僕が廊下に出ると、吉岡先生はうつろな目で、左手のスマートフォンを一生懸命にこすっていた。こするたびに、何かチャリンチャリーンという、ゲーム的な音が聞こえてくる。

 僕は言った。

「先生、来ましたけど」

「おう、悪いな。ちょっと待っててくれ」

 五分ほど待つと、何かのゲーム的な作業が終わったようだ。吉岡先生はスマートフォンをポケットにしまうと、僕に笑顔を向けた。

 説教するつもりではないようだったので、僕は安心し、どこかに向かって歩きはじめた吉岡先生の後をついていった。

 背後から耶麻川の声が聞こえた。

「とにかくすぐ戻ってきてよ! そんなズルばかりしていたら、皮膚がズルズルに溶けるし!」

 そんな呪いは聞かなかったことにして、大勢の生徒が行き来する廊下を、奥へ奥へと歩いて行った。

「…………」

 だんだんすれ違う人の数が少なくなっていく。

 ついに僕と吉岡先生は、三階の廊下の終点までたどり着いた。

 吉岡先生は、いつも締め切られている防火扉を開けた。

 そしてその奥、木造の旧校舎へと続く連絡口に足を踏み入れていったところで、僕の二歩先を歩いている吉岡先生は、ふいに意味のわからないことを言った。

「一国一城の主になってみないか、ふみひろさんよ」

「なります」僕は歩きながら即答した。

「おっ……いい景色だ、フォトジェニック!」

 吉岡先生は立ち止まると、ポケットからスマートフォンを取り出した。そして廊下の奥にカメラを向けると写真を一枚撮った。

 僕は聞いた。

「何をしてるんですか?」

「Facebookに載せるんだよ。このホコリの感じがいいよな」

「そうですか……」

 この旧校舎は資料室や物置として使われているだけで、今はほとんど誰も来ない。確かに空気はホコリっぽい。

 吉岡先生はスマートフォンをいじり、写真を加工しながら言った。

「廊下の窓から差し込む夕日が、あたかもダイヤモンドダストのようにホコリをきらめかせている。君たち若者はこのホコリのようなものだ。自分のことをちっぽけな存在だと思ってるだろう? だが、汚いゴミみたいな君らも、光が当たれば一瞬だけ輝くんだよ」

「いや、別に僕、自分のことをちっぽけだなんて思ったことないですよ」

「よし、アップロード完了。どれだけの数の『いいね!』が付くと思う?」

「知りませんよ、そんなこと」

「二十個は付かないと、先生は自分のことを認められないんだ。せっかくアップロードした写真が人に褒められないと、先生はどうしても死にたくなる」

「……自分のありのままを愛したらいいと思いますよ」

「先生は君ら若者の悩みのことなんて何にもわからない! だがどうせ性や家庭や友人との関係や将来やアイデンティティのことでグチグチ悩んでるんだろ。そして悩めば悩むほど心は汚れていく。だから若者は邪悪だ。教師をやっていてつくづくそう思う」

「だから別に何も悩んでないですってば」

「だが薄汚れてる君らが、つかの間、輝いた気分になれる場所を提供することぐらいはできる。それが教師の役目だ。こっちがこんなに譲歩してるのに『ダルいから、部活動なんて、何もやりたくない』だなんて、そんな悲しいこと言うなよ!」

「言ってませんよ! さっき『なります』って即答したじゃないですか」

「見たところ、ふみひろくんは方向性を見失ってるタイプだ。何か自分の力を注げるものがあれば学校にも来るのではないかな?……趣味は大事だぞ。先生も一度は燃え尽き症候群にかかったが、学校の様子を逐一ネットにアップロードすることで、なんとかモチベーションを保ってられてるという側面がある。女生徒の写真をアップロードすれば、かなりの数の『いいね!』が付く」

「そんなことして大丈夫なんですか? ここはどこですか?」

「ふふ、いい質問だ。どうやら、君たち若者の、ネット漬け、スマホ漬けになって健全な機能を停止している脳が、やっと目の前のリアルな現実に興味を持ってきたようだな。ふふふ、ここは旧校舎の部室棟だよ。おおっと、もうこんな時間か、コインを回収しなければいけない、ちょっと待ってくれ。先生は絶対に課金はしないと誓ってるんだ」

 吉岡先生はスマートフォンをいじって、チャリンチャリーンという音を響かせた。

「…………」

 五分後、吉岡先生はスーツの左のポケットにスマートフォンをしまうと、右のポケットから鍵束を取り出した。

 鍵束。

 たくさんの鍵が西日を反射してきらきらしている。

 吉岡先生は言った。

「ふふふ、気になるだろう。この鍵束には旧部室棟の全部室と、全教室の鍵が束ねられている。この中から!」

 急に大声を出されて、僕はビクッとした。それに釣られたのか先生もビクッとした。

「ひ、ひとつ好きな鍵を選びなさい。だが慎重に選べよ。これで運命……すなわち君のデスティニーが決まるんだ。選んだ鍵で開く部室を探すのだ。……だが開くかな? この部室棟にドアは五個。そしてこの旧校舎の鍵束に、鍵はたぶん三十個以上ぶらさがっている。選択にやりなおしは無しだぜ、ふみひろさんよ」

