そのときバラの香りと車のヘッドライトが僕の意識のほとんどを占めていた。

 夜の空は町に黒くふたをしていた。星は出ていなかった。

 外から見る家の窓は暗く、白いレースのカーテンがかかっていた。

 さっきまで乗っていた青い車のヘッドライトは、車庫のシャッターをまぶしく照らしていた。

「…………」

 僕はナイロン袋に入ったバラの鉢植えを右手にぶら下げ、青い車の脇に立っていた。運転席にはまだ母が座っていた。母はリモコンで車庫のシャッターを上げると、車を中に入れていった。

 少し夜風が吹いた。そして僕は我に返った。

「…………」

 バラの花が傷つかないよう気をつけて、僕は郊外の住宅地にある小さな家のドアを開けた。

 バラの鉢植えは玄関の靴箱の上、金魚鉢の隣に置いた。ガラス玉の上を泳いでいた金魚が身をひるがえした。

 ブリキのジョウロでバラに水をかけていると、母が車のキーを指で回しながら玄関に入ってきた。

「ふみひろ、あまりバラに水をやりすぎるんじゃないわよ」

「どうして?」

「わかんないけれど、誰かが言ってたから」

 夕食の席では僕の生活について話し合った。

 主に不登校の問題について話し合った。

 この家には僕と母の二人しかおらず、僕はほとんど口をつぐんでいた。居間には母の声だけが響いていた。

 僕が口を開くのは、できれば食べきりたい、ご飯やおかずを口に押しこむときだけだった。テーブルには僕と母が手分けして作った、ゴボウとトマトと、その他いろいろな野菜が煮込まれたものが置かれていた。

 色は全体的に赤かった。

 美味しいはずなんだけど、味はよくわからなかった。

 テーブルの向かいに座る母は、ずっとひとりで何かを話していた。

 母の肩の向こう、居間の壁では、キーフックに車の鍵がかかっていた。キーフックの斜め上には、額装されたキルティング製の壁飾りがかかっていた。

 母が高校生のころ工作教室で作ったものらしい。

 額縁の中には藍色の布で作られた夜空が広がっている。

 夜空にはクリスタル・ガラスのビーズでできた星々が浮かんでいる。ひときわ目立つ青い星と、白く輝く星団。そして柄杓の形をした星座。それらが銀色の糸で、藍色の夜空に縫い付けられている。その夜空の下には小さな家が建っていて、それは三角の屋根と四角の胴体が、組み合わさってできている。

 僕は閃いた。

 世の中のすべてのものは、こういった簡単な図形の組み合わせから成り立っている。昔、誰かがこの単純な形を考えたのだ。

 それがくっついたり、分解されたりして、複雑なパターンが生まれていって、それが今の世界になったんだ。

「…………」

 母の顔は小さくて丸い。丸いものには綺麗さと柔らかさを感じる。学校には四角いものが多い。それは尖っている。

「ねえ、ふみひろ。今何考えてるの?」

「丸いな、って」

「聞いて、ふみひろ。高校生は学校に行かなきゃいけないのよ。ママはあまり行かなかったけど、みんな行かなきゃダメだって言ってるわよ。明日は絶対、行ってみてよね」

「わかった。必ず行く」

「一時間目からよ、絶対」

「うん、絶対に、一時間目から行く」

「わーい、愛してる、私のふみひろ! 大きくなったら結婚しようね!」

「うん、するする」

 いつもと同じような結論を僕と母は下した。

 僕と指切りした母は笑顔を浮かべ、僕を抱きしめてから唇にキスをした。それから、食器をテーブルから下げ始めた。

 僕は母を悪い気にさせたくなかったので、いつも夕食は食べきりたいと思っていた。けれどその夜も、食べきることはできなかった。

 必ずふた口分のご飯を茶碗に残してしまう。

 前もって茶碗に盛る量を少なめに調整しても、必ずふた口分だけご飯が残る。

 なぜかはわからない。

 ストレスかも。

 だが何の? 僕の家庭には、何の問題もないはずだけど。