暗闇の中、ふいに何かの気配を感じた。

 幽霊か!

 部室の奥の壁際には、ギターや碁盤が置かれている棚があり、その左隣にはロッカーがある。

 そのロッカーの戸がきしんで開いた。そしてその中から、青く澄んだ光が溢れ出してきた。

 幻覚か!

 どちらか判別できないまま、澄んだ光の中から、背の高い女が現れたのを僕は見た。彼女は大きな鞄を背負っていた。

 ロッカーから溢れ出す光を背中に浴び、女の輪郭は眩しく輝いている。

 女はロッカーから降り立ち、完全に部室内に入ってくると、背後を振り返った。

 僕もそちらを見た。ロッカーは輪郭がぼやけ、ロッカーというよりも、青白い光を放つ門、ゲート……そういったものに見えていた。

 ゲートの向こう側と、こちら側は、青白い光の膜のようなものによって隔てられており、その膜の表面にはときおり、眩しい電流のスパークのようなものが走っていた。

 そのゲートの向こう側に、誰かがいた。

  青白い光の膜の向こうに、大きく力強い、綺麗な光を発している人影があった。

 その人影の声が、ゲートを通してこちらの部屋へと響いてくる。

「さようなら。私の大切な弟子、ミーニャ」

 その声には深みがあり、優しさがあり、男性の声のようでもあり、女性の声のようでもあった。

 一方、ミーニャと呼ばれた女は「やです、マスター、さよならなんてイヤにゃ!」と、ソファのすぐ側で、身振り手振りを交えつつ、日本語らしき言語を、ゲートの向こうの存在に訴えていた。それに連動して三角の大きな耳や尻尾が表情豊かに動いている。

 僕は思った。

 この人たち、意外に日本人なのか。

 いや……日本人どころか、地球人かどうか。

 耳? 尻尾?

 ミーニャと呼ばれた女の頭には、大きな猫の耳のようなものがついており、おしりからは尻尾が生えていた。

 ミーニャはすぐ近くでソファに転がっている僕に気づかず、ロッカーというか、光のゲート……と感じられるものの奥にいる人影に向かい、「私も最後までマスターについていくにゃ!」としきりに訴えていた。

 しかしマスターと呼ばれている存在は、次第に薄れていくゲートの光とともに、遠ざかり見えなくなっていく。

「ミーニャ。あなたに高きフリークエンシーの導きがありますように」

 その言葉を残し、眩しく輝いていた青白い光は、その奥の人影とともにふいに消えた。がちり、と音がしてロッカーは閉じた。再び部室の中は完全な暗黒状態に戻った。

「…………」

 なんだというんだ、今の幻覚は? 足の指を折り、暗闇に長時間閉じ込められたからといって、人間はこうも突拍子もない幻覚を見るものなのか?

 そう思ったが、声に出さなかったのは、万が一にも今見た光景が現実のものだったときに備えてだ。

 もし今見たのが幻覚ではない、現実のものだとすれば、謎の女、身長は僕より頭ふたつ高く、尾てい骨の部分から尻尾を外に出せる穴が空いたショートパンツを穿いた女がすぐそこにいるということになる。

 もしそれが幻覚でなかったら、大きな登山鞄のようなものを背負い、灰色のダウンジャケット状の上着を着て、頭に猫の耳のようなものをつけた、なかなか地球にはいないタイプの女が、僕のすぐ目の前に立っているということになる。

 正体のわからないものからは、隠れていたほうがいい。

「…………」

 だがそもそも、ロッカーから人が出てくるなんてことがあるんだろうか? やはり何もかも幻覚では?

 いや、ロッカーから人が出てくる、それは十分にあり得る事態だと、僕の頭の冷静な部分が告げる。

 なぜならあのロッカーは、人ひとりが隠れていられるほどに大きい。僕がこの部屋に入る前から、ミーニャとやらがあのロッカーに隠れていた可能性がある。

 そんなことをする動機が考えにくいなら、他の解釈もある。

 あのロッカーが、どこかよその空間に接続される、特殊なゲートのような機能を果たしていたという可能性がある。

 それは、ありえない考えだろうか。

 いや、科学的にもアリじゃないか?