 僕はたくさんの鍵の中から、適当にひとつを選んで鍵束から抜き取ろうとした。

 が……。

「それは明らかにダメだっ!」止められた。

「え? じゃ、これは?」

「それもダメだと思うが……もうヒントは無しだ。つまり今、君の運、ラックのパラメータが試されているということだ。鍵の総数、だいたい三十個を部室の数の五で割ると、その答えは……ちょっと待っててくれ」

 吉岡先生はまたスマートフォンを取り出し電卓で計算を始めた。

「そう……三十割る五の答えは六。つまり六分の一の確率でこの部室棟の扉が開く。そのとき君は、その部室の部長になることができるのだ。この前の職員会議で、この旧校舎を有効活用しようというアイデアが出たというわけだ。その結果として生まれたのが、不登校の生徒を鍵当てゲームで部長にしてみようという計画だ」

「それはいい計画ですね。楽しそう。部長という大任、ぜひ僕にまかせてください!」

「お前、意外にノリがいい奴だったんだな。そんなんだったら不登校なんてするなよ……だが他のクラスにも不登校の生徒がいるから、そいつらにもチャンスを与えなきゃいけない。俺的には他のクラスの生徒のことなんてどうでもいいが、俺たちのA組から順に、この鍵当てゲームでランダムに部長を決めていくというのが職員会議での決定だ。逆らう訳にはいかない。そんなわけで、悪いがこれ以上のヒントを出すことはできないのだ。運試しで鍵を束からひとつ抜き取ってくれ」

「えー、そんな、ひどい。ここまでやる気にさせておいて……」

「もし鍵が開かないとき、君は今までと同じ、通常の不登校気味な生徒を続けることになるだろう。だがそれはそれでいいだろう。先生は不登校もひとつの生き方としてアリだと思う。何かの深い悩みがあるんだよな。それを抱えて生きていくのも人間らしい」

「だから本当に、悩みなんてなくて、僕の不登校はただ、なんとなくなだけで……」

「おっとそこまでだ! 先生は生徒との感情的な交流は苦手なんだ。おしゃべりはそこまでにしてもらおうか。たぶん鍵束の端のほうが部室の鍵だと思うが先生にも確証がない。適当に選んで、もしもドアが開いたら、あとで職員室に報告に来てくれ」

 僕は鍵を束の端のほうから抜き取った。

 吉岡先生はそそくさと去っていった。

 部室棟に取り残された僕は、右手の小さな鍵を見下ろした。

「とにかく……開くドアを探してみるか」

 部室棟は全体が木造で、廊下の奥に向かって右手側には窓が並んでおり、左手には部室のドアが並んでいた。

 僕は思った。

 絶対に部長になりたい。

 鍵当てゲームによって、この状況に強いギャンブル性とプレミア感が生じていた。

「僕をこんな気にさせるだなんて、職員会議はよっぽどの知恵者の集団に違いないな……」

 ひとりごとを呟きながら、一番手前の部室のドアに向かう。

 鉄製のドアのノブには一般的な鍵穴が空いていた。

 どのドアにも表札は無く、もともと何の部室に使われていたのかを表す情報は何もなかった。

「開くかな、どうかな?」

 一つ目のドアに鍵を差し込んでひねってみた。

 ダメだ、回らない。

「こっちはどうかな?」

 二つ目、三つ目のドア、四つ目のドアと、次々に鍵を差し込んでいったが、どれにも合わない。

 福引で福引券が次々とティッシュペーパーに交換されていく感覚、それに近いものを味わった。

 残りはこのドアだけだ。

 僕は部室棟の一番奥の、ホコリが厚く溜まって蜘蛛の巣が張っているところにある、最後のドアに向かい合った。

 でもきっと、ここの鍵も開かない。

 そんな強い予感があった。

 その予感が現実化することを調査するロボットのように、定められたルートから一歩も外に踏み出せない模型電車のように、僕は鍵を鍵穴に近づけていった。

 だが、そこでふと思いとどまった。

「…………」

 こんな流れ作業では、なんの変化も起こらない。

 僕がここにいるのは、何かに変化を起こすためだ。

 そんな閃きがあったからだ。

 でも、すでに僕は鍵を鍵束から選び終えている。

 もう未来は決まっている。

 このドアが開くか開かないかはもう決定している。

 それを動かすことは僕にはできない。

 でも、自分の気持ち、それを動かすことはできるかもしれない。

 さっきまでは、この鍵は開かない予感がしていた。

 少なくとも、その予感を変えることぐらいはできる。

 僕は未来の予感を、『扉は開かない』から、『開く』に切り替えようとした。

「開く、開く、開く、開く、開く、開く、開く、開くったら開く!」

 そして、ありとあらゆるドアが開くことを頭の中でイメージした。絶対に開くことの無いドアがあったとしても、それすら奇跡的な力によって開くことをイメージした。

 そして、再び鍵を鍵穴に差し込む、その寸前でまた手を止めた。

「やっぱり……何も開かない気がする」

 心を変えるのは、ときとして少し難しい。

 それもしかたない。

 できることは全部やった。

 あとはもう流れに身を任せよう。

 僕はステンレス製のドアノブに、右手に持った銀色の鍵を差し込んだ。

 軽く力を込めてひねると、心地よい感触とともに、かちりと音を立てて鍵は開いた。

 心臓の鼓動が高鳴り始めた。