その後、暗闇の中で僕らは高スピードで情報をやりとりしていった。

「まずそもそも、なんでミーニャは日本語を喋れるんだ?」

「私たちエクスプローラーは、いろんな世界に行くにゃ。どこにいっても困らないよう、ユニバーサル言語回路を心の中に持ってるにゃ」

「いいな。僕もそれを欲しいんだけど」

「難しい修行が必要だから、手に入れるのは難しいにゃ」

 あきらめて次の話題に移る。

 次の話題、それは『ミーニャは何者なのか』ということだ。

 明瞭な答えが返ってきた。ミーニャは異次元の異世界からやってきた探索者とのことだった。わけあって、この世界に緊急避難することになったと言う。マスターとの別れが悲しいにゃと言う。

「マスターって何? 偉いの?」

「偉いにゃ。私の師匠だもの。もとは私は、己の本性を知らない、運命のなすがままの動物的な生き物だったにゃ。そんな獣状態から、ここまで意識と体を進化させることができたのはマスターのおかげにゃ」

 ミーニャは誇らしそうに胸を反らした。

「ずっと昔、私の故郷を、星の世界につなげる手助けをしてくれたのもマスターにゃ。エクスプローラーの中でもとびきり優秀で優しいにゃ」

「ふーん。で、エクスプローラーってのは何なの?」

「見えないところ、暗いところを探索するのがエクスプローラーにゃ。探索によって、闇に光をもたらすにゃ」

「ふーん。そうかー。で、今は何を探索してるんだ?」僕はよくわからないまま、話を前に進めていった。

「この世界を取り巻いている『闇の大迷宮』を、私とマスターは頑張って探索してるところだったにゃ」

「闇の大迷宮?」

「そう。その一番奥に、『闇の魔術師』がいるにゃ。罠でいっぱいの迷宮をくぐり抜け、一番暗い闇の中でその人を見つけ、その人に伝えなきゃいけない、大切な伝言があるにゃ」

「伝言? どんな?」

 暗くて見えないがミーニャは顎に人差し指を当てて頭をひねった気がした。

「忘れちゃったにゃ。私は探検の途中で大怪我して、この世界に緊急避難してきた身にゃ。だからもう、あっちの世界のことはあまり詳しく思い出せないにゃ。情けないにゃ」

「え、怪我? どこどこ? 健康そうに見えたけど」

「怪我したのはエーテル体、目に見えない体にゃ。迷宮の罠にかかって、簡単には癒えない傷がエーテル体についたにゃ。どこか安全な場所でそれを治す必要があるにゃ。だからマスターが、ここに繋がるゲートを開けてくれたというわけにゃ」

「なるほど。でもなんでそんな大変な怪我をするような危険な場所を、エクスプローラーは旅してるの?」

「それがエクスプローラーの仕事だからにゃ。闇に光をもたらすにゃ!」

「光って?」

「それは喜びと自由をもたらすにゃ。それは君の本質にゃ」

「僕の?」

「そう。存在するすべては光にゃ」

 その後も、何も見えない中、自分の手のひらも見えない中、ソファに座って、行きつ戻りつミーニャの話を聞いた。

 暗闇の中でリラックスしていろいろ質問していると、ミーニャの旅の、なんとなくのイメージが心の中に浮かんできた。

 ミーニャは沢山の次元、沢山の宇宙を旅している。それは高い高い塔を旅するようなものである。

 塔の五階とその上は、光に満ちた、過ごしやすい世界である。

 だがそのひとつ下の四階には『闇の迷宮』があり、そこは『闇の魔術師』に支配されている。

 僕の住むこの世界は塔の三階にあり、そこは『闇の迷宮』によって、塔の上層階と遮られている。塔の上層界の光は、四階にある闇の迷宮に阻まれ、この三階にまではなかなか届かない。それどころか三階は、闇の魔術師によって人知れず支配されている。

 エクスプローラーはその状況に変化を起こすために、闇の迷宮に潜っていく。それがエクスプローラーの仕事なのだ。

 

 だがその仕事が怪我によって中断された今、ミーニャはかなりの危機的状況に置かれているらしい。

「仕事はしばらくおやすみにゃ。もう私は今までの私を保てないにゃ。この部屋を一歩でも出たら、私は君の世界の基本フリークエンシーに飲まれ、この世界の住人になってしまうにゃ。君の世界で一番、私に似てる生き物はなにかにゃ?」

