その都市は打ち捨てられて久しい。

 その都市は、郊外に住む少年がクリスマスに買い与えられた箱庭とよく似ていた。

 両親と喧嘩し、そのあてつけに少年が箱庭を、自宅近くのゴミ捨て場に捨てたその瞬間、都市は廃都となった。

 そして今、郊外のゴミ捨て場に雪が降っている。

 雪は箱庭の中の、おもちゃの模型で造られた都市のすべてを覆い尽くしていく。

 ミニチュアの人形たちの生活の場面、そのすべてが真っ白な雪に覆い尽くされていく。駅前、公園、学校、教室。すべてが白く覆われていく。

 街外れのゴミ捨て場から、振り返って見えるビル群にも雪は降り続け、灰色の空に屹立するその長方形の塊たちは、窓も壁も白く覆われていく。

 ビルたちの窓には、いつしかヒビが入り、壁面は蔦で覆われていく。そしてビルたちは傾き始め、しまいには自重で崩壊を始め、雪が砂煙のように宙を舞う。

 そのとき、街の路地から、小学生ぐらいの男の子が泣きじゃくりながら駆け出してきて、郊外のゴミ捨て場に駆け込んでくる。

 その少年がゴミ捨て場から、箱庭を取り出し、ニットの手袋で雪を払い、大切に家に持ち帰ったことにより、都市はまた息を吹き返す。ビルはビデオ映像を逆再生したかのように立ち直る。

 そんなことが、この都市では、この世界では、日常的に起こっていた。

 *

 古代人は類感魔術により敵を殺し、大気を操作した。

 少なくとも彼らはそれが有効に機能していると信じていた。

 類感魔術--イミティティヴ・マジック。

 似たものと似たものの間には共鳴が生じ、影響を与え合うという考えに基づく古代の魔術。

 やり方は簡単だ。

 操作対象を模したシンボルに、望みの操作を加えるだけだ。

 それによって、操作対象に変化が生じる。

 人に危害を加えたければ、その人を模した人形に釘を打ちこめばいい。

 強くなりたければ、ライオンの格好をして吠えればいい。

 狩りの獲物を村に呼び込みたければ、動物の格好をして村の周りを回ればいい。畑に雨を降らせたければ、村民たちで水を掛け合う水かけ祭りをすればいい。

 この古代の思考形式は、ヨーロッパで論理的思考なるものが発展することによって迷信として退けられ衰退した。

 しかし近年になり復活した。

 なぜか?

 二十一世紀のいつごろからか、類感魔術に効力があることが誰の目にも明らかになったからである。

 それに最初に気づいたのは誰だったか?

 今となってはわからない。

 もしかしたら丑の刻参りで藁人形に釘を打ち込んだ翌日、呪いの相手が死んでいることに気づいた女あるいは男かもしれない。

 あるいはてるてる坊主を窓際に吊るした翌日、確実に晴れることに気づいた小学生かもしれない。

 なんにせよ二十一世紀のいつからか、類感魔術に圧倒的な効力が生じ始めた。それが事実である。

 このイミティティヴ・マジック・インフレーションの原因は不明だ。

 もしかしたら類感魔術という行為には、もともと実際的な効力があったのかもしれない。だが、その実効性というパラメータは目に見えないほど低かったため、これまで迷信として退けられていたのかもしれない。それが近年になり、その実効性のパラメータが何らかの影響によって急激に増幅したということなのかもしれない。

 これは仮説の上に積み重ねられた仮説であり、正しさを証明する術のない理論であり、『何らかの影響』なるものが、仮に存在したとしても、それが何なのかは誰にもわからない。

 だが、それなりに、感覚的に、辻褄が合っていると感じられる理論である。

 類感魔術の効力を決定する隠しパラメータ、X。

 そんなものがあるとして、X、その値は、今も尚、高まりつつあるようだった。

 誰かが箱庭を捨てただけで、それに似ている都市一つが、廃都になるほどに。

 そしていつしか、類感魔術の実効性パラメータは際限なく増大し、類感魔術を為すためには、もはや箱庭すら必要ではなくなっていた。箱庭をゴミ捨て場に捨てた少年が高校生になるころには、類感魔術を行うのに、てるてる坊主も、藁人形、いかなるアイテムも必要ではなくなった。

 ただ、操作したい対象物に似たイメージを、心の中で想像し、そのイメージに望みの変化を与えるだけで、対象物に変化が生じるようになった。

 心の中で何かを思うだけで、その思いに似たものに、思った通りの変化が生じるようになりつつあった。

 心の中でみかんの木を想像すれば、近くにみかんの木が生え始めた。

 都市が廃都になることを想像すれば廃都になった。

 廃都が元に戻ることを想像すれば廃都は都市になった。

 一人ひとりの心の中にあることがダイナミックに現実化し始めた。

 そんなものが整合性を持って一つの世界にまとまっていられるわけがないだろう、と誰もが思った。

 拓也も窓から外を眺めながらそう思った。

 拓也が住む世界に生きているのは拓也だけではない。

 拓也が幼かったころ、まだ類感魔術がこれほどまでに効力を持っていなかったあのころと、同じだけの人数が世界に存在しているように感じられる。

 それがどういう仕組みかはよくわからない。

 このすべてを一瞬にして消すことも今や可能だ。

 心の中に地球を想像し、それを空っぽにするだけで、そうなる。

 実際に拓也はそれを試してみたことがあった。実際に誰もいなくなった。あまりに暇になったので、結局、幼い日に一度捨てた箱庭をゴミ捨て場から取り戻してきたときのように、拓也は世界を元通りにした。

