冬になった。たまに雪が降った。僕は相変わらず不登校気味だったし、耶麻川は優等生をやめて、何を思ったのか不良になった。しかも本気な不良だ。可愛らしいとかのレベルじゃない。ちょっと噂話を聞くだけで胸が痛くなってくるレベルの不良だ。

 僕と彼女の接点はますますなくなっていった。

 耶麻川は旧校舎の部室棟の四号室でコンピューター部の部長をしていた。

 そこは不良の溜まり場になっていた。

 四号室には地獄のような悪い噂が飛び交っていた。

 そこには近隣一体から不良が集まり、内部では飲酒や喫煙や王様ゲームや、カジュアルな性行為が行われているそうだった。

 僕は胸を痛めつつ、少し羨ましく思った。

 たまに教室で見る耶麻川は、制服の着こなしも垢抜けていて、そのいつもの不機嫌そうなふくれっ面が、他の生徒より大人びて見え、僕にはとても魅力的に、輝いて見えた。

 もともと若干、アイドル的な容姿をしていたし、何より、優等生から不良へと真っ逆さまに落ちていく彼女の行動には、不思議な覚悟、特殊な自主性が感じられ、僕にはそれが好ましく思えた。

 ある日、掃除をサボって帰ろうとすると、雑巾を持った耶麻川に呼び止められた。手を引かれ、教室の隅に連れて行かれる。

「ちょっとあんた」

「何?」

「何じゃないし。ズルはやめろって言ってるし。あんたがズルして、この世から浮いてるのを見ると、なんか私、自分の責任な気がして気が気じゃないし。高いフリークエンシーを身につけるには、まずは地道にこの世界に密着して生きなきゃダメなんだし」

「うるさいなぁ。関係ないだろ。耶麻川が何言ってるのか全然理解できない。確かに幼稚園では、まったく周囲に溶け込めずにいた耶麻川から影響をたくさん受けた気がするよ。僕が社会の決まりを無視するようになったのは耶麻川の影響かもしれない。逆に、耶麻川が優等生になったのは僕の影響かもしれない。昔はお互い、相手を真似してたからな。あ、でももう、耶麻川は優等生をやめたんだろ。不良とか本気でキモい。あっち行けよ、闇世界の住人」

「あんたの為を思って、親切心で言ってあげてるのに、ムカつく……じゃあもう、いいし! 勝手にしてたらいいし。私も完全に勝手にするし! あぁせいせいする。これで執着がまたひとつ取れてせいせいする!」

