翌日、僕が目を覚ますと、家の中には誰もいなかった。

 この家を使う二人のうち、一人が仕事に出かけているということだ。

 母は数学的な知識を使う専門的な仕事をしている。僕は学問的なことが苦手なので、詳しいことはわからない。人間的なこともわからない。

「…………」

 自室から出てリビングのテーブルを見ると、パンとゆでたまごとイチゴが皿に盛られていた。母が近くにいなければ、僕はなんでも食べきることができる。急いでそれらを食べ、制服を着て、玄関を出て、自転車に飛び乗った。

 そして海へと向かった。

 海にはかもめがいて、砂の上を歩いていた。その向こうで、誰かが作った巨大な砂の城が崩れかけていた。

 僕は自転車を降り、テトラポッドに腰を下ろした。

 母のお下がりのW-ZERO3という古びたスマートフォンを鞄から取り出して、見ると午前九時だった。

 平和な気分だ。

 このまま陽を浴びてじっとしていたい。

 目を閉じると、太陽の暖かさや手のひらの下のコンクリートの感覚などが、寄せては返す波として感じられた。いい気分だった。

 だが、ふいに母との約束を思い出した。約束。なぜ守らなければいけないのか、それはよくわからない。

 しかし、学校には行ったほうが良いのかもしれない。行かないと悲惨なことになる、あるいは他人を悲惨な目に遭わせると、誰かが言っていたのを聞いたことがある。悲惨。それに何の問題があるのかはよくわからない。

 しかし、約束は約束だ。

 それはそうだ。

 約束は約束だ。

 そんな呪文のような言葉に押され、僕は学校に向かうことにした。

 でもまずは、崩れかけているあの砂の城を修理していこう。

 靴と靴下を脱いで波打ち際まで歩いてゆき、海水に濡れて黒くなっている砂をすくって、砂の城の崩れているところに貼り付けていった。

「ふう……うまくできたな」

 二回りは大きくなった砂の城の前で、僕は額の汗を手の甲で拭った。もしこの城に誰かが住んでいたら、崩壊間際だった城が奇跡のように修復されたことに驚いているだろう。いずれゆっくりと潮が満ち、波が城を洗い流し、城を構成していた砂粒はこの砂浜全体とまたひとつになるが、そのときまで、城の住人には今後の身の振り方をゆっくり考える時間が与えられたというわけだ。

「よし、そろそろ行くか……」

 いい仕事をした満足感に浸りながら、僕は海水でベタつく足を洗うため、一度帰宅してお風呂に入った。

 それから、学校がある市街地の方に向かった。

 学校につくと、お昼休みだった。

 職員室で担任の教師に遅刻を報告した。

 確か吉岡という名だったはずの、三十歳ぐらいの男性教師は、竹製の弁当箱と、その脇に置かれたスマートフォンのゲーム画面から顔を上げると、腕を組み、「どうしたものか」という表情で僕を見た。

 僕は過去のいくつかの恐ろしい記憶を思い出した。

 ときとして教師は脅すような喋り方をし、僕はよく泣かされたものだった。そのことから考えてみると、この吉岡先生も、僕に何か怖いことを言うつもりなのかも。

 僕はさっと背を向けて教室に向かった。

 教室では大勢の人間が何かの活動をしていた。

 ここに紛れ込んでいれば少しは安全だろう。

「…………」

 しばらくすると午後の授業が始まった。午後には数学と物理の授業があった。

 僕は異様な形をした記号についての説明を受けた。

 居心地が悪かった。

 椅子が柔らかければいいのに。

 長く苦しい時間が過ぎた。途中、ふいに気を失いそうな眠気に襲われ、実際、何度か気を失った。

 同じ頃、教室の端の方から、ガタンという大きな音がした。

 たぶん他の誰かが居眠りして、足元の床が抜ける夢でも見て、ビクッとなって起きた音だろう。

 そして、とうとう数学が終わり、物理が終わり、放課後になった。

 急いで帰ろうとしたら、耶麻川みなみという名の、クラスの女子に呼び止められた。

 僕にとっては珍しいことだったが、耶麻川みなみ、この女の名前は覚えていた。

 近所に住んでおり、幼稚園のころから何かと関係があり、そのたびに何かと衝突することが多いからだ。

 人の名を覚えるのが苦手な僕でも、その名が頭に焼き付いてしまっている。

「ふみひろくん」

 黒髪を三つ編みにして、黒縁のメガネをかけたそいつは、なぜか怒った顔をしていた。

 僕は若干の恐怖を感じたが、負けないように見つめ返した。

「なにさ? 何か文句でも?」

「三班は教室の掃除だし」

「そうかー」

「そうかーじゃないし!」

 耶麻川はいきなり大声を発した。僕の体はビクッとなった。

「ふみひろくん、今日も勝手に帰るつもりだったんでしょ。あなた、私が学校に来るたび必ず掃除をサボってるし。昔から何かって言うとズルしてばかりだし。ズルはダメだし! ズルはダメだし! 何事もまじめにやらなきゃダメだし!」

 そう自説を繰り返すと、耶麻川は僕に雑巾を突きつけてきた。

 真正面から視線が合った。

 強い圧力を感じた。

 跳ね返すことも、逸らすこともできない。

 嫌だけど、この汚らしい布切れを受け取るしかないのか……と、気持ちが負けそうになったとき、担任の吉岡先生が、廊下から僕を手招きしているのが見えた。

 僕は気をとりなおし、耶麻川を見つめ返した。

「ズルはダメ、それは君の考えであって、僕のとは違う。僕の考えは、ときとして、人の言うことは無視していいということだ! 優等生ぶりっこ、ばーか、ばーか」

 僕は自説を断言し、ついでに捨て台詞を残し、耶麻川の横をすり抜けて廊下に向かった。

 どんな言葉でも強く断言すれば、力を持つと、いつか何かで読んだ。

 確かに、そんな気がする。

 ズルはダメとか、一見もっともらしく聞こえるけど、それだって、昔の誰かが断言したことが、時間と空間の中で、今になるまで木霊して、反響して、響き続けているだけだ!

 だがすれ違う瞬間、耶麻川は、「優等生? ふん、それは今日で終わりだし。今日から私はやりたいことなんでもするんだし」と、不敵に僕にささやいた。

「どういうことだよ?」

「しばらく前から懐かしいフリークエンシーを感じるし」

 フリークエンシー? 英語だろうか。その意味は、確か、周波数。

「…………」

 なんにせよ意味がわからない。

 僕は廊下に出た。