一時間後、僕は真っ暗な部室棟に向かっていた。

 昼間の部室棟は、西日が木造の廊下に満ちていて、何か懐かしいような落ち着く雰囲気を放っていた。

 しかし今は真夜中だ。

 一歩歩くごとに木造廊下がきしむ。とても暗く、かなり怖い。

「…………」

 ふと見ると、窓の外では、風に揺れる木々の上に、冬の星々が輝いていた。

 オリオン座とか、冬の大三角形とか、そういうの。

 光を通さない真っ黒な紙を、針でつついて沢山の穴を開け、その点を通して向こう側の光が差し込んで来ているような。

 そんな星の光と、地表に広がる街の灯が混ざりあった窓明かりに照らされ、誰かが部室棟の壁に寄りかかって立っている。

 スカートの丈を短くした制服を着て、偉そうに腰に手を当てているその感じ、耶麻川だ。

 首に暖かそうなマフラーを巻いている。

 近づくと、少しむくれているような、不機嫌そうな、いつもの彼女の横顔が見える。闇に溶け込むような黒髪が美しい。

「それにしても、なんで無関係な同級生のためにこんなところに来たんだろう」

 たとえ幼稚園のころからの知り合いだからといって、僕と耶麻川の間に特別な何かがあるわけではないのに。

「ううん、ふみひろくんと私の間には特別な何かがあるし。実際」

 耶麻川が壁にもたれたまま口を開いた。まるで僕の心を読んだかのように。

「……そうだろうか? ただ近所に住んでただけだろ。幼稚園も一緒だったから、昔から何かと交流があったけど」

「それが凄いことなんだし。私は普通の人間とは違うんだし。フリークエンシーがあんなにも違う者同士、よくあんなに仲良くできたものだし」

「ぜんぜん、言ってる意味がわからない」

「鍵は持ってきたの?」

「うん。ここにある。渡そうか?」

「ううん。ふみひろくんにお願いしたいのは、私が向こうに行ってしまったあとで、五号室に鍵を掛けて欲しいってことだし。……行こう。まずは五号室に」

 耶麻川は壁から身を離すと、部室棟の奥へと足を進めた。昼間、その室内で性行為が行われていた四号室の前を通り過ぎ、廊下の突き当たり、五号室の前で立ち止まった。

 そして耶麻川は自分の首からマフラーを外すと、僕の首に巻きつけた。

「これ、あげるし」

 意表を突かれ、僕はされるがままになっていた。

 まもなく首筋が暖かくなった。

「…………」

 目の前の耶麻川の瞳に、僕の背後、廊下の窓から差し込む星の明かりが反射している。

 吸い込まれそうだ。

 耶麻川は言った。

「私はエクスプローラーとして目覚めつつある。だから、私の言葉には、宇宙のあらゆるものを始動させる性質が備わりつつある。そういう力でムリヤリふみひろくんをここまで引き寄せてしまったなら、謝るし」

 僕は意味の分からないその言葉を聞き流しながら、何ヶ月か前に、このドアを蹴って、足の指の骨が折れたことを思い出していた。

 幻の痛みのような感覚が、一瞬つま先に走る。

 ……そういえば、この指、どうやって治ったんだっけ?

