そのときバラの香りと車のヘッドライトが僕の意識のほとんどを占めていた。

 夜の空は黒く町にふたをしていた。星は出ていなかった。

 外から見る家の窓は暗く、白いレースのカーテンがかかっていた。

 さっきまで乗っていた青い車のヘッドライトは、車庫のシャッターを、まぶしく照らしていた。

 僕はナイロン袋に入ったバラの鉢植えを右手にぶら下げ、青い車の脇に立っていた。車の運転席にはまだ母が座っていた。母はピンク色の洋服を着ていた。母はリモコンで車庫のシャッターを上げると、車をゆっくりと中に入れていった。

 少し夜風が吹いた。

 そして僕は我に返った。

 軟らかそうなバラの花が傷つかないよう気をつけて、僕は郊外の住宅地にある、一階建ての、小さな家のドアを開けた。

 バラの鉢植えは玄関の靴箱の上、金魚鉢の隣に置いた。ガラス玉の上を泳いでいた金魚が身をひるがえした。

 僕が小さなブリキのジョウロでバラに水をかけていると、車のキーを人指指で回しながら母が玄関に入ってきた。

「ふみひろ、あまりバラに水をやりすぎるんじゃないわよ」

「どうして?」

「わかんないけれど、誰かが言ってたから」

 夕食の席では僕の生活について話し合った。

 主に不登校の問題について話し合った。

 この家には僕と母の二人しかいなく、テレビにコードはつながれておらず、僕はほとんど口をつぐんでいた。リビングには母の声だけが響いていた。

 僕が口を開くのは、できれば食べきりたい、ご飯やおかずを口に押しこむときだけだった。その夜の主な料理は、僕と母が手分けして作った、ゴボウとトマトと、その他、いろいろな野菜や調味料が煮込まれたものだった。

 色は全体的に赤かった。

 美味しいはずなんだけど、味はよくわからなかった。

 テーブルの向かいに座る母は、ずっと一人で何かを話していた。

 母の左肩の向こう、リビングの壁には、キルティング製の、小さな家の絵の壁掛けがかかっていた。

 母が工作教室で作ってきたものだ。

 額縁の中、藍色の夜空の下に一件の小さな家が建っている。

 家の上空には、クリスタル・ガラスのビーズでできた星々が浮かんでいる。ひときわ目立つ青白い星と、眩しい星団。そして柄杓の形をした星座。それらが銀色の糸で刺繍されて、藍色の夜空に縫い付けられている。その夜空の下には家があり、それは三角の屋根と四角の胴体が、組み合わさってできている。

 僕は閃いた。

 世の中のすべてのものは、こういった簡単な図形の組み合わせから成り立っている。昔、誰かがこの単純な形を考えたのだ。

 それがくっついたり、分解されたりして、複雑なパターンが生まれ、またそのパターンを元に、さらに複雑な図形が生まれていったんだ。

 その結果、今の世界ができている。

 母の顔は小さくて丸い。丸いものには綺麗さと柔らかさを感じる。学校には四角いものが多い。それは尖っている。

 母は言った。

「ふみひろは何を考えてるのかわかんないわ。高校生は学校に行かなきゃいけないのに。ママはあまり行かなかったけど、みんな行かなきゃダメだって言ってるわよ。明日は絶対、行ってみてよね」

「わかった。必ず行く」

「一時間目からよ、絶対」

「うん、絶対に、一時間目から行く」

「わーい、愛してる、私のふみひろ! 大きくなったら結婚しようね!」

「うん、するする」

 いつもと同じような結論を僕と母は下した。

 僕と指切りした母は笑顔を浮かべ、僕を抱きしめてから唇にキスをした。それから、食器をテーブルから下げ始めた。僕は母を悪い気にさせたくなかったので、いつも夕食は食べきりたいと思っていた。けれど、どうしてもその夜も、食べきることはできなかった。

 必ずふた口分のご飯を茶碗に残してしまう。前もって茶碗に盛る量を少なめに調整しても、必ずふた口分だけご飯が残る。

 なぜかはわからない。

 ストレスかも。

 だが何の? 僕の家庭には、なんの問題もないはずだけど。