夏が終わった。文化祭で僕はクラスの出し物をわずかに手伝った。

 やがて冬になった。たまに雪が降った。僕は相変わらず不登校気味だった。耶麻川はというと、優等生をやめて、本当に不良になった。

「…………」

 耶麻川は旧校舎の部室棟の四号室でコンピューター部の部長をしていた。

 四号室には地獄のような黒い噂が飛び交っていた。

 そこには近隣一体から不良が集まり、内部では飲酒や喫煙や、カジュアルな性行為が行われているという。そしてそんな場に部長として君臨するのが耶麻川であるという。

「……カジュアルな性行為? そんなもの信じないぞ」

 僕は頭を振って嫌な想像を追い出すと、耶麻川を横目で眺めた。たまに教室で見る耶麻川は、制服の着こなしが以前より垢抜けていた。いつもの不機嫌そうなふくれっ面は、かつてより大人びて見えた。

 三つ編みから解き放たれた黒髪は、本来の艶やかさを輝かせていた。

 ある日、掃除をサボって帰ろうとすると、雑巾を持った耶麻川に呼び止められた。

「ちょっとふみひろくん」

「何?」

 僕は手首を引かれ、教室の隅に連れて行かれた。

「ズルはやめろって言ってるし」

「う、うるさいなぁ。関係ないだろ。あっちに行けよ、闇世界の住人」

「親切心で言ってあげてるのに、ムカつく……じゃあもう、いいし! 私も完全に勝手にするし!」

 耶麻川は濡れ雑巾を僕に投げつけると教室から出て行った。

「…………」

 僕は耶麻川へのあてつけのように、黙々と掃除を始めた。

 小一時間ほどして掃除が終わると、耶麻川の友人に、耶麻川の忘れ物の弁当箱を四号室に届けてくれないかと頼まれた。

 怖くて自分では不良の溜まり場の四号室になんて行けないという。

 了解した僕は耶麻川の弁当箱片手に、数ヶ月ぶりに旧校舎へと向かった。

 部室棟の廊下では、西日がホコリをきらめかせている。窓の外ではちらほらと雪が降っている。

 僕は手前から四つ目のドアを勢い良く開けた。

「きゃっ!」

「うおっ」

 耶麻川と見知らぬ男子生徒が薄暗い室内にいて、二人は驚いた顔で床に敷かれた体育マットの上からこっちを見上げた。体育マットの上には耶麻川の下着が転がっている。明らかに性行為の最中である。なぜか僕が謝っていた。

「ごめん、すぐ出て行きます」

 言葉通り、すぐにドアを閉めて、部室棟から立ち去った。

 心臓がバクバクしている。

 嫌なものを見てしまった。早く遠ざかろう。

 だが、新校舎への連絡口まで来た所で、四号室にいた男が走って追いかけてきた。急いでいるのか、男の靴紐は半分解けており、制服のシャツの胸元がはだけている。

 僕よりずっと背が高く、迫力があった。

「ちょっと待てよ、お前」

 僕は立ち止まった。

 男は強い力で僕の胸ぐらを摑むと壁に押し付けた。

「お前、誰にも言うなよな」

 僕はそもそもの要件を伝えた。

「あ、そうだ、忘れてたけど、これ、耶麻川の忘れ物だって。届けといてください」

 男に弁当箱を渡そうとすると、男は僕の腹を膝で蹴った。

「馬鹿にしてるのか? お前」

 僕は涙目で思った。

 わからない。してるかもしれない。

 だとしたらなぜ人は僕に馬鹿にされる必要があるんだろう。それは根本的に気づいていないからだ。

 何に気づいていないのか?