 なぜなら、量子力学というものがある。以前、母にベッドの中で入門書を読み聞かせしてもらったことがある。

 それによれば、現実には無限の可能性があるという。パラレルワールドや、他の宇宙もあふれるほど存在しているという。

 よって、そこのロッカーが唐突に、別の宇宙か異次元へのゲートになること、それは科学的にもありえることのように思える。

 ていうか、さっきの光景を思い出す限り、そういうことなんじゃないのか。

「…………」

 いろいろ考えていると、どさっという鞄を床に置く音と、猫耳を持った女のひとりごとが聞こえてきた。

「泣いてても仕方ないにゃ。ここは夜なのかにゃ? そもそも夜とか昼とかの区別がない世界なのかにゃ? とにかく急いでホームスペースをセッティングしないと馬鹿になっちゃうにゃ。こうしてる間にもどんどん魔法の力が薄れてきているにゃ。ちゃんとできるか心配にゃ」

 猫女はゴソゴソと鞄を漁った。

 それから猫女は静かな声で何か呪文めいたこと呟いた。

「来てくださいにゃ、次元のディーヴァたち。そしてこの部屋の質料に聖なる紫の炎を浸透させ、高い光のフリークエンシーを保つようにしてくださいーにゃ!」

 瞬間、暗闇の中、空間の中、いたるところに、目では見えない、だが美しく繊細な羽を持っているっぽい、何かフワフワした小さな生命体が無数に現れた。目に見えないがなぜかその気配がありありと感じられた。その小さな生命体は部屋の四隅に集まり、そこで何かの作業を始めた。

「…………」

 しばらくしてその作業が終わった気配があった。

「ありがとう、次元のディーヴァたち。もう帰っていいにゃ」

 猫女がそう言うと、繊細なふわふわした存在たちの気配は消えた。

「…………」

 依然として部屋の中は真っ暗だったが、なんとなくまったりとした居心地のいい雰囲気に部屋全体が包まれたように感じられた。

「これでよしにゃ。当面はこの世界のフリークエンシーに同化しなくてすむはずにゃ」ミーニャは満足そうな声を発した。

「さて次は……真っ暗で何も見えないけど、さっき一瞬だけ見たところによれば、たしかここに、何か座れるものがあったはずにゃ」

 猫女がソファの端に手を触れた気配がした。僕は音を立てないよう、ソファの反対側に移動しようとした。間に合わなかった。猫女は僕の折れた足の上に勢い良く腰を下ろした。

「ぎゃああああ!」

「だれーにゃ!」

 猫女はほとんど何の予備動作もなく部屋の端の方に飛びすさった、そんな気配を感じた。真っ暗で何も見えないが、ささっという、俊敏な動物のジャンプを想像させる音だった。

「こんにちは!」

 ヤケになった僕は先手を取り暗闇の中に大声で挨拶した。

「え? え? ……こ、こんにちはーにゃ」

 隅の方から挨拶が返ってくる。

「あなたは誰なんですか? ここは僕の部室なんですけど!」

 足の痛みで頭がぼーっとしているからか、言葉に勢いがついていた。こうなったらもう、堂々と押していこう。

「いきなり部屋に入ってきて、あなた一体、なんなんですか? だいたいおかしいでしょう、そんなロッカーから入ってくるなんて」

「あ、あの、ごめんなさいにゃ。でも、この部屋にゲートが開いたのは、この世界の住民の許諾もあってのことにゃ。あなた、この部屋の管理人なのかにゃ?」

「ま、まぁ、僕はこのあと部長になる存在なので、そのようなものだけど」

「だとしたらあなたの許諾がすでにあったはずにゃ。でなければゲートは開かないにゃ。次元の上と下にいる両者がともに扉が開くことを望まなければ、次元間ゲートは決して開かないにゃ」

「許諾? そんなものした覚えは」ない、と、言いかけたが、この部室に入る前、僕は確かに、絶対に開くことのないドアすら奇跡的な力によってばーんと開く、などということを望んだ。

