露天風呂の岩にもたれて夜空を見上げると、湯煙の向こうに満天の星々が瞬いていた。たまに風が吹くと目の前の桜はかすかに枝を揺らし、沢山の散った花びらがお湯に浮かんで私の胸元まで流れてきた。

 私は天文部で部長をしていた。今日は夏合宿ということで、部員の勝本洋平の両親が持つ温泉付き別荘へと部員の皆でやってきたのだった。

 ちなみに部員は私以外、全員、幽霊部員だった。

 勝本は十年前にダンプカーにひかれ、それ以来、ダンプカーに復讐するために自爆霊となった。ダンプカーという鉄の固まりに人間が勝つには命を捨てた自爆的な攻撃をするしかないという信条に凝り固まって、それが現世への未練となって迷える霊となったのが自爆霊だった。

 部員そのニ、福山正夫は妖怪だった。寝ている人の枕をひっくり返すのが仕事だ。

 部員その三、岡山洋夫はドラゴンだった。財宝を守護するのが仕事だ。

 部員その四、舟場重陽は侍だった。ムラマサブレードという刀を大切に持っている。

 他に三名から十名ほどの部員がいると思われる。

 思われるというのは、その誰もが次元と次元の狭間のような場所に生きる電子の雲のような不確定なあやふやな存在だからだ。部員名簿はいつ見ても、どれだけ目を凝らして見てもブレていて、少しでも目を離すと書き換わってしまう。

 そんな中、私だけは幽霊ではなく人間のようだった。

 私は人間である、そう考えられるいくつかのファクターを列挙してみれば以下のようになる。

・肌が暖かい。

・体重がある。

・名前も記憶も性別もブレていない。(少なくとも私にはそう感じられる。名前はここには記す必要性を感じないが、性別は、肉体の形を参照する限り、女であると言っておく)

・お腹が空き、それを満たすために一日、ニ食から三食の食事と、その合間のお菓子タイムを必要とする。

・その他、肉体に起因すると思われる、さまざまな生物的、本能的欲求を持っている。

 以上のような要素から、私は私のことを、生きた人間である、少なくともそれに近い何かであると推理している。そして私以外は全員、幽霊のようである。だがそのことに大きな問題はなさそうだ。

 なぜかといえばこの世界、温泉は暖かく、景色は美しく、食べるものも豊富にコンビニや店に溢れるほどに用意されており、ビデオやゲームも店に潤沢に用意されており、店員は幽霊であり半透明だが、悪いことをするわけでもなく淡々と働いており、私一人が人間として生きて行くには、どちらかと言えば最高と言える環境であった。

「おい、岡山、ちょっとこっちこいよ」

 手招きすると、湯船の端の方でおとなしく座っていた銀色のドラゴンが私の目の前までやってきた。私は濃い茶色の硫黄泉の中に見え隠れしている両足を伸ばして、ドラゴンのお腹のでっぱりに乗せた。

「岡山、おまえ、私の足をちょっとマッサージしろよ」

 そういうとドラゴンは、両手の鋭い銀色の爪の背、丸くカーブしている部分を使い、ゴリゴリと、ちょっと痛い目のリフレクソロジーを私の足裏に施術しはじめた。

 このように幽霊たちとは意志の疎通をはかることができ、また、物質的に触れ合うこともでき、それでいて幽霊たちは物質的、肉体的な欲求を持っていないようだった。私という女性存在は、彼らの真ん中で堂々と裸体をさらしていたが、そのことから幽霊たちは何らかの刺激を受け取ったようでもなかった。

 ちなみに先ほどから命令口調なのは、私の性格が高圧的であったり、たったひとりの人間としてこの世界で暮らすうちに精神的バランスを崩してしまったわけではなく、単に、命令口調で命令しない限り、幽霊たちは、ただ私の周りにふわっとたたずんでいる以外、何のアクションも起こさないからだ。

「ちょっと勝本君、あのさ……」

 と、私の本来的な語り口で声をかけても勝本君は何の返事もしない。彼らと何かしらのコミュニケーションを図るには、このように鋭く命令するしかないのだった。私は不本意だがもう慣れてしまった高圧的口調で勝本君に圧力をかけた。

