翌日、僕が目を覚ますと、家の中には誰もいなかった。

 この家を使う二人のうち、ひとりが仕事に出かけているということだ。

 母は数学的な知識を使う専門的な仕事をしている。僕は学問的なことが苦手なので、詳しい内容についてはわからない。

「…………」

 自室から出て居間のテーブルを見ると、パンとゆでたまごとイチゴが皿に盛られていた。母が近くにいなければ、僕はなんでも食べきることができる。急いでそれらを食べ、制服を着て、玄関を出る。

 天気が良かったので海へと向う。

「…………」

 堤防を乗り越えると、そこは砂浜だ。

 穏やかな波の音が響いている。

 砂の上には流木や、外国語が書かれたプラスチック製容器のふたや、真っ白な鳥の羽が落ちていた。その合間をかもめが足跡をつけながら歩いていく。

 かもめが向かう先を見ると、誰かが作った巨大な砂の城が崩れかけていた。

「…………」

 僕は巨大な砂の城の脇を通ると、波打ち際のテトラポッドに腰を下ろした。

 母のおさがりの古びたスマートフォンを鞄から取り出して時間をチェックする。

 午前九時、平和な気分だ。

 このまま陽を浴びてじっとしていたい。

「…………」

 目を閉じると、太陽の暖かさや手のひらの下のコンクリートの感覚などが、寄せては返す波として感じられた。

 いい気分だ。

 だが、ふいに母との約束を思い出した。約束。なぜ守らなければいけないのか、それはよくわからない。

 しかし、学校には行ったほうがいいのかもしれない。

『学校に行かないと悲惨なことになる、あるいは他人を悲惨な目に遭わせる』と、昔、誰かが言っていた。それが本当かどうかはわからない。

 しかし、約束は約束だ。

 それはそうだ。

 約束は約束だ。

 そんな呪文のような言葉に押され、僕は学校に向かおうとした。

 でもまずは、崩れかけているあの砂の城を修理していこう。

 靴と靴下を脱いで波打ち際まで歩いていき、足元の海水に濡れた砂を手ですくって、城の崩れているところに貼り付ける。

「ふう……うまくできたな」

 二回り大きくなった砂の城の前で、僕は額の汗を手の甲で拭った。

 もしこの城に誰かが住んでいたら、崩壊間際だった城が奇跡のように修復されたことに驚いているだろう。

 僕はさらに居住性を高めるために、城に中庭を作ることにした。

 城の中央部の砂をすくい上げ、下へ下へと掘り進んでいく。しばらくすると、大きな城の真ん中に、上から下まで光が差し込む空間ができた。

 これにより居住者は、城に守られている安心感を得ながら、同時に、爽やかで気持ちいい陽の光を浴びることができる。

「よし、そろそろ行くか……」

 僕はいい仕事をした満足感に浸りながら、海水でベタつく足を洗うため、一度帰宅してシャワーを浴びた。

 それから、学校がある市街地の方に向かった。

 学校に着くと、お昼休みが始まっていた。

 職員室で担任の教師に遅刻を報告した。

 確か吉岡という名前だったはずの、三十歳ぐらいの男性教師は、竹製の弁当箱と、その脇に置かれたスマートフォンのゲームから顔を上げると、腕を組み『どうしたものか』という表情で僕を見た。

 僕は過去のいくつかの恐ろしい記憶を思い出した。

 ときに教師は人を脅す喋り方をし、僕はよく泣かされたものだった。そのことから考えてみると、この吉岡先生も、僕に何か怖いことを言うつもりなのかも。

 僕は自分の精神を守るため、さっと背を向けて教室に向かった。

 教室では大勢の生徒が何かの活動をしていた。

 ここに紛れ込んでいれば少しは安全だろう。

「…………」

 しばらくすると午後の授業が始まった。午後には数学と物理の授業があった。

 僕は異様な形をした記号についての説明を聞いた。

 居心地が悪かった。

 椅子が柔らかければいいのに。

 長く苦しい時間はなかなか過ぎていかなかった。

 途中、ふいに気を失いそうな眠気に襲われ、実際、何度か気を失った。

 同じころ、教室の端の方から、ガタンという大きな音がした。

 たぶん誰かが居眠りして、足元の床が抜ける夢でも見たのだろう。他の誰かもこの眠気を感じているのかと思うと、少し気が楽になった。

 やがて数学が終わり、物理が終わり、ついに放課後になった。

 鞄を背負って急いで帰ろうとしたら、教室の後方スペースで耶麻川みなみに呼び止められた。

 僕にとっては珍しいことだったが、耶麻川みなみ、この女の名前は覚えていた。近所に住んでおり、幼稚園のころから何かと関係があり、そのたびに何かと衝突することが多いからだ。

 人の名を覚えるのが苦手な僕でも、頭に焼き付いてしまっている。

「ふみひろくん」

 黒髪を三つ編みにして、黒縁のメガネをかけたそいつは、なぜか怒った顔をしていた。

 僕は若干の恐怖を感じたが、負けないように見つめ返した。

「なにさ? 何か文句でも?」

「三班は教室の掃除だし」

「そうかー」

「そうかーじゃないし!」

 いきなりの大声に僕の体はビクッとなった。

「ふみひろくん、今日も勝手に帰るつもりだったんでしょ。あんた、私が学校に来るたび必ず掃除をサボってるし。昔から何かって言うとズルしてばかりだし。ズルはダメだし! ズルはダメだし! 何事もまじめにやらなきゃダメだし!」

 そう自説を繰り返すと、耶麻川は僕に雑巾を突きつけた。

 真正面から視線が合った。

 強い圧力を感じる。

 跳ね返すことも、逸らすこともできない。

 この汚らしい布切れを受け取るしかないのか……と、気持ちが負けそうになったそのとき、担任の吉岡先生が、廊下から僕を手招きしているのが見えた。

 僕は気をとりなおし、耶麻川を見つめ返した。

「ズルはダメ、それは君の考えであって、僕のとは違う。僕の考えは、ときとして、他人の言うことは無視していいということだ! 優等生ぶりっこ、ばーか、ばーか」

 僕は自説を断言し、ついでに捨て台詞を残し、耶麻川の横をすり抜けて廊下に向かった。

『どんな言葉でも強く断言すれば力を持つ』と、いつか母がベッドの中で読み聞かせしてくれた本にあった。

 確かに、それは真実だ。

 ズルはダメとか、一見もっともらしく聞こえるけど、それだって、昔の誰かが断言したことが、時間と空間の中で、今になるまで木霊しているだけだ!

 だがすれ違う瞬間、耶麻川は、不穏な言葉をささやいた。

「優等生? ふん、そんなこと今日で終わりだし。今日から私はやりたいことなんでもするんだし」

「どういうことだよ?」

「しばらく前から懐かしいフリークエンシーを感じるし」

 フリークエンシー?

 英語だろうか。

 その意味は、周波数。

 なんにせよ意味がわからない。僕は廊下に出た。