっと前まで僕がいた場所、扉一枚隔てた向こう、学校の部室棟の廊下では、テレパシーとか、そんなファンタジックなこと、絶対、ありえないことだと思えていたのに。

 よく外国に行ってしばらく暮らすと、外国に漂っている外国の雰囲気に影響されて、自分の性格や考え方に深い部分で変化が起きるという話があるが、それと同じような原理が働いているのかもしれない。

 それだけ外部の空間とは異質な雰囲気が、この部室に満ちているのかもしれない。

 青白いLEDのような光にうっすらと照らされているこの五号室の中を見渡してみても、何か特別な設備があるわけではない。

 いや、写真の現像機や、ギターや碁盤や、謎のテントなど、確かに珍しい器具が置かれている部室ではあるけど、そういう小道具とは無関係に、どういう原理でかはわからないが、とにかく何か面白いことが起こりそうな雰囲気が、この部屋の中では感じられるのだ。

 こんなに簡単に、自分の考え方がコロコロ変わることに、僕はちょっとの怖さと、沢山の解放感を感じた。

 解放感を感じたのは、自分の考え方、世界観は、こんなに簡単に、取替可能だとわかったからだ。そして、ちょっとの怖さも、次第に消えていった。考え方、世界観が変わっても、やっぱり僕は僕であって、中心的な部分は何も変わっていない感じがしたからだ。

 僕は持っているスマートフォンは古いヤツだからよくわからないけど、最近のスマートフォンは、好きなだけ、いろいろなアプリケーションを入れたり消したりできるらしい。

 でも、どれだけ沢山のアプリケーションを入れたり消したりしても、スマートフォン自体が変わるわけじゃない。それと同じってことだ。

 だから、どんな考えがあってもいい。

 どんな世界観があってもいい。その中で、僕に似合うもの、僕にとって役立つものを、僕の中にどんどん入れていけばいい。

 そう思った。

 そして、僕はこの部屋が発している雰囲気と、それが自然に僕の中に呼び起こす『テレパシーはアリだ』という思考回路を好ましく思っていた。

 だからもっと吸収しようとした。クリスマスの夜のような、ウキウキしたファンタジックな空気を百倍ぐらいに煮詰めたような、この部屋の中の雰囲気を。

 僕は深く息を吸い込んで、その雰囲気を吸収した。

 すると、その喜ばしい雰囲気は、僕の心の中の隅の方に、圧縮して折りたたまれていた記憶を広げ、目に見えるようにしていった。

 それによって、僕は数カ月前にこの部室であったことを、だんだんはっきりと思い出していく。

 そうだった。

 いつか僕はこの部室でエクスプローラーたちと会った。

 謎のマスターとミーニャ。

 そして、ゲート。

 僕は驚きに息を呑む。

 ソファで耶麻川が発する青い光は、どんどん強くなっていく。

 蛍光灯の切れているこの部屋中が青く照らされている。

 しかもその不思議な光はどんどん眩しくなってきている。

 熱くもない、透明な青い光。

 なにごとだ?

「ふみひろ君もこのフリークエンシーに慣れてきたみたいだし、本気を出して波動を上げていってみるし」

 ふいにそう言ってソファから立ち上がった耶麻川を見ると、彼女はこれまで見たことのない表情をしていた。

 目が半分閉じられていて、この世界のものを見ているような、何か違うものに意識の焦点を当てているような、あるいはその両方を静かに見つめているような、普段の生活ではあまり誰もしない視線を僕や空間に向けている。

 なにかただ事でないことが起ころうとしているのか?

 と、耶麻川の様態を観察している僕の目の前で、耶麻川の呼吸はどんどん、深く、静かになっていき、あるとき急に、彼女が発する光にダイナミックな変化が生じた。

 下腹部にひときわ強い光源が生じたかと思うと、その光がお腹、胸、喉、頭、頭のてっぺんへと、ゆらめく青白い光の層として立ち昇っていったのだ。

 そしてその光の層は頭頂に達すると、そこから頭上に噴水のように広がって、それから重力に引かれるように折りたたまれて下降し、オーロラの光の膜のように耶麻川の周りを流れ落ち、足元に達すると、そこで再び、上昇に転じ、下腹部から吸収され、頭頂へと昇っていった。

