情報交換によっていろいろなことがわかった。

「まず、そもそも、なんでミーニャは日本語を喋れるの? どこかで習ったの?」

「私たちエクスプローラーは、いろんな世界に行くから、どこでも言葉が通じるようメンタル・ボディの中に翻訳の回路を焼き付けてるにゃ」

 なるほどと僕は納得した。そして、僕もそれを欲しいと思った。そんな便利なものがあれば英語の授業に遅れを取ることはないのに。どうしたらそれが手に入るのかミーニャに聞いてみると、「難しい修行が必要だから難しいにゃ」とのことだった。

 あきらめて次の話題に移った。

 次の話題、ミーニャは何者なのかということに関して。

 一言で言えば、ミーニャは異次元の異世界からやってきた冒険者だった。

 僕が住んでいる世界以外にも、他にもいろんな次元、いろんな世界があり、ミーニャとその先生であるマスターは、世界から世界へと旅を続けるエクスプローラーという職業の存在ということだった。

「次元って何?」

「説明するのは難しいにゃ。この宇宙がひとつの大きな建物だとすると、その階のひとつひとつが次元にゃ。次元には上と下があって、上から下が生まれるにゃ。上の次元の方が、より本質的にゃ。下の次元の方はより物質的にゃ」

 僕はそのトピックを理解するのを一瞬であきらめると、次の質問に移った。

「マスターって何? 偉いの?」

「偉いにゃ。私の先生だもの。私が下等な存在、己の本性を知らない、運命のなすがままの動物的な生き物から、ここまで進化できたのはマスターのおかげなのにゃ」

 マスターの話題になるとミーニャは誇らしそうに胸を反らした。

「ずっと昔、私の故郷の世界を、星の世界につなげる手助けをしてくれたのもマスターにゃ。エクスプローラーの中でもとびきり優秀で優しいにゃ」

「優秀かー。それはすごいな」僕は感心した。

「で、エクスプローラーってのは何をしてるの?」

「大きな視点から見れば、宇宙の僻地に、星の光をもたらすために旅していると言えるにゃ。でも今は、特にこの世界、つまり今、私と君がこうして喋っている世界を解放することに焦点を当てているにゃ」

「この世界を解放? 何から?」

「大魔法使いからにゃ」

「君たちも魔法使いじゃないの? ミーニャも魔法を使ったでしょう。僕の足を治すのに」

「そうにゃ。私も魔法を使えるにゃ。でもまだ見習いの弟子だもの、あまり大したことはできないにゃ。それに今も刻一刻と、完全なる馬鹿に近づいていて、ゲートの向こうのこと、上の世界のことを忘れつつあるにゃ。だから詳しく説明できなくて、ごめんにゃ」

「じゃ、いいよ。無理に説明しなくても」

「そうはいかないにゃ。謎の不審人物という疑いを晴らす必要があるにゃ。それに君に、不完全でも、少しでも、知識を伝えておけたら、君がそれを理解したり、覚えておくのは難しいにしても、それでもいつか何かの役に立つかもしれないにゃ。だから忘れないうちに、思い出せる限り説明するにゃ! これから喋るのは異次元のこと。だから伝えるのは難しいし、理解できなくても当たり前にゃ。だからのんびり聞いて欲しいにゃ!」

「わかった、のんびり聞く」

 僕はソファ上でくつろいだ姿勢をとり、すぐ耳元から聞こえるミーニャの綺麗な声を、情報というより音楽のように気持ちよく吸収した。

「とにかくにゃー。私たちは、どちらかと言えば正直者の魔術師にゃ。一方、あの大魔法使いは嘘つきで、この世界、つまり君が生きているこの惑星世界を、嘘の力で闇の中に閉じ込めてしまったーにゃ。この多次元宇宙が大きな大きな建物だとしたら、その三階の一区画が、中の住民ごと不法に占拠されてしまっている状態にゃあ。そのため住人は、他の区画や他の階が、この建物の中に存在していることも忘れているーにゃ。この建物の中にいる生命体は、本来、他の区画、他の階に自由に移動できるはずなのに、移動の方法も、他の区画との交流の方法も、ぜんぶ忘れてしまっているーにゃ。まぁ、それ自体はそんなに問題ではないにゃ。誰かに騙されて、酷い目に合う、監禁状態を味わうという体験をするのも自由意志の発露にゃ。それはそれで、無限の生命を持つあなたがたにとっては、強さを養うための学びに役立つ体験にゃ。でも最近、というか君の世界の時間で数千年ぐらい前から、救助信号が、この区画から全宇宙に向けて発信され始めたにゃ」