 耶麻川は僕の首のマフラーの巻き方を微調整しながら言った。

「でも……もしかしたら、ふみひろくんは、私を引き止めに来たのかもしれないし」

「引き止める? 耶麻川を? 何から?」

「私がエクスプローラーで、目覚めたエクスプローラーは旅立つものだし。そのことに無意識で気づいているふみひろくんは、私の旅立ちを引き止めに来たんだし。違う?」

「……ぜんぜん意味がわからないな。仮に耶麻川が、これからどこかに旅立つとして、なぜ僕がそれを引き止めなきゃいけないのさ」

「それはきっと、ふみひろくんが私と一緒にいたいからだし」

「なんで?」

「それは私たちが特別な関係だからだし」

 耶麻川はマフラーを巻き終えると、僕の頭を両手で包み、ゆっくりと引き寄せた。額と額がこつんと音を立ててぶつかった。

「…………」

 互いの熱を確かめるかのような時間が流れていく。

 熱と、熱以外の何かの情報が、無音のうちにやりとりされていく。

 なんだろう、これは。

 僕から耶麻川に、何かの気持ちが伝わっていく。

 それは耶麻川の心の中に染み渡り、耶麻川の気持ちと共鳴し、それは反響して、僕の心へと返ってくる。その暖かなさざなみのような振動のやりとりが僕の胸を満たす。

 呼吸が深くなり、全身の緊張が解けていく。

 弾ける泡のような安らぎが全身の細胞の奥深くにまで広がっていく。数十分前に、電話越しに慰められたときの気持ちよさを、数十倍に増幅したような。

 もっとこの気持ちよさを求めたいという衝動に逆らって、僕は耶麻川の肩を押し、額を離した。

「何? 今のこれ」

「テレパシーだし。懐かしいし」

「テレパシーって。そんな」

 僕は鼻で笑った。

「むかむかっ。自分で今、体験したばかりのことを馬鹿にするってことは、自分の体験が馬鹿だってことなんだし」

 僕は耶麻川の理屈っぽいがよく意味のわからない言葉を無視し、引き続き鼻で笑った。

「耶麻川は本当に馬鹿だな。テレパシーなんてあるもんか。頭がおかしいんじゃないか。もしかして、あの部室内で何か薬物を使ってるのか?」

 耶麻川は再び僕の頭を両手で引き寄せると、がっと音がする勢いで自分の額に打ち付けた。かなりの痛みとともに、また精神的な情報がやりとりされるのが感じられた。

 ……なんだろうこれは。

 なんだかトゲトゲした感情が伝わってくる。

「これがテレパシーでなくてなんだって言うし!」

「なに怒ってんだよ。常識で考えろよ。テレパシーなんてあるわけないだろ。つまり……言葉を使うことなく精神的な情報がやりとりされているってだけのことだろ」

「それをテレパシーって言うし! 私とふみひろくんの間には、昔からこんな通信チャンネルが開いてたんだし! なぜかこの世でふみひろくんにだけ、私のこの能力が通じたんだし。だから私たちの関係は特別なんだし! こういう気持ちいい行為ができる私という相手をふみひろくんが手放したがらないのも当然の道理だし!」

「特別な関係とか、夢を見過ぎなんじゃないか。そういう少女マンガみたいなのが好きだったなんて、なんだか見損なったよ」

「さっきからふみひろくんが私の言うこと否定してばかりだから、話がぜんぜん前に進まないし! いらいらするし! いい加減にするし!」

「じゃあ百歩譲って、僕と耶麻川の間にはテレパシーのようなものが通じていたとしよう。しかも昔から。昔からっていつから?」

「ふみひろくんと私が幼稚園で出会ってから、十歳ぐらいになるまで、こんな調子で頭をくっつけるとテレパシーが通じてたんだし。私も今日の夜になるまで忘れてたんだし。このテレパシー能力のこと」

「僕は今、十六歳だ。どうして、たった六年前のことを忘れてるんだ。耶麻川とテレパシーが通じるだなんて、そんな画期的なことが本当にあったんなら忘れるわけないだろ」

「現に忘れたんだから、しかたがないし。私もふみひろくんも、このテレパシーのこと、完全に忘れてたんだし! でも私は思い出したんだし!」

「僕は何も思い出せない。夢でも見てるんじゃないか? 病院に連れて行ってあげようか?」

 耶麻川は両手を握りしめ、怒りをどこかに強くぶつけたいという仕草を見せた。だがふいにため息をついて力を抜いた。

 そして何かこう、専門家の余裕を感じさせる笑みを浮かべ、上から目線な、専門用語を多用した説明を始めた。

「ふん。まぁ……ふみひろくんが、テレパシー通信というエクスプローラー的なコミュニケーションの記憶を完全に忘れているのも、それは仕方のないことではあるし。一般人には仕方ないし」