 耶麻川は濡れた雑巾を僕に投げつけると教室から出て行った。

 掃除メンバーが僕を見ていた。

 まずいな。

 耶麻川がいなくなり、僕までがいなくなると、同じ班の他の掃除メンバーに負担がかかりすぎる。僕は耶麻川へのあてつけのように、黙々と掃除を始めた。

 小一時間ほどして掃除が終わると、耶麻川のクラスでの友人という女に、耶麻川の忘れ物の弁当箱を四号室に届けてくれないかと頼まれた。

 怖くて自分では不良の溜まり場の四号室になんて行けないという。確かに、それもそうだろう。

 了解した僕は耶麻川の弁当箱片手に、数ヶ月ぶりに部室棟へと向かった。

 今日も窓から差し込む夕日にホコリがきらめいている。僕は手前から四つ目のドアを勢い良く開けた。

「きゃっ!」という耶麻川の声と、「うおっ」という見知らぬ男子生徒の驚きの声がした。

 耶麻川と見知らぬ男子生徒が薄暗い室内にいて、驚いた顔で床からこっちを見上げている。

 どこからか盗んできたのか、床には体育で使うマットが敷かれていた。

 その上に横になっている耶麻川はパンツを穿いていない。

 耶麻川の上に乗っかっている男子生徒が怒鳴った。

「みなみ、お前、鍵かけろって言ったろ!」

 なぜか僕が謝っていた。

「ごめん、すぐ出て行きます」

 言葉通り、すぐにドアを閉めて、部室棟から立ち去った。

 心臓がバクバクしている。

 なんか嫌なものを見てしまった。

 早く遠ざかろう。

 だが、新校舎への連絡口まで来た所で、四号室にいた男が走って追いかけてきた。

 急いでいるのか、男の靴紐は半分解けており、制服のシャツの胸元がはだけている。

 僕よりずっと背が高く、迫力があった。

「ちょっと待てよ、お前」

 男は僕を呼び止めた。

 僕は立ち止まった。

 男は強い力で僕の胸ぐらを摑むと壁に押し付けた。

「お前、誰にも言うなよな」

 そう睨みつけられた。

 僕は反射的に怯えながら、そもそもの要件を伝えた。

「あ、そうだ、忘れてたけど、これ、耶麻川の忘れ物だって。届けといてください」

 男に弁当箱を渡そうとすると、男は僕の腹を膝で蹴った。

 僕は咳き込んだ。

「馬鹿にしてるのか? お前」

 男に聞かれて、涙目で思った。

 わからない。してるかもしれない。

 誰を? もしかしたら、心の底で万人を?

 だったらなぜ万人は僕に馬鹿にされる必要があるんだろう。それは人格の問題じゃない。根本的に気づいていないからだ。

 何に気づいていないのか?

 それは言葉では言えないし、考えることもできない。難しいことだから。

 でも本当は、馬鹿にしているわけでもない。

 ただ、誰とも話が通じないなと、ずっと諦めている。

 誰とも話が通じないのだ。生まれてきてからずっと。

 深い、深い、深いレベルで、僕がわかっていることを、誰もわかっていない。だから話が通じない。

 いいや、もしかしたら、話は通じるのかもしれない。

 僕が勝手に交流を諦めているだけで。

 でももし僕が僕の知っている大切なことを人々に話したら、きっと僕はみんなに、呆れられて、否定されるだろう。

 そして僕は、僕の信じているこを信じ続けるために戦う必要に迫られる。そんなの面倒だ。嫌だ。

 だから僕は話すことができない。

 じっと黙っている。

 でも、この人だって、もしかしたら本当は、僕がうっすらとわかっていることについて、心のどこかで、わかっているのかもしれない。

 その可能性はある。

「…………」

 僕は男の目をじっと見つめた。

 この人が何を考えているのか探るために……。

 と、そこでぜんぜん関係ないことに気がついた。

 男は他校の制服を着ている。

「なんで北高の生徒がここに……すごいよな、よくよその学校に忍び込めるな。すごい度胸だな」感心した。

「な、なんだよ。お前に関係ないだろ」

「そう言わず。別に僕は誰に喋るつもりもない。あぁいうことは秘めておくものだからな……ばしっ!」

 僕はふいをつき、男の腹を思い切り叩いた。

 男の腹は固く、まるで痛そうではなかったが、お返しはお返しだ。

 僕はちょっと精神的にすっきりした。

「それにさ……あんなことぐらい、僕だっていつもしてるからな。珍しくもない」

「ちょ、本当かよお前、見かけによらない奴だな。誰とだよ? まさかお前も耶麻川とか?」

「違うよ、決まってるだろ、お母さんとだよ」

 男はちょっとあっけにとられた顔をしてから、ふいに爆笑した。

「……え?」

 冗談を言ったつもりはないのに、なんで笑うのだろう?

 不安になってきた。

 僕は何かおかしいことを言ったのか。

 まさか……母とするのは普通じゃないのだろうか?

 恐ろしい予感にかられて顔面蒼白になっている僕の肩を男は叩いた。

「お前、面白い奴だな。ギャグセンスが冴えてるよな。良かったら四号室に遊びに来いよ。さっきは蹴って悪い」

 もしかして……普通は母とはしないものなのか……。

 僕は母との関係に関する洞察から目をそらすために、男に、どうでもいいことを聞いた。

 君は耶麻川の彼氏なのかと。

 男は、いや違う、俺はグループの一人で、別に耶麻川と付き合っているわけではないが、今日は部室に二人しかいなかったので、なんとなくそういう流れになったと言った。あいつはめちゃくちゃエロい、自分から誘ってくると言った。

「うぐ……凄いな……」

 僕はさまざまな胸の痛みを隠しながら、少し立ち話をして帰宅した。

 いつもどおり母と夕食を作り、食後に、母に、性に関することについて問いただした。

 他の人とそんな話をしたことなかったし、ずっとテレビもネットも興味なかったから気づかなかったけど……。

「もしかして母と性行為をするのは、実は常識から見て、物凄くおかしいことなのでは?」と。

「実際、今までも、なんとなく違和感を感じていた気がするよ」と。

 すると、母は泣きながら謝った。

「うわーん、バレちゃった。ごめーん。でもでも、自分の子供だから、別に好きにしたっていいんだもん。私、ふみひろのこと愛してるんだもん。自分の恋人にするために産んだんだもん。他の男の人は怖いし、一生、喋りたくもないから、知らない男の精子をネットで買って、人工授精で処女懐胎したんだもん。なによ! それの何がいけないっていうのよ! 私とするのが変だってことに、ずっと気づかないふみひろだって悪いんだからね! 同罪よ!」

