監獄に閉じ込められている男がいる。それは女かもしれない。だが便宜上、男ということにして話を進める。

 監獄は厚い壁で覆われており、外の様子はわからない。外があるのかどうかもわからない。しかし監獄内は何かと不自由であり、不自由であるからにはそこは監獄のようである。

 その男、彼はここではないどこかに行きたいと願う。あるとき男は脱獄を願う。

 だがそのためにはまず、監獄の壁を掘るための力をつける必要があると考えた。力を付けるためのたくさんの食事が必要だ。たくさんの質の良い食事を得るには、監獄内で一定以上の地位につく必要があると考えた。

 この考察の結果として、彼は監獄の中に適応して生きていくすべを模索することになる。

 男は額に汗して監獄内で働き、一定の適応能力を得た。

 そして男はある日思う。

 つまり結局、俺には壁を掘る力などなかったのだ、と。俺には監獄内で生きていくのに精一杯で、壁を掘る時間もエネルギーも残されていないし、ふと気がつけば、脱獄したいと最初に願った日からすでに数十年が経過している。このことを今ふと思い出した俺だが、明日になればまた脱獄願望は完全に忘れて、次に思い出すのはまた十年先だろう。

 こんなことでは生きてる内に脱獄など果たせない。

 誰かの助けでもあれば違うのだが、そんなものあるわけもないだろう、と、男は思う。

 だがその日そのとき、壁の向こうから声が聞こえてくる。

「こっちから穴を掘りましょうか?」

「だ、誰だあんたは」

「外にいる者です。もしあなたがこちらに来たいのであれば、この壁を掘ってそちらへ通路をつなげても構いません」

「本当か? だったらぜひ頼みたいところだ」

「もちろん本当ですとも」

「だがちょっと待て、いろいろ聞きたいことがある」

 ここで男は壁の向こうからの声に、様々な疑問や、取引のための条件を問いただす。

 男の出す様々な疑問に対して、謎の声からは理にかなった答えが返ってきた。

 確かに声の主は監獄の外におり、またこの監獄の中へ向こうから壁を貫き通す力を持っているようであった。男にとって牢獄の壁は無限の厚みを持った鋼鉄の塊として感じられるのだが、壁の向こうからの声の持ち主はそれを一秒もあれば貫いて、男のいる部屋まで穴を開けられると言った。

「信じられんな」

「では試しにちょっとだけ穴を開けてみますね」

 そう声が聞こえた瞬間、男の目の前の壁に十センチほどの穴が空き、見たこともない美しい光が差し込んできた。

 かと思うとその壁には自己修復機能があるらしく、見る見る間に穴は小さくなり、塞がってしまった。

「ダメなのか、やはり」

「いいえ。こちらから掘り続ければ、あなたが通り抜けられるぐらいの時間は穴をキープしていられます」

「そうか。だがそんなすごい仕事を頼んだら、二度と返せない債務があんたに対して生じるんではないか?」

 男は怯えた。だが壁の声が言うところによると、壁に穴を空けるのに必要な条件は、無条件であった。男は何を失うわけでもなく、また何かを交換条件に、声の主に差し出す必要があるわけでもないようだった。それでも何かの条件を探すとすれば、以下のもの、ただそれ一つだけが必要条件として提示された。

「自由になりたい。あなたがこれを本当に望む必要がある、それが条件といえば条件です。確かに」

「ほら、あるだろ、そんな大きな条件が。それはどうしても俺が望まなければならないのか?」

「それはそうでしょう。もし私が勝手に壁を掘り、あなたを外に連れだしたら、あなたは私のコントロール下にいることになり、それでは結局、牢獄にいるのと変わりませんから。自由とは自分の意思で自分を変えることであり、それを私が押し付けることは原理的に不可能です」

 確かに、と男は納得した。

 自由になりたければ、自分でそれを本当に望む必要がある。

 当然の、論理的な話である。

 しかし男はなぜか、本当に自由になってしまうことを、なぜか怖がるのであった。

 牢獄の外にさっと連れ出されることを怖がるのであった。

「どうして怖がるのですか? あなた自身、脱獄を望んでいたのではないですか?」

「わからん。とにかく怖いものは怖い。おそらく急激な変化が怖いんだろう」

「どうしましょう。あなたの気が変わるまで待っていますか?」

「いや、俺としても確かに外には出たいんだ。どうにかならないか?」

「では、こうしたらどうでしょう。段階的に、貴方自身の力で穴を掘るのです。そうすれば自分の意志をそのつど確認できるので、未知の力に自分を委ねる恐怖が薄れるはずです。そのために、迷わないよう、私がこちらからあなたに声をかけ続けます。私の声のする方に掘り進めば、最短で外に出られます。そのように私がナビゲーションします」

「そんなこと言われても、俺には一ミリでもこの壁を掘る力もないぞ」

「だったらそちらにある材料で作れる壁堀り道具の作り方を私が教えてあげます。その道具を使って、掘り始めればいいでしょう。しばらくすればあなたの壁堀道具作成スキルは上がり、より効率的な壁掘り道具を作れるようになります。またしばらく壁を掘り進めれば、私の声もよりはっきりと聞こえるようになり、きっと自分のやっていることの正しさに確信が持て、脱獄の仕事により一層精が出るようになるでしょう。そのうちに私への信頼感も芽生えてくるでしょうから、その時はどうぞお頼みなさい。『一瞬で壁を貫いてくれ。そして俺を一瞬でそちらに連れてってくれ』と。そしたら私はそうします。その時を楽しみに待っています」

 そして壁向こうの声は、男に最初の壁掘り道具の作り方をレクチャーし始めた。それは極めて原始的な機構の道具であったが、男の身近にある材料で製作することができ、また男の力で動作させることが可能であり、また極めてゆっくりとしたスピードであったが、それは確かに壁を掘り進む力を持っていた。

 男は監獄内での日々の習慣をこなしながら、暇を見て、少しずつ壁掘り仕事を続けていった。壁向こうからの声は男が求めるとき常に聞こえてきた。ある日、声は言った。

「あなたが監獄を作り、その中に自分を閉じ込めてから、もうとてつもない時間が経っています。内部での寂しい生活に飽き、私の声をあなたが聴くと決心するまで、監獄内でたくさんの時間が経っています。あなたは忘れているでしょう。私がこれまでにもう何度も何度もあなたにコンタクトを取ってきたことを。なぜならあなたがそれをその都度、忘れる決心をしたからです。もしかしたらあなたはまた忘れてしまうかもしれませんね。しかし傍らには壁を掘る道具と、少し凹んだ壁があります。だから今度はもしかしたら、あなたはずっと、私のことを覚えていてくれるでしょう。それを強制はできませんが、あなたが私の声を聞いてくれることは、私にとって喜びなのです」

 壁向こうからの声の持ち主は、気長に男をサポートするつもりのようである。

 男はまた少し安心感を深め、無心に壁掘り道具を回し続ける。