「勝本、お前もこっちに来て、なんかしろよ。そうだ、この状況について何かコメントでもしてみろよ。何がどうなってんだよ、これはよ?」

 学生服姿の勝本はドラゴンにマッサージを受ける全裸の私の隣にまで近寄ってくると、お湯の中、耳打ちするように私に顔を近づけ、空気のようなかすれた小声で囁いた。

「部長……このままでは」

「なんだよ? ええ? このままでは、なんだってんだよ。言ってみろよ」

 勝本はもごもごと口の中で日本語のような、日本語の物まねのような、言語のような何かの音を発すると、それきり黙った。

「ちっ、舟場、お前もこっちに来てなんかやってみろよ。なんでもいいから」

 私はきつく命令した。学生服姿の舟場は、私の目の前まで歩いてくると、そこで向きを変え、お湯を滴らせているムラマサソードに右手を添えると、少し腰を落とし、向こうの方、夜の闇を見据えた。

「舟場、お前、なんなんだよ、それは」

「姫はそれがしが守る」

「お前、何から私を守ろうってんだよ。言ってみろよ」

「姫はそれがしが守る」

 舟場はもう少し腰を落とすと、向こうの方を見続けていた。向こうの方からは何もやって来なかった。

 私はさまざまな姿形と、おぼろげなバックボーンを持った幽霊たちに囲まれ、全裸で温泉でぬくぬくと温められていた。

 ちなみに私はどうやら十代の人間の女のようだった。ようだ、というのは、この世界にそもそも月日の流れがあるのかどうかわからないからだ。しかしこの肌のすべすべした感覚や内面のフレッシュな感覚は、確かに十代の若者のように感じられた。

 それゆえであろうか、様々な強い感情や衝動や欲望を私は持っていた。今も実は内面からわき出しそうなムラムラがある。

 しかしそのようなソリッドな感覚が向かう先としての、他の人間がいないため、私の肉体の中からこんこんとマグマのように溢れ、沸いて出ようとしている欲望やエネルギーは、空中で分解し、その空間に吸収される。

 空間に吸収された私の生命体としてのエネルギーは、どうも空間にとって良い作用を持っているようだ。

 私が通ったあと、あるいは滞在中、空間たちは、生き生きと、活性化されていく感がある。

 今もこの露天風呂はこく一刻と進化し続けている。

 空の星と雲は、さきほどまではモノクロ映像のようなものだったが、今ではHDR撮影された、これぞ美という風景写真のような天地の雄大さと星々の無限さを表現していた。

 夜風に揺れる桜は、その揺れ方が、どんなスーパーハイテクノロジーコンピューターマシンでも計算できないだろうと言うような、ハイパーリアリスティックな揺れ方で、見るもの、つまり私を楽しませていた。

 ものすごく自然な揺れ方でありながら、一つ一つの花びらの舞い散る様子などが、高度な芸術的計算にのっとって行われているとしか思えない美しさで動いているのである。きっと黄金率やフィボナッチ数列などが高度に取り入れられた表現なのであろう。

 陶酔するのを禁じ得ない。

 しかもそれだけでなく、このお湯のちょうど良い温かさよ。しみじみと、私の肉体の奥深くまで、あたかも内蔵や骨やその中の骨髄や、細胞の一つ一つのDNAの、その一つ一つの情報の中にまで染み込んでくるような、愛情すら感じさせるその温かさといったら、ハナマルをあげてもいいぐらいだ。

 このままじっと何時間でも湯船に入っていてもいいし、この時間の止まったような温泉で、手のひらでお湯をすくって肩にかけるのも気持ちいい。そのようにすると、私の美しい肌の上を転がり落ちたお湯は、湯船の上に幾何学的な波紋を作り、それはどこまでも広がっていき、水面に漂う桜の花びらと、さらにその上を柔らかく覆う白い湯気との絶妙な動きのコンビネーションを作る。

 この情報量、この視覚情報を存在させるための計算量たるや、頭が下がる思いがする。

 というわけで、私としては、他の生きた人間と、感情的、物理的、思想的、生物的に交流したい、絡み合いたいという欲求は確かに強く持っていたが、その欲求のもう一つの受け取り手として、この世界の時空間という存在があり、それが私を包み込み、私をしっかり受け止めてくれていたため、それほど深く、欲求不満におそわれたり、やり場のないエネルギーを持て余したり、ということもなく、健康な生きた人間としてこの世界に過不足無く私は存在していると言えた。

 幽霊たち、この、遙か古代のすり切れた物語の登場人物のような幽霊たちにつきあい、彼らが語る、限りなく情報量がゼロに近づいた、コピーにコピーを重ね、輪郭がぼやけた物語、水をぶっかけられた画用紙に鉛筆で描かれていた絵のような滲んだ物語につきあい、部長として、用意される場で、部長らしく、あるいは、部長らしくなく振る舞うこと。それを仕事として私はこの世界で過不足無く存在していた。