「…………」

 僕は顔をしかめながら思った。

 母はこういう人間だ。

 しかたない。

 そしてこんな母のことが、僕はそんなに嫌いではなかった。

 まぁいいや。

「本当? 良かったふみひろ。好き好き大好き! 永遠に愛してる!」

「ありがとう。でももう二度と一緒にお風呂に入ったり、一緒に寝たりするつもりはないからな!」

 僕がそう告げると、母は泣きながら自室に閉じこもった。

「私ほどの綺麗な女の人なんて他にいないんだからね! 学校の子なんて、可愛くないし、醜いし、人間以下なんだからね!」

 そんな捨て台詞を残して。

「…………」

 僕は台所で夕食の片付けをした。

 今夜はご飯を残さずに食べることができていた。

 食器を洗ってから、耶麻川の弁当箱を綺麗に洗った。

 深夜、僕は自室の机に向かって頬杖を突いていた。

 もう寝ようと思っていたので部屋は暗い。

 目の前の、勉強机の上に、ファンシーな色の、プラスチックの弁当箱が置かれている。

 それは四角形で作られていた。

 四角い輪郭が、カーテンの隙間から差し込む星の光を受けて淡く光っている。

 机の端にはゴミが転がっている。

 くしゃくしゃのレシートと、芯の折れた鉛筆が転がっている。

 レシートには「すべて=1」と書かれている。

 なんのことやら。

「…………」

 僕は少し、まどろみながら思う。

 星の光。青白いシリウスの光。プレアデスの光。

 星座の形。北斗七星の形。

 空に浮かぶ光のパターンが弁当箱になり、家になり、人の心になり、感情になって、母になり、僕になり、耶麻川になっている。

 耶麻川は何を考えているんだろう?

 優等生から不良への急激なシフト。

 それは右から左への移動であり、点から点への移動である。

 数学の授業では、よく黒板に点や線が描かれている。

 仮に、一つ目の点をAとする。

 二つ目の点をBとする。

 Aを善だとし、Bは悪だとして、AとBをつないだ線を、心の中で無限に伸ばせば、善と悪、双方を極めることができる。

 善と悪というこの世の基本パーツ、その両極を知れば、この世のパターンを見切ることができる。それが耶麻川の目的だとでもいうのか。

「わからないけど……」

 僕は耶麻川に心惹かれているのを感じた。愛着を感じていると言っても過言ではなかった。

 その耶麻川が、いろいろな男たちと、性行為をしている。僕はその図を頭の中で想像し、そのイメージが引き起こす、感情と肉体への苦痛の感覚を味わった。

 苦痛の感覚は苦しかった。

 もしも僕がエクスプローラーなら、この苦しみは乗り越えられる。

 しかし僕はエクスプローラーではない。

 そもそもエクスプローラーって。

 なんなんだ?

 猫のことがふと頭に思い浮かぶ。

 とても綺麗な猫。

 なぜ猫?

 それはきっと窓の外で、さっきからずっと猫が鳴いているからだ。

 寒いのだろう。

 いま季節は冬だ。

 今日はちらほら雪が降っている。

 カーテンの隙間から、ひげに雪の欠片を載せた猫の目が見える。

 猫は爪で窓を引っ掻こうとしているが、滑るばかりだ。

「……しかたないな」

 僕は机から立ち上がり、窓を十センチほど開けた。

 茶色い猫はその隙間から、僕の部屋へと滑りこんできた。

 猫は慎重に、窓枠から机に飛び乗ると、弁当箱の周りを一巡りし、そしてブルブルと体を震わせ、雪を払い落とした。

「…………」

 僕は机の上の猫に手を伸ばした。

 僕の手に猫は頬をすり寄せた。

 その体温の冷たさに、熱を持った心の腫れが冷やされていく。

 僕は猫に語りかけた。

「どうしよう? 猫なんて家に入れちゃった。あとでお母さんに怒られる……いや、あいつには借りがある。ペットを飼うぐらい認めてもらわないとな」

「にゃー」と猫が鳴いた。

 猫の名前はミーニャに決めた。

 なんとなくそれがお似合いだと思ったからだ。

 自室でミーニャと戯れていると、スマホにメールが来た。

 なんだこれは?

