今、この世に天国が訪れつつある。

それが自分の現実として体験できている者も多くいるだろうが、まだそんなことが実感として何も感じられない者もいる。

もしこの変化の兆しを体験しようとするなら、ただ五分ほど目を閉じて静かにし、心の中でこう唱えるといい。

「私は今、地球に起きているポジティブな変化を自分のものとして体験することを望みます」と。

五%ぐらいでも本心から唱えることができれば、その祈りは効力を発揮し始める。それによって人間の集団的な意識の根底において、すでに決定的に起きてしまったこの変化に、自分の心を同調し、ひいてはその上昇する渦に自分自身を巻き込んでいくことができるようになるであろう。

だが、そんなことは本題ではない。 あなたがそれに気づこうと気づくまいと、変化は着々と進行し、すべてが圧倒的な良さに向かって進行していく。

たとえその変化が特定のタイムスパンの中においては、何か崩壊してはいけないものの崩壊として知覚されることがあったとしても。

ここで考えたいのは、この変化に対して、『小説』というものが、どういう役割を果たすかだ。

とくにたいして何の役にも立たないのか。それとも何か画期的なツールとして役立つのか。 それともむしろこの変化の効率性を妨げる邪魔者となるのか。

別にこれは『小説』でなくともよく、『インターネット』であったり『アニメーション』であったり『生命保険業』であったり、『公共放送』であったり、なんでもいいのだが、今のところ私が日々、いろいろ深く考えている領域が小説であるため、このホームページでは小説と社会の変化の関係について主に考察していくことになる。

人間の意識が深く変わるとき、小説はどのように変化するのか?小説はその変化に何かしらの貢献ができるのか?  そもそも変化、変化と言っているけれど、何がどう変わっていくというのか?

極めてかいつまんで説明すれば、変化とは、ありとあらゆる問題への解決方法の発見がすでになされているということと、その解決方法の実践によって、凄まじいスピードで日々の生活のありとあらゆる葛藤が毛糸の編み物を解くかのような気持ちよさで解けていくことから生じる、生活と意識のあらゆる側面の急激なシフトのことである。この変化を『意識の高次元への上昇』と表現する人もいる。 とにかく圧倒的な変化である。

その変化を前にして、小説というメディアは、どういう、何の、役割があるというのか。

古いリアリティと新しいリアリティのちょうど裂け目にいる我々にとって物語とは何のためにあるべきなのか。

この問題に対して、私はかれこれ十年以上、いろいろ考えてきた。 そして今、ひとつの答というか、方向性が自分の中に感じられるようになってきた。

今、私の中にある一つの答。

それは『光の小説』である。

光の小説。 それは、光を読者に伝達する小説である。

光とは何か?  それは心の闇を照らすものである。

闇とは何か?  それは光の欠如である。

光はあらゆる闇の中に、ただ抵抗もなく、何の闘いも起こすこともなく入っていく。 そして闇の中にしまわれていた、あらゆる恐ろしげな影をただ照らし、そこには何も苦の原因がないことを明らかにする。それによって無明は晴れ、万事、オールオッケーとなる。

光の小説。 それはモダン・ヒーリングテクニックと、小説執筆の融合である。

光の小説。 それはエソテリック・ティーチングと、小説執筆の融合である。

光の小説。 それはハイラーキー的ライトワーキングと小説執筆の融合である。

光の小説。 それはある意味、のこぎりよりも実用的な目的を持った小説である。

光の小説。それは一種のマッサージ器のようなものである。それは一種の健康器具のようなものであり、ドリンク剤のようなものでもあり、カスタマーに特定のポジティブな作用をもたらす。

光の小説。 それによって読者の生活にはダイナミックな変化が生じ、時には空から、何か良いもの、ずっと待ち焦がれていたものが降ってくるようなことも起こるようになるであろう。

それは奇跡の積極的な肯定であり、奇跡の極めてリアリスティックな現実への適用法の一形態であり、それでいてそれはただのライトノベルであり、それゆえにキャラ萌えを狙った小説であり、それでいて極めてシリアスな本気のエナジー・トランスミッションであり、マルチ・ディメンショナルなヒーリングであり、アリス・ベイリー的ホワイト・マジックの産物であり、その実践である。

このホームページをメタトロンとガイドと、すべての高き光の存在たちと、あなたに捧ぐ。

小説好きな人、何か面白い文章を読みたい人、あらゆる種類のクリエイター、およびライトノベル的世界観への愛がある人に捧ぐ。