 そのような、光の放射と吸収のサイクルが完成し、それは光の繭のように耶麻川を球状に包み込んでいった。その光の繭はまるで生き物のように静かに脈を打っていた。

 まもなくその光の繭の形状が安定すると、耶麻川は自分の体から生じる光の奔流を、恍惚とした表情で眺めた。

「き、綺麗……私の『振動するエネルギーの体』……ついにここまで回復していたし」

 一方、僕はと言うと、とても驚いていた。

 こんなもの十六年の人生で見たことも聞いたこともなかった。

 しかもこの光はただ光ってるだけではなかった。

 何かこう、僕にダイレクトに強い影響を与える力を持っていた。

 耶麻川から溢れだす光が、僕の体と心の中にまで染み通ってきた。

 さきほどの部室外でのテレパシー、それが持つ僕の心への浸透力を5ポイントだとすると、この光は100ポイントぐらいの強さを持っていた。

 僕の背筋を下から上へと、電流のような、磁気のような、チリチリとした感覚が駆け上っていく。

 全身に鳥肌が立つ。

 その感覚はとても好きなあの映画を初めて観たときの感動と同じだ。これはあの音楽を初めて聴いたとき、あの景色を初めて観たとき、そのとき感じた感動と同じだ。

「なんだこれ? 僕は夢を見てるのか」

 僕は後ずさって、背中をドアにぶつけた。

 光りに包まれ耶麻川は言った。

「これも現実なんだし。現実の、より高い様相なんだし。存在は光であるということ。存在はふわっとしてるってこと。存在は空であり、なんとも言えないということ」

 僕の背後のドア、その鉄の冷たい感触が、手のひらを通じて僕に伝わってくる。

 その冷たさが、波として、波動として、僕の心の中に浮かんでいる。

 波。そして光。

 僕は気づいた。

 心に認識されるもの、そのすべてが波だ。

 存在の中にある、ありとあらゆるものが波の振動だ。

 さっきまで硬い物質だと思っていたすべて、床、ドア、自分の体、肉も、骨も、歯も、脳も、自分の思考も感情も、この僕という感覚も、波のパターンなんだ。この気付き、この考えも波で出来てるのだ。

 波とそれがたゆたう光のフィールドだけが存在しているのだ。

 そのフィールドの中にすべてが波として浮かんでは消え、浮かんでは消えしていて、そのフィールド自体も波で出来ているのだ。

 心の内と外の区別なんてものは無かった。

 波で出来たフィールドだけがあった。

 目に見えるすべてのものも、感じられるすべてのものも、感情も思考も、過去も現在も未来も、全部このフィールド上に存在するエネルギーのパターンなんだ。

 この認識が、この気付きが、僕を激しく混乱させる。

 そもそも、僕って、なんだ?

 僕という感覚、それもフィールド上で波打つエネルギーパターンの一つなのか……そしてそのパターンは他のあらゆるパターンと境目のない一つのものだというのか。

 その境目のない一つのものは、いつから存在しているのか……もしかして永遠にずっとあるんじゃないのか。

 なんで、どうして、これがあるのか……ひとつの、すべてなるものが、永遠に、無限に存在し続けているだなんて、それこそがこの僕だなんて。

 それこそが。あらゆる人の本質だなんて。

 それはちょっと、ヤバくないか。

 なんだか凄すぎて、ヤバくないか。

 こ、怖くなってきたぞ……僕って実は、いままで思っていたような、他の人やモノから独立して存在するような、輪郭のカチッとしたものじゃなかったのかも……この宇宙って、僕の思ってたような、理路整然としたものではなかったのかも。

 もっともっと、とてつもなく圧倒的に凄い、想像を超えた、何かもうとてつもなく圧倒的に凄いものだったのかもしれない。

「うぐ。すごく怖いんだけど」

「あ、それはそうかも。ごめんだし」

 耶麻川は素直に謝った。

「この部屋は、誰かがかけた魔法によって、高いフリークエンシーに維持されてるし。そんな空間で、一度は墜落しその後やっとのことで目覚めたばかりとは言え、腐ってもエクスプローラーであるこの私が、全力で『振動するエネルギーの体』を出してみたわけだし。その相乗効果で、この部屋のフリークエンシーが跳ね上がっちゃったみたいだし。この世界に通常許されてる限界をはるかに超えて」

「とにかく、フリークエンシーとか、よくわからないけど、怖いから引っ込めて欲しい」

「ふみひろ君のフリークエンシーまでも、バーンと上がっちゃったのね。私はエクスプローラーだからぜんぜん平気でむしろ楽しいけど、一般の人が、いきなりこの高さのフリークエンシーを味わうと、かなり怖いと思うし。怖い?」

