室内に足を踏み入れるとドアは背後で閉じた。ドアの上の方に付いているバネ的な機構が働いたのだろう。

 室内は完全な暗闇で、空気はかび臭く、ホコリっぽかった。

 足を前に踏み出すと、顔に何かが触れた。暗くて見えないが蜘蛛の巣のようだ。僕は思った。掃除が必要だな。でも電気はつくんだろうか。

「…………」

 ホコリを吸い込まないよう制服の袖で口元を覆いながら、スイッチを探した。

 壁際にそれらしいものを発見した。

 押してみると、ジリジリと音がして天井の蛍光灯がついた。

 数秒後に消え、また完全な暗闇になった。

「…………」

 僕はポケットからW-ZERO3を取り出し、画面の明るさを最大に設定した。

 手元から一メートルほどの範囲がうっすらと見えるようになった。

 その頼りない光源を頼りに、部室内をうろうろした。

 その結果、わかったこととしては、この、部室棟の一番奥の部室は、過去、囲碁部として使われていたに違いない、というのがひとつあった。

 なぜなら、壁際のスチール棚に碁盤が置かれているのを、スマホのかすかな青白い光が照らしたからだ。ということは、僕はこの後、囲碁部を再興することになるのだろうか。

 張り紙を出して部員を集めたりして、みんなに囲碁のルールを教えたりして。

 いや、まずは僕がルールを勉強する必要があるな。帰りに本屋に寄って、一冊、入門書を買っていこうか。もしかしたら母が囲碁に詳しいということもありえる。

 確かあの人は人工知能に関する何かを研究していたはずだ。囲碁ぐらいわかっていても不思議じゃない。

 なかなか面白いことになりそうだ。

 部員もバリエーション豊かな人たちが集まる。

 僕を筆頭として、魅力的な人々が全校から集合してくるというわけだ。

「いや、待てよ……」

 何かがおかしい。

 僕は頬に手のひらを当てて考え込んだ。

 この六畳ほどの、窓がない部室の真ん中には、布張りのソファーが置かれており、その奥には碁盤とエレキギターとアンプが置かれた棚があり、左手には流し台があり、台所のようになっている。

「……エレキギター?」

 この部室は囲碁部などではなく、実は軽音楽部だったのかもしれない。

 どちらが真実なんだろう?

 より詳しい室内調査が求められている。

 と思った所でW-ZERO3の充電が切れて僕の視界は完全に真っ暗になった。

 大昔のヴィンテージ品なので、電池が無くなるのが早い。

「仕方ないな。今日はもう帰るか」

 なんにせよ部室の鍵が開いたというところで満足しよう。

 詳しい調査は明日だ。

 僕は暗闇の中で慎重に振り返り、ドアのノブをひねった。

「ん? あれ……」

 ドアは開かなかった。

 鍵が壊れているのかもしれない。

 思いっきり力を込めてひねった。

 やはり開かない。

「…………」

 体重をかけて押してみたがドアは頑丈だった。まったく開く気配はない。

 体当たりをしたらどうだろう?

 もしかしたら開くかもしれない。

 だが、真っ暗闇の中で助走するのは難しそうだ。

 体当たりは最後の手段として取っておこう。

 それにさっきW-ZERO3がチラッと照らした室内の設備に、今の僕を救ってくれそうな物があった。

 僕は慎重にドアに背を向け、左の方向に移動した。

 そろそろと手を伸ばし、暗闇の中の、そこら辺にあるはずの流し台を探した。

 まもなく、手が冷たい金属、おそらくステンレスの流し台の縁に触れた。

 そこから更に手を奥の方に伸ばし、壁のあたりを探すと、壁から突き出ている四角い機械に手が届いた。その機械から出ているコードを探り、スイッチを入れた。

 瞬間、壁に取り付けられている四角い機械がオレンジ色の光を発し、さっきまで鼻の先も見えない完全な真っ暗だった部室内を赤く照らしだした。

 これはセーフライトというやつだ。

 写真をフィルムから現像するのに使う暗室に、よく設置されてるやつだな。太古の時代を感じさせる。

「しかし何だって、囲碁部か軽音楽部の部室に、セーフライトなんて設置されてるんだろう?」

 ここでまた僕は新しい可能性に気づいた。

 この部室は、実は写真部の部室だったのかもしれない……流し台も写真現像に必要なものだろうし、流し台の脇の、通常ならばキッチンコンロなどが設置されているスペースには、変な黒い機械も置かれていた。