「な、なんだよ。一般人って。お前は何様のつもりだ。不良様か」

 耶麻川は無視して説明を続けた。

「この世界の基底フリークエンシーと、エクスプローラーのフリークエンシーは相容れないものだし。テレパシー通信、そんなものが存在したら、この世界の閉鎖的な想念形態が崩れてしまうし。だからそれは、今のところ、この世に根付くことはできない。ひととき、何らかの要因で、この世の外のフリークエンシーがこの世界に流入しても、それはまだ、この世界に定着することはできない。だからテレパシーみたいな画期的なことは、どうしても、必ず、忘れてしまうものなんだし。それがどれだけ気持ちい、心温まる体験だったとしても。でもね……私はこの世のフリークエンシーに飲まれながらも、とうとう、やっと、思い出したんだし!」

 耶麻川は説明の途中で勝手に盛り上がり、両手を振り回し始めた。僕は肩をすくめて、自分の二の腕をさすった。

「風邪を引く前に早く帰りたいんだけど。どんどん寒くなってきてないか?」

「目覚めたんだし、思い出したんだし。今夜、ついに、完全に!」

「だから、何にだよ」

「テレパシーで教えてあげるし」

 耶麻川は額にかかる髪を分けるた。

 僕は馬鹿らしいと思いながら、そしてかなりドキドキしながら、慎重に、耶麻川の額に自分の額を近づけていった。こつんと音がした。至近距離で目があった。

「……目を閉じるし」

 耶麻川は目を閉じた。僕もそれを追った。

 まもなく鮮やかなイメージが、僕の心に流れ込んできた。

 セピア色のフィルターがかかったような、懐かしい幼稚園が心に浮かぶ。その幼稚園の一角で、お遊戯をしている男の子がいる。

 無邪気な笑顔が可愛い。

 その男の子を幼稚園に送り迎えする母親は、美人だったが、何か挙動がおかしい。

 幼稚園の職員や他の母親に話しかけられると、自分の小さな子どもの陰に隠れる素振りを見せる。

 何かがおかしい。

 だが、その母親の子供は、悩みなど何もない可愛い笑みを浮かべている。他の子どもたちと仲良く手をつなぎ、皆とお遊戯をする。

「わーい。楽しいなー」

 だがそんなある日、踊る子どもたちの輪から離れた幼稚園の隅に、ひとりで体育座りをしている女の子がいた。

 男の子は、踊りの輪から離れると、体育座りの女の子に声をかけた。

「なんで踊らないの? お腹痛いの?」

 女の子は幼稚園児とは思えない大人びた口調で、幼稚園児とは思えない難しいことを言った。

「この世界と一緒に振動したくないし。そんなことしたらこの世界とくっついちゃうし」

 男の子は理解できないところを無視しながら、このまえ先生に教わったことを女の子に伝えた。

「決まりは守らないといけないんだよ」

「ふん。いけない、いけなくない、そんなことを本当だと思ったら、馬鹿になっちゃうし。ひとつのものが、ふたつに分かれることができるなんて、そんなことを本当だと思ったら、馬鹿になって眠っちゃうし」

 男の子は理解できないことを無視し、自分の欲求を女の子にぶつけた。

「一緒に踊ろうよ。楽しいよ」

 男の子はしつこく女の子を誘い、手を伸ばした。

 それで女の子は、しぶしぶ男の子の手をとった。

 瞬間、彼と彼女の間に何か電流のようなものが流れた。

「…………」

 以来、女の子は少しずつ、幼稚園では踊りに加わるようになり、周りの人々の言いつけを守るようになっていった。手を繋いで踊るうちに、男の子の普通さが、女の子に移動していったかのようだった。

 女の子は小学校にあがると、より一層、教師の言うことを聞くようになり、成績優秀な優等生になっていった。

 一方、男の子にも変化が現れた。女の子と仲良くなって以来、周りの人々の言いつけを無視するようになっていった。それは女の子がたまに話す浮世離れした言葉が、男の子の心に次々インストールされていったことの副作用のようだった。

 まもなく幼稚園で男の子は踊りの輪に加わるのをやめた。小学校に上がると、宿題をやりたくないときはやらず、学校に行きたくないときは行かないというライフスタイルを送るようになった。