 それは言葉では言えないし、考えることもできない。難しいことだから。

 でも本当は、馬鹿にしているわけでもない。

 ただ、誰ともなかなか話が通じないなと、ずっと諦めている。

 誰とも話が通じないのだ。

 生まれてきてからずっと。

 深い、深い、深いレベルで、僕がわかっていることを、誰もわかっていない。だから話が通じない。

 いいや……もしかしたら、話は通じるのかもしれない。

 僕が勝手に交流を諦めているだけで。

 この人だって、もしかしたら本当は、僕がうっすらとわかっていることについて、心のどこかで、わかっているかもしれない。

 その可能性はある。

「…………」

 僕は男の目をじっと見つめた。

 この人が何を考えているのか探るために……。

 と、そこでぜんぜん関係ないことに気がついた。

 男は他校の制服を着ている。

「なんで北高の生徒がここに……すごいよな、よくよその学校に忍び込めるな。すごい度胸だな」

 感心した。

「な、なんだよ。お前に関係ないだろ」

「別に僕は誰に喋るつもりもない。あぁいうことは秘めておくものだからな……ばしっ!」

 僕はふいをつき、男の腹を思い切り叩いた。

 男の腹は固く、まるで痛そうではなかったが、お返しはお返しだ。

 ちょっと精神的にすっきりした。

「それに……あんなことぐらい、僕だっていつもしてるからな。珍しくもない」

「本当かよお前、見かけによらない奴だな。誰とだよ? まさかお前も耶麻川とか?」

「違うよ、決まってるだろ、お母さんとだよ」

 男は一瞬、あっけにとられた顔をしてから、ふいに腹を抱えて爆笑した。

「……え? あれ?」

 冗談を言ったつもりはないのに、なんでそんなに笑うんだろう。僕は何かおかしいことを言ったのか。

 まさか……母とするのは普通じゃないのか?

 恐ろしい予感にかられて顔面蒼白になっている僕の肩を男は叩いた。

「お前、最高だな。センスが冴えてるよな。良かったら四号室に遊びに来いよ。さっきは蹴って悪い」

 もしかして……普通は母とはしないものなのか……。

 僕は母との関係に関する洞察から目をそらすため、男に気になることを聞いた。

 君は耶麻川の彼氏なのかと。

 男は、いや違う、俺はグループのひとりで、別に耶麻川と付き合っているわけではないが、今日は部室に二人しかいなかったので、なんとなくそういう流れになったと言った。あいつはめちゃくちゃどエロい、自分から誘ってくると言った。

「うぐ……そうか……凄いな……」

 僕はさまざまな胸の痛みを隠しながら、少し立ち話をして帰宅した。

 いつもどおり母と夕食を作った。食後、母に、性に関することについて問いただした。

 他の人とそんな話をしたことなかったし、ずっとテレビもネットも興味なかったから気づかなかったけど……。

「もしかして母親と性行為をするのは、常識から見て、凄くおかしいことなのでは?」と。

「実際、今までも違和感を感じていた気がする」と。

 母は泣き出した。

「うわーん、バレちゃった。ごめーん、ふみひろ」

「…………」

「でもでも、自分の子供だから、別に好きにしたっていいんだもん。私、ふみひろのこと愛してるんだもん。自分の恋人にするために産んだんだもん。他の男の人は怖いし、一生、喋りたくもないから、知らない男の精子をネットで買って、人工授精で処女懐胎したんだもん」

「…………」

「な、なによ! それの何がいけないっていうのよ! 私とするのが変だってことに、ずっと気づかなかったふみひろだって悪いんだからね! 同罪よ!」

「…………」

 僕は顔をしかめながら思った。

 母はこういう人間だ。

 しかたない。

 そしてこんな母のことが、僕はそんなに嫌いではなかった。

「はあ……まぁいいや」

「本当? 良かったふみひろ。好き好き大好き! 永遠に愛してる!」

「ありがとう。でももう二度と一緒にお風呂に入ったり、一緒に寝たりするつもりはないからな!」

 母は泣きながら自室に閉じこもった。

「私ほどの綺麗な女の人なんて他にいないんだからね! 学校の子なんて、可愛くないし、醜いし、人間以下なんだからね!」

 そんな捨て台詞を残して。

「…………」

 僕は台所で夕食の片付けをした。

 今夜はご飯を残さずに食べることができていた。

 食器を洗ってから、耶麻川の弁当箱を綺麗に洗った。どこか遠くで猫の鳴き声がした。

 深夜、僕は自室の机に向かって頬杖を突いていた。

 もう寝ようと思っていたので部屋は暗い。暖房は消しているので少し寒い。

「…………」

 机に頬杖をついて、僕は少しまどろみながら思う。

 カーテンの隙間から差し込む星の光。

 さまざまな星座。

 光のパターン。

 それがやがて形を変え、家になり、弁当箱になり、母になり、僕になり、耶麻川になっていく。

「…………」

 耶麻川は何を考えているんだろう?

 優等生から不良への急激なシフト。

 優等生という善と、不良という悪、その両極を知ろうとでもいうのか。

 わからないけど、僕は耶麻川に心惹かれていた。もしかしたらずっと前から。

 その耶麻川が、いろいろな男たちと、カジュアルな性行為をしている。僕はその図を想像し、そのイメージが引き起こす苦痛を味わった。

 苦痛は苦しかった。

 だがもし僕がエクスプローラーなら、この苦しみは乗り越えられる。

 しかし僕はエクスプローラーではない。

 そもそもエクスプローラーって。

 なんなんだ?