「ええと……人間。それに……猫かな?」

「なるほどにゃ。つまりこの部屋の外に出たら、私はこの世界にとって、普通の存在、つまり人間か猫に変わってしまうにゃ。もしかしたら両方に分裂するかもしれないにゃ」

「そ、そんな……」

「そしてエクスプローラーとしての記憶は、君の世界に都合よくおさまる新たな記憶によって上書きされてしまうにゃ。しがないエクスプローラーの私なんて、ものの小一時間も経たないうちにこの世界に同化してしまうはずにゃ。君もこの部屋を出たら、ゲートや、この私に関する記憶を失うにゃ」

「そ、そんなことない。そう簡単に忘れないよ。僕は記憶力がいいからな。暗記はどちらかと言えば得意な方だ。漢字もスマホを見ればいくらでも書ける」

 そのときだった。

 部屋の外からがんがんという扉を叩く音が聞こえてきた。

「ふみひろくん、ここにいるんでしょ、吉岡先生に聞いてきたし! ふみひろくんの仕事は取っておいてあるから。開けるし!」そしてガチャンとドアノブが回る音がした。

「な、なんでにゃ? マスターが私の安全のため、この部屋には防護と施錠の魔法をかけてくれたはずにゃ……エクスプローラーにしか解けないはずなのに」

 僕はドアの外に向かって叫んだ。

「ちょ、ちょっと待って! 開けないで!」

「中で何してるし?」

「何もしてない。でもダメ!……どうしようミーニャ」

「君はもう行くにゃ! 私も準備ができたら外に出るにゃ。そして君の世界で、自分を思い出すための、魔法の護符、癒やしの光のアミュレットを作り始めるにゃ!」

「光のアミュレット?」

「そうにゃ。それがあれば、君の足が治ったように、私は自分を取り戻せるにゃ。でもそれを創るのは難しい仕事のはずにゃ。よくわからない君の世界の材料を使って創る、心に光をもたらす魔法のアイテム……それがどんな形になるのかはまったく想像がつかないにゃ。創るのを途中で諦めてしまうかもしれないにゃ」

「それ、僕も手伝うよ!」

「ありがとう、でも無理にゃ。外に出たら、君、この部屋でのことを何もかも忘れるにゃ。だからこれでもう二度と会えないかもしれないにゃ。でも君は良い生き物にゃ。不思議なことに、ほんの少しだけエクスプローラーのフリークエンシーを持ってるにゃ。そんな君に、お別れの前に、何かいいものをあげたいにゃ。そうにゃ、こっちに来るにゃ! にゃー! 早く!」

 ミーニャは僕の両手をとって立ち上がった。

 そしてソファの陰にしゃがみ込み、僕の頭を力強くその胸に抱え込んだ。体温は透き通るように冷たい。僕は思わずミーニャの胴体にしがみついた。ミーニャは僕の耳元に早口で囁いた。

「君にエクスプローラーからの祝福を授けるにゃ。受け取るにゃ!」

 瞬間、僕の心の中に眩しい光の花が咲いた。

「夢の中の夢、鏡の中の鏡、あらゆる次元、そのどの欠片も、原初の光とひとつにゃ。どの夢の中の、どの生き物も、君も、君たちも、億千年を経て進化したどの思考も感情も感覚も肉体も、今も変わらず、原初のものとひとつにゃ! どの瞬間も無垢にゃ!」

 ミーニャの囁きによって心の中に、大きな光の花が開いていく。その花の持つ幾千もの花弁が開いていく。その開花はどこまでもどこまで、あとからあとから続いていく。

「魔術師のイリュージョンによっても隠せない光、それが君にゃ。その叡智を今、君にあげるにゃ! それを今、君の存在の奥底から呼び起こすにゃ。高きフリークエンシーの祝福を君に授けるにゃ!」

 そして僕は何もかもの事態のなりたちを、ふと思い出した。

 ミーニャにしがみつき、心の底から湧いてくる震えに怯えながら、僕はミーニャを見上げた。

「これは何? 今、僕、すごいことに気づいたよ。まさか物事はこんなふうになっていたなんて。いや、昔から心のどこかで、このことを知っていた気がする」

「祝福によって、君は一瞬だけ、真の自分を明確に思い出したにゃ! でもすぐ君は、もとの低いフリークエンシーに逆戻りし、この叡智を忘れてしまうにゃ。でもこの一瞬の啓示が、いつか君を高みへと導いていくにゃ!」

