暗いアパートの湿った部屋の中で男は赤い色の風船を膨らませていた。男は過去に商人だったことがある。全滅する部隊で働く兵士だったこともある。奴隷だったこともある。いやーあれは死ぬほど辛かった。というふうに男はマイナス方向の体験はマスターした感覚を持っているが、プラス方向の体験を極めたかどうかについては自信がまだ持てないでいる。そのためだろうか、まだ人間の人生が何なのかは一割ぐらいしかわかってない感がある、そんなちょっと頼りない年頃の男、彼は湿った部屋の中で赤い風船を膨らませている。名前は池田星矢と言う。

 アパートの裏には小さな池があり、そこにはカエルやメダカなどの小さな生き物たちが住んでいる。小鳥が遊びに来るのもよく見かける。池田はカーテンの隙間からその池をよく見ている。そして考える。池田という自分の名字とあの池の間にある関係性について。

 その考えが具体的にどういう考えに発展していくのか誰も知らない。池田は誰にもそのことについて話さないからだ。たまにアパートに遊びに来る友達の女にもそのことは話さない。その代わり、過去に商人をしていたころ売っていた複雑な機構の遊具のあまりをアタッシュケースから取り出して、両者にとって納得できる値段で売る。

 遊具はまれに見向きもされず池田のアパートのカーボンファイバーの床に放置されるときもあるが、だいたい女はいつもその遊具に興味を持ち、代金を払うと、さっと自分の鞄に隠して近所にある自宅に持ち帰り、自室の勉強机のLEDライトでそれを照らし、ハンダごてと赤い花柄のドライバーで分解したり改造したりして、およそ三日間ほども遊び続けると言う。

 花山風子というその女の家はこの町のメインストリートにある。メインストリートの両側には、この土地で流行っているらしい極めて複雑な造形の民家がまばらに建っている。

 複雑すぎて民家の構造を説明することはできない。それは入れ子構造を基本とした建築理論に基づいて造られた建物なのだが、一口に入れ子構造と言っても、マトリョーシカのような、母の中に子、子の中に孫という直線的な入れ子構造ではない。

 たとえていうなら、カンガルーのお母さんの、そのお腹の袋の中で暮らすカンガルーの小さな可愛い赤ちゃん、その赤ちゃんが眠ってみる夢の中の、その奥の端の方に、カンガルーのお母さんが息を殺して潜んでいる闇の洞窟が、その暗き口をぽっかりと開けている的な、端的に言えば四次元的な構造を持っている。

 池田はそういう造りの家に良い印象を持っていない。

 せっかく家という三次元的な物体を作るのに、なぜわざわざ超次元構造を使う必要があるのか。

 いわば野趣あふれる新鮮な山海の採れたての食材に、濃厚かつ複雑な技術の限りを尽くした人工的ソースをかけて食べるがごとき無神経さを感じる。

 だから池田は「よくそんな家に住めるな。趣味が悪いんじゃないか」と、昨日もアパートに遊びに来た風子に言った。

 風子は一瞬、きっと池田を睨みつけたが、今日は特別な日だと思い返してやめた。

 風子はできるだけかっこいい感じになるように気をつけていった。

「明日、私は遠くに行くの」

「え、どこどこ?」

「名前は忘れた。英語の名前の付いてる星」

「そうか……おまえも行くのか。寂しくなるな」

 そういいつつも、まぁそろそろ、風子の家族も遠征に出発する時期だろうと計算していた池田は、前もって寂しさ、悲しさを味わいつくしていたので、そのときは涙を流さなかった。

 翌日、天気予報通りの台風の日、池田のアパートの前に一台のバスが停まった。

 その音を聞いた池田は、風子への送別の品を片手に玄関まで移動した。

 玄関には花柄のキャリーバックを持った風子とその両親が立っていた。

 池田はニ三、別れの挨拶をし、軽くハグをしてから、送別の品を風子に手渡した。

 本物の三次元的物質のゴムでできた本物のゴム風船だ。

 解析して増殖させることもできるが、いっそそれ自体をラグジュアリーに使いつぶすこともできる。

 どちらの使い方であっても、向こうの星に着いたあと数千年の間ぐらいは、もといた星のことを、わずかにでも覚えていられるよすがになるだろう。

 そしてまた会うときがあれば、このアイテムのことが会話の糸口になり、再会の強すぎる嬉しさをマイルドに和らげてくれるだろう。

 *

 そして風子たちは立ち去り、池田は暗いアパートの部屋のカーボンファイバーの床に寝転がり、少し涙ぐみながら、アパートの裏の、台風で揺れる池の水面をじっと動かず眺めていた。

 夕暮れ時には台風は過ぎ去った。

 清らかな夕焼け空の中を宇宙船の噴射光がゆっくりと斜め上へと横切って行く。

 それを池田は最後まで見ていた。