 それは、たとえて言うなら、永遠に寝ていたいという夢が、ついに叶ったかのような。

 それは、たとえて言うなら、五億年、寝ていたいという夢が、やっと叶ったかのような。

 たとえて言うなら、それは、もう存在していたくないという夢が、知らないうちに、実は叶っていたとふいに気づいたかのような。

 そんな世界で、私は過不足無く存在していた。

 しかも。

 これがさらに引き続き、永遠に続けばいいなと、私は心から思っていた。

 あと、もう五億年ぐらい。

 ううん、五億年ではちょっと足りない。

 あと、無限を五億個、縦に積み重ねたぐらい。

 そのぐらい。

 でないと足りない。

 疲れを取るのに、とても足りない。

 無限ぐらいでは、私の心の疲れをとるのには、とても時間が足りないのだ。

 だから永遠の無限、それが私には必要だ。

 永遠の無限、その中で、ずっとふわふわ、休んでいることが必要だ。

 そして。

 そのような必要性が満たされる権利が私にはある。

 そうだ。

 そのような休息の必要性が、完全に、完璧に、いくらでも、満たされる権利、それが私にはあるのだ。

 *

 私は風呂からあがり、水滴を垂らしながら、脱衣場に向かった。

 脱衣場で、両手をあげて、幽霊たちに囲まれて、タオルで、幽霊たちに、体を拭いてもらった。

 藤のイスに座り、両足を前に伸ばし、幽霊たちに囲まれて、両足も拭いてもらった。

 パンツは煩雑になるので自分で履いた。

 それから浴衣を身につけ、帯を巻き、幽霊に、ドライヤーで髪を乾かしてもらい、ムラマサブレードに守られながら、闇の中を暗い蛇のように山肌に沿って続く旅館の廊下を、客室へと歩いていった。

 客室では、テーブルの上にサービスとして置かれていた、良い香りが出ると説明書きに書かれている蝋燭を、マッチを擦ってテーブルの上に灯し、すでに畳の上に敷かれていた布団に体を滑り込ませ、縁側のガラス戸の向こうの月を見ながら、「おい、添い寝しろよ」と、私は幽霊たちに命令した。

「…………」

 何人かが隣に横になった。

 それは熱くも冷たくもなく、なにかしらの複雑な意味をも持っておらず、意味を分類、構築、整理整頓、そういった作業をするのに完全に疲れ果てているらしい、飽き果てているらしい、私の心にとって、夜の空気のように優しかった。

「おい、おまえら、もっとこっちに寄れよ」

 私はもっと命令し、自分の肉体を幽霊たちに押しあてて、精神と肉体の奥深く、底の方からわき上がってくる、さまざまな欲望とエネルギーを、彼ら、幽霊たちの空白に、強く押しつけるように注ぎ込んだ。

 虚無に接している彼らは、飲み込んでいった。私の中から無限にあふれ出ようとしている情熱のような、破壊のような残虐さのようなエネルギーを。私は彼らの虚無に流し込んでいった。闇を切り裂くノイズのような、エレキギターのスクラッチのような、爆発のような、絶叫のような、あふれでる五トンの血液のような、あるいは何かしらキラキラした、もしかしたら星の輝きのような、そういう生命の破裂のようなものを。もしかしたら創造のためのガソリンのようなものを。新たな宇宙を作る力を。

 *

 無限のエネルギーを完全に放出しきった私は、また再び、無限のエネルギーの、めくるめく螺旋のドライブ回転のほとばしりが始まるそのときまで、空っぽになった空虚さの中に、柔らかな布団の中に、あらゆる筋肉の力を抜いて、漂っていた。

 そして、『もしエネルギー保存則が適応されるなら』と、眠りに落ちる五秒前に私は考えた。

 今、布団の中で、もぞもぞという蠢き、肉体を良い姿勢にセッティングしようとしている私から、幽霊たちがついさきほど吸収し、受け取った、あのすべてのエネルギーは、どこかの時空間か、あるいは時空間を超越した何かしらの存在の中において、何かしらの何かを、結実させるのではないか。

 その何かしらの何かによって、もしかしたら私の疲れも、いつか本当に癒されるときも、もしかしたら、遠いいつの日にか、あるいは思いがけない近い日にか、もしかしたら、あるのかもしれない。

 しかし今はまだ、休むときだ。

 好きなだけ休んでいいのだ。

 私は布団の中で両手両足を好きなようにのばし、幽霊たちに絡まって、大の字になって、いびきをかいて眠りに落ちた。

 私の寝息にあわせて呼吸をしている闇の空間の中、私は永遠の存在たるにふさわしい豊かな休息を、自らのうちより生み出しては、それを受け取り続けていた。