「いやだ、こんな凄いこと、ずっと忘れたくない。そうだ! メモしておけば忘れずにすむ。メモだ、メモ!」

 僕は制服のポケットからコンビニのレシートと短くなった鉛筆を取り出し、暗闇の中、大切な洞察を殴り書きした。

「無理にゃ。今の君の心はその洞察をキープしていられないし、言葉で書いても、あとで読んだら、なにも意味はわからないにゃ。もうすぐ私のことも忘れるにゃ。ほら、君の世界の声が呼んでるにゃ。行きなさい」

「やだよ、やだ。忘れたくないよ!」

 がちゃがちゃと音がして、部室のドアが開いた。ドアの隙間から、僕の世界の光が差し込んできて、僕の意識はそれに覆われた。

「…………」

 僕はソファの陰から立ち上がった。

「きっと、すぐ戻ってくる」

 僕は廊下に出ると、後ろ手にドアを閉めた。

「…………」

 旧校舎の部室棟の廊下は蛍光灯にしらじらと照らされていた。

 廊下の窓、その外はもう暗かった。

 目の前、廊下の真ん中に、腰に手を当てた耶麻川が不機嫌そうに立っていた。

 机の雑巾がけをしろと言う。

 僕は無視して帰ろうとした。 耶麻川が僕の手首を掴んだ。

「私、そうやってズルする人間は許せないし」眼光が鋭い。

「うるさいな。優等生ぶりっこめ」

「ふん、あと三十分でそれも終わりだし。私、とうとう気づいたんだし……」

「何に?」

「ふみひろくんに言っても絶対にわからないことだし」

 耶麻川は僕の手首を掴んで、誰もいない夜の廊下を歩いていく。

 新校舎の教室に着くと、耶麻川は僕に雑巾を突きつけた。

「…………」

 腕組みしている耶麻川に監視されながら、僕は仕方なく机に雑巾をかけた。

「ところでふみひろくん、あんなところでひとりで何してたし?」

 なんだったっけ。頭がぼんやりしている。

 しばらく机を磨く手を止めると思い出すことができた。

「そうそう、部長になろうとして五号室に入ったら、鍵が壊れて中に閉じ込められて。それで助けが来るのを待ってたんだ。正直、助かった」

「部長? 何の話だし?」

 僕は耶麻川に『不登校気味の生徒を部長にしよう』という例のプロジェクトを教えた。

「ふうん、面白そう。私も明日、やってみるし。先生に言えばやらせてくれる?」

「鍵が合わないと部長にはなれないよ。それに耶麻川は優等生だろ。不登校じゃないと鍵を選ばせてもらえないよ。鍵を選んでも、運が悪いと外れだよ」

「大丈夫。私はね、ふみひろくんと違って運がいいし。それに優等生の私は今日で終わりだし。明日から不登校を始めるし。一度、道を外れてあてもなくさまよってみたかったんだし」

「……さまよったら、海に行くのがおすすめだよ」

「ふうん、覚えとくし。私はカラオケとゲームセンターに行きたい。行ってみたかったんだ」

 僕は耶麻川の監視の中、拭き掃除を終えた。

 教室の照明を消すと真っ暗になった。窓の外の街灯によって青くぼんやりと耶麻川の輪郭が照らされている。一歩先を歩く耶麻川を頼りに、僕は教室を出て真っ暗な廊下を歩き、昇降口から外に出た。夜空に星は出ていない。

「…………」

 耶麻川とは校門まで一緒に歩いた。

 校門前の車道では、街灯が青く光っていた。

 耶麻川は、僕と反対の、駅前の方に歩いて行った。

 去り際に耶麻川は、三つ編みを解き、黒縁メガネを外し、それをふくれっつらで車道に放り投げた。

 それからスタスタと歩道を歩き、電信柱にぶつかった。

「な、なにしてるんだ? 馬鹿になったのか?」

「優等生は今日で終わりだから、こんな眼鏡、もういらないんだし。でもちょっと怖いし。自分がやりたいことを、なんでも率直にやってしまったら、本当に何もかも、後戻りできないように変わってしまうし……」

 そして耶麻川はふらふらと駅前の方に消えていった。