「ほら、何か思い当たることがあるんじゃないかにゃ。とにかくゲートが開いたおかげで私は安全な場所に緊急非難できたにゃ。私としてはマスターにずっとついていきたかったけど……助かったことは助かったので、あなたには感謝にゃ。にゃ……」

 ごく近い場所から、ミーニャの深呼吸の音が聞こえてきた。ソファの反対側に腰を下ろしたらしい。しばらくの間、呼吸の音が暗闇の中に響いていた。

 ふいにミーニャが声を発した。

「そういえば、さっき、凄い声が出たにゃ。もしかして怪我させたかにゃ? 私、結構重いーにゃ」

「あ、この足はもともと折れてて」

「そう……この世界も安全ではないと。どこも修羅場だということかにゃ」

「いや、ここはそれほど危険な場所では……」

「せっかくだから治してあげるにゃ! この足かにゃ?」

「あ、ちょっと、触らないで!」

「大丈夫にゃ」

 ミーニャは僕の足を強引に抱え込むと、靴を力任せに脱がせようとした。

「ちょっと! やめて、ストップ!」

 猫女は片手一本で僕を押さえつけ、もう片方の手で靴をぶんぶんと引っ張った。

「これ、脱がせにくいにゃ……あれ、紐がついてるにゃ」

 猫女は靴の紐を解くと、やはり強引に靴を脱がせた。僕は痛みで頭が真っ白になり、されるがままに靴下も脱がされた。

 猫女は僕の足の指をつまんだ。無免許の歯医者に奥歯をペンチでホールドされたような感覚が僕を襲った。

「やめて、やめて!」

「よっ、この角度かにゃ? あれ、間違えた、逆だったにゃ。ごめんにゃー、すぐ終わるから我慢するにゃ」

「お願い、やめて、だめ、だめだって!」

「ほら、まっすぐになった。次は隣の指にゃ」

「あー!」

「よしにゃ。これで骨はまっすぐになったにゃ。後はこれを魔法で治すにゃ」

 ミーニャは床の鞄から何かをゴソゴソ漁った。部屋は真っ暗で、僕の両目は涙に覆われていた。そんな中、ふいに穏やかな光が灯った。

「見てごらん。ほら、面白いにゃ」

 暖かい輝きが部屋の中を照らしていた。

 僕は涙を拭った。ミーニャは繊細にカットされた赤い宝石を僕の足の指に近づけていた。

「これは癒やしの力を持ったアミュレットにゃ」

 宝石が発する光に照らされたその横顔はほほえんでいる。

 僕ははっと息を吞んだ。

 なんて綺麗なんだろう。

 そのほほえみの中に、いつか夢の中で見たような、形を超えた美しさがあった。それは懐かしい、暖かな綺麗さだ。

 僕はミーニャに見とれた。痛みを忘れ、時間を忘れて。ふいに宝石が崩れて粉々になり、闇を照らす光が消えるまで、息を呑んで。

 また訪れた暗闇の中、ミーニャは僕の足の指を再びつまみ、前後左右に動かした。

「……あれ、痛くない」

「うふふ、驚いたかにゃ?」

「驚いた……」

「治っているのよ。魔法にゃ」

「そ、そうか。魔法か。魔法」

 魔法という言葉を口の中で何度か繰り返すと、さきほどからこの室内で起こっている物事の輪郭がくっきりしてきた。

 ロッカーから人間が出てきたことについての理論的な説明が、これで完全についたというわけだ。落ち着いたところでミーニャは名乗りを上げた。

「初めまして、私はミーニャにゃ! さっきは痛くしてごめんにゃ。私は一級エクスプローラーだけど、治すのはあまりうまくないにゃ! かといって何が得意ということもないけれど……あなたは?」

「僕は……僕はなんでも得意だよ」

「そうなの。凄いにゃ」

「時間をかけて、まじめにやってみたら、なんでも得意だと思う。学校でやることはどれもうまくできないけど……あ、名前か。名前はふみひろ」

「よろしくにゃ、ふみひろ」