 話を聞く限り、他の誰もが似たような実験を行なっているようだった。

 なぜこのような万人の想像が具現化する世界が一つにまとまっていられるのか? それともまとまっているように見えて、一人ひとりすでに、あるいは最初から、個別の世界に住んでいるのか? それとも各個人が住む個別の世界が、ふわっと、なんとなく重なっているのか? イメージ的には無数の切子面があるクリスタル・ガラスのようなものなのか。そのファセットひとつひとつが書く個人の住む世界だと? ライプニッツのモナド論こそがこの現象を理解するのに有用なのでは? 人々は道端で、ネットで、スタジオで、楽しそうに議論していた。切迫感はない。この現象は安全であり、むしろ自分にとって大いなる利益のみをもたらすということがわかっているからだ。誰もが得をするだけだと。

 しばらくすればこの現実の有り様を完全に説明する何かしらの理論が現れるのかもしれない。

 だが今のところ、習うより慣れろの理論によって、人々は現実の操作法を、古代人があまごいの儀式で雨を呼ぼうとしていた時代よりもはるかに明確に学びつつ合った。

 まずこの異変の初期に、誰もが、ありとあらゆる破壊の限りを尽くしたのは想像に難くない。

 想像の中にある、ありとあらゆる残虐行為、破壊行為を人々は現実のものとした。

 次に、それに慣れ、飽きると、人々はありとあらゆる欲望を現実化させた。ありとあらゆる欠乏を人々は満たした。

 それにも慣れ、飽きたころ、人々は、そもそも、自分の心そのものが、他人の心と似ていることに気がついた。これこそが、この世界的異変の骨子であるようだった。

 拓也がそのことに気づいたのは、その日、教室で頬杖を付いているときだった。

 拓也は思った。

 似ているものと似ているものの間には類感魔術が働く。

 では人の心と心、それはどれだけ、互いに似ているのだろう?

 心は様々なイメージを思い浮かべることが出来る。そのイメージはおそらく万人によって違うはずである。また心は様々な感情や感覚や思考を感じ、考えることができる。そのように心に浮かび、感じられる内容も、人それぞれであろう。

 だがその、何かを感じる、考えるという心の機能そのもの、それはもしかしたら、万人が同じものを持っているのではないか?

 パソコンには様々なデータが収納されている。しかしパソコンに使われているCPUやOSは、どれも似たようなものであり、それは同じ仕組みによって動いている。

 そのように、人の心そのものは、万人が同じものなのではないか?

 では今、似ているものと似ているものの間に共振が生じる現在、すでに自分の心と他人の心がリンクしており、自分の心に生じたものは、他人の心にも同じように生じる可能性があるということか。逆に考えると自分の心の中に浮かぶものは、他人が想像したものかもしれないということか。

 それはあまりに複雑で混乱する話であった。

 混乱を紛らわせるために、拓也は気まぐれに宇宙を消滅させてみた。

 やり方は簡単だ。心の中に宇宙を想像し、それを消滅させるだけ。

 宇宙は想像通り消滅した。

 しばらく経った後に、拓也は宇宙を復活させた。

 この宇宙消滅と、復活も、自分が起こしているように見えて、他人が起こしていることかもしれないと拓也は気づいた。

 いや、自分の心と他人の心は、今や完全に相似形を保っており、もうどちらがどちらという区別はつかなくなっているのかもしれない。

 しかし拓也の体は拓也の体として授業を受けており、他のクラスメートたちも教室におり、黒板に板書している教師もおり、それぞれ別個に行動している。

 どういうことなのだろう。

 拓也は混乱するばかりである。

 拓也はその授業の合間に、もし心が一体化しているのであれば、つながるはずのテレパシーを試してみようと思った。

 とりあえず、前の席に座っている美香に、テレパシーを送ってみようか。

 だが、テレパシーを送ろうとする一瞬前に、『まてよ、俺がテレパシーを送ろうと考えているということは、他の皆も同じことを考えている可能性があるのではないか』という思考が拓也の意識に生じた。

 そして、『この気付き、これはもしかしたら、今、この教室、いや、この世界中の人間、その全員の心に生じている可能性があるのじゃないか』という思考が拓也の意識に生じた。

 だとしたらこの今の考えも、これ全体を人類で共有している可能性がある。

 そんな思考が拓也の意識の中に立て続けに生じた。

「…………」

 それはあまりに途方もない考えのように思われたが、確かめることは簡単だった。

 ただ周りの人の顔を見てみればいいのだ。

 拓也は前の席の美香の背をつつこうとした。

 しかし、俺が美香の背を突こうとしているということは、俺の背を後ろの席の山田が突こうとしている瞬間でもあるはずだと拓也は考えた。

 そこで拓也は背を突かれることを待った。

 その瞬間、人々は期待に満ちた思いを胸に秘め、周囲の人の顔を見ようか見まいか、しばし止まって待っていた。

 背中をつつくか、つつくまいか、しばし指を止めて待っていた。

 その逡巡の後、顔を上げて、周りを見れば、おそらくそこにあるのは自分と同型の心を持った存在である。

 口を聞いてみれば、言葉に耳を傾ければ、その言葉を発しているのは、自分の心と同じ形の心を持つ存在である。

 その可能性に思い至った瞬間、ずっと永遠に近い年月、拓也の心の中にあった、拓也自身、気づくこともなかった、深い、古い孤独感は、まるでお湯をかけられた雪のように溶けていった。その甘く熱い感覚が、大きな心の中に広がっていった。

 その心の中に、拓也と美香と人類全員が住んでいた。