「うん。怖い」足ががくがくする。

「つかまるといいし」耶麻川は手を伸ばして近づいてきた。光源が近づいてきて、僕は余計に怖くなったが、背後はドアだ。逃げられない。こうなったらもう前に出るしか無い。

 僕は覚悟して耶麻川の差し出す光る手に掴まったが、急流に飲まれて流されて自分がバラバラになるような感覚は強まる一方だった。

「かわいそうだし。世界認識の急激なシフトによって、足場が崩壊するような怖さを味わってるみたいだし。でもその怖いという感情も、結局はただのフリークエンシーなんだし。どんな振動も、ただ見てたら、そのうち滑らかになって、調和が取れてくるし。わかる?」

「わかんないよ。パニックになりそう。映画とかで人が過呼吸になるシーンがあるけど、あれって大げさな表現じゃないんだな。こういうときになるんだよ。人は過呼吸に……」

「と、とりあえずこっちに来るといいし。ほら、ソファに座って、深呼吸するし」

 耶麻川は僕をソファに座らせると、自分も隣に腰を下ろした。

 しかし、なんというか、物質に座ってる感じが薄い。

 光の隣で光の上に光が座ってる感じがする。

 しかもこの感覚も、頭の中での独白も、恐怖の感情も、何もかも、光で出来た波なのである。

「ど、どうしよう。何かが変になっちゃいそう」

「変というより、存在が本来持っている認識能力が回復しつつあるだけだし。このまま放っておいても実害はないはずだし。でももし普通の気分に戻りたければ、何か日常的、現実的、肉体的なことを考えるといいし」

 こんな状態で日常的なことを喋れと言われても、日常ってなんだったっけ……そうそう、朝が来て、夜になり、また朝が来るという時間のサイクルが日常だ。

 そのサイクル全体もまた一つの光でできた波のパターンであり、その光のパターンは、すべてのものが織りなす壮大な光の織物の一部にして全体であって……と、凄く画期的な何かを考えていると、耶麻川に肩を揺さぶられた。

「ちょっと! ダメだし! もっと、何か波動が下がるようなことを考えたらいいって言ってるし!」

「わかんないよ。そんなこと急に言われても……」

「それじゃ私が例を出してあげるし。ふみひろ君ってさ、ファーストフードとか好き?」

「え? まぁ、たまに食べるぐらいかな」

「ポテトとコーラが美味しいよね」

「あぁ……そうだね。あの油ぎったものを甘い飲み物で流し込むと、いかにも身体に悪いことをしている、みたいな感じがして、凄くいいよね」

「他には……ふみひろ君って、インターネットのニュースとか好き?」

「え? まぁ、たまに読むぐらいかな」

「陰惨な事件や戦争の話を読むと面白いよね」

「あぁ……そうだね。僕のスマホは古いから、記事を読むのが大変なんだけど、何か悲惨な事件や、誰ががやった悪事の話を読むと、いかにも心に悪いものを摂取している、みたいな感じがして、なかなかいいよね」

「そう! そういうことだし。そういうジャンクな風味のあることについて喋ったり考えたりするといいし」

 相変わらず光に満ちたフィールドの中で、僕は溺れるものが掴む藁のように耶麻川の手につかまりながら、この前食べたラーメンのことや、クラスの生徒たちのゴシップについての会話を彼女と交わした。

 誰と誰が付き合っている。

 誰と誰の性行為の進行状況がここまで達している。

 などなどという噂話をした。

 耶麻川は女子だからか、意外にその種の噂話に詳しかった。

 そのおかげだろうか、だんだん意識が普段使いの、いつもの意識に戻ってきた。

 僕はソファで大きくため息をついた。

「はあ……た、助かった……」

 いつしか世界は見慣れたいつもの固さを取り戻していた。

 床は床として、硬い物質として、感じられるようになっていた。

 それとともに、僕に、僕という、まとまりの感覚が戻ってきた。

 隣に座っている耶麻川の『振動するエネルギーの体』とやらも、少しずつその光度を落とし始めた。

 光量調整付きのLEDランプ、そのツマミをゆっくりOFFの方に回していくように。

 耶麻川が暗くなるのに連動し、室内もスムーズに暗くなっていった。

 まもなく完全に暗くなった部屋の中で、僕は全身の力を抜き、もう一度、大きくため息をついた。