 耶麻川からだ。

「用事があるから部室棟に来てくれる?」

 僕はW-ZERO3のスライドキーボードを使って「いやだ」と返信した。

「いいから来て」と返信があった。

 最近のスマートフォンに比べると、僕のW-ZERO3はちょっと使いにくい。

 電話に切り替える。

「もしもし、こんな時間に非常識だ。夜の学校に忍びこむなんて、僕まで悪の道に引きずり込むつもりか?」

「今日のことはごめんなさいと一応謝るし。とんだとばっちりだったわね。あいつら、本当に頭が悪いし」

「頭が悪いって言って見下してる奴らと、なんであんなことするんだよ……」

「したかっただけだし」

「なにを?」

「優等生してるうちに溜まっていた欲望。悪いこととか、いろんなエッチなこととか、そのバリエーションとか。それを実際に試してみなくちゃ、この世への心残りが取れそうになかったし。ものすごい多彩なエッチなこと、いろいろやったし。優等生だった頃、勉強の合間にエッチなビデオを見るのが趣味だったし。それで、いつか自分でもやってみたいと思ってたから、いろんな人とやってみたし。これについてどう思う?」

「べ、別にいいけど……」

「嘘、あんたとしては、嫌だったでしょ? 関係ないと思いつつ苦しんでるでしょ」

「ちょっと。少し」

「ごめんね。辛かったでしょ。許してくれる?」

 言葉に詰まった。

 そして、だんだん涙が出てきた。

 何か大切なものがダメになってしまった感じ。

 とても大切に感じていたものが汚れて傷つけられてダメになってしまった感じ。

 なんでこんなふうに思うんだろう。

 耶麻川は耶麻川で、なんでもしたいことをする自由があるのに。

 人間は誰でも自由なのに。

 肉体がどうなろうと汚れることなんて何もないのに。

 気がつくと、僕はW-ZERO3を耳に当てたまま泣いていた。

 電話の向こうから優しい声が聞こえてくる。

「大丈夫だよ。大丈夫……」

 涙が収まるまで、大丈夫だよと繰り返される。

 このように慰められているうちに、何の根拠もなく、少しずつ、大丈夫な気分になってくる。

 ずっと昔にもこうやって耶麻川に慰められたことがあった。たぶん僕が幼稚園児だったころ。

 しかし幼稚園児が泣く原因に比べて、今回の僕のこの涙の原因は、あまりに重いのではないだろうか。そもそも耶麻川は僕の心が乱れている原因だ。そいつの慰めなんて効くのだろうか。

 果たして僕は泣き止むことが出来るんだろうか。

「大丈夫。大丈夫。大丈夫だよ……」

 本当かな。

 本当に大丈夫なのかな。

 電話から聞こえてくる声に、僕を慰めようとして僕を包むその心に、僕は自分の心を預け続けた。

 ずっと昔に何度もそうしていたように。

 そして、驚くべきことに、苦しい、波だった感情は流れ去っていき、繰り返し何度もループするトゲトゲした思考パターンは、少しずつ形を変えて滑らかになっていった。

 それらは苦しみよりもむしろ安らぎを生むものへと変化していた。

 僕は大きく深呼吸すると、涙を拭いて、顔を上げた。

 電話の向こうの耶麻川は、僕が泣き止んだのに呼吸を合わせるかのように、事務的な声で言った。

「そう。それじゃ、とにかく今夜、あんたが持ってる五号室の鍵が必要なんだし。だから一時間後に部室棟に鍵を持って来るといいし」

「な、何様のつもりだ!」

 それに対してもう返事は返って来なかった。

 通話は切れていた。

 ぜ、絶対に行ってやらない、そもそも五号室の鍵なんて……と思ったが、鍵、それは確かに、いつかあの物置を開けた日からずっと、吉岡先生に返却していない。

 鞄の底を漁ってみると、銀色の鍵が出てきた。

 でも、あんな高圧的な口を利く奴の命令なんて、絶対に聞いてやらない。そう思った。

 絶対に、絶対に、聞いてやらないぞ。