「へー、どんな?」話は何も理解できていないが、相槌を打ったり、条件反射的な質問をすることはできる。

「この区画から高次元に向けて発信され始めたその救助信号、それは、『もう苦しみの限界だけど、自分たちではこの監禁状態を抜け出せないから、誰か助けて!』というものにゃ。この区画の内部に生きてる人間たちが、上の次元にいる自由な存在たちに、意識的にか無意識的にか、救助を求めてきたにゃ。そのような集団的テレパシー通信がエクスプローラーの団体に向けて送られて来たというわけにゃ。そういう事例は、宇宙では、そんなに多くは無いけれど、前例がまったく無いわけでもないにゃ。そういう要請に従って、いろんな世界をヒーリングして歩くのは、私たちエクスプローラーの大切な仕事というわけにゃ」

「ふーん。ヒーリングって何?」

「さっきやってみせたにゃ。折れたり、曲がったりして、本来、あるべき姿から逸れてしまったものが、あるべき在り方に戻る手助けをすることにゃ」

「そうか。どうやってやるの?」

「この惑星世界のヒーリングに関して言えば、沢山のエクスプローラーや天使たちが、いろいろな部門から多面的に対応してるにゃ。私とマスターは闇の供給源、下降的思考形態を生み出す源の、あの大迷宮にアタックをかける部門にいたにゃ。この世界よりもちょっと上の次元にあるその大迷宮を攻略しようと、私たちはいろいろな仕事を仕掛けていたところだったにゃ。今もあの闇の大迷宮には、全宇宙からエクスプローラーが集まっていて、その一番奥にいる大魔法使いを捕まえようと、エクスプローラーたちが迷宮攻略のために、沢山の入り口から侵入しているはずにゃ。でも私はその途中で大怪我して、この地に墜落してきてしまったーにゃ。情けないにゃ」

「え、怪我? どこどこ? 健康そうに見えたけど」

「怪我したのはエーテル体にゃ。心と体を作っている、目には見えない体にゃ。そのエーテル体に、私自身にも取り外せない下降的思考形態、つまり、呪いのようなものにゃ、それがくっついてしまったにゃ。一朝一夕には外れそうもない、重りのようなものにゃ。その重りによって私は下の次元に落ちていったにゃ。落ちる間際に、マスターが、もっとも安全な場所を探して、ゲートを開けてくれたというわけにゃ」

「ここって安全なの?」

「安全にゃ。ここは三次元なのに、三次元っぽい下降的思考形態のフリークエンシーが薄いにゃ。だからまだ私はそれなりに正気を保ててるにゃ」

「なるほどね。そういうことか、だいたいわかったよ」と答えたものの、半分以上、いや、本当はもっと根本的なレベルでいろいろとわからなかった。

「とにかく、まとめると、ミーニャたちは、この世界を救おうとしていると」

「そうにゃ。それがエクスプローラーの仕事にゃ」

「でも救うって。何から?」

「光を遮るものから救うにゃ」

「光って?」

「それは喜びと自由をもたらすものにゃ。君の本質にゃ」

「え? 僕の?」

「そう。存在するすべては光にゃ」

 真っ暗闇の部室の中で、ミーニャはそう断言した。

 *

 その後も何も見えない中、自分の手のひらも見えない中、ソファーに座って、行きつ戻りつミーニャの説明を聞いた。それはとても日常からかけ離れた話だった。しかし僕はその理解し難い話を聞きながら、ふわふわとした心地よさを感じていた。濃い暗闇に包まれていることによって、小さいころ、押入れの中に隠れて遊んでいた記憶を刺激されたからか。それとも隣にいるミーニャの体温が気持ちいいからか。リラックスしていろいろ質問していると、なんとなくのイメージが心の中に浮かんできた。

 ミーニャが語る、沢山の次元がある宇宙のイメージ、それは高い塔のようなものだった。

 塔は無限の高さの天から下へと伸びてきており、今も建設中だ。

 僕の住むこの世界はその塔の、下から数えて三階ぐらいの高さに位置している。三階には僕の住むこの世界だけでなく、他にも沢山の並行世界がある。

 ところで、僕の住むこの世界は、大魔法使いに支配されている。

 大魔法使いは、僕の住むこの世界のちょうど真上、四階の一区画にある大迷宮に住んでいる。

 大魔法使いは大迷宮の中に住み、そこから下降的思考形態という、呪いを生み出し、それを一階下の住民たち、つまり僕達の心の中に送り届けて、そこの住民たちを陰ながら支配している。