 その変な黒い機械、それは引き伸ばし機というやつだ。写真をフィルムから現像するのに使うものだ。前にテレビのドキュメンタリーで見た。

 ということは、もう間違いない。

「そうだ、この部室は囲碁と音楽が趣味の部員がいた写真部なんだ!」

 と、わかったことを意味もなく声に出した途端、音もなくセーフライトが消えた。

 そっちの電球も切れかけていたらしい。

「…………」

 また室内は真っ暗になった。

 ドアの隙間から一条の光も差し込まないのも、窓がないのも、ここが暗室として使われていたことを考えれば腑に落ちた。

「…………」

 僕は暗闇の中で腑に落ちつつ、しばらくの間、ぼーっと立っていた。

 どのぐらい時間が流れたんだろう?

 この何も見えない空間では時間感覚がおかしくなる。

 だんだん怖くなってきた。

 僕は両手を前に伸ばしドアを探した。

 記憶ではここらへんでドアに手が触れるというあたりまで近づいたはずだが、両手を目一杯前に伸ばしても何にも触れなかった。

 もう一歩、前に足を踏み出したところで、指先がドアと思われる冷たい物体に触れた。

 押してみたがやはり開かない。

 足で軽く蹴った。

 ガーンという音が暗闇の中に木霊した。

「誰かー、誰かー」

 叫んでみたが誰の気配もない。

 旧校舎には、誰も来ないのだ。

「どうなってるんだよ、これは」

 僕は文句を言った。

 そして、もう一回、今度は全力で扉を蹴った。

「うっ!」

 つま先に走った激痛によって口から悲鳴が漏れたのと同時に、足を抱えてうずくまろうと体が自動的に折れ曲がり、それによって額を強く扉にぶつけ、その衝撃でのけぞり、バランスを崩し、後ろに倒れ、後頭部を床に打った。

 僕は暗闇の中、上下の方向感覚を見失いながら床を転げ回った。

 普段、明るい場所で扉を蹴るときは、扉と足との位置関係がわかっているため、ヒットの瞬間、脳が自動的に筋肉を硬直させることによって足へのダメージを防ぐことができるのだが、この暗闇の中での蹴りだと、衝撃はほぼすべて骨にストレートに伝わり、僕の足の指は、折れたかもしれなかった。

 無重力に似た暗闇の中を僕はゴロゴロとのたうちまわった。

 ゴツンと頭が何かにあたった。

 触ってみると、どうやら部室の中央にあったソファーの脚のようだ。僕は真っ暗闇の中、ソファーに這い上がり、そこで仰向けになって、荒い息をつきながら痛みが引いていくのを待った。

 もし骨が折れていなければ痛みは引いていく。

 折れていたら痛みは強まっていく。

 確率は二分の一だ。

 これは花占いの一種と考えることができる。

「折れてる、折れてない、折れてる、折れてる……」

 明らかに折れている。

 痛みが強すぎてよくわからないが、右足の端の方、つまり小指と薬指のあたりの痛みが一呼吸ごとに強くなっていく。熱を持って腫れてきた感じがする。

 靴紐を解こうとして靴に触れた瞬間、頭のてっぺんまで響くような痛みに襲われた。怖くてそれ以上、靴に触れなくなった。

 もし靴を脱ぐことができたとしても、この部屋は真っ暗だから、せいぜいでたらめに折れて曲がっている指を引っ張って伸ばすぐらいの治療しかできない。そんな恐ろしいこと、怖くてできない。かといってこのままだと歩くこともできない。

 激痛に耐え、床を這ってドアの所まで行ったとしても、開けるすべがない。

 ということは、ここでこうして、ソファーで呻いているのが、今の僕にできる最高の行動ということになる。

「良かった。僕は何も間違ってないな。ふう」

 僕は安堵の溜息をついた。

「誰かー、助けてよ!」

 たまに叫んでみたが、誰からの返事もなかった。

 一時間か、十時間か、わからないけれど、時間が流れていった。