 最終的に男の子は、何をどうしても、周囲の人間に馴染めなくなった。ピアノの中で、一つだけ音程がズレてしまった鍵盤のように、男の子が発する雰囲気は、自然に周りから浮くようになった。

 二つの星が重力によって引かれ合い、エネルギーの交換が行われ、それによって互いの軌道がそれまでと完全に変わってしまう、そんな現象が二人の間に生じたのだった。それは、すべてのエクスプローラーが多かれ少なかれ持っているテレパシー能力の副作用だった。

 だとしてもいつの間に、耶麻川はそんなエクスプローラーなんて存在になったんだ?

 その疑問への返答もテレパシーによって即座に伝わってきた。僕はその圧縮された情報と映像を理解不可能なまま意識に受け入れた。

 なんでも耶麻川は前世で、エクスプローラーへと進化したらしい。

 前世で当初、耶麻川は通常の人間だったが、とある秘密の寺院でさまざまな古代の秘術を修め、それにより念願のエクスプローラーへと進化したらしい。

 しかしエクスプローラーとして『闇の大迷宮』に旅立った耶麻川は、あっさり迷宮の罠に引っかかった。迷宮の罠は、前世の耶麻川を、色欲地獄のごとき領域へと引き込んだ。

 輝くような金髪を持つ前世の耶麻川の肉体は、迷宮の奥深くに存在する、数億の歯車とコードによって構成された機械的地獄領域に絡め取られ、その一部と化した。

 耶麻川の第一回目の迷宮攻略は、こうして一瞬で失敗に終わった。

 だが前世の耶麻川は、その機械的色欲地獄に完全吸収される前に肉体を捨て、意識のみを次元降下させた。逃げる耶麻川の意識を追って、迷宮の機械的地獄領域から、闇のコードが伸びてきた。

 耶麻川はその蛇のようなコードから逃れながら、自らの意識を宿すことができそうな対象を探した。とある赤子が見つかった。その赤子は生まれてすぐ母親によって橋の下に捨てられ、やがて息を引き取った。耶麻川はその赤子に自らの意識を宿らせた。赤子は呼吸を気合で再開し、いつまでも橋の下で泣き続けた。

「そんなわけで私は気づくと、橋の下で泣いてたし。そんな私をまりいちゃんが見つけて拾って育ててくれたんだし」

「まりいちゃん?」

「私のママ……私の育ての親だし。いつか会ったらよろしく頼むし」

 五号室のドアの前で、耶麻川は僕の肩を押して額を離した。

「そしてふみひろくん、君が安定と安心のフリークエンシーを、幼稚園で私にくれたから、私は迷宮で負った心の傷を、ゆっくり治すことができたんだし。ありがとうだし」

「いやあ」

「そんないいものをくれたふみひろくんに、私は世捨て人のフリークエンシーを与えてしまったんだし。前世の修行で私が身につけてしまった孤立のフリークエンシーが、ふみひろくんに移動して、君はよくわからない変な人になってしまったんだし。ごめんだし」

「へ、変な人って。失礼な」

 悪口に対してはちゃんとひとつずつ言い返していきたい。僕は耶麻川の悪いところを探そうとした。だが頭がぼーっとして、なかなか悪口が思いつかない。それどころか意識が朦朧とする。急激な眠気に襲われつつあった。テレパシーの副作用じゃないのか。立ってられない。

「ちょ、ちょっと、しっかりするし!」

 ちょっとだけ休もう。

 僕は耶麻川に寄りかかった。

「もう、重いし!」

 僕のズボンのポケットに耶麻川の手が入ってきた。その手はポケットの奥を探ると、そこで何かをつかみとった。銀色の鍵だ。指先で輝いているそれを、耶麻川は五号室のドアノブに後ろ手で差し込んだ。

 二人分の体重に押され、五号室のドアが開いた。

 僕と耶麻川は重力に引かれ、真っ暗な部屋の中に倒れこんでいった。倒れ込みながら、耶麻川の身体から、青い光が立ち上り始めた。