 猫のことがふと頭に思い浮かぶ。

 とても綺麗な猫。

 なぜ猫?

 それはきっと窓の外で、さっきからずっと猫が鳴いているからだ。

 寒いのだろう。

 今日はちらほら雪が降っている。

 ふと気配を感じてカーテンを開けると、窓の向こうに、ひげに雪を載せた猫がいた。猫は爪で窓を引っ掻いているが、滑るばかりだ。

「……入りたいのか?」

 僕は手を伸ばし、窓を少し開けた。

 猫はその隙間から、僕の部屋へと滑りこんできた。

 そして優雅な足取りで、窓枠から机に飛び乗ると、ブルブルと体を震わせ、雪を払い落とした。

「…………」

 僕は机の上の猫に手を伸ばした。

 猫は僕の手に頬をすり寄せた。

 その体温の冷たさに、熱を持った心の腫れが冷やされていく。

「……ありがとう」

「にゃー」

「君、よかったら家で飼おうか?」

「にゃ」

 猫は一声鳴くと、また優雅な足取りで、窓の隙間から雪の降る夜の中に消えていった。僕は催眠術にかけられたようにそれを見送った。

 ふと我に返り、窓を開けて身を乗り出し、猫の姿を探す。

 どこにもいない。

 諦めて窓を閉めたとき、スマートフォンにメッセージが来た。

 なんだこれは? 耶麻川からだ。

『用事があるから部室棟に来てくれる?』

『いやだ』

『いいから来て』

 通話に切り替える。

「もしもし、こんな時間に非常識だ。夜の学校に忍びこむなんて、僕まで悪の道に引きずり込むつもりか?」

「今日のことはごめんなさいといちおう謝るし。とんだとばっちりだったわね。あいつら、本当に頭が悪いし」

「頭が悪いって言って見下してる奴らと、なんであんなことするんだよ……」

「したかっただけだし」

「…………」

「ものすごい多彩なエッチなことを、いろいろやったし。優等生だったころ、勉強の合間にエッチなビデオを見るのが趣味だったし。それで、いつか自分でもやってみたいと思ってたから、この機会にいろんな人とやってみたし。これについてどう思う?」

「べ、別にいいけど……」

「辛かったでしょ。ごめんだし」

 言葉に詰まった。

 だんだん涙が出てきた。

 何か大切なものがダメになってしまった感じ。

 大切に感じていたものが汚れて傷つけられてダメになってしまった感じ。

 耶麻川は耶麻川で、なんでもしたいことをする自由があるのに。

 人間は誰でも自由なのに。

 僕はスマートフォンを耳に当てたまま泣いていた。

 電話の向こうから優しい声が聞こえてくる。

「大丈夫だよ。大丈夫……」

 涙が収まるまで、大丈夫だよと繰り返された。

 ずっと昔にもこうやって耶麻川に慰められたことがあった。たぶん僕が幼稚園児だったころ。

 しかし幼稚園児が泣く原因に比べて、今回の僕のこの涙の原因は、あまりに重いのではないだろうか? そもそも耶麻川こそが僕の心が乱れている原因なのだ。そいつの慰めなんて効くのだろうか。

 果たして僕は泣き止むことができるんだろうか。

「大丈夫。大丈夫。大丈夫だよ……」

 本当かな。

 本当に大丈夫なのかな。

 電話から聞こえてくる声に、僕は自分の心を預けてみた。

 ずっと昔に何度もそうしていたように。

「…………」

 そしてやがて、驚くべきことに、苦しい、波だった感情は、少しずつ流れ去っていった。繰り返し何度もループするイメージと、トゲトゲした思考は、少しずつ形を変えて滑らかになっていった。

 僕は大きく深呼吸すると、涙を拭いて、顔を上げた。

 電話の向こうの耶麻川は、僕が泣き止んだのに息を合わせたかのように、声を事務的なものに戻した。

「それじゃ、とにかく今夜、ふみひろくんが持ってる五号室の鍵が必要なんだし。一時間後、部室棟に鍵を持って来て欲しいし」

「な、何様のつもりだ!」

 通話は切れた。

 絶対に行ってやらないぞ。そもそも五号室の鍵? そんなもの……と思ったが、鍵、それは確かに、まだ吉岡先生に返却していなかったはずだ。

「…………」

 鞄の底を探ってみる。銀色の鍵がそこにあった。