 大魔法使いが僕達の心の中に供給し挿入し続ける下降的思考形態によって、僕達の心には苦しみが生じ、その苦しみのエネルギーは大魔法使いへと送り返され、彼か彼女かの栄養となる。

 このような、支配・非支配の構造を破壊するため、ミーニャたちエクスプローラーは、大迷宮に乗り込んでいったのだが、その途中で、ミーニャは事故に遭い、この三階へと転げ落ちてきたのだと言う。

「そうかー、なんとなくわかったよ。詳しいことは何も理解できないけど、雰囲気的にはわかった」

「それで十分にゃ! 嬉しいにゃー」

「で、これからミーニャはどうするの?」

「それは、あれにゃ」

「どれさ?」

「わからないにゃ。何分、深く考える間もなく上から落ちてきたわけだから。ちょっと待っててにゃ」

 ミーニャは足元にあるらしい鞄をゴソゴソとあさった。

「エクスプローラー用の緊急時のサヴァイバル・マニュアルにゃ」

「暗くて読めないんじゃないの?」

「心の目で読むにゃ。えーと、なになに? もし何かアクシデントがあって他所の世界に墜落した時はどうすればいいかというと……現地のものを使って、自分の身を守り、力を回復するための魔法の護符を作ること。それによって、すでにその地に上陸している他の上陸班や、上の階層で作業中のエクスプローラーとの連絡を取れるまで明晰さを回復すること。なるほどにゃ」

「魔法の護符って何? どうやって作るの?」

「魔法の護符というのは、特定の形の中に、特定の思考形態を焼き付けたものにゃ。込められている思考形態と、その護符を使う者の意識の相互作用によって、不思議な効果が発揮されるにゃ。どうやって作るかは、この世界にどんな材料があるかで決まってくるにゃ。ちなみに、さっき君の足の指を治すのに使ったアミュレットは、テロスのデパートで買っておいたものにゃ」

「売ってるのか。便利だな」

「でも君の世界では売ってないでしょうにゃー。だから自給自足するしかないにゃ。でも馬鹿になった状態で、アミュレット作りなんて繊細な仕事ができるかどうか不安にゃ」

「さっきから馬鹿になる馬鹿になるって言ってるけど、どういうこと?」

「私が今までの私をなんとかギリギリ保っていられるのは、この部屋の中だけにゃ。この部屋は、もともとこの世のフリークエンシーが薄かった上に、次元のディーヴァの力で、高いフリークエンシーが保たれてるにゃ。でももし、この部屋から出たら、私はこの世界のフリークエンシーに完全に同調し、完全にこの世界の住人になってしまうーにゃ」

「どういうこと? ていうかフリークエンシーってなんだ?」

「君の世界に私みたいな生き物はいるかにゃ?」

「ミーニャは人間にそっくりだが、そんな所に耳が生えたり尻尾が生えたりしてる奴は見たこと無いよ。せいぜいテレビゲームか何かの中にいるぐらいか」

「ゲームって?」

 僕は説明した。ミーニャは納得した。

「各次元、各世界は心の中でつながってるからにゃ。私たちの姿形がこっちの世界に伝わってるのも頷けるにゃ」

「まあ、とにかく、この世界に、ミーニャのような猫人間はいない」

「だったら君の世界で一番、私に似てる生き物はなにかにゃ?」

「人間。そして猫」

「猫とはどんなのかにゃ?」

 僕は猫について説明した。

 ミーニャは驚いていた。

「確かに猫、それは私にそっくりにゃ。私の故郷にも春に似た季節があって、その頃になると私も少し変になるにゃ。だからこの部屋を出たら、私はきっと人間か猫のどちらかになってしまうにゃ!」

「えっ、春になるとどうなるの? 気になる」

 ミーニャは顔を赤らめ僕の質問を無視し、先を続けた。

「各世界にはその世界の法則があり、法則を維持しようとする力が働いてるにゃ。そういった力、その場の事象を作る原因となるエネルギーが持つ性質をフリークエンシーというにゃ。部室の外に出たら、この世界の持つ基本的フリークエンシーに同調せざるを得ないにゃ。そして、この世界のフリークエンシーに同調した時、私はこの世界にとって、通常のあり得る存在、つまり人間か猫に変わってしまうというわけにゃ」

