ハロウィンが何なのかについて、その魔法使いは何もわかっていなかった。ハロウィンどころではなく、魔法使いは情報弱者といっていいほどに、何にも知らなかった。

 夕暮れ時、新宿駅東口に新しくできた喫煙所で、サラリーマン、私と同業っぽい、見た目は綺麗だけど心が乾燥してそうな女、居酒屋の呼び込み、学生、おじいさんたちに混ざってタバコを吸いながら、私は目の前の男に向かって言った。

「ハロウィンと魔法って関係が深そうなのに」

「お嬢ちゃん、それは先入観ってもんだぜ。まぁだいたい俺は物知りといえば物知りだがな、いろんな現実、いろんなタイムラインの中の、個々の地域の風習なんて、そりゃ知らないこともあるよ」

 私はもうすぐ三十歳になる。店のホームページでは、二十才ということにしてある。今日はハロウィンなので、悪魔のコスプレをしている。結構、可愛くてセクシーな感じになっていると思う。

 さっき空中から出てきた魔法使いといえば、一見、十代の少年にも見える、きわめて美しい男だった。よく知らないけど、最近の高性能なゲーム機のキャラクターが現実化したみたいな奴だった。輪郭がうっすらと輝いてすらいた。

 空中から出現した男は「俺は魔法使いだ」と自己紹介し、私にオレンジ色をしたあめ玉のようなものを手渡した。そして「何だおまえ、その格好」と、怪訝な顔で私を見た。私はハロウィンという催しについて説明した。

 その後、あれこれ会話して、いくつかのことがわかった。

 魔法使いは私に薬を持ってきてくれた。

 魔法使いは日本の社会常識に疎い。

 魔法使いは私にしか見えない。

 魔法使いの薬、あめ玉に見えるこれ、甘い味のするこれは、何にでもよく効く。

 魔法使いは助けを求める声に反応して、どこからか魔法のように現れる。

 魔法使いは、定期検診の結果、ちょっとした病気にかかってるとわかって、ものすごくイライラして、ヤケになって、お店からコスプレしたままタバコを買いに外に出た私の前に現れた。

「なんでもさっと治る薬が欲しいな。そんなのあればいいのにな」という私の心の声に反応して、私の前に現れた。

 幻のように。魔法のように。

 なのに魔法使いは非現実的な感じはせず、むしろ私たちや他の人間や、足下のコンクリートや、夏の湿った空気や、新宿の街にあるすべてのものよりも、彼の方がずっと現実味があると感じられた。

 魔法使いを作っている物質の方が、私たちを作っている物質よりも、本物の物質に見えた。美というものは、こういうもののことを言うのだと思った。

 そんな奴にお嬢ちゃんなどと言われ、私は何ともいえない、くすぐったい気持ちを感じた。その私の感情にテレパシー的に反応したらしい魔法使いは言った。

「いやいや、実際、俺から見たらお嬢ちゃんは圧倒的な子供だからな。俺、千才を越えてるから。肉体の年齢ののことだけど」

「千才、なにそれ、嘘、絶対嘘」と私は条件反射的に反応してしまう。だがこの魔法使いが言っていることは全部、本当のことなのだと直感的にわかっていた。

「そうだぜ、本当だぜ。俺は嘘がつけないからな。嘘をつくと言葉の力が弱くなるし、そもそも俺ぐらいになると何かを防御する必要なんて、何一つないからな」

「じゃ、さぞかし凄い魔法使いなんでしょうね」

「まぁな。グループの同期の中でも結構、いろんな役割を受け持ってる方だと思う」

「そんなのが、何で私の前に現れたの?」

「そりゃ、お嬢ちゃんが呼んだからだろ。呼ばれたら現れるよ。さっき心の中で助けを求めただろ? 病気を治してって。何でも治る薬が欲しいって」

「そうだけど……」

「それに応えて俺が薬を持ってやってきたわけだ。なんの病気か知らんけど、とにかく何でも治る薬だ。さっき飲んだだろ? で、どうだ、そろそろ治った気がするんじゃないか?」

「確かにすっきりした気がする」

「治ったんだよ。良かったな。それじゃそろそろ俺、帰るから」

「ちょっと待って!」

 姿が消えかけている魔法使いを呼び止めた。

「なんだ?」

「どうしたらいいの? このあと。私は!」

「何の話?」

「人生とかの話。きっとこれって一回きりのことなんでしょ、助けてもらえるのは。ボーナスチャンスみたいに。だからこの機会でいろいろ教えてもらいたいの。私、何にもどうしたらいいかわからないから。あなたはわかってるんでしょ? 何が本当なのかを」

 魔法使いは振り返ると少し微笑んだ。

「今は予定があって忙しいから、もう行かなきゃいけない。でもまた、お前の心の中で、また会おう。そしてそのときこそ、お前が真に求めている薬をやろう」

 そして魔法使いはあっけなく空気の中に消えていった。

 夜の雑踏に取り残された私は、何でも治る薬を無償でもらえたという幸運にあずかりながらも、むしろだんだん怒りを感じている自分に気づいていた。

 腹立たしさが湧いてきていた。

『心の中で、また会おう』

 それは力を持っている人のおためごかし、それらしい言葉、実体性の無い青い鳥みたいに感じた。

 精神的な目に見えない良いもの、そんなもの、求めても手に入った試しはないし、仮に手に入ったとしても、そこに何かがあることには気づけないのだ。

 なぜなら私はぼんやりしていて、心の中は曇っているからだ。

 曇っているから自分の心の中にどんなものがどう入っているのかわからないし、自分の心がわからないから、自分が何なのかよくわからないのだ。

 そんな私に向かって、心の中で会おうだなんて、残酷な言葉。そう思った。

 しかしある昼下がり、あの魔法使いのことを考えながら街を歩いていた私はふいに声をかけられたのだった。

「よう、元気にしてたか」

 振り向くと、通り過ぎて行く人の影の中に、あの魔法使いが立っていた。

 私は嬉しさよりも驚きを感じ、早口で聞いた。

「どうして。心の中で会うのではなかったの?」

 魔法使いはにっこり微笑むと答えた。

「そうだよ。会ってるだろ、今。お前の心の中で」

 秋の空、歩き去る人々、風に揺られる落ち葉、ビルの輝く壁面、その景色の中で突っ立って、私はその言葉の意味をずっと考えていた。

 魔法使いは辛抱強く、私が何かに気づくのを待っていた。

 彼がくれたその魔法の薬は少しずつ私の心の隅々へと浸透していき、そこに、何か途方も無い、一度も考えたこともない可能性についてのアイデアを、結晶のように浮かび上がらせ始めた。

 その輝く結晶のような洞察によって、私の表情が、驚き、畏怖、そして歓喜、安心へと移り変わっていくのを、魔法使いはずっと、楽しそうに眺めていた。