「人間になれるといいね」

「人間になっても記憶は消えてしまうにゃ。君の世界に都合よくおさまるような新たな記憶が自然に生じるはずにゃ。マスターだったら、とても強いライトボディを持ってるから、どんな世界に移動しても安定して八割は姿や記憶をキープしていられるけど、マスターの保護下にない一介のエクスプローラー、見習いの弟子の私なんて、ものの小一時間も経たないうちにこの世界に同化してしまうはずにゃ」

「そんな……じゃあこの部屋から出られないじゃないか」

「そうにゃ。出るときは猫になる覚悟を固めて出るにゃ。君もこの部屋を出たら、ゲートや、今の私に関する記憶を全部無くすはずにゃ。私のことや、ゲートの記憶があることは、君の世界の設定に大きなヒビを入れることになるからーにゃ」

「そんなことないよ。そう簡単に忘れないよ。僕は記憶力がいいから。暗記はどちらかと言えば得意な方だよ。漢字もスマホを見れば書ける」

 僕は暗闇の中、不安そうな声を出すミーニャに笑いかけた。

 そのときだった。

 部屋の外からがんがんという扉を叩く音が聞こえてきた。

「ふみひろくん、ここにいるんでしょ、吉岡先生に聞いてきたし! ふみひろくんの分の仕事は取っておいてあるからね。開けるわよ!」

「なんでにゃ? マスターが私の安全のため、この部屋には施錠と無関心の魔法をかけてくれていたはずにゃ……エクスプローラーにしか解けないはずなのに」

 ミーニャは驚きの声を発した。僕はドアの外の耶麻川に向かって叫んだ。

「ちょ、ちょっと待って! 開けないで!」

「なんで開けたらダメなの?……中で何してるし?」

「何もしてない。でもダメ! ちょっと待って……どうしようミーニャ」

「とにかく私はまだこの部屋から出ないにゃ! 外の波動が入らないよう、ドアもすぐに閉めてくださいにゃ。私はここで、しばらくじっとして今後の身の振り方を考えてるにゃ。鞄の中にエクスプローラー・テントがあるから心配しなくてもしばらくは平気にゃ。テントの中の超空間には生活用具一式が詰まってるにゃ!」

「べ、便利なテントだな。と、とにかく、僕はいったん外に出て、あとで何か飲み物食べ物でも持ってくるよ。待ってて!」

「外に出たら、君、この部屋でのこと忘れるにゃ。もしかしたらこれでもう二度と会えないかもしれないにゃ。でも君は良い生き物にゃ。不思議なことに、ほんの少しだけエクスプローラーのフリークエンシーも持ってるにゃ。そんな君に、お別れの前に、何かいいものをあげたいにゃ。そうだ、こっちに来るにゃ! にゃー! 早く!」

 ミーニャは僕の両手をとって立ち上がった。

 そしてソファーの陰でしゃがみ込み、僕の頭を力強くその胸に抱え込んだ。体温は透き通るように冷たい。僕は思わずミーニャの胴体にしがみついた。ミーニャは僕の耳元に早口で囁いた。

「君にエクスプローラーからの祝福を授けますーにゃ」

 瞬間、僕の心の中に眩しい光の花が咲いた。

「夢の中の夢、鏡の中の鏡、あらゆる次元、そのどの欠片も、原初の光とひとつにゃ。どの夢の中の、どの生き物も、君も、君たちも、幾億万年を経て進化したどの感情も思考も五感も肉体も、今も変わらず、原初のものとひとつーにゃ。どの瞬間も無垢にゃ!」

 ミーニャの囁きによって心の中に、綺麗な大きな繊細な花が開いていく。その花の持つ千枚の花弁がゆっくり大きく開いていく。その開花はどこまでもどこまで、あとからあとから続いていく。

「そう、大魔術師のイリュージョンによっても隠せない光、それが君なのにゃ。その智慧を今、君にあげるにゃ! それを今、君の存在の奥底から呼び起こすーにゃ。高きフリークエンシーの祝福を授けるにゃ!」

 そして僕は何もかもの事態のなりたちを、ふと思い出した。

 ミーニャにしがみつき、心の底から湧いてくる震えに怯えながら、僕はミーニャを見上げて聞いた。

「これは何? 今、僕、すごいことに気づいたよ。まさか物事はこんなふうになっていたなんて。いや、昔から心のどこかで、このことを知っていた気がする」

「祝福によって、一瞬だけ、君は智慧を明確に思い出したにゃ! でもすぐに君はまた、もとの低いフリークエンシーに逆戻りし、この智慧を忘れてしまうのにゃ。でもこの一瞬の啓示が、いつか君を高みへと導いていくのーにゃ!」

「いやだ、こんな凄いこと、ずっと忘れたくない。そうだ! メモしておけば忘れずにすむ。メモだ、メモ!」

 僕は制服のポケットの中を探り、そこに入っていたコンビニのレシートと短くなった鉛筆を取り出し、暗闇の中、大切な洞察を殴り書きした。

「無理にゃ。君の未発達な心はその洞察をキープしていられないし、言葉で書いても、あとで読んだら意味はわからなくなってるにゃ。もうすぐ私のことも忘れるにゃ。ほら、君の世界の声が呼んでるにゃ。行きなさい」

「やだよ、やだよ。忘れたくないよ!」

 しかしがちゃがちゃと音がして、部室のドアがゆっくりと開いた。

 僕の世界のドアの隙間から、夢の光景が差し込んできて、僕の意識はそれに覆われていく。

 僕はソファーの陰から立ち上がった。

「きっと、すぐ戻ってくる」

 そして、廊下に出ると、僕は後ろ手にドアを閉めた。

 旧校舎の部室棟の廊下は蛍光灯にしらじらと照らされていた。

 廊下の窓、その外はもう暗かった。

 *

 見ると、目の前、廊下の真ん中に、腰に手を当てた耶麻川が立っていた。

 机の雑巾がけをしろと言う。

 なんのために?

「私、そうやってズルする人間は許せないし。私、今はまだ優等生だから。あと三十分でそれも終わりだけどね。とうとう気づいたんだし……」

「何に?」

「あんたに言っても絶対にわからないことだし。でもちょっとだけ説明してあげると、私はこの世界に未練があるってこと。その未練を断ち切って、自分のことを完全に思い出すには、やりたいことを全力でやる必要があるってこと。それだけだし」

 誰もいない夜の廊下を二人で歩き、教室の照明をつけ、耶麻川に監視されながら机に雑巾をかけた。

 耶麻川は言った。

「ふみひろくん、あんなところで一人で何してたし?」

「え? 何もしてないよ。ただ……物置に入ったらドアノブが壊れて。そう……あそこは部室じゃなくて物置だったみたい。僕は部長にはなれなかったみたいだ」

「部長? それはなんの話だし?」

 僕は耶麻川に、職員会議での決定を教えた。

 不登校気味の生徒を部長にしようという例のプロジェクトのことだ。

「ふうん、面白そう。私も明日、やってみるし。先生に言えばやらせてくれる?」

「鍵が合わないと部長にはなれないよ。それに耶麻川は優等生だろ。不登校じゃないと鍵を選ばせてもらえないよ。鍵を選んでも、運が悪いと外れだよ」

「大丈夫。私はね、あんたと違って運がいいし。あんたはズルばかりしてるから運が悪くてダメだったんだし。それに私の優等生は今日で終わりだし。明日から不登校を始めるし。一度やってみたかったんだし」

「学校を休んだら海に行くと綺麗だよ」

「ふーん。私はカラオケとゲームセンターに行きたい。行ってみたかったんだ」

 僕は耶麻川の監視の中、拭き掃除を終えた。

 教室の照明を消す。

 窓の外からの灯りを頼りに、真っ暗な校舎を歩いて行く。

 耶麻川とは校門まで一緒に歩いた。

 校門前の車道では、夜の中、街灯が白く光っていた。

 耶麻川は、僕と反対の、駅前の方に歩いて行った。

 去り際に耶麻川は、三つ編みを解き、黒縁メガネを外して、それをふくれっつらで車道に放り投げた。

 それからスタスタと歩き、電信柱にぶつかった。

 僕は呆然とした。

「なにしてるんだ? 馬鹿になったのか?」

「ふん、優等生は今日で終わりだし。視力なんてコンタクトにするから関係ないし。でもちょっと怖いし。私、本当にやってしまうのだろうか? 自分がやりたいことを、何でも率直にやってしったらどうなるのだろうか? そんなことしたら、本当に何もかもが後戻りできないように変わってしまうし」

 そんなことを呟きながら、ふらふらと駅前の方に歩いて行った。

 耶麻川は苦手だ。

 